第10話:黒の軍団(白紙化教団)の襲来〜時空の印刷職人と15世紀の活版印刷、完璧な見当合わせ〜
【前半の部:黒の軍団襲来と、メカニック元カノのコンパイル】
カチ、カチ、カチ……ジュッ!
足立区の片隅に佇む『大宇宙印刷』の工場内に、青白い火花と神経質な電子音が響き渡っていた。四色オフセット印刷機の巨大な鉄の塊の横で、グレーの作業着の袖を捲り上げたエリカ(江梨香)が、腰のホルスターから取り出したハンダゴテとオシロスコープを駆使し、CTP出力機の基盤に直接アクセスしていた。
「……リレー回路のB2接点、パルスの同期がコンマ2ミリ秒ズレてる。この時代の不安定な電圧に合わせてコンパイルし直して」
エリカは誰に言うでもなく独り言を呟きながら、神がかった手捌きで現代の印刷機の電子回路を「自分好み(マニアック)」に書き換えていく。
「ひ、ひぃぃ! す、すまんエリカくん! しかしワシは一応この工場の工場長で……時空空母の艦長なんじゃが……!」
ヘルメットに水泳用ゴーグルという謎の完全武装をした工場長(60)が、機械の陰からオドオドと顔を覗かせた。
エリカはオシロスコープから一切目を離さず、冷たく言い放つ。
「工場長。邪魔。そこに立ってると私の磁場が狂う。向こうで大人しくヤレ紙でも揃えてて」
「うぅ……完全無視……。ワシ、社長なのに……」
工場長はスーンと鼻を鳴らし、工場の隅のヤレ紙の山へと消えていった。エリカがメカニッカーとして大宇宙印刷に加入して以来、彼の存在感は空気から「真空」へと近づきつつあった。
その修羅場の少し離れた事務デスクでは、さらに恐ろしい心理戦が繰り広げられていた。
「エリカさん、回路の調整お疲れ様です」
底冷えするようなアルトボイスとともに、完璧なグレーの事務服に身を包んだ「氷の女王」こと経理の若槻さん(39)が歩み寄ってきた。その手には、バインダーではなく、高級なクリスタルグラスと、琥珀色に輝くヴィンテージ・ウィスキーのボトルが握られている。
「経理部として、特注の機械オイルや電子部品の稟議を通す準備はできています。……ところで、このウィスキーで少し喉を潤しませんか? その際、コンプライアンス管理の一環として、高木君の過去の『夜のコンパイル』に関する詳細なヒアリングにご協力いただければと」
若槻さんの銀縁メガネが、怪しくキラリと光った。経費を餌にして、エリカが保有する「元カノとしての特大ゴシップ(体のネタ)」を引き出そうという、経理特権を乱用した悪魔の取引である。
「(わ、若槻さん!? コンプライアンスって言いながら、完全にダーリンの個人情報聞き出そうとしてるじゃない!)」
スチールデスクの隅でホログラム端末に『高木裕太・観察日記』を打ち込んでいたクロエが、ガタッ!と立ち上がった。
「エリカさんも、ウィスキーにつられないで! ダーリンの過去のデータは、私の未来科学で解析するんだから! 人には言えないマニアックな過去を、さばさばとマイナス計上しないでよ!」
「あら、未来のお姫様」
エリカはハンダゴテを置き、若槻さんからグラスを受け取って琥珀色の液体を揺らした。
「心配しなくても、終わった男のデータなんて、私にとってはただの古いキャッシュメモリよ。でも……経理のお姉さん。高木君のあの『つまらない男』ムーブの裏にある、狂気じみたインクへの執着の話なら……このボトルが半分空く頃には、適正手続に則って開示してあげるわ」
「ええ、大歓迎です。高木君の心の帳簿ズレを完全に把握することは、我が社のガバナンス強化に直結しますからね」
若槻さんが優雅に微笑み、二人の大人の女の間で、クロエのポンコツ恋愛CPUが完全にオーバーヒートを起こしていた。
しかし、当の高木裕太(34)は。
「……おい。そこで酒盛りするなら、機械から離れろ。アルコールの揮発成分で、インクのタック(粘度)が狂う」
