第9話:つまらない男の烙印
【前編:電磁の元カノ】
1.足立区のバグと、経理の冷たい怒り
ダァン、ダァン、ダァン……!
足立区の片隅に佇む『大宇宙印刷』の工場内に、今日も菊全判四色機の重低音が響き渡っている。
インクの匂い、紙の粉塵、そして微かに混じる機械油の香り。一見すると、いつもの平和な町工場の風景だった。
しかし、工場のシャッターの隙間から見える外の景色は、明らかに「狂って」いた。
空はなぜか薄いマゼンタ色に染まり、電柱の影は太陽の位置とは逆の方向に伸びている。時折、空を飛ぶハトがバグったポリゴンのようにカクカクと不自然な軌道を描いていた。
「……観察日記。ダーリンは今日も絶望的につまらない。空がマゼンタ色になっても、時空の歪みが直っていなくても、彼が見ているのは四色機の見当だけ。でも……その油まみれの横顔が、今日も最高に愛おしい……っと」
クロエ・マクスウェルは、工場のスチールデスクの隅で、ホログラム端末に「高木裕太・観察日記」を嬉々として打ち込んでいた。季節外れのトレンチコートの袖は黒いインクで汚れ、金髪は無造作に束ねられているが、その表情は恋する乙女そのものだ。
「ダーリン! 見て見て! 外の電柱がねじれてるわ! 江戸時代で歴史のバグを修正したはずなのに、まだ元の世界に戻りきってないみたい!」
クロエが背後から抱きつこうとダイブするが、裕太はコンマ1秒の無駄もない動きでステップを踏み、クロエは見事にヤレ紙(損紙)の山へと突っ込んだ。
「……触るな。手に油がついてる」
高木裕太(34)は、50倍のルーペを右目に当てたまま、刷り上がったばかりのテスト用紙を睨みつけていた。
「空が何色だろうが知ったことか。それより問題なのは、この湿し水のpH値だ。時空跳躍の連続で、工場の水道管の数値まで狂ってやがる。これじゃあ、インクのトラッピング(重なり)が甘くなる」
相変わらずの、ブレない「印刷バカ」である。世界が滅びようとも、彼にとってはインクの乗りと見当合わせがすべてだった。
「ちょっと、高木君。湿し水の心配をしている場合ですか」
その時、底冷えするようなアルトボイスが工場内に響き渡った。
銀縁メガネを光らせ、完璧なグレーの事務服に身を包んだ「氷の女王」こと経理担当の若槻さん(39)が、分厚いバインダーを抱えて立っていた。
「若槻さん……なんか、いつもよりオーラが冷たいんですが」
「冷たくもなりますよ。工場長! どこに隠れているんですか、出てきなさい!」
若槻さんがバインダーでスチールデスクを思い切り叩くと、インク壺の陰から、ヘルメットに水泳用ゴーグルという謎の完全武装をした工場長(60)が震えながら這い出してきた。
「ひぃぃ! ち、違うんだ若槻くん! 江戸時代で蔦屋重三郎にキャバクラのポスターを売った時は、確かに大儲けしたんだ! 千両箱を山ほどもらったんだよ!」
「ええ。ですが、時空のバグを修正して現代に戻る過程で、その千両箱はすべて『ただの石ころ』に変換されました。歴史の自浄作用とやらですね。結果として、ポスターの用紙代、インク代、そして江戸時代での鈴木さんの謎の高級ケータリング代……すべてが我が社の『大赤字』として計上されています!」
若槻さんのペンが、ギリギリと音を立てて領収書の束を突き刺した。
「時空空母だか何だか知りませんが、次の跳躍で利益を出せなければ、この工場は倒産です。労基に駆け込む前に、ハローワークの準備をしてください」
「そ、そんな殺生な! 第一種戦闘配置ィィ! 誰か、儲かる時代を探してくれぇぇ!」
工場長の悲痛な叫びは、当然のごとく全員に完全スルーされた。
