21話
身体が熱い。
息をするのも億劫なのにずっと息苦しい。
水が欲しい。
そう思っても身体は思うように動かなかった。動かそうとしても随分と重いのです。
頑張って頑張ってようやく少しだけ動いたかと思えば激痛が走ります。
思わず力が抜けて腕を強かに打ち付けてしまいました。不思議なことにその痛みを感じられません。ただ打ち付けた腕がダラリと下に垂れ下がってしまったのには困ってしまいました。元の位置に戻そうとしてもやはり動かないのです。
おそらくここはベッドの上なのでしょう。周りを見ようにも目が霞んでしまってよく分かりません。ただ腕が垂れたということは分かりましたのでここが床よりも高い位置にあるというのは理解出来ました。
頭がぼーっとします。…風邪、きっと酷い風邪をひいてしまったのでしょう。
でも大丈夫、村を出る時にお父さんが持たせてくれた薬を使えばすぐに治ります。
「―――?―――――?」
近くに誰かいるようです。
ですが今の私に看病してくれる人なんて。
「―――――」
話しかけてくれているのでしょう。
けれど声が遠く何と言っているのか聞き取ることができません.
その声から男性だということはなんとはなしに分かりました。
「お、とうさん…?」
お父さんがここにいるわけはないのです。
でも他に思い当たる方がいません。
副学長様でしょうか、いいえ初日に少しお話をしただけであの村でも助けられただけです。
そのような縁ではありません。
男性の方というだけで括るのなら学長様が連れられていたあの方々、パンドラでしたね。その方々とも良くしてもらいましたがやはり違うでしょう。
……すべて、すべて悪い夢だったのでしょうか。
それはどれだけ良い事でしょう。
私は学び舎に入っておらず、村からも出ていない。
アユさんやアレクシス様、トゥーちゃんとの出会いが夢だったのは残念ですが、それでもターレンさんや村のみんなが無事であったのなら、…いいえあんな不幸がなかったのならばそれにこしたことはないでしょう。
このままお父さんに任せておけば明日にでも私は元気になるでしょう。そしたらまたお父さんの仕事をお手伝いして生きていくんです。そうして私は村を出ない。学び舎の事も知らずに
生きていく。
そうして…そうして…、
「あぁ…やりとげ…たかったなぁ…」
※※※
「起きたか?こちらがわかるか?」
研究対象の罹患者が7度目の覚醒の兆候が見られたので呼びかけによる反応を確認。
質問に対する応答は無し。開眼あり。
「今回も覚醒とは言い難い、か」
先の体動が意識的に行われたものなのかあるいは無意識によるものなのかは不明。
呼吸に乱れあり、体温は高熱持続。発汗あり。
諸々の記録をとりながら男は寝台から垂れた腕を身体に掛けられたタオルケットの下へと戻した。
その時だった。
「お、とうさん…?」
倒れ、昏睡状態になってからの初めて意味のある言葉だった。
目を開け、僅かな体動と喘鳴だけだった今までよりは明確に随意的な行動だった。
「あぁ…やりとげ…たかったなぁ…」
この少女が倒れたのは学び舎に帰ってきてからの事だった。
糞便や吐瀉物の検体だけでなく罹患者まで手に入ったのは幸運だった。こういった遠征に行くたびに誰もが、誰かがそうなってくれればと冗談を言うものだったが実際にそうなるのは珍しい。
この娘は速やかに隔離されここに軟禁状態となった。もっともまだ動き回れる元気のあったころであるならばともかく、今となっては満足に体を動かすことさえできないが。
男はこの少女を隔離する部屋を出る。
「どうだった?意識明瞭、倦怠感もなしどころかこの世の苦痛まで何もないって状態なら最高なんだがね。…おい、その服のままこっちくるんじゃねぇよ」
記録用のクリップボードを先に机に置こうとした男に叱責が飛ぶ。
しぶしぶといった様子で除菌液を手に取りに戻り、防護服に振りかけ始めた。
その部屋と隔離部屋は隣り合っており、壁に大きなガラスが嵌め込まれており隔離部屋の中の様子を見られるようになっている。
「しっかし可哀そうなのはあれと同じ馬車に乗り合わせた奴等だぜ。連中、腹痛や嘔吐でしばらくトイレが部屋だったってよ」
ぎゃはぎゃはと下品な笑い声が部屋に響く。口では可哀そうだと言っているわりに微塵もそんなことを思っているように感じさせないのはこの女の悪い癖だ。
防護服の脱衣まで完了し、自身に使うための除菌液を手に取りながら男は、
「そういうならもっと心配そうな態度をとったらどうだ。お前が人から悪い印象を持たれるのはそういう所だぞ」
「はっ!何言ってんだ糞が。態度くらいで対応変える奴等なんざ無視だ無視、こちとら心の底から心配して丁寧に治療してやるし見舞いの品だってふるまってやらぁ」
