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「千鳥さん」
その呼び方だけで、胸がわずかにざわついた。
名前を呼ばれているのに、
知っている呼ばれ方じゃない。
係官の優也は、距離を保ったまま立っていた。
スーツ。整えられた髪。
あの世界で、千鳥と海へ行った優也とは、明らかに違う。
「状況を説明します」
そう前置きしてから、彼は続けた。
「あなたが“黒い男”と呼んでいる人物は、私の上司です。
並行世界管理局・対転移事案担当責任者」
千鳥は、ちらりと隣を見る。
あの無表情な男は、何も言わずに立っている。
「……じゃあ」
千鳥は、喉を鳴らして言った。
「私が“影”って呼んでる人は?」
係官の優也の表情が、一瞬だけ硬くなった。
「……中谷圭司」
その名前を口にする声は、低かった。
「私が、研究所に所属していた世界線での同僚です」
研究所。
能力。
転移。
言葉が、一本の線でつながる。
「中谷は、転移能力に目覚める条件を研究していました。
……あなたと同じく」
千鳥は、息をのんだ。
「私の転移成功を確認したあと、
彼もまた、世界線を越えてきました」
係官の優也は、視線を伏せる。
「しかし――」
言葉が、少しだけ遅れる。
「彼は、途中で壊れた」
千鳥の背中を、冷たいものが走る。
「自分以外の転移者を、
“許せない存在”だと認識するようになった」
影。
あの笑い。
踏みつける足。
全部が、腑に落ちる。
「……殺したの?」
千鳥の問いに、優也ははっきりうなずいた。
「複数名。
同様の能力を持つ者を中心に」
沈黙が落ちる。
「現在、中谷圭司は指名手配中です。
我々は、彼を追っています」
千鳥は、ふっと笑った。
「……それで?」
係官の優也が、まっすぐに千鳥を見る。
「あなたを、おとりに使います」
一切の迷いがない声。
「中谷は、あなたに強い執着を持っている。
転移を“成功例”として、
同時に“憎むべき存在”として」
千鳥の胸が、どくんと鳴る。
「……危険だって、わかってますよね」
係官の優也は、少しだけ唇を噛んだ。
「承知しています」
それでも、言葉は変わらない。
「しかし、あなたは――
彼を引き寄せられる、唯一の存在です」
千鳥は、ゆっくりと息を吐いた。
(やっぱり)
この世界線の優也は、
優しいけれど、情に流れない。
「……優也さんは」
千鳥は、あえてそう呼んだ。
「それで、平気なんですか」
係官の優也は、一瞬だけ目を伏せる。
「平気ではありません」
そして、静かに言った。
「ですが、職務です」
千鳥は、その答えを聞いて、
なぜか少し安心してしまった。
嘘をつかれていない、と。
「……わかりました」
そう言うと、
係官の優也の目が、わずかに見開かれた。
「やります」
千鳥は、続ける。
「でも、一つ条件があります」
「条件?」
「私が囮になるのは、
誰かを守るためのときだけです」
係官の優也は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「……了解しました、千鳥さん」
その呼び方が、
少しだけ、近づいた気がした。




