17話 前髪の奥にあるもの
入学式から、もうじき三ヶ月。こちらの世界の六月は、日本みたいに梅雨とかはない。カラッと晴れた日が続く。むしろ、春のほうが急な冷たい雨は多かった。
今日の俺は、またしても放課後にエヴァンジェリン様に呼び出されてサロンにいる。アスティは今日も、魔導師団へ寄ると言っていた。
いつもなら、俺が着く頃には先にお茶会のメンバーがすでに集まっているのだが、今日はまだ誰もいない。室内にいるのは俺だけである。いや、侍女の三人と、女性騎士の二人は、例によって壁際に立っているのだが。
ありがたいことに、テーブルには俺の分のお茶も先に用意してもらっている。
「お待たせしたかしら?」
扉が開いて、エヴァンジェリン様が入ってくる。俺は立ち上がって一礼をしようとして、ちょっと固まった。
エヴァンジェリン様の後ろに、初めて見る顔がついて来ているのだが——目の覚めるような豪奢な金髪に、緑色の瞳……俺はこのカラーリングをよく知っている。王太子殿下だ。その王太子殿下と全く同じ色合いを持つ女子生徒と言ったら、それはこの学園の三年生で生徒会長でもある、メランディーヌ・コンダルフィ王女殿下しかいない。
「メランディーヌ王女殿下におかれましては、本日もご機嫌麗しく……」
「あら、ここは私的な場所だもの。そんなに畏まらないで。エヴァリオ・レイジントン子爵令息」
貴族令息としての正式な礼、ボウ・アンド・スクレープを披露しようと足を引いたところで、鷹揚な声に止められる。俺はぎこちない動きで足を戻し、今度は足を揃え、軽く上体を倒して一礼した。エヴァンジェリン様にもしている、いつもの一礼だ。
「ローヴェルクには、もっと気安いと聞いているわ。私の前でも楽にしてちょうだい」
「恐れ多いことでございます」
そうは言われても、相手は高貴な王女殿下だ。そんなに簡単に、気安い態度なんて取れない。
「エヴァリオ。今日は少し、内密の相談事があって呼んだのだけれど」
「そうなのよ。エヴァから話を聞いて、あなたなら、もしかしたら何とかできるのかもしれないと思ってね」
エヴァンジェリン様とメランディーヌ王女殿下が、揃って向かいの三人がけのソファに腰を下ろしてそう言う。手振りで俺も座るように指示され、俺も浅く腰を下ろした。背筋をピンと伸ばして、膝の上に手を置き畏まる。
「どのようなご要望でしょうか?」
何だ、何だ? 俺のいったいどんな話を聞いて、王女殿下からのご相談なんてことになったんだ?
俺がこのサロンでしていることと言ったら、集まった女生徒たちの髪をいじったり、肌トラブルの相談に乗ったりといったことだから、恐らくは美容部員としての話なんだろうが。
「化粧で顔の傷跡を隠すことはできるかしら?」
メランディーヌ王女殿下は、身を乗り出してそう言った。
「あの……すみません、レイジントン子爵令息様。私からメランディーヌ王女殿下にはちゃんと説明しますので……この話はなかったことにって私から断ったと」
青い髪をした小柄な少女が、小さな声で申し訳なさそうに言った。リボンタイの色は緑。俺と同じ学年ということだ。
前髪が厚く長く、背中を覆う長さの青い髪を、そのまま背中に流している。
「メリザンド。勇気を出して、試すだけ試してみてもらいましょうよ」
エヴァンジェリン様が、励ますように声をかける。
あのあと、メランディーヌ王女殿下は生徒会の用事があるからと退席していって、そこへこの少女が入れ替わりにサロンへとやって来たのだった。
「えーと……メリザンド・ボードウィン伯爵令嬢、でしたっけ」
「はい。このたびは私のせいで呼び立てられたと伺っております。レイジントン様には、本当に申し訳ないことを……」
「いえ、俺で役に立てるのなら、いくらだって呼んでもらって構いません」
「でも……」
そう言って俯く。長い前髪が目元を隠す。前髪が邪魔をして見えづらいが、隙間から見える瞳は、空のような綺麗な明るい青だ。
「でも、まあ……確かに信用ならないですよね。いくらメランディーヌ王女殿下に言われたからって、いきなり俺みたいな男に、悩みを任せようとはならない気持ち、わかります」
俺が言うと、メリザンド嬢は驚いたように顔を上げる。そうして、小刻みに首を振った。
「いいえ、そんな……! レイジントン様のことが信用ならないとか、決してそういうのではないんです! ただ……もう、『これ』のことは諦めていて」
厚い前髪の上から、ぎゅっと手でおでこを抑える。右眉の上の辺りだろうか。きっとそこに、メランディーヌ王女殿下が言っていた傷跡があるのだろう。
「エヴァンジェリン様。今、こうしてちゃんと前髪で隠せているようですし、それで良いのではないですか?」
俺が言うと、エヴァンジェリン様はゆるく首を振る。
「風が吹くたびに傷跡が曝け出されるのではないかと怯えているのが、良いことだとは思わないわ」
「そういうことなら、髪を留めるピンとかあります?」