「……ダーリン。若槻さんが本気でキレてるわ。早く次の歴史の特異点を見つけないと、私たちがリストラされちゃう」
クロエが慌ててホログラム端末のコンソールを叩き始めた。
大宇宙印刷の中枢であるCTP出力機が、けたたましい警告音を鳴らし始める。
「検知したわ! タキオン粒子の異常な乱れ! 次のターゲット時空が確定した!」
空中に投影された青白いホログラムには、複雑な座標軸と、一つの年号が浮かび上がっていた。
「1844年……アメリカ合衆国、ワシントンD.C.!」
「1844年? なんだ、その時代は」
裕太がウエスで手を拭きながら振り返る。
「人類のコミュニケーションの歴史が、根底から覆された年よ。サミュエル・モールスが、世界初の『電信』に成功した歴史的な瞬間……!」
クロエの表情が、未来の天才科学者のそれに切り替わった。
「でも、デリート(白紙化教団)の奴らが、そこにバグを仕掛けたの。歴史上の最初のメッセージが、白紙化されようとしているわ!」
2.むせ返る電気の匂いと、時空跳躍
「目標座標、1844年、米国議会議事堂地下! 次元ドライブ、起動するわよ!」
クロエの号令とともに、工場内の四色機のシリンダーが轟音を立てて逆回転を始めた。
「第一種戦闘配置ッ!! 今度こそ儲かるスポンサーを見つけるぞォォ!」
工場長が誰の視界にも入らない艦長席(パイプ椅子)で叫ぶ中、工場の床が激しく震動し、極彩色のタキオン粒子が空間を包み込む。
「鈴木さん! 紙に風を入れろ! 次元跳躍のG(重力)で、紙束が波打つぞ!」
裕太の鋭い指示に、巨漢のアルバイト・鈴木さんが無言で応えた。
彼は凄まじい腕力と神がかった繊細さで、ヤレ紙の束を一気に持ち上げ、その間に美しい空気の層を作り出していく。どんな次元の歪みにも耐えうる、完璧な「紙揃え」。そして、鈴木さんは裕太に向かって無言で「親指」を突き出した。
バチィィィィン!!
まばゆい閃光が収まると、工場のシャッターの向こう側に広がっていたのは、薄暗く、埃っぽい石造りの地下空間だった。
空調の効いた現代の空気とは全く違う。
鼻をつくのは、強烈なオゾン(放電)の匂い。銅線が焦げるような金属的な悪臭。むせ返るような「電気」の匂いが、空間全体に充満していた。
「……到着よ。1844年5月24日。ワシントンD.C.、連邦議会議事堂の地下室」
クロエが端末を確認しながら告げた。
「電気の匂い……。産業革命期のロンドンで嗅いだ石炭の匂いとも違う、独特の刺激臭ですね」
若槻さんがハンカチで鼻を押さえながら、周囲を冷ややかに観察した。
「クロエ。今回のバグの標的はなんだ」
裕太はスパナを握り直し、シャッターの外の薄暗い通路を睨んだ。
「サミュエル・モールスの『印刷電信機』よ」
クロエが空中に当時の無骨な機械の図面を投影する。
「モールス信号って、最初は音で聴き取るんじゃなくて、受信機にセットされた紙のテープに、電磁石の力でペンを押し当てて、ドット(点)とダッシュ(線)を『印刷』する仕組みだったの」
「ほう。音じゃなく、紙にインク(凹凸)を乗せるのか。立派な印刷機械じゃねえか」
裕太の職人としての目に、微かな光が宿った。
「今日、この場所からボルティモアに向けて、歴史的な最初のメッセージ『What hath God wrought(神が造りたまいしもの)』が送信・印字されるはずなの。でも、デリートの仕掛けたバグのせいで、モールスの電信機の色バランスが強制的に『シアン(青)100%のベタ塗り』に固定されてしまっているわ!」
「シアン100%のベタだと?」
裕太の顔が険しくなった。
