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第一話「依頼」

 その日の午後、ジョンの事務所には、いつもより静かな時間が流れていた。


 古びた時計の針が、規則正しく音を刻んでいる。窓の外では人々が行き交い、車の音や店先から聞こえる話し声が、薄い壁を通して事務所の中へ入り込んでいた。


 ジョンは机に肘をつき、一枚の新聞を眺めていた。


 探偵をしているとはいえ、毎日のように事件が舞い込んでくるわけではない。むしろ、何も起こらない日のほうが多かった。


 そんなときだった。


 電話が鳴った。

「……はい。こちらジョン探偵事務所です」


 受話器の向こうから、落ち着いた男の声がした。

『突然すみません。直接お会いして、お話ししたいことがあります』


「依頼ですか?」

『はい。できれば今日中に』


 ジョンは時計を見る。

「場所は?」


『駅前のカフェにいます。名前はアルジャーノンです』

 電話が切れた。


 ジョンはしばらく受話器を見つめていた。

「急な依頼か……」


 彼はコートを手に取り、事務所を出た。

 駅前のカフェは、それほど混雑していなかった。

 ジョンが店内を見回すと、窓際の席に一人の男が座っているのが見えた。


 黒髪で、落ち着いた服装をしている。姿勢は妙に真っすぐで、膝の上には帽子が置かれていた。

「アルジャーノンさんですか?」


「……はい」

 男は顔を上げた。


「ジョンさんですね」

「そうです。依頼について聞かせてください」


 ジョンが向かいに座る。

 アルジャーノンはしばらく口を開かなかった。


 やがて、小さな声で言った。

「私が仕えていたご主人夫妻が……昨夜、殺されました」


 ジョンの表情が変わった。

「殺された?」


「はい」

 アルジャーノンは両手を強く握りしめた。


「私はメイドとして、長い間あのお二人に仕えていました。昨夜もいつも通り仕事を終えて、自分の部屋へ戻ったんです。しかし……朝になって、ご主人たちが……」

 そこまで言うと、アルジャーノンは言葉を止めた。


 ジョンは急かさなかった。

「犯人を見たんですか?」


「直接ではありません。ただ……」

 アルジャーノンは顔を上げる。


「犯人について、分かっていることがあります」

「聞きましょう」


「男です」

 ジョンは手帳を開いた。


「身長は、私より少し低かったと思います。おそらく160センチあるか、ないかくらいです」

「服装は?」


「黒いスーツです」

 ジョンのペンが止まった。


「眼鏡をかけていました」

「顔は?」

「はっきりとは……暗かったので。ただ、男だったことは間違いありません」


「凶器は?」

 アルジャーノンは一瞬黙った。


「ナイフです」

 店内の喧騒が、急に遠くなったように感じられた。


「ご主人は……何度も刺されていました」

 ジョンは手帳に書き込んだ。


 黒いスーツ。

 眼鏡。

 男。

 身長160センチ前後。

 ナイフ。

 そして、夫婦二人の殺害。

 

 如何にも探偵っぽい動きにアルジャーノンは引き込まれた。

「アルジャーノンさん」

「はい」


「犯人を見つけてほしい、ということで間違いありませんね?」

「お願いします」


 アルジャーノンは深く頭を下げた。

「私には、もう何もできません。だから……」

「警察に通報はしましたか?」


 ジョンは尋ねる。

 アルジャーノンは唾を飲み込んで言う。

「警察は信用なりません.....探偵がいると聞いていたので.....」


「分かりました」

 ジョンは手帳を閉じた。


「私が犯人を探します」

 こうして、事件の捜査が始まった。




 ジョンは街を歩いていた。

 事件現場周辺を調べ、人の流れを確認し、昨夜の出来事を知っていそうな人物を探していた。

 しかし、簡単に犯人が見つかるはずもない。


「黒いスーツに眼鏡……」

 ジョンは小さく呟いた。

 ありふれた格好だ。

 それだけで一人に絞り込むことはできない。

 彼は歩きながら、頭の中で証言を整理していた。


 そのときだった。

「……あっ」


 足元に何かが引っかかった。

「うわっ!」


 ジョンの身体が前へ傾いた。

 次の瞬間、地面に手をついた。

「痛っ……」


 しばらく動けなかった。

 どうやら何かにつまずいたらしい。


「なんなんだ、今日は……」

 立ち上がったジョンは、ふと自分の手を見た。


 赤い。

「……血?」


 鼻に手を当てる。


 鼻血が出ていた。

「最悪だな」


「大丈夫かい?」

 ジョンは振り向く。

 後ろには年老いたおばあちゃんがハンカチを差し出していた。


「使うかい?」

「いや.....大丈夫です。鼻血出やすいから慣れてるんで.....」

 ジョンはポケットからハンカチを取り出し、鼻を押さえた。


 事務所まで一直線に走った。

 しかし、完全に止まるまでには少し時間がかかった。


 そして気づいたときには、着ていたスーツにも赤い染みがついていた。

「よりによってスーツに……」


 ジョンはため息をついた。

 今日はもう調査を続けるのは難しい。

 彼はハンカチで鼻を押さえながら、急いで事務所へ戻ることにした。


 夕暮れの街を歩き、事務所へ向かう。

 その途中、ジョンは何度も自分の服を見た。

 赤い染みが、黒い布の上に残っている。

 やがて事務所が見えてきた。


 ジョンは扉の前で足を止め、時計を確認した。

 時刻は、10月8日だった。

「……大丈夫だろう。」


 ジョンはそう呟き、扉を開けた。

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