彼は50倍のルーペを右目に当てたまま、刷り上がったテスト用紙を睨みつけ、女たちの修羅場をコンマ1ミリも気に留めていなかった。彼にとっては、元カノの暴露話よりも、目の前のマゼンタの網点の太りの方がよっぽど重大な事件だった。相変わらずの、ブレない印刷バカである。
(お茶が入りました)
突如、工場の空気を一切読まない巨大なシルエットが現れた。鈴木さんである。彼は無言で、裕太の横に完璧な温度の玉露と、なぜか老舗和菓子屋の最高級『練り切り』を置き、全員に向けて完璧な角度で「親指」を突き出した。
その時だった。
「ピーッ! ピーッ! ピーッ!」
工場の中心にあるCTP出力機が、突如として赤黒い警告光を放ち、けたたましいアラートを鳴らし始めた。
「(ホログラム端末のコンソールを叩く)……警告! タキオン粒子の異常な集束を検知! 次元の壁が強制的に突破されたわ!」
クロエの表情が、未来の科学者のそれに切り替わる。
「ターゲット時空の決定! 1450年代、神聖ローマ帝国・マインツ! ……って、それよりマズい! ダーリン、工場に何かが侵入してくる!」
ズズズズズ……ッ!
工場のシャッターの下から、そして排気口の隙間から、不気味な「真っ白な液体」がドロドロと流れ込んできた。それはインクでも水でもない、触れたものの色や存在を根こそぎ奪い去るような、絶対的な『白』だった。
「デリート(白紙化教団)の黒の軍団……! あいつらの武器は、歴史を無に帰す『修正液』よ!」
クロエの悲鳴と同時に、シャッターが内側へ吹き飛び、全身を真っ黒なタイツのような装甲に包み、巨大な『修正ペン(高圧噴射機)』を構えたデリートの軍団員たちがなだれ込んできた。
「(電子音声)……歴史のバグ。大宇宙印刷。白紙化の対象。……すべての情報を、無へ」
「ひ、ひぃぃ! 敵襲ゥゥ! 第一種戦闘配置ィィ!」
工場長がヤレ紙の山にダイブして震える中、黒の軍団が一斉に修正ペンのノズルを四色機へ向けた。
「させねえよ」
裕太がスパナを握りしめ、四色機の前に立ちはだかった瞬間。
(無言で親指を立てる鈴木さん)
ズドォォォォン!!
先頭の黒の軍団員の体が、美しい弧を描いて宙を舞い、工場のコンクリートの床に激突した。鈴木さんの、物理法則を無視した完璧な『ジャーマンスープレックス』である。鈴木さんは巨体を揺らし、次々と襲い来る黒の軍団員を無言で物理的に粉砕していく。
「高木君! 機械を守りなさい!」
若槻さんがバインダーを放り投げ、事務デスクから護身用の高電圧スタンガンを引き抜いた。
「(メガネを光らせる)……コンプライアンス的に言えば、工場の固定資産(四色機)に対する物理的損害および白紙化は、減価償却の観点からも絶対に認められません! コンプライアンス違反の黒の軍団、法務局(という名の若槻さんの怒り)へ提訴しますよ!」
バチバチバチッ! 若槻さんのスタンガンが、黒の軍団員の装甲を的確に貫き、電子回路をショートさせる。
「クロエ! さっさと次元ドライブを起動しろ! ここから跳ぶぞ!」
裕太が均圧ローラーを振り回し、修正液の弾道を見当合わせの要領で弾き飛ばしながら叫ぶ。
「無茶言わないで! この状態でタキオン粒子を安定させるなんて……ソフトが追いつかないわ!」
クロエがコンソールを必死に叩くが、エラーメッセージが画面を埋め尽くす。
「どきなさい、未来のポンコツさん」
エリカが電動ドライバーと太いバイパスケーブルを掴み、CTP出力機の裏側に潜り込んだ。
「ソフトがダメなら、ハードを強制的に直結する! 私が物理回路をオーバークロックさせて、タキオンエンジンの出力を120%に引き上げるわ! あんたは座標の固定(ピント合わせ)だけしなさい!」
「エリカさん……! 了解、座標軸固定! 1450年代、マインツ! ダーリン、若槻さん、鈴木さん! 掴まって!」
ガァァァァァン!!
