四章 失われた物語
昨日、街で見つかった後。逃げた先は、それほど遠くない調査済みの遺跡だった。これまで一切宿を使っていないことから、敵も遺跡に目をつけていたのだろう。
外に出ると、クマっぽい男を筆頭に、ゴツゴツした男たちが待ち構えていた。
「フィリス……悪いが俺は、ケンカは得意じゃないんだ」
「あー、うん、何となくわかる」
彼は怖い見た目に反して、拳より、言葉で語り合う人間だ。
短いつき合いながら、それは理解している。
「ねえ、カイルさん。何とかして、時間を稼いでくれる? そしたら、すぐに完成させるから」
「……努力はしてみる」
表から見えない位置まで戻り、荷物から本を取り出す。
最初の文字を見て、終わりの文字を見て、全体の辻褄を合わせる。その考え方が、そもそも間違っていたのだ。
(……そりゃあ、簡単に戻せないわけだよ)
言葉が読めても、高い本だからとありがたがっていては、ちっともわからないだろう。逆に、金額に心揺らさなくとも、カイルのように読めなければ、やはり意味がない。
(この本は、行頭の単語を読むなんてね)
その事実に気づいたのは、おかしな改行に目を向けた時だった。
行頭はそろっているのに、末尾は不揃い。それ自体は、それほどおかしくはない。しかし、入る隙間があるのに段を変え、余裕がないのに無理矢理押し込む。それは、どう考えてもおかしい。
すべてのページで行頭の単語を拾い上げ、それがつながるように並び替えれば。
フィリスの頭の中では、本はすでに完成している。あとは、現実でも、同じように並べ替えればいい。
「最初、祈る、願う、幸福、笑う、大切、幸運、訪れる……」
ブツブツ呟きながら、手早く順番に並べて集める。
【創世記】とも、受け取った端の『ペルデレ リッテル』とも、まったく違う。
乱暴で不快な言葉は、一切出てこない。人の名前も、地名もない。ただひたすらに、幸せを祈り、願う言葉が連なっているだけだ。
「……君、幸福……よし!」
束になった紙を、空っぽだった背表紙に挟み込む。
とたんに、本が眩しい光を放った。とても目を開けていられない。目をギュッと閉じて、さらに腕で覆う。
しばらくして、フィリスは恐る恐る目を開けてみた。
本のあったはずの場所に、幼い子供の握り拳くらいの、小さな固まりが落ちている。それを素早く拾い上げて振り返ると、カイルが立っていた。彼の後ろには、クマ男たちも、呆然とした様子で突っ立っている。
「あのさぁ、カイルさん。本、消えちゃったよ」
固まりを隠しながら、肩をすくめてみせた。
「そうか、あの本は勝手に消えるのか……」
額面どおりに受け取ってくれるカイルに、フィリスは小さな笑みをこぼす。
「……き、消えたとはどういうことだ!」
「さっき光ったでしょ? そしたら、消えちゃったんだよ。どこに行ったのか、僕にはわかんないし」
フィリスがあっけらかんと言い放つと、激怒した様子の男がズカズカ近づいてきた。とっさに、カイルはフィリスを庇う位置に立つ。
「隠してるって疑うなら、荷物でも服の中でも遺跡中でも、気の済むまで調べたら?」
言いつつ服を脱ぎにかかるフィリスに、クマ男たちは露骨に眉をひそめた。だが、すぐにクマ男は部下に指示を出し、遺跡の中と二人の荷物、二人の服の中を調べさせる。
「ありません!」
どの部下からも同じ答えをもらい、クマ男は憤りに顔を赤く染めた。
「くっそ! どこに隠しやがった! これじゃ、依頼人に受け渡せないだろうが!」
「だーかーらー、本は消えたって言ってるでしょー?」
(別に、嘘は言ってないしね)
間違いなく、本は消えている。形を変えてここにあるだけだ。
男はしばらく、イライラしてウロウロ歩き回っていた。やがて、諦めたのか。渋々といった体で、部下たちに引き上げる指示を出す。