「紙のテープ全体が真っ青に塗りつぶされちまったら、点も線も読み取れねえ。情報が完全に潰れる。……ドットゲイン(網点の太り)なんてもんじゃねえ、ただの放送事故だ」
「その通りよダーリン! このままじゃ最初の電信実験は『大失敗』として記録され、人類の通信技術の発展が数十年遅れてしまう! 歴史が真っ青に染まる前に、ダーリンの『見当合わせ』でバグを上書き修正して!」
「行くぞ。電信機のインク調整なんてやったことはねえが、紙に情報を定着させる原理は同じだ。俺の四色機の力を見せてやる」
3.ショッキングな再会
ワシントンD.C.の議事堂地下。
迷路のようなレンガ造りの通路を抜け、裕太、クロエ、若槻さんの三人は、バグの発生源である電信局の回路室へと潜入した。(工場長と鈴木さんは、いつも通り工場で待機である)。
部屋の中は異常な熱気を帯びていた。
部屋の中央には、複雑な銅線が張り巡らされた巨大な初期の電磁石と、歯車で駆動する紙テープの巻き取り機が鎮座している。
しかし、その機械からは、不気味なほど鮮やかな「シアン(青)の光」が漏れ出し、周囲の空間の色彩までをも青白くバグらせていた。
「ここが歴史の特異点ね! モールスの電信機がシアンのバグに侵されているわ! 歴史が真っ青に染まる前に、ダーリンの見当合わせで……!」
クロエが叫んだ、その時だった。
カチカチカチカチ……ジュッ!
暗闇の奥から、リズミカルな電子音と、ハンダ付けの火花が青白く弾けた。
その場に似つかわしくない、あまりにも洗練された、冷徹な女の声が響く。
「――遅い。タキオン粒子の周波数調整がコンマ3秒遅れてるわよ、未来の科学者さん」
光の中からゆっくりと姿を現したのは、一人の女性だった。
無駄のないグレーの作業着をサバサバと着こなし、その細い腰には、時代錯誤も甚だしい現代の小型オシロスコープや、精密な電子工具の数々が機能的にぶら下げられている。
ショートボブの黒髪から覗く瞳は、複雑な回路図よりも冷たく、そして恐ろしいほどに美しかった。
その顔を見た瞬間、裕太の足がピタリと止まった。
常に機械以外に興味を示さない裕太の表情に、明らかな動揺が走る。
「……エリカ。お前、何してる」
裕太の低い声が、静かな地下室に響いた。
エリカ(江梨香)と呼ばれたその女性は、手に持ったハンダゴテをクルリと回し、艶やかな唇の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「あら、裕太。久しぶり。相変わらず、オイルとインクの匂いしかしない男ね」
その言葉に、真っ先に反応したのはクロエだった。
「(ダ、ダーリンを呼び捨て!? しかも、その距離感……! なにあの女、強敵の匂いがプンプンするんですけど!!)」
クロエの胸の中のCPUが、激しいジェラシーの警告音を鳴らし始める。
一方、背後に立つ若槻さんは、銀縁メガネの奥の目をキラリと光らせた。
「(ほう……。コンプライアンス的に言えば、業務中に元交際相手との不測の接触を果たすことは、公私混同および守秘義務違反のリスクが跳ね上がりますね。……いいぞ、もっとやれ。高木君の過去の弱み(データ)、たっぷり収集させてもらいましょう)」
経理の冷徹な仮面の下で、若槻さんはゴシップとスキャンダルの匂いに歓喜していた。
裕太はルーペを握る手に力を込め、エリカを鋭く睨みつけた。
「エリカ。お前、デリートの奴らの手先になったのか」
エリカは鼻で笑い、電信機の巨大なコイルに寄りかかった。
「手先? 馬鹿ね。私はただ、この時代の『回路』に惹かれただけ。デリートの奴らが言うのよ、『最高の電子回路を、好きなだけ弄らせてやる』って。……断る理由、ある?」
