未完成な私の勇気は
私、市原美羽里には、気になっている人がいる。
同じ高校に通っている、阿武隈川英治君だ。
「うへへ…」
携帯のアドレスを見ると、どうしても口元が綻んでしまう。
それはそれはだらしなく緩み切った顔をした鏡の中の自分と目が合って、これはいけないと両手で頬をぺちぺちと叩く。次彼に会ったときにこんな顔をしていたら、幻滅されてしまうかもしれない。
でも、よくよく考えてみると私は彼のことをほとんど知らない。
だって彼のことを初めて知ったのも、つい最近だから。
そもそもの始まりは、あの日。
***
クラスに満ちた、冷ややかな視線。それは、たった一人に注がれ・・・いや、たった一人にだけ注がれていなかった。
―――無視。
それは何の道具も必要とせず、何の苦労も必要とせず、何の勇気も必要とせずただひたすらに標的となってしまった少女の心を蝕んでいく。
私はそんな不可視の攻撃を、与える側にいた。
というか、大体みんなそうだった。やらないと、今度は自分がやられるから。
そんなものだ。結局のところ、標的なんて誰でもいいのだ。
今の少女が的になったきっかけなど、忘れてしまうほど些細な出来事だった。
誰かの尊厳を踏みつけて、安寧の日々を手にしていた時。
「やっぱり、あの子そういうことあるよねえ」
「前からちょっと変な子だと思ってたんだよね」
クラスの隅で、影の落ちた背中に向けて。多分本人たちは、面白半分で言っていたのだと思う。しかしそれは、私の中途半端な正義感を刺激した。
「あ、あの…」
「は? 」
自分の中のなけなしの善意を、信じたかったのだと思う。そんなもの、自分の中にあるはずなんてないのに。
怪訝な顔を向けられて、何も言えなくなってしまう。所詮私の正義感など、その程度だ。
「え、えっと」
「何か言いたいことでもあんの? 」
「わ、私は…」
泣きそうだった。
逃げ出したかった。
酷く後悔に苛まれていた。
「すいません、ちょっと聞きたいんだけど」
「…なに?」
顔を上げるとそこには、愛想笑いを浮かべる少年が立っていた。
「いや、この教室に広瀬っていうのはいないかな? 広瀬晃。絵にかいたようなアホ面が目印」
「そんな奴いないけど」
「ああそう。ならいいんだ。クラスを間違えたみたい。…あっ、君は」
少年が、私を見た途端に何かに気付いたような顔をする。
それも、わざとらしく。
「確か、前に晃と一緒にいたよね? 」
「え、わ、私は」
「ちょうどよかった!すぐ終わるから、一緒に来てくれるかな? 」
もちろん私はこの少年とも彼が言う『アキラ』という人物とも面識などない。
「ごめんね、急いでるんだ」
しかし少年は有無を言わさず私の手をつかみ、そのまま教室の外へ引っ張り出してしまった。後ろから何か聞こえてくるが、私自身訳が分からない。
しばらくそのまま連れていかれ、人気のない廊下の隅でようやく止まる。
「ふう。じゃ、僕はこれで。余計なお世話だったならごめんね」
少年のその台詞を聞いて、愚鈍な私の頭はようやく自分が助けてもらったのだと理解した。
「あ、あの! 」
「うん? 」
「た、助けてくれて、ありがとうございます…」
「どういたしまして。助けたなんてたいそうなもんじゃないけどね」
目の前の少年が笑うのを見て、私は考える。
…なぜ、この人はいとも簡単にこんなことをやってのけてしまうのだろう。この人は、強い、何事にも屈さない心を持っているのだろうか。
だとしたら、強い心を持った者しか、抗うことはできないのだろうか。
「……か」
「え? 」
「どうしたら、その、勇気が、出せるんでしょうか」
それは傍から見てものすごく滑稽な質問で。でも少年は笑わずに考えてくれた。
「君に必要なのは、もっと強大な勇気じゃなくて、違う勇気なんじゃない? 」
「違う、勇気? 」
「僕としては暴君に抗う革命者よりも、その底辺に堕ちていこうとするする異端者になるほうが柄に合ってるし、気が楽なんだけどな」
「革命者、と、異端者」