「絶対に、お前の持ってる【失われた物語】を奪ってやるからな!」
「何度来ても、消えちゃってるから無理だって!」
遠ざかる背中に声を投げかけたものの、聞いてくれたかどうかは定かでない。
「……で、どうなったんだ?」
「え? ああ、本はこれになって」
ギュッと固く握り締めていた手のひらを、そっと開く。
手のひらに収まってしまう大きさで、透明な淡い水色の固まりがころんと乗っている。
「……あれ?」
こういう理由で、ページを並べ替えたら、こんな話になって。
それを伝えたいのに。完璧に覚えていたはずの『ペルデレ リッテル』の内容を、何ひとつ思い出せなかった。
まさか、記憶力がなくなったのか。
そう疑うものの、これまで見たものは、子供の頃の記憶でもスルリと出てくる。それなのに、なぜか『ペルデレ リッテル』に関することだけが、綺麗さっぱり抜け落ちているのだ。
「どうした?」
「……『ペルデレ リッテル』の内容が、何にも思い出せないんだけど」
「は? 【創世記】よりえげつない話なんだろ?」
「そう、だっけ……?」
本気で首を傾げるフィリスに、カイルは呆れた表情だ。
「まあ、並び替えた話が聞けなかったのは残念だが、お互い無事だったんだしいいだろ」
頭をポンポン、と二回、軽く叩かれる。
いつもだったら、即座に振り払って怒りたいくらい、苛立つのに。今はなぜか、もう一度やっても許せそうな気分だ。
しまった、という表情になったカイルは、フィリスが振り払ってこなかったことに、大いに怪訝な顔を見せる。
そのことには、何となく腹が立った。
§
無事の報告も兼ねて。フィリスはカイルに頼み、両親のいる発掘現場へ連れていってもらった。
入り口で、自分だけが知っている質問の答えを、門番にこっそり告げる。照合され、無事に中へと入った。
キョロキョロと辺りを見回し、両親を探す。
見覚えのある姿を見つけたフィリスは、すぐそばにカイルがいることも忘れ、パッと駆け出していた。
「父さん! 母さん!」
声を張り上げて呼びかける。振り向いた二人に、まとめてギュッと抱きつく。二人は驚きながらも、抱き締め返してくれる。
「フィリス」
聞き慣れた声に安心したからか。急に目頭がじわっと熱くなった。泣くつもりはなかったのに、視界がにじんでぼやけて、止めることができない。
これまで、小生意気なことは言っても、泣くことなどなかったフィリスだ。いきなりポロポロ泣き出したことに、カイルはひどく驚いたらしい。口をぽかんと開けて、ぼんやり眺めているだけだ。
そんなカイルに気づいたアンソニアが、視線を彼に向ける。
「カイルくん、ありがとね」
「あ、いえ……」
年齢よりはかなり若く見えるアンソニアに、ニッコリ微笑まれて。カイルは視線をフラフラと泳がせた。
「フィリスは、本を戻せたかしら?」
どちらに聞いた質問というわけではない。答えられる側に答えてもらえれば、十分だ。
そんな態度のアンソニアに、泣きじゃくっているフィリスに代わって、カイルが首肯することで答える。
「やっぱりフィリスには戻せたのね。ねえ、フィリス。それは、ちゃんと持ってる?」
グスグスと鼻を鳴らしながら、フィリスはこくりと頷く。同時に、手が、資格証を入れている小さな袋を叩いた。
「そう……大事になさいね?」
もう一度、フィリスは首を縦に動かす。
「それから、カイルくん。私たちの娘は頼りになるでしょう?」
突然話を振られたカイルは、目を瞬かせながら頷きかけて。
「……むす、め?」
「娘のフィリス以外に、私たちの子供はいないけど……まさか、男と思ってたわけじゃないでしょうね!」