彼女は電子系の天才エンジニアだった。裕太が「機械と化学」の極致にいるなら、彼女は「電気と情報」の極致にいる存在。かつて、その相反するベクトルが奇跡的に交わり、二人は惹かれ合った。そして――決定的にすれ違い、終わった。
「終わったこと(プライベート)はどうでもいいけど」
エリカはオシロスコープのプローブを、モールス電信機のメイン基板(バグの発生源)にカチャリと接続した。
「電子の真理は、嘘をつかないから」
エリカの瞳に、オシロスコープの緑色の波形が反射する。
彼女の指先が、流れるような美しさで電子回路のバイパスを組み替えていく。すると、機械から漏れ出していたシアンの光が、さらに凶悪な濃度(100%ベタ)へと増幅されていった。
「さあ、裕太。私はこの歴史の最初のメッセージを、完璧なシアン(青)100%にコンパイルする」
エリカは挑戦的な視線を裕太に突き刺した。
「……あんたの『見当』は、私の『周波数(周波数)』に勝てるかしら?」
* * *
【後編:つまらない男の究極の優しさ】
4.多色刷り対決・電磁波篇〜芸術家と職人の交差点〜
「――あんたの『見当』は、私の『周波数(周波数)』に勝てるかしら?」
エリカ(江梨香)の挑発的な声が、バチバチと青白い火花を散らす地下室に響き渡る。
モールスの印刷電信機は、彼女の繋いだバイパス回路によって完全に制御を奪われ、異常な高電圧を帯びていた。巻き取り機から吐き出される紙テープは、文字通り「シアン(青)100%のベタ塗り」となっており、ドット(点)もダッシュ(線)も、情報としての意味を完全に喪失していた。
その狂気の電子空間の隅で、ガタガタと震えている中年の紳士がいた。
彼こそが、この時代の主役であり、のちに世界を繋ぐ通信網の父となるサミュエル・モールス(53歳)である。
「Oh, my God……! 私の、私の電信機が……! 何なんだ君たちは! 未来から来た悪魔か!? それとも特許泥棒か!?」
モールスは頭を抱え、涙目で叫んだ。彼は元々、肖像画家という芸術家であった。妻の死に目に間に合わなかった悲劇から、「情報を瞬時に伝える手段」を渇望し、この無骨な機械を作り上げたのだ。
「騒ぐな、ヒゲのオッサン」
裕太はスパナをポケットにねじ込み、モールスの横にしゃがみ込んだ。
「お前、元は絵描きなんだろ? だったら分かるはずだ。紙の上にインクを乗せて『情報を伝える』ってことの重みがな。……安心しろ。俺は足立区の印刷職人だ。お前の機械は、俺が完璧な見当で直してやる」
裕太のブレない、そして職人としての静かな熱を帯びた眼差しに、モールスは一瞬にして圧倒された。
「い、印刷職人……? しかし、あれは電気の力で動く電磁石の……」
「紙に情報を定着させる。原理は同じだ」
裕太は立ち上がり、エリカに向き直った。
「エリカ。相変わらず、無駄のない美しいハンダ付けだ。だが、お前は回路のコンパイルに夢中になるあまり、最終的なアウトプット――『紙への定着』を無視している」
「あら、言うじゃない」
エリカは腰のホルスターから電動ドライバーを抜き放ち、クルリと回した。
「でもね、裕太。本当は私だって、もっとロマンチックな時代で、ステキな騎士とモールス信号で『I LOVE YOU』なんて恋のやり取りをしたかったのよ。……なのに、どうして私はいつも、こんな暗い地下で、油とオゾンにまみれてハンダゴテと向き合ってるのかしら」
エリカはふう、とため息をつき、オシロスコープの波形を愛おしそうになぞった。
「……ジレンマだわ。……でも、この回路の美しさ、たまらない! デリートの奴らが用意したこの超伝導リレー、最高にマニアックで痺れるのよ!」