彼の話の中で出たワードを小さく反芻する。
「じゃ、そろそろ時間だから行くね。…あ、それと」
少年は苦笑いして言った。
「僕は、君が思ってるほどきれいな動機で動いてないよ」
***
抗う勇気よりも、堕ちる勇気。
うん、大丈夫。心の中で何度も言い聞かせていると、彼の言葉を自分のものにもできる気がした。
「ねえ、ちょっと」
先ほど私が話しかけた、巻き髪の女子たちが私を呼び止めようとする。私は、精いっぱいの営業スマイルを彼女に向けた。
「さっきはごめんね。日直の日誌ってどこにあるか聞こうと思ったんだけど」
「…それなら教卓の下にあるけど」
「ありがとう。後で見とくね」
媚びへつらったっていいじゃないか。人間はそういう生き物だ。
それに―――本来の目的に、何ら支障はないのだから。
「えっと確か、早乙女千重ちゃん、だったよね?次、一緒にお弁当食べない?」
「ひ…え…? 」
怯えた小動物のような顔でこちらを見る彼女。多分巻き髪ちゃんたちもこちらを見て変な顔をしているんだろうけど、別に見る必要はない。
私は今、友達になりたい子をお弁当に誘っているだけなのだから。
私はその時、心の底から怯えながらも、確かに底辺へと堕ちた。
あの少年が阿武隈川という同級生であることを私が知ったのは、それから少し後のことだった。
***
「いやしかし、ものの見事にすっからかんだなあ」
元々友達は多いほうではないから、クラスのほとんどの上っ面のアドレスを失って今手元に残っているのは家族を除いて親友の女の子と気になっている男の子のアドレスのみ。
幸せである。
とはいえやはり画面から伝わってくるもの寂しさは避けようがない。せめてあと一人くらいは友達が欲しい。クリスちゃんは携帯を持っていないらしく、残念なことにアドレスの交換はできなかった。
そうだ、と思い立って、そのなけなしの友達のうちの一人に電話を掛ける。
「もしもし…」
「もしもしーってあれ…ひょっとして寝てた? 」
「お恥ずかしいことに」
まだ六時である。千重ちゃんはよく眠る子だ。授業中にも頭がかくんかくんとしているのを見かけることが多い。
「…へえー。その、阿武隈川、って人に会ったんだ」
「そうなの! 「呼びにくいでしょ? 英治でいいよ」だって! 」
「ミウちゃんは青春を生きてるねぇ」
「千重ちゃんは、好きな人とかいないの? 」
「うーん、いない。出会ってみたくはあるけど」
「千重ちゃんは見た目に反して大人だね」
「どういう意味だよー! 」
千重ちゃんは見た目すごく幼く、小学生といっても不自然でないほど背丈が低くて童顔だ。私はそこが可愛いと思うのだけれど、本人にとっては軽くコンプレックスらしい。
「でも、一度その阿武隈川君には会ってみたいかも」
「…アゲナイヨ? 」
「まだミウちゃんのではないでしょうに」
「まあ冗談はさておき、何で? 」
「いや、お礼っていうか、本人がそれを知らなくても、間接的に私はその…」
電話の向こうの声色が変わり、言葉を繋げるごとに自信なさげに小さくなっていく。
そうだ。私たちは、彼に救われた。言い方は大げさかもしれないけど、確かな事実だ。
「そうだね。私も―――」
「ミウちゃんはさ」
一度きちんとお礼を、と言おうとしたのを、か細い声に阻まれた。
それは消え入りそうなほど不安げな声で、今にも泣き出してしまいそうにふるえていた。
「ミウちゃんは、私に話しかけたこと、その、後悔してない? 」
後悔。考えたことはあった。
確かに、客観的に見れば私は失ったもののほうが大きいのかもしれない。
かもしれない、けれど。
「何言ってんの。してるわけないじゃん」
失ってしまった多くのものと引き換えに、私は欲しかったものをすべて手に入れることができたから。
今はそれだけで、十分満足だ。
「…そっか。ありがとう。ごめんね、変なこと聞いて」
「いいっていいって」
私は彼女との通話を終えると、画面に映る大切な人たちとの繋がりを見て、ひっそりと微笑んだ。