8 ハーヴィーの獣
早速手をつけようとしていたチェレスティーノは、ユーベルの発言を耳にして、思わず匙を取り落していた。
「おい、ユーベル……」
「チェレスティーノも口をつけない方がいいですよ。人肉嗜食の気があるんだったらいいんでしょうけど」
「そんなもんねぇよ!」
とんでもないことを口にする同僚を怒鳴りつけて立ち上がり、食卓の上を睨む。
「……どういうことだ」
スープの盛られた器は美味そうな匂いの湯気を立ち昇らせ、食欲を刺激してくれている。具材となっているのは野菜と肉で、どちらも柔らかく美味そうに煮えているではないか。
何処からどう見ても、普通のスープだ。それがどうして、そんな異様なものが煮込まれているというのだろう。
わかりますよ、とユーベルは答えた。
「知人にそういうのが好きな奴がいますのでね。食べなくとも、臭いでわかります」
それはどんな知人だ、とチェレスティーノは顔を顰めたが、ユーベルが嘘を言っている様子はなく、平静としている。
そうして、ユーベルの視線の先にいるシスター・カロリーヌの様子を見た。
彼女は静かにそこに佇んでいた。
「どういうことか、お答え願えますか?」
ユーベルは微笑みながら全身に軽く力を入れる。なにかが起こってもすぐに対処出来るように。
「お見受けしたところ、あなたは特に悪魔憑きというわけではない。かと言って、元からの異形者というわけでもなさそうだ。ただ単に、人肉嗜食者であるというだけのように見受けられますね」
それだけでも大問題だ。聖職者が同胞の血肉を食らうことを好む異常性癖を持っているだなんて、殺人容疑で逮捕どころではない。即刻異端審問会行きの案件だし、査問にかける間もなく処刑が決まることだろう。
そんな恐ろしい異常性を、この細身の若い修道女が内に秘めているだなんて、誰がわかるものだろうか。
「今までの事件は、あなたの仕業ですか?」
ユーベルは視線を鋭くし、端的に核心を突いたことを尋ねる。
いいえ、と女の細い声は答えた。
「私は村の方達を殺したりしておりません」
そう言って浮かべる微笑みは昨夜から変わることはなく、若々しい明るさの中に優しげで人の好さが窺える笑みだ。
「けれど、食べたんですね?」
ユーベルはもう一度念を押すように尋ねる。
カロリーヌの笑みは変わらない。困惑気に引き攣るようなこともなく、柔らかくその頬に笑窪を刻みつけている。
その様子にチェレスティーノは恐ろしさを感じた。
彼女は異様に落ち着きすぎている。普通なら、こんなにも残忍でいて無礼極まりない恐ろしい疑いを確信として尋ねられたら、驚いたり怒ったり、顔色を変えて明らかに動揺したりする筈だ。それなのにそういうことは一切なく、変わらぬ笑みを静かに浮かべている。
「マジかよ……」
思わず呟き零す。先程まで感じていた食欲などとうに失せ、今は吐き気を堪えるので精一杯だ。
その瞬間、カロリーヌはパッと身を翻した。
「追います!」
間髪入れずに言い置いてユーベルが走り出し、開け放たれた勝手口のところで振り返る。
「チェレスティーノはノエルさんを起こして追って来てください!」
「お、おう!」
飛び出して行くユーベルと別れ、チェレスティーノは客間に駆け込む。
「お嬢! 起きろ!」
丸まって眠っていたノエルの肩を掴み、乱暴に揺り起こした。ほんの一瞬でも惜しい。
ノエルは突然襲った振動と僅かな痛みに驚き、すぐに目を覚ます。だが、いったいなにがなんだかわからない。
「ここのシスターが人肉嗜食者だった。食人鬼かも知れねぇ。今ユーベルが追ってる」
必死に頭を覚醒させようと瞬いているノエルに、チェレスティーノは簡潔に状況を説明し、急いで仕度しろ、と告げ、自分達の部屋の方へ走って行った。
緊急事態に直面しているのだと気づいたノエルは、慌てて寝台から飛び降りる。まだ慣れない手つきで急いで銃帯を締め、猟銃を担いだ。
部屋を出ると丁度チェレスティーノも出て来たところで、合流してそのまま教会を出た。
「森に行くの?」
ノエルはそんなに足が遅い方ではないが、それでも成人男性の脚力には敵わない。必死について行きながら、なんとか行き先を尋ねる。
ああ、とチェレスティーノは頷いた。
ユーベルから行き先など聞いていない。けれど、村の中で暴れるよりは、森の中へ入った方が被害が少ないだろう。
カロリーヌにしたって、顔見知りばかりの村の中で争うことになるより、身を隠せる場所が多い方が都合がいい筈だ。
「お嬢、なにか見えるか?」
森に入りかけたところで、チェレスティーノが振り返る。
その問いかけに対し、ノエルは心から申し訳なく思いながら首を振った。
「まだ上手く視れないの。ごめんなさい」
「ああ、そうか。そりゃ仕方ねえわ」