「(……この女、ダーリンと同じ『重度のマニア』だわ……!)」
クロエが背後でドン引きしながら呟いた。
「(ええ。対象は違えど、本質的なベクトルは高木君と完全に一致しています。……厄介な女ですね)」
若槻さんがメガネのブリッジを押し上げ、冷たく分析する。
裕太は、エリカの「ジレンマ」の吐露を一切意に介さず、大宇宙印刷から持ち込んだ携帯用の均圧ローラーを取り出し、インク壺のセッティングを始めた。
「岡崎社長は言っていた」
裕太の口から、彼が神と崇める大宇宙印刷初代社長(本編未登場)の絶対的語録が飛び出す。
「『機械のジレンマを解消するのは、職人の魂の見当合わせだ』とな。……お前の回路がロマンチックだろうがジレンマだろうが知ったことか。俺は今、この時代には存在しないシアンインクのタック(粘度)と、湿し水のpH値をコンマ1単位で調整している。……それがすべてだ」
「……相変わらずね。なら、そのコンマ1の調整ごと、私の電磁パルスで上書きしてあげる!」
エリカがメインコンソールに最大電圧を流し込んだ瞬間。
裕太はモールスの電信機に飛び乗り、物理的なローラーと特製のインクコンディショナーを強引に機構へねじ込んだ。
「クロエ! 座標軸固定! 若槻さん、インクキーの数値を読み上げろ!」
「えっ、わ、私!? ……シアン40、マゼンタ80、イエロー100、ブラック20! 経費の無駄遣いは許しませんよ!」
「上等だ! モールス! お前の伝えたかった『最初の言葉』を打ち込め!!」
裕太の叫びに呼応し、モールスが震える手で電鍵を叩く。
ト・ト・ツー・ト……!
電気の周波数と、印刷の物理的な圧力が、激しく衝突し、そして――奇跡的に交差した。
エリカの流し込むシアン100%の暴走エネルギーを、裕太の完璧な「インクのトラッピング(重ね刷り)」技術が相殺し、新たな色彩へと変換していく。
「嘘……私の周波数が、物理的なインクの粘度で……見当合わせ(コンパイル)されていく……!?」
エリカが驚愕に目を見開く。
機械が轟音を立て、猛烈な勢いで吐き出された紙テープは、電信局の壁一面に打ち付けられた。
そこに印字されたのは、ただの青い点と線ではなかった。
エリカの電子バグと、裕太の多色刷り技術が融合し、モールスの打った『What hath God wrought(神が造りたまいしもの)』という文字が、極彩色に輝く「江戸の錦絵」のような恐ろしいほど美しいグラデーションとなって、壁一面に刷り上がったのだ。
「おおおおおおっ……!!」
モールスが、壁に描かれた美しい情報の結晶を見て、涙を流して膝から崩れ落ちた。
「神よ……! いや、東洋の印刷職人よ! これぞ、私が求めていた『究極の伝達手段』だ! 音だけでなく、美しさまでをも瞬時に伝える……! 君のその技術、私の特許に共同名義で……!」
「断る。俺は足立区の四色機専属オペレーターだ。……だが、あんたの『情報を伝えたい』って執念は、悪くなかったぜ」
裕太はウエスで顔の汗を拭い、モールスに向けて無骨な笑みを向けた。二人の間に、芸術と技術、電気と印刷を超えた、熱い男の友情が交わされた瞬間だった。
「……私の負けね」
エリカはオシロスコープの電源を切り、ふっと息を吐いた。
「まさか、電子の真理が、インクの粘度に負けるなんて。……相変わらず、あんたのピント合わせには敵わないわ」
5.極上のケータリングと、大宇宙への加入
(お茶が入りました)
バグが完全に修正され、歴史が正常な流れを取り戻した地下室。
そこに、空気を一切読まない巨大なシルエットが現れた。無言の時空監視員、鈴木さんである。
