不朽の屋敷
車を走らせて4時間、目的のN県山中に着いた。まだ昼過ぎだが、周囲は深い森に覆われ、鬱蒼としていた。木々の間を縫うように進むと、突如視界が開けた。そこに、屋敷があった。周囲の自然と明らかに異質な、和洋風の古い屋敷。まるで時代から切り離されたように、静かに鎮座していた。
「…なんか、暗い感じ」コンヌが呟く。
「僕もそう思う」ときやが頷いた。「引き返すなら今だよ」
「でも500万…」
「…焼肉のためだね」
「飲み放題のためだね」
二人は顔を見合わせて、苦笑した。
コンヌはインターホンを押した。
「こんにちは。5時間前にお電話いただいたコンヌ探偵事務所の者です。どなたかいらっしゃいますか」
数秒の沈黙の後、壮年の男性の声が返ってきた。
「入れ」
門をくぐると、砂利を踏む音が妙に大きく響いた。
二人は顔を見合わせた。
「静かすぎる…」
周囲に鳥の声も、虫の音もない。まるで、この屋敷だけが音を吸い込んでいるかのよう。重厚な木製の扉の前に立つと、湿った木の匂いが鼻をついた。
「ときや君…」
「うん。気をつけよう」
扉が、ゆっくりと開いた。「お邪魔します。」
キィ…
金属の軋む音が、静寂を切り裂く。玄関に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。外の湿った空気とは違う。左右には古い大和絵が並んでいる。だが、その絵は色褪せ、何が描かれているのか判別しづらい。光の入り方が奇妙だった。窓からは昼の光が差し込んでいるはずなのに、廊下の奥は薄暗い。まるで、光そのものが途中で吸い込まれているかのように。
ギシッ…
コンヌが一歩踏み出すと、床が軋んだ。その音が、廊下の奥まで不気味に反響する。
まるで、誰かが遠くで歩いているような錯覚。
「気のせい…だよね」
コンヌが小声で呟く。
「たぶん」
ときやも小声で答えたが、その目は警戒していた。
突然、黒い服を着た中年の婦人が現れた。
「…!」
二人は驚いて身構えた。いつから、そこにいたのか。
「遠方よりご足労ありがとうございます。主人がお待ちしております。ついてきてください」
婦人の声には感情が感じられない。表情も無表情のまま、静かに一礼した。二人は顔を見合わせた。婦人の後について、廊下を進む。足を踏み出すたびに、床が軋む。その音が、天井の高い廊下に反響し、まるで何人もの足音のように聞こえる。
「コンヌちゃん、手を」
ときやが小声で言い、コンヌの手を握った。
冷たい。コンヌの手が、冷たくなっている。
「ありがとう…」
廊下は長かった。窓から差し込む光は、規則正しく床を照らしているが、その光と影の境界が妙に鋭い。まるで、光と闇がくっきりと分かれているかのように。そして、影の中には何もない。何もないはずなのに、何かがいるような気がする。
ギシッ…ギシッ…
足音だけが響く。婦人は振り返らず、ただ歩き続ける。長い廊下を抜け、大きな襖の前で婦人が立ち止まった。
「こちらでございます」
襖には、金箔で何かの模様が描かれていた。婦人が襖を開けた。
そして、その向こうに――
煌びやかな襖を開けると、そこには顔の彫りが深い、鷹のような目をした壮年の男性が立っていた。背筋を伸ばし、じっと二人を見据えている。
「よく来てくれたな」男の声は低く、重い。
コンヌは一歩前に出た。
「まず、お聞きしたいことがあります」
「構わない」
「あなたは本当に、父の相棒だったんですか?」
男は静かに頷いた。
「私の名は古鷹勲武。10年前、亥原と共にある事件を追っていた」
「証拠はありますか」
ときやが横から口を挟んだ。声は穏やかだが、目は鋭い。
「証拠…」古鷹は僅かに笑った。「疑うのは当然だ。むしろ、簡単に信用する方が危険だ」
古鷹は机の引き出しを開け、一枚の写真を取り出した。