俺が言うと、侍女の一人が、壁際に備えた棚からヘアピンの入った容器を取り出して、こちらへ持ってくる。俺はそこからヘアピンを数本取り出して、向かいのソファに腰を下ろしているメリザンド嬢に近づいた。
「失礼。少し、前髪を触ってもよろしいですか?」
俺が言うと、メリザンド嬢は数秒悩んでから、小さく頷いた。俺はそっと手を伸ばして、長い前髪を片手で掬い上げる。チラッと右眉の上に、二センチほど肌の色より白い傷跡が走っているのが見えたが、俺は見ないふりをする。
五本ほどのヘアピンで、右側の前髪を簡単には崩れないように固定していく。
こうしてヘアピンで抑えてしまえば、よほどの強風でない限り、前髪が捲れることはないだろう。ヘアピンで髪を寄せたので、綺麗な青色の左目があらわになった。
「こうすれば、よほどの強風でもなければ前髪は動きませんよ。帰ったら侍女に見せて、覚えてもらうと良いでしょう」
俺がそう言うと、メリザンド嬢は目元をくしゃりと歪ませる。
「傷……見ましたか?」
声を震わせて尋ねてくるのに、俺は頷く。
「チラッと見てしまいましたが、決して口外はいたしません」
見上げてくる目元が潤んでいる。メリザンド嬢は、何かを確かめるように、俺の顔をじっと見つめている。
「あなたは、私のこの傷を見ても、まったく気にしないのですね……」
少ししてから、絞り出すようにそう言う。
「そうですね。大人になって化粧をするようになれば、きっと他の人もあまり気にならなくなると思います」
傷を負った直後に治癒魔法をかけていれば、傷跡は残らなかったのかもしれないなとは思ったが、治癒魔法の使い手は希少だ。治癒魔法は俺のように適性がない者が使うと、消費する魔力がとても多くなるためだ。だから、治癒魔法使いは、貴族と言えども、いつでもすぐに呼べるものではない。
その希少な治癒魔法使いのアンガス先生が学園の保健医として常駐しているのは、やはり現在、王女殿下と王太子殿下が在学しているからなのだろう。
「化粧を試してみてもらったことは、あるのです……。でも、不自然なほど分厚く白粉を塗り固めないと、この傷跡は隠せなくて……だから、こうして前髪で隠すしかないんです」
諦めたような口調で、ヘアピンで留めた前髪を押さえながらメリザンド嬢が言う。
俺は、前世でコンシーラーでリスカ跡を隠していた彼女のことを思い出していた。例の摂食障害のあった彼女、由良ちえみだ。
あれは、ただ分厚く塗れば良いという感じではなかった。コツがあるのだ。
きちんと保湿してから、何度かに分けてポンポンと薄く塗り重ねて、仕上げにパウダーをはたいてと、それなりの手順が必要だったはずだ。色も、肌色に対して明るすぎないベージュが良いのだと言っていた。
「ちょっと、試してみても良いです?」
俺が言うと、エヴァンジェリン様は頷いたが、メリザンド嬢はますます前髪を強く押さえる。
どうしよう。無理をさせたいわけではない。困って自分の手元を見ると、俺の左手にも、子供の頃の傷跡があるのが目に入った。
料理人の目を盗んで、ジャガイモの皮を剥こうとしてナイフを使って、手の甲に近い部分を切ったのだ。料理人がジャガイモの皮を魔法のようにスルスルと剥くのを見て、やってみたいと思ってしまったせいだった。
この傷跡を使ってみるのはどうだろう? 上手くいけば、メリザンド嬢の勇気を掻き立てられるかもしれない。試すだけ、試してみよう。
対人関係で大きく失敗しないコツは、最初から完璧を目指さないことだ。少し試して、相手の顔色を見る。駄目なら戻る。俺はそれを、長いヒモ生活の中で覚えてきた。
「じゃあ、代わりに俺の手の傷跡でやってみます。——ここ。ここに傷跡があるでしょう? これを化粧で隠してみます。見ていてくれます?」
俺がそう言うと、メリザンド嬢はコクリと頷いた。侍女の方に化粧品を用意してもらう。この世界のコンシーラーが、前世ほどのカバー力があるのか知らないのが不安ではあったが、やってみるしかない。
俺は肌の色と比べながら、使うものを選んだ。肌の色に対して少し暗いくらいで良い。そう、口できちんと説明もする。
手順を思い出しながら、丁寧に保湿をしてから、コンシーラーを薄く何度も叩いて重ねる。最後の仕上げに、フェイスパウダーをそっと載せた。
「あら、本当に綺麗に消えたわね」
エヴァンジェリン様が、感心したように言う。俺は、メリザンド嬢の目の前に左手を差し出して、よく見てもらった。
「あ……本当に、見えなくなっています……」
俺の手を見て、メリザンド嬢が、驚いたように呟く。それから、もう一度前髪をそっと押さえた。
「私のも……? 私のも、ちゃんと消えますか?」
ヘアピンで留めた前髪をくしゃりと乱して、メリザンド嬢が言う。俺は、「試してみても良いですか?」と、もう一度訊いた。
メリザンド嬢は、今度は「はい、お願いします」と答えた。