エリカの神がかったハードウェアサポートと、クロエの未来科学の演算が交差した瞬間、大宇宙印刷の四色機のシリンダーが轟音を立てて逆回転を始めた。
迫り来る修正液の大津波が、裕太たちの足元に到達するコンマ1秒前。
極彩色のタキオン粒子が工場全体を包み込み、大宇宙印刷は時空の彼方へと弾け飛んだ。
バチィィィィン!!
激しいG(重力)の揺れが収まり、裕太がゆっくりと目を開けると。
むせ返るような機械油とオゾンの匂いは消え去り、代わりに、深く乾いた「木」の香りと、金属が擦れる匂い、そして微かな油性インクの匂いが漂っていた。
「……到着よ。1450年代、神聖ローマ帝国、マインツの街……」
クロエが乱れた金髪を払いながら、ホログラム端末を確認する。
工場のシャッターの向こう側に広がっていたのは、見慣れた足立区の景色ではなく、石造りの薄暗い工房だった。
そこには、大宇宙印刷の四色機とは比べ物にならないほど原始的だが、どこか神聖な雰囲気を放つ「重厚な木のプレス機(葡萄絞り機を改造したもの)」が鎮座していた。周囲の作業台には、鉛とアンチモンを溶かすための鋳造鍋、そして、数え切れないほどの小さな金属のブロック――『活字』が、ケースの中に整然と並べられている。
「……なるほどな。活版印刷の黎明期ってわけか」
裕太の職人としての血が、静かに沸き立った。現代のオフセット印刷の、遥かなる祖先。すべての「大量複製」の歴史が始まった、絶対的な原点である。
その時、工房の奥から、頭を抱えて震えている一人のひげ面の男が現れた。
「Oh, my God……! 私の、私の工房に巨大な鉄のバケモノ(四色機)が……! 何なんだ君たちは! 未来から来た悪魔か!? それとも特許を盗みに来たフストの手先か!?」
男は、木のプレス機を庇うようにして叫んだ。
彼こそが、人類の歴史を根底から変えることになる男、ヨハネス・グーテンベルクであった。
「騒ぐな、オッサン」
裕太はスパナをポケットにねじ込み、グーテンベルクの前に歩み出た。
しかし、裕太よりも先に反応したのは、エリカだった。
「(グーテンベルクの工房のハードウェア(プレス機)のメカニックに目を輝かせる)……なるほど、これが活版印刷の黎明期ね! 回路図はないけど、物理的な圧力と、活字の配列の理屈は、私の電子回路とまったく同じじゃない!」
エリカは完全にメカニックオタクの顔になり、グーテンベルクの静止も聞かずに木のプレス機の構造を隅々まで調べ始めた。
「ちょ、ちょっと君! 私の極秘の発明品に触るな! その『活字』の配列の精度を出すのに、どれだけの歳月と借金を重ねたか……!」
グーテンベルクのジレンマと悲痛な叫びが響く。
「借金、ですか」
若槻さんがメガネを中指で押し上げ、バインダーを開いた。
「グーテンベルクさん。あなたの資金繰りの悪化と、スポンサーであるヨハン・フスト氏との訴訟問題については、未来の歴史書(帳簿)にしっかりと記録されていますよ。経理としては、これほどハイリスク・ローリターンのベンチャー企業、投資対象外ですがね」
「な、なぜ私の懐事情まで知っているんだ……!?」
「ダーリン! 油断しないで!」
クロエが空中にホログラムの警告ウィンドウを大量に展開した。
「デリートの奴ら、私たちの時空跳躍の軌跡を追って、すでにこの時代に潜伏しているわ! 奴らの目的は、グーテンベルクが印刷しようとしている『世界初の活版印刷聖書(四十二行聖書)』の情報を、歴史が定着する前に、完璧な白紙(修正液)で塗りつぶすことよ!」