「これを見てくれ」
コンヌが写真を手に取った。そこには、二人の男性が写っていた。一人は若き日の古鷹。
そして、もう一人は――
「父さん…」
見間違えるはずがない。あの優しい笑顔。コンヌが物心ついた頃に見ていた、父の姿。
「10年前、亥原と私は共に探偵をしていた」
古鷹は静かに語り始めた。
「待ってください」
ときやが遮った。
「写真なら合成できます。それだけでは証拠になりません」
「その通りだ」
古鷹は頷いた。
「では、これならどうだ」
古鷹は別の写真を取り出した。
コンヌが幼い頃の写真。5歳くらいだろうか。父に抱かれて、笑っている。そして、その隣に古鷹がいた。
「これは…」
コンヌの手が震えた。
「君が5歳の誕生日だ。亥原に招待されて、私も参加した」
写真の背景には、見覚えのある部屋。実家のリビングだ。
壁には、今も実家に飾られている絵が写っている。
「この写真は…」
「亥原の家でしか撮れない。そうだろう?」
古鷹は真剣な目でコンヌを見た。コンヌは記憶を辿った。
5歳の誕生日。父が大きなケーキを買ってきてくれた。
そして、確か…父の友人が来ていた。
「おじさん…」
コンヌが呟いた。
「覚えているのか」
古鷹の表情が和らいだ。
「顔は…覚えてないです。でも、父の友人が来てくれたことは覚えてます」
「そうか」
ときやはまだ納得していない様子だった。
「写真は分かりました。でも、それだけでは…」
「まだ疑うか」
古鷹は苦笑した。
「慎重なのは良いことだ。では、こうしよう」
古鷹は本棚から、古びたノートを取り出した。
「これは、亥原と私が共に調査していた時の記録だ」
ノートを開く。そこには、几帳面な文字で記録が綴られていた。コンヌがノートを受け取った。ページをめくる。
そして、ある一ページで手が止まった。
『20XX年7月15日
今日、コンヌの誕生日プレゼントを買いに行った。古鷹に相談したら、「ミステリー本がいい」と勧められた。確かに、コンヌはミステリー本が好きだ。探偵の物語を読んであげると、目を輝かせて聞いている。いつか、立派な探偵になるかもしれないな』
コンヌの目から、涙が溢れた。
「うぅ…これ…父さんの字だ」
間違いない。あの几帳面な文字。手記と同じ筆跡。
「亥原は、いつも君のことを話していた」
古鷹は穏やかに語った。
「『コンヌは優しい子だ』『コンヌは賢い子だ』と。親バカだと、よくからかったものだ」
コンヌは涙を拭った。
「でも…」
ときやはまだ警戒を解いていなかった。
「それでも、まだ確信が持てません」
「ときや君…」
コンヌが困った顔をする。
「ごめん、コンヌちゃん」
ときやは真剣な表情で言った。
「でも、君のお父さんのことだ。慎重にならないと」
「構わない」
古鷹は立ち上がった。
「では、決定的な証拠を見せよう」
古鷹は奥の部屋へ歩いていった。数分後、戻ってきた。
その手には、小さな箱があった。
「これを」
箱を開けると、中には古い懐中時計が入っていた。
銀色の、傷だらけの時計。
「これは…」
コンヌが息を呑んだ。
時計の裏側には、文字が刻まれていた。
『亥原へ
共に正義を
古鷹』
「これは、私が亥原に贈った時計だ」
古鷹は静かに言った。
「探偵として独立する時に、餞別として渡した」
コンヌは時計を手に取った。
重い。傷だらけだが、大切に使われていたことが分かる。
「父さん、この時計をいつも持っていた…」
コンヌの記憶が蘇る。
「ポケットから、よく取り出して時間を確認してた」
「ああ。亥原は時間に正確な男だった」
古鷹は目を細めた。
「でも、なぜこれが古鷹さんの手元に?」
ときやが尋ねた。
「10年前、事件の夜」
古鷹の表情が曇った。
「亥原が消える直前、これを私に託した」
古鷹は天井を見上げた。
「『もし自分に何かあったら、コンヌに渡してくれ』と」