彼が純白のテーブルクロスの上に並べたのは、相変わらずの絶対適温の高級玉露(人数分)と1844年当時のアメリカでも最高級とされる品々だった。
チェサピーク湾で獲れた新鮮なワタリガニを使った極上の『メリーランド・クラブケーキ』。じっくりと燻製された『バージニア・ハム』の塊。そして、南北戦争前の超ヴィンテージとされる『ケンタッキー・ストレート・バーボン』のクリスタルボトル。
「す、鈴木さん……! あなた、議事堂の地下でどうやってこんな高級食材を!?」
クロエが目を丸くする。
鈴木さんは無言で、裕太とモールス、そしてエリカにバーボンを注ぎ、完璧な角度で親指を立てた。
「……いただきます。しかし鈴木さん、このバーボン、当時のオークション価格で計算すると、我が社の半年分の利益が吹き飛びますよ。後で経費の出所、徹底的に洗わせてもらいますからね」
若槻さんが冷たく言い放ちながらも、ちゃっかりとクラブケーキを口に運び、そのあまりの美味さに一瞬だけ眉間を緩めた。
「さて、と」
エリカがバーボンを煽り、工具ベルトをカチャリと鳴らした。
「デリートの奴らのバグも消えちゃったし、私の契約(お遊び)もこれで終了。行き場もなくなっちゃったわ」
エリカは裕太をチラリと見て、大宇宙印刷の面々に向き直った。
「仕方ないわね。大宇宙の時空空母の回路、結構マニアックで面白そうだから、私がプロのメカニッカーとして拾われてあげるわ。……ただし、深夜残業代と、特注の機械オイル代は、きっちり請求するから。よろしく」
「なっ……!?」
クロエが悲鳴を上げた。
「だ、ダメよ! ダーリンの元カノが同じ工場にいるなんて! 私の精神的CPUがエラーを起こしちゃう! だいたい、私が未来科学者なんだから、メカニックだって……!」
「クロエちゃん、だっけ?」
エリカが冷笑を浮かべ、クロエのホログラム端末を指差した。
「あんたのタキオン理論は素晴らしいけど、ハードウェアの配線、無茶苦茶よ。さっきの次元ドライブの時、冷却ファンの物理配線がショートしかかってたの、気づいてなかったでしょ? 理論だけじゃ、機械は動かないのよ」
「うぐっ……!」
図星を突かれ、クロエは完全に沈黙した。未来人でありながら、泥臭い物理メカニックには疎いという自分の弱点を完璧に突かれ、圧倒的な敗北感に打ちひしがれる。
「ええ、大歓迎ですよ、エリカさん」
その時、若槻さんがバーボンのグラスを揺らしながら、エリカの隣に優雅に腰掛けた。
「コンプライアンス管理下における、経費請求の適切な手続きについて、後でゆっくりお話ししましょう。……そう、この極上のバーボンでも飲みながら。高木君の『過去の個人情報保護方針(という名のゴシップ)』についても、詳細なヒアリングが必要ですしね」
「(わ、若槻さん!? コンプライアンスとか言いながら、完全にダーリンの過去を聞き出そうとしてる! 抜け駆けよ!)」
クロエの危機感は最高潮に達した。
かくして、クールでマニアックな電子系元カノ・エリカは、大宇宙印刷の正規クルーとして迎え入れられることとなった。
「おぉーい! 誰か俺のことも構ってくれー! 第一種戦闘配置ィィ!」
工場長が遠くの方で叫んでいたが、やはり全員から完璧に無視されていた。
「……おいクロエ。機械に触るな。また見当が狂う」
裕太はそんな修羅場などどこ吹く風で、さっそく四色機のメンテナンスに戻っていた。
6.「つまらない男」の烙印
その日の夜。(大宇宙号がどの次元の夜に停泊しているかは定かではないが、足立区の空気に似ていた)。
工場の屋上で、クロエは一人、満天の星空を見上げてため息をついていた。