裕太は、ケースに並べられた美しい金属活字を一つ手に取った。
そこには、職人の執念とも言える、狂いのない見事な文字の凹凸が刻まれていた。
「……情報を白紙化する、だと?」
裕太の目が、静かな、しかし強烈な怒りに燃え上がった。
「このオッサンが人生賭けて削り出した『情報の凹凸』を、ただの白い液で無かったことにするなんて……印刷職人として、絶対に許さねえ」
歴史の特異点、15世紀マインツ。
人類初の情報革命を守るため、足立区の印刷バカとメカニック元カノによる、時空を超えた「完璧な見当合わせ」の戦いが、今まさに幕を開けようとしていた。
* * *
【後半の部:完璧な見当合わせ〜15世紀の活版印刷〜】
活字合金とインクの粘度〜職人たちの理論武装〜
石造りの冷たい工房内に、金細工職人特有の鋭いヤスリの音と、むせ返るような鉛の匂いが充満している。
「世界初の活版印刷」を完成させようとするヨハネス・グーテンベルクは、未来から現れた大宇宙印刷の面々に対し、極度の警戒と職人としてのプライドを剥き出しにしていた。
「未来の悪魔どもめ! 私が10年の歳月と莫大な借金をつぎ込んだこの『活字合金』の秘密、絶対に渡さんぞ! 鉛だけでは柔らかすぎ、錫だけでは高価すぎる。私が到達したこの究極の配合比率は、神のみぞ知る領域なのだ!」
グーテンベルクが鋳造鍋を背中で庇うように叫ぶ。
しかし、その程度のハッタリで怯む足立区の印刷バカとメカニック女ではなかった。
「……鉛75%、アンチモン20%、錫5%。それに微量のビスマスか」
裕太は50倍のルーペを右目に当てたまま、作業台に転がっていた『A』の活字を拾い上げ、一瞥しただけでその成分を看破した。
「なっ……!? なぜ見ただけで私の絶対秘伝の配合が分かる!?」
「常識だ。冷却時に収縮する鉛の欠点を、凝固時に膨張するアンチモンで相殺し、錫で流動性を高める。鋳型の隅々まで合金を行き渡らせるための、完璧な物理計算だ。……だがな、オッサン」
裕太は活字の表面を指でなぞり、不満げに舌打ちをした。
「活字の『角』は立ってるが、情報の『乗り』が甘い。この時代の油性インクは、煤と亜麻仁油の煮詰め方が足りねえ。インクのタック(粘度)が低すぎて、プレスした時に紙の繊維に滲んでるぞ」
「(オシロスコープの波形を見ながら)……確かに。裕太の言う通りね」
エリカが電動ドライバーをクルリと回し、マニアックな笑みを浮かべた。
「グーテンベルク、あんたの活字の配列は、まるで初期のバイナリコードのように美しいわ。でも、出力側の帯域幅が狭すぎる。アンチモンの膨張率で完璧な論理ゲート(活字)を作っても、電流が漏電(滲み)してたら、情報は正確にコンパイルされないわよ」
「ろ、ろんりげーと? こんぱいる……? 何を言っている、この女は!」
未知の電子工学用語で論破され、グーテンベルクは頭を抱えた。
「高木君、エリカさんの指摘は尤もです」
若槻さんがバインダーを開き、冷徹な計算式を空中に書き出すような仕草をした。
「コンプライアンス的に言えば、この滲みによる『読めない聖書』の大量生産は、重大な不良品を生み出します。スポンサーであるフスト氏への投資対効果(ROI)を考慮すれば、直ちにインクの粘度調整プロセスに経費を割くべきです。……高木君、あなたの技術でこの不良債権を修正しなさい」