沈黙。
「でも、渡せなかった」
古鷹の声が震えた。
「どうしても、直接会って渡したかった。亥原を取り戻してから、君に会おうと思っていた」
「古鷹さん…」
「すまない。10年間、取り戻せなかった。無能な相棒だ」
古鷹は深く頭を下げた。ときやは、古鷹の様子を心理学の視点から観察していた。表情、声のトーン、身体の震え。すべてが本物だった。演技ではない。心からの後悔と、謝罪。
「…分かりました」
ときやは静かに言った。
「信じます。疑ってすみませんでした。」
「ときや君?」
コンヌが驚いた顔をする。
「精神科医として、人の心を見るのは仕事です。そして信じることもまた大切なことです。」
ときやは古鷹を見つめた。
「古鷹さんの言葉は、真実です」
古鷹は顔を上げた。
「ありがとう」
「でも」
ときやは続けた。
「一つだけ、確認させてください」
「何だ」
「もし、僕たちが危険に陥った時」
ときやの目が鋭くなる。
「古鷹さんは、どこまで覚悟がありますか」
「覚悟…」
「娘さんを人質に取られても、僕たちを見捨てませんか」
「教団に脅されても、裏切りませんか」
「命の危険があっても、最後まで戦いますか」
ときやの質問に、古鷹は黙って聞いていた。
そして――
「見せよう」
古鷹は立ち上がり、壁に掛けられた額縁を外した。その裏には、小さな金庫があった。ダイヤルを回し、金庫を開ける。中から取り出したのは、一通の封筒。
「これは、遺書だ」
「遺書…?」
「ああ」
古鷹は封筒をテーブルに置いた。
「10年前から、書き続けている。毎年、書き直している」
封筒には、日付が書かれていた。今年の日付だ。
「中には、妻への言葉、娘への言葉、そして…」
古鷹は二人を見た。
「亥原の娘へのメッセージも書いてある」
「私への…?」
「ああ。もし私が死んだら、すべてを君に託すと」
古鷹は封筒を手に取った。
「私には、もう失うものがない」
古鷹の声は静かだが、強い意志が込められていた。
「娘は教団に囚われた。妻は心労で倒れかけている。そして、相棒は10年前に消えた」
古鷹は拳を握りしめた。
「だからこそ、今回の依頼には命を懸ける」
古鷹は二人を真っ直ぐ見た。
「たとえ教団に脅されても、裏切らない」
「たとえ娘を人質に取られても、屈しない」
「たとえ命を落としても、必ず君たちを守る」
その目には、嘘偽りがなかった。
「これが、私の覚悟だ」
沈黙。
ときやは、深く息を吸った。
「…分かりました」
ときやは頭を下げた。
「何度もすみません。信頼します、古鷹さん」
「ありがとう」
コンヌも頭を下げた。
「よろしくお願いします」
古鷹は初めて、心から笑った。
「こちらこそ。よろしく頼む」
そして、古鷹は懐から、もう一つ何かを取り出した。
小さな袋。中には、二つのお守りが入っていた。
「これは、亥原が常に持っていたものだ」
古鷹は二人にお守りを渡した。
「君たちに、これを持っていてほしい」
コンヌがお守りを受け取る。
小さな、布製のお守り。手作りのようだ。
「これ…」
「亥原の妻…君の母親が作ったものだ」
古鷹は優しく言った。
「亥原は、いつもこれを持ち歩いていた。『家族の愛が、守ってくれる』と」
コンヌは、お守りを握りしめた。母の愛。父の想い。
「ありがとうございます」
ときやもお守りを受け取った。
「では」
古鷹は資料を広げた。
「本題に入ろう。依頼の内容を説明する」
三人は、テーブルを囲んだ。信頼は、こうして築かれた。段階的に、慎重に、そして確実に。古鷹の目には、希望の光が宿っていた。10年ぶりに、信頼できる仲間ができた。コンヌの心には、決意が芽生えていた。父を取り戻す。必ず。ときやの胸には、覚悟が固まっていた。コンヌを守る。最後まで。こうして、三人の戦いが始まった。