アンソニアに恐ろしい剣幕で睨まれて、カイルは首を横に振ることも、肯定することもできない。
若く見えて、時々異性を惑わすけれど。フィリスの知っている母親は、家族を誰よりも、何よりも愛する、怖い人だ。
初対面からずっと、男だと思っていた。そんなことを打ち明けようものなら、どんな結果になるか。フィリスには、火を見るより明らかだった。
「こんなに可愛くて、ジェフリーそっくりなのに!」
「……母さん、あのね。父さんそっくりだから、間違われてもしょうがないと思うよ?」
「いいえ! 間違う方が悪いのよ!」
「あとね、私が安全のためにわざと男っぽく振る舞ったから、カイルさんは間違えてもしょうがないよ」
きっと、こんなことでもなければ、縁のなかった人だ。せめて、少しでも母の怒りをやわらげて、今後を過ごしやすくしてあげたい。
「途中の街でも、いろんな人に男だと思われたからね」
それだけ、雰囲気まで女らしくなかったのだろう。
ひょいと肩をすくめるフィリスの頭を、アンソニアは優しく、二回なでる。
「ねえ、フィリス。それ、今は何色?」
「え? 最初に見たのは水色だったけど……」
指し示された袋からゴソゴソと取り出して、じっくり眺めたそれは。
「……ピンク?」
ほんのりと、綺麗に色づいている。
それを見たアンソニアは、やけに微笑ましげだ。反面、ずっと黙っているジェフリーは、なぜか渋面になっていた。
「これって、色が変わるの?」
「ええ。持ち主の感情や、置かれている状況に合わせて、ね」
「……母さんは、何でそんなこと知ってるわけ?」
「だって、ジェフリーのお母様も、それの持ち主だったからよ」
「えっ……おばあちゃまも!?」
フィリスがまだ小さい頃に、かつて【探求者】だった祖母は、とても幸せそうな顔で眠るように亡くなった。生前も、常識では考えられないほど、さまざまな幸運に恵まれていたと聞いている。
「実はこの世には、たくさんの『ペルデレ リッテル』があるの。正しく戻せば、持ち主が息絶えるまで絶大な幸福をもたらす代わりに、物語は次に現れるまで残らず失われる。だから、【失われた物語】なのよ」
「あ、じゃあ、僕が話の内容を全部忘れちゃったのも?」
「ああ、そうね。お母様も、話はまったく覚えていないとおっしゃっていたわ。覚えていたら、新しく書けてしまうからでしょうね」
納得したように、フィリスは数回頷く。
これから、自分に幸運をもたらしてくれるだろう、小さくて透明な石。それをそっと、手のひらに包み込む。
「あー、あとね、気になってたんだけど。アイリスがカイルさんに、僕の家を教えたらしいんだよね。あの子、新婚なのに、何だって村の入り口にいたわけ?」
「あら、フィリスは気づいてなかったの? 私たち、だいたい同じ間隔で様子を見に行かせてるのよ。アイリスはそろそろだと思って、わざわざ張ってたんでしょうね。下心のある男は絶対に近づけない、って、村中の男の子に宣言してたし、フィリスのこと、大の親友で大好きだって、昔から公言してたくらいだものね」
「……そ、そう、だったんだ……全然知らなかった……」
言われて思い返してみれば。記憶にある頃からいつも、アイリスがそばにいた気がする。
これまで様子見に来た人たちも、先に、特別愛想のいいアイリスを見ていたとすれば。あの反応も納得だ。
おかげで、すっかり男っ気のない育ち方をしたわけだが。
(……でも、ね)
フィリスはこっそりと、カイルを見上げる。
これまでだって、縁がなくて困ることは何もなかった。今まで縁遠かった代わりに、こうして彼に出会えたなら、何も悪いことはない。
不思議なことに、そう思えてしまう。
「……ねえ、カイルさん」