「言われるまでもねえ」
裕太は大宇宙の工具箱から、現代のインクコンディショナーを取り出した。
* *
天才天文家と予言者の乱入〜宇宙の運行と印刷の理〜
「――ほう。未来の職人たちは、実に興味深い『宇宙の真理』を語る」
工房の重い木の扉が開き、二人の男が姿を現した。
一人は、精緻なアストロラーベ(天体観測儀)を片手に持った鋭い眼光の若き学者。15世紀最高の数学者にして天文学者、レギオモンタヌス(ヨハンネス・ミュラー)。
もう一人は、深いローブを羽織り、全てを見透かすような穏やかな微笑みを浮かべる哲学者にして枢機卿、ニコラウス・クザーヌス(予言者的存在)であった。
彼らはグーテンベルクの知己であり、この「情報を複製する機械」に、宇宙の真理を見出そうと頻繁に工房を訪れていたのだ。
「レギオモンタヌス! クザーヌス卿! 助けてくれ、この未来の悪魔たちが私のインクを……!」
「落ち着きたまえ、ヨハネス。彼らの言う『インクのタック(粘度)』とやら……それは天体における引力の概念に近い」
レギオモンタヌスは、裕太が調整しているインク壺を覗き込み、数学的な美しさに感嘆の声を上げた。
「粘り気と流動性。相反する二つの力が均衡を保つことで、初めて紙という平面宇宙に、文字という星々が正確な軌道を描いて定着する。見事な幾何学だ!」
「(ジェラシーで震えながら)……ちょっと! 天文学なら私の未来科学(量子力学)の方が上なんだから!」
クロエがホログラムで太陽系の立体軌道モデルを展開して対抗しようとするが、レギオモンタヌスはそれを一瞥し、
「ほう、ケプラーの法則を先取りした楕円軌道か。だが、計算が粗い。火星の離心率の計算にコンマ数秒の誤差があるぞ」と、15世紀の頭脳による手計算であっさりとクロエの未来AIの誤差を指摘し、彼女のポンコツ科学者としての立場を完全に崩壊させた。
「まさに『対立物の合致(coincidentia oppositorum)』ですね」
クザーヌス卿が、深く頷きながら語り出す。
「冷たい金属の活字と、柔らかい紙。硬と軟。乾と湿。相反する対立物が、この『印刷機』という一つの巨大な神の器の中で合致し、無限の真理(情報)を生み出す。……高木殿と言ったか。あなたの行っていることは、神の天地創造の模倣に他ならない」
「神だの宇宙だの、スケールがデカすぎて知らねえな」
裕太はインク練り台の上でヘラを軽快に動かしながら、クザーヌスを一蹴した。
「俺は足立区のしがない四色機のオペレーターだ。天地創造なんて大層なもんはできねえ。だが、岡崎社長は言っていた」
裕太の手が止まり、工房の空気が張り詰める。
「『機械は理屈(宇宙)を語るが、インクは現場(現実)を語る。機械のジレンマを解消するのは、職人の魂の見当合わせだ』とな。……あんたらの言う天体の軌道がどれだけ美しかろうが、この紙の上の『A』の文字がコンマ1ミリずれたら、それはただの不良品だ。俺は神の真理じゃなく、目の前の『情報の定着』にピントを合わせてるだけだ」
「……!」
クザーヌス卿とレギオモンタヌスの二人の天才は、裕太のその「極限までミクロにピントを合わせた(つまらない)」職人哲学の前に、圧倒的な知的敗北と、雷に打たれたような感銘を受けた。
「(メカニック女子としての感嘆)……やるじゃない、裕太。マクロな宇宙の真理(天文学)を、ミクロな物理レイヤー(印刷)のロジックで完全にコンパイルし直したわね」