あの娘がここに運び込まれてから、誰よりもこの観察室にこの女は通い詰めている。
そもそもがこの娘を誰が見るかを決める際に真っ先に手を挙げたのがこの女ではある。
もちろんだからと言って一日中ずっと張り付いて見ていろというわけではない。
感染防止を目的にパンドラ内で当番のサイクルは決めたわけだが、この娘を発端とする体調不良により人員が少ないのとそもそも研究対象として面白みに欠けると思う者が多く、やりたがらない者ばかりだった。
それをこの女は率先して受けるといい、他の人員のサボタージュでしかない交代の申し出も断ることなく承諾してここにいる。
男の見聞きした様子では通い詰めているどころかもうここに住み着いているような状態らしい。
「そのうえで惨めな阿呆だと嗤って何が悪い。可哀そうだと思うのと間抜けを面白いと思うのは両立するだろう」
こういうところが無ければ非常に美談になるのだが。
ぬそりと、男は今度こそ女の横に立ち、記録用紙が挟まったままのクリップボードを机に置いた。
男は面長の長身でまた身体つきも大きい。小柄な女の横に立つとそれが余計に際立っていた。
「……きっと常識的に考えればそれらは両立しないんじゃないか、知らないが」
「ぎゃは、そうだなそうかもしれねぇな。知らんが」
女は机の上に置かれた記録用紙を手に持つことなく覗き込む。
その目つきは異様に鋭いものだった。
「いい加減休んだらどうだ。目の隈が酷いことになってるぞ、ただでさえ悪い目つきだってのに」
「るっせぇ、やる気ねぇ奴に任せたらテキトーかますに決まってら。そんなんに任せるくらいなら手前でやるっての」
「ここのメンバーらしいことだな」
パンドラは学長に魅せられて集まった集団だ。
あれと一緒にいればもっと面白いものが見れると、各々が手に知を持って。
だからこそ学長が動くのであれば皆、積極的に働く。その面白い何かを見逃したくないから。
「となると学長は」
「こいつがここにいるのも知らないんじゃね」
こと学長が関わらないとなると誰しもが勝手になる。
自身の研究や興味にかかわるものであるのなら手を出そうとするし、そうでないのならあとは義務感ないしは責任感しか残らない。
「今の学長の研究とこいつの病は関係ほぼないだろ。思いつきの尻ぬぐいであの村には行ったけど、今は自分の研究室に籠ってるんじゃね」
「この前に研究終わったとか言ってなかったか」
「そりゃ春の話だろ、いつの話してんだよノロマめ。次だよ次、もう夏だぞ」
自分の言葉で何か気が付いたのか女は指をパチンと鳴らした。
「この点でもバッドラックだったなこの娘は」
「気温か」
「そう、もうちょっと意地悪く付け足すなら海水の温度もだな。村の様子があまりにもだったから別の原因も期待したんだが調べてみれば既知の微生物でしかなかったよ。こいつらは確かに暖かい方がよく繁殖する、それでここまでの被害を出せるのは予想を超えたが」
「被害自体は人の無知によるものじゃないか。対処がきちんと行われていればここまでの被害にはならなかっただろう」
ぐるりと首を回し女はその目つきの悪い鋭い眼差しで下から男を睨め付けた。
「その言い方はあまり好きではないな。きちんととは一体何だ。感染ルート、除菌の方法、治癒のために必要な物と療養、言葉を略せるのは便利だがなそれで話に誤りができるのは馬鹿のやることだぜ」
「すまない、横着した。いまだにこれを悪魔のせいだか言ってる奴らに対して嫌気がさしているものでね」
「ぎゃは、それは同感」
寝たきりの娘をどちらともなく見やる。彼女の病状は深刻だ。壊死の進行は止まることを知らないようであの村での死亡者のそれと大差はない。それでもまだ息があるのはこの学び舎の叡智の賜物だろう。
「それで状態はどうなんだ」
「見ての通りてんで駄目〜。壊死のある四肢それぞれに違う薬品を塗布してみたがどれも効果は見受けられていない。この検体の状態を考えてもこれから治る見込みは薄いね、可能性がないわけでないから一応最後まで見るけど」
訊ねてはみたものの見れば大体予想がつく状態だ。
女の答えにも特に驚くこともなく男はふーんと鼻を鳴らし、ポケットから煙草を取り出すと一本口に咥えた…ところでその手ごと叩かれ煙草は床に落ちた。
「テメェ、このクソ野郎!!私が記録とってるのは私が調合した薬の薬効なんだよ、ヤニに汚染されたクソなんかじゃねぇ。いいか、次此処で吹かそうってんなら次の検体はテメェだ、分かったな!!」
クリップボードを手に女は息を荒げる。
肩を竦め特に惜しい風でもなく煙草を仕舞う。
「やはり少し休んだらどうだ。その様子だと随分と吸ってないだろ煙草」
「ちっ、心配されなくてもこれが終わればたらふく吸う。どうせもうそろ終わるだろ」