そう呼びかけると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。思わず、フィリスも似た表情を向けてしまう。
「お前がそうやって言い出すと、いっつもろくなことを言われないんだよな……」
「悪かったね! メンサの街で、何で僕の居場所がわかったのか、聞きたかっただけなのにさ」
少年から逃げるように、フラリと入り込んだ路地だ。見ていない限り、ああもちょうどよく駆けつけてこられる場所ではない。
他に片づける案件があったから、これまで聞かずにいた。だが、残っている問題はもうこれだけだ。
「ああ、あの時は、お前より小さい子が、お兄ちゃんが危ないから助けてあげてって、あの路地に案内してくれたんだよ」
「……あー、あの子か。そっか……じゃあ、もう何枚か、硬貨をあげてもよかったかな」
命と本の恩人だ。感謝してもしきれない。
どうせ、村にいる間は、以前自力でちょこっと稼いだ金銭を、一切使わないのだから。
「じゃあ、ついでだから、俺からも質問していいか?」
「まあ、答えられる範囲だったらね」
フィリスがふと辺りを見回すと、いつの間にか両親が消えていた。再び発掘作業に戻ったらしい姿を、視界の端にかろうじてとらえられた程度だ。
助けはないが、あまりに突っ込んだ問いには、知らぬ存ぜぬを貫けばいい。
「お前、本当に、女なんだよな……?」
「……そっから? これまで散々がっかりされ続けてきたけど、一応女ではあるよ。何なら、見るか触るかして確かめてみる?」
軽く目をすがめたフィリスが服に手をかけると、カイルは慌てて止めにかかる。
「いや、いい。違和感の正体がわかれば十分だ。あとは……そう、そうだ。あのミミズみたいな文字。あれ、教えてくれるか?」
「あれは古語だから、ちゃんと辞書があるよ? 【探求者】なら書き写せるし」
残念なことにフィリスでは、その場で読むことはできても、書き写すことはできない。その上、書き写したものは、厳重に管理することが義務づけられている。
「お前に教わりたいんだが……ダメか?」
辞書を読んで単語を暗記した方が、ずっと早いのに。本当に、いつだって、いきなりよくわからないことを言い出す人だ。
そんなことを思いながらも、フィリスはなぜか頷いていた。
「ただ、一度村に帰って、無事だって報告と、これから【探求者】の資格を取りたいから、しばらく留守にするって言ってこないと。その後ならいいよ」
あの日、追っ手から逃げて、それっきりだ。顔を見せて安心してもらい、今度は笑顔で送り出してもらわなければ。
(でも、【探求者】の資格を取りたいって言ったら、アリーがちょっと怖いかも……)
しかも、その理由を話したら、アイリスは強引についてきそうだ。
「ねえ、カイルさん」
「……何だ?」
この呼びかけ方には、どうしても嫌な予感めいたものを感じるのだろう。カイルの表情は渋い。
「これから、声が聞こえる範囲に僕……私の両親以外の人がいない時、私のこと、フィーって呼んでくれる? 他の人がいたら、今までどおりがいいんだけど」
ニッコリ微笑んで。フィリスがそっと囁くと、カイルは忙しく瞬きを繰り返す。
「あと、戻ってきたら、まだ話してないこと……全部残らず打ち明けるね。私が【探求助手】しか持ってない理由とか。
……だから、待っててくれる?」
「ああ、待ってる」
彼が優しく笑ったとたん、心臓がぴょこんと飛び跳ねる。ドキドキ鳴っている音が気になって、聞こえそうで怖くなって。
フィリスは胸に手を当てて、暴れる心臓を押さえにかかる。それでも、鼓動はちっとも落ち着かない。
(……もう一度、ここに戻ってきたら)
顔を見たら真っ先に。絶対に、伝えたい言葉がある。
──カイルさんが、好き。誰よりも、何よりも。