エリカが面白そうにハンダゴテを回す。
「高木君。異世界の枢機卿を論破するのは構いませんが、宗教裁判にかけられた場合の弁護士費用は経費で落ちませんので、その点だけはご留意を」
若槻さんがメガネを光らせながら、完璧な理論武装のロジックバトルを静観していた。
工場長は、工房の隅で活字のケースのホコリを拭いていたが、当然誰の視界にも入っていなかった。
* *
白紙化の強襲と、究極の「見当合わせ」
その熱血大論争が頂点に達した瞬間。
工房の壁を透過して、無数の「黒の軍団」が音もなく侵入してきた。
彼らの目的はただ一つ。グーテンベルクがまさに今、刷り上げようとしていた「四十二行聖書」の最初の1ページを、歴史の定着前に「修正液」で白紙化すること。
「(電子音声)……情報の拡散。歴史のバグ。……デリート」
黒の軍団が一斉に修正ペン(高圧噴射機)を構え、プレス機の盤面にセットされた無数の活字に向けて、絶対的な「白」の暴流を放った。
「危ないッ! 私の活字が!」グーテンベルクが絶叫する。
「させねえよ!!」
裕太が均圧ローラーを構えて飛び出そうとした、その時。
「(無言で親指を立てる鈴木さん)」
巨大なシルエットが、修正液の奔流の前に立ち塞がった。無言の時空監視員・鈴木さんである。
彼は四次元の前掛けを翻し、物理法則を完全に無視した驚異的な肺活量で息を吸い込むと、修正液の粒子を強烈な「風」で吹き飛ばし、そのまま黒の軍団の先鋒を美しいジャーマンスープレックスで石畳に沈めた。
「鈴木さん! ナイスな物理防御よ!」
エリカが木のプレス機の上に飛び乗った。
「裕太! 黒の軍団の修正液は、情報を『シアン100%の白紙化コード』で上書きする気よ! 私がプレス機のてこ(メカニズム)を電子的にオーバークロックさせて、プレス速度を3倍にする! あんたは、修正液が活字に触れるコンマ01秒前に、完璧なインクの皮膜を被せて、情報を防御しなさい!」
「無茶苦茶言いやがる……! だが、面白え!」
裕太の目に、印刷バカとしての最高潮の光が宿った。
「レギオモンタヌス! クザーヌス卿!」
裕太が叫ぶ。
「あんたらの頭脳(計算力)を貸せ! 黒の軍団の修正液の弾道予測と、プレス機が紙に接地する瞬間の、完璧な幾何学的タイミング(見当)を割り出せ!」
「任せたまえ! この程度の軌道計算、火星の逆行に比べれば児戯に等しい!」
レギオモンタヌスがアストロラーベを回転させ、空中にチョークで凄まじい速度で数式を書き殴る。
「修正液の到達まで残り1.42秒! プレス機の降下角度、45度! 今だ、東洋の職人よ!」
「クロエ! タキオン粒子で紙の湿度(波打ち)を固定しろ!」
「わ、わかったわダーリン! 量子固定、出力最大!」
「高木君! 失敗による紙の損耗は、あなたの給与から天引きしますからね!」
若槻さんの冷徹なエール(脅し)が飛ぶ。
「行くぞ……! これが、大宇宙印刷の……『見当合わせ』だッ!!」
裕太は、エリカのオーバークロックによって高速駆動する木のプレス機に合わせ、自らが調合した完璧なタック値を持つ漆黒のインクを、ローラーで活字の表面に一瞬で乗せた。
直後、デリートの修正液が活字を覆い尽くそうとした瞬間。
グーテンベルクの引いたプレス機のレバーが作動し、インクを乗せた活字が、紙へと激突した。
バァァァァンッッ!!!