「……はぁ。エリカさん、かっこよかったな。私なんて、ダーリンの横でドタバタしてるだけで、結局メカのことは何も分かってないし……」
ジェラシーよりも、自分の無力さに落ち込むクロエ。
「落ち込んでるの? 未来の科学者さん」
背後から、エリカの声がした。彼女は作業着のまま、缶コーヒーを二つ持ち、一つをクロエに放り投げた。
「エ、エリカさん……」
「安心して。私、終わった男に未練を抱くほど、暇な回路はしてないから。裕太とは、もう完全に終わってるの。私がフッたんだから」
エリカは屋上のフェンスに寄りかかり、眼下の工場で一人、投光器の光を浴びながらローラーを磨き続ける裕太の背中を見下ろした。
「……あいつ、本当に面白くないでしょ? デート中もインクの話ばかり。サプライズもロマンスも、一切なし。ただひたすら、目の前の機械と向き合ってるだけ」
「……うん。ダーリンは、絶望的につまらないわ」
クロエも苦笑しながら同意した。
「私が別れた時、最後にあいつに言った名言、教えてあげるわ」
エリカは缶コーヒーを一口飲み、夜空を見上げた。
『裕太、あなたの見当合わせ(ピント)は完璧。でも、私の心のピントは、一生合わせられないわ』
「(……ピント。……一生。……え?)」
クロエの胸の奥で、何かが引っかかった。
「……でもね」
エリカの冷たい瞳が、ふっと優しく和らいだ。
「あの面白くないほどブレない姿勢。空がマゼンタ色に染まっても、銃を突きつけられても、決して目を逸らさない。誰よりも正確に、この狂った世界を、あるがままに見ようとする。コンマ1ミリのズレも許さずに、『本当の姿』にピントを合わせようとする」
エリカは、裕太の背中を指差した。
「……それが、あいつの『究極の優しさ』だってこと。世界がどれだけ狂っても、あいつだけは絶対に嘘をつかない。あいつが機械を見つめるその執念は、世界への、そして目の前の人間への、不器用すぎる誠実さなのよ。……あなたはまだ、気づいてないみたいね、未来の科学者さん」
クロエはハッとして、裕太の背中を見つめた。
つまらない男。機械オタク。
でも、彼はいつだって、バグに侵された歴史を、誰も傷つけることなく、その完璧な技術(見当合わせ)だけで救ってきた。彼が印刷機と向き合う姿は、世界そのものを必死に抱きしめようとしているように見えた。
「(……究極の優しさ。……ダーリン。……つまらない、でも……)」
クロエの瞳に、大粒の涙が浮かんだ。
天才的な頭脳を持ちながら、恋のシステムエラーを起こしてばかりの自分。でも、今なら分かる。彼がどうしてあんなにも美しく見えるのか。
クロエは涙をゴシゴシと袖で拭い、屋上のフェンスから身を乗り出して、工場の裕太に向かって大声で叫んだ。
「ダァァァリン!!」
「……あ? なんだクロエ。うるせえぞ、今インクの乗りを確認してるんだ」
裕太が鬱陶しそうに見上げる。
「私、負けないから! 回路のことはエリカさんに勝てないかもしれないけど! ダーリンの見当、絶対に、絶対に合わせてみせるんだからぁぁ!!」
裕太はポカンとした後、ふいっと目を逸らし、再びローラーに向き直った。
「……馬鹿言ってねえで、早く寝ろ。明日は朝イチで、CTPの再キャリブレーションだ」
その冷たい言葉の裏にある、彼なりの不器用な照れ隠しを、今のクロエは確信していた。
エリカはフェンスに背を預け、呆れたように笑った。
「やれやれ。熱い回路だこと。……まあ、せいぜい頑張りなさいな、未来のお姫様」
星空の下、大宇宙印刷に新たな(そして最高に厄介な)クルーが加わり、時空を超えたバグ修正の旅は、さらに混沌とロマンスの度合いを増していくのであった。




