後戻りできない立場
「……科学者?」
俺は思わず聞き返してしまった。黒上は小さく頷いた。
「……丁度、町にゾンビが溢れだした頃……アイツはこの学校にやってきた」
そして、遠い昔を思い出すように黒上は目を細める。
「あの時には既に私は生徒会長になっていたし、この学校の校庭にはゾンビがあふれていた……そんな時に、アタッシュケース一つ抱えて、アイツはこの学校に来たのよ」
「……平野さんは、どこから来たんだ?」
俺が訊ねると、黒上は首を横に振る。
「さぁ……でも、アイツは初めて会った時から白衣を着てた。最初は医者かと思ったし、本人もそう言ってた……でも、段々おかしいと思ってきたのよ」
「……おかしい?」
黒上は不意に真剣な顔になって、俺と小室さんを見る。
「ある日、制服組の子が不慮の事故で校庭のゾンビに噛まれたの。私と川本はすぐに保健室に連れて行ったわ。その子は制服組の中でも私達に従順な子だったから、平野に治すようにって命令したの……そうしたら、アイツなんて言ったと思う?」
俺も小室さんも、皆目検討がつかなかった。すると、黒上は嫌そうな顔をする。
「『私は医者だが、人間を治す医者じゃない。それに、ここにはワクチンはない』って……」
「え……」
信じられなかった。ワクチンが……ない?
確かに、バスの中でもワクチンはないと言っていた。
でも、先程川本さんにはワクチンを打っていたはずだ。
だったら、さっき川本さんに打ったワクチンは……
「結局、その子はゾンビになってしまったわ……でも、なぜか平野は、ゾンビになったその子を、校舎から通路でつながっている体育館に運ぶって言い出したの。結局、私達は言われるままに体育館にゾンビになったその子を運んで……でも、入り口の前で私達は帰された……」
黒上は悲しそうに先を続ける。
「体育館? 平野さんはなんで……」
「……実験よ」
黒上は忌々しそうにそう言った。それから少し話しづらそうに顔を歪める。
「実験って……それは……」
「……アイツは、どうやったか知らないけど、谷内を助手にしてゾンビになった子たちに実験を繰り返してた……一度だけ、その現場を見たけど……私には耐えられなかった。そのうち谷内もおかしくなっちゃって……でも、平野は私や川本には体育館に近寄らないようにって言ってた……だから、私は――」
「どうして、やめさせなかったの」
と、ふいに小室さんがそう言った。俺も、黒上も驚いて小室さんのことを見る。
「え……な、何言って……」
「あなた、このがっこうのしはいしゃ。なぜ、ひらのさん、とめられない?」
「だ、だって……わ、私は……」
そう言うと、黒上は頭の上を軍帽を脱ぐ。
その下から肩までかかる綺麗な黒髪が見えた。
「……怖かったの……私は……自分が恐ろしいことに……加担しているようで……」
「……黒上さん。アンタ、それはおかしいよ」
思わず俺もそう言ってしまった。すると、目の端に涙をためた黒上は、怯えた子犬ような目で俺を見る。
「アンタは……角田を殺したじゃないか。普通の人間を……それなのに……そんな態度をとるのは、ズルいんじゃないか?」
そう言われて黒上は何も言えなくなってしまったようだった。ただ俯いたまま何も言わずに黙っている。
「……話は終わり。帰って」
『ああ、これで終わりだな、生徒会長君』
その時だった。スピーカーから、声が聞こえてきた。
「え……これって……」
『そして、私の実験も終了した。感謝するよ。モルモットの諸君』
聞こえてきたのは……間違いなく、平野さんの声だった。