修正液の「白」と、裕太のインクの「黒」。
相反する二つの力が紙の上で激突し、クザーヌス卿の言う「対立物の合致」が物理的に引き起こされた。
裕太の調整したインクの表面張力が、デリートの修正液を完全に弾き返し、活字の凹凸が持つ情報を見事に紙の繊維の奥深くまで定着させたのである。
プレス機が上がり、そこに残されたのは。
白紙化の危機を免れ、息を呑むほどに美しい漆黒の文字が整然と並んだ、歴史的な「聖書の第一ページ」であった。しかも、裕太の現代技術が加わったことで、初期活版印刷特有の滲みが一切ない、まるで未来のオフセット印刷のような完璧な仕上がりだった。
「おおおおおっ……!!」
グーテンベルク、レギオモンタヌス、クザーヌス卿の三人の天才が、その完璧な「情報の複製」の美しさに感涙し、膝から崩れ落ちた。
「(電子音声)……エラー。情報の定着を確認。白紙化、失敗。撤退……」
見当合わせの完璧さにシステムエラーを起こした黒の軍団は、次々と空間の裂け目へと消え去っていった。
* *
マントを翻し、次の特異点へ
「完璧なコンパイル(見当合わせ)だったわ、裕太」
エリカが電動ドライバーを腰に収め、満足げに笑った。
「ああ。活字の角が、ちゃんと生きている」
裕太はルーペで刷り上がった紙面を確認し、フッと口角を上げた。
(お茶が入りました)
全てが終息した工房のテーブルに、鈴木さんが無言で最高級のケータリングを用意した。
15世紀のドイツには絶対に存在しないはずの、アメリカン・メリーランド州直伝の『特製クラブケーキ』と、なぜか完璧に仕込まれた『大根とちくわぶのおでん(特製マスタード添え)』である。
「す、鈴木さん……この時代にクラブケーキとおでんの組み合わせって、もはや時空の概念が崩壊してますよ」
クロエが突っ込むが、三人の天才たちは「東洋の神秘の味だ!」と涙を流しながらおでんを頬張っていた。
「さて、と」
裕太は大宇宙印刷のロゴが入った作業用ブルゾン(マントのように見える)をバサリと羽織った。
「高木君。経理としては、これ以上のこの時代への滞在は、時空空母のアイドリング費用(タキオン粒子の無駄遣い)に繋がります。迅速な撤収を推奨します」
若槻さんがバインダーを閉じ、銀縁メガネをクイッと押し上げた。
「分かってる。エリカ、クロエ。次元ドライブのセッティングを頼む」
「ええ、任せて。ダーリンの次のピント合わせ、私が完璧にサポートするんだから!」
「ふふっ。私のメカニックサポートがなきゃ、タキオンエンジンが火を噴くわよ、未来のお姫様」
二人の天才女子の火花散る連携により、大宇宙号のCTPが青白い光を放ち始める。
「東洋の職人たちよ! あなた方の『見当合わせ』の哲学、このグーテンベルク、生涯忘れない!」
「宇宙の真理(天文学)すら凌駕する、君たちのインクの重み……見事であった!」
15世紀の偉人たちの熱い賛辞を背に受けながら。
「騒ぐな。俺たちはただの、足立区の印刷屋だ」
裕太は背を向けたまま、右手を軽く上げて応えた。
その横で、鈴木さんが無言で、完璧なサムズアップを突き出した。
黒の軍団のファーストアタックを完璧な理論武装と職人技で打ち破った大宇宙印刷の面々は、時空空母のマント(シャッター)を降ろし、また次なる歴史の特異点へと、光の渦の中へ消えていくのだった。
(工場長は、最後までおでんの大根をさえ貰えずに泣いていた)