しょぼんと俯いたお下げ頭をぽんぽんと撫で、チェレスティーノは苦笑した。
ノエルは特殊な『目』を持ってはいるが、本来の使い方は知らなかったらしい。まだ慣れていないのだから、上手くいかなくて当然だ。
チェレスティーノの『目』はノエルのものと性質が違うので、彼女に頼もうとしていることは残念ながら出来ない。
それではどの方向へ進むべきか、と黄昏時ですっかりと影が濃くなっている森の中を見回す。
教会からまっすぐ進んで来た場所ではあるが、先を行ったユーベルとカロリーヌの痕跡らしきものは特に見当たらない。闇雲に進みたくはないが、方向が定まらない以上は勘に頼るしかないだろう。
「あっち」
取り敢えずこのまままっすぐ進むか、と考えたところで、ノエルの細い指先が、向かって左斜めの方向を指し示す。
「あっちの方に、ユーベルがいる」
やけにはっきりとした口調での発言だ。
「見えたのか?」
「ううん。でも、ユーベルのことは……感じる」
驚いて尋ね返すと、すぐに否定され、なにかよくわからない理由を告げられた。
なんと答えていいのかわからなかったので、そうか、と頷き、取り敢えずはノエルの指示に従ってみることにする。こんなにもはっきりと言うのだから、なにかしらの根拠があってのことなのだろう。それを信じるしかない。
だんだんと暗くなっていく森の中を走り出すと、ノエルも懸命について来る。その様子を横目で確認しながら、チェレスティーノは以前から感じていた奇妙な感覚を思い出す。
ユーベルとチェレスティーノが知り合ったのは、今から三年前、聖都サングィスにある神学校でのことだ。
素行不良があまりにも目に余ったので、懲罰と更生を目的として神学校の寄宿舎に入れられたチェレスティーノは、成績優秀で監督生をしていたユーベルと引き合わされた。
妙に落ち着いたガキだと思った。身体は細長くてあどけない顔をして、見た目だけなら十七歳だという年齢が妥当だと思えたが、言動があまりにも大人び過ぎていて、まるで街一番の博識爺と話しているかのような気分になり、その違和感に気味の悪さを感じるほどだった。
そんなユーベルは、怒ったような表情をして黙り込んでいることがよくあった。静かに怒りを溜め込んでいるような横顔を見て、こいつも嫌々この学校に入れられたのだろう、と妙な親近感を抱いて話しかけてみると、特にそういうわけではないという事情を知る。
その頃からユーベルには『ノエルさん』という惚れた女がいて、その女と離れて暮らさなければならないことにうんざりしているとのことだった。
学校に入ったこと自体は本人も納得の上でだと言っていたが、休暇のときに帰省させてもらえる筈の約束を邪魔されていることが腹立たしいのだ、と零したことがある。そのことには大変同情したし、休暇の度に用事を言いつけて帰省を妨害する後見人という存在に対し、一緒に腹を立ててやったこともあった。
その頃から二人は友人となった。そうして始まった親交は今でも続き、あと半月程経てば、正式に同僚となって共に闘うことになる。
年は少し離れているが、チェレスティーノはユーベルのことを親友だと思っているし、ユーベルもそう思ってくれているようだ。だからこそ、そんな親友の大切な女だという『ノエルさん』のことは以前から気になっていて、今回初めて直接対面することが出来たわけだが――チェレスティーノが態度には出さずとも愕然としたことは言うまでもない。
ユーベルはことある毎に、ノエルというのは自分にとって半身とも呼ぶべき存在で、お互いがなくてはならないくらいに強く結びついている、と言っていた。それがこんな、今もまだ年端もいかない少女であるということは、我が半身だと熱弁を振るっていた頃は、幼児と言ってもいいような年齢だったのではないだろうか。
けれど、ユーベルは真剣だった。恋人でも家族でもないが、恋人よりも家族よりも強く結びついていて、決して離れることなど出来ない存在なのだ、とよく口にしていた。
その口振りがなんだかとても奇妙に感じていたのだ。
話を聞かされるたびに感じていたその奇妙な感覚を、さっきのノエルのはっきりとした口調にも感じた。
この二人はいったいなんなのだろう――チェレスティーノはもう一度肩越しに振り返り、懸命に走ってついて来ている小さな姿を視界に捉える。
ノエルはユーベルのことを「感じる」と言った。それがユーベルの言うところの、強く結びついた半身のようなものである、という関係に起因するものなのだろうか。
ユーベルの方便だと思っていた。大好きで大事で、それ故に半身と呼んでいると思っていたのだが、ノエルも同じように感じているのだとしたら、本当にそういう存在同士なのかも知れない。
世の中には『運命の双子』という関係性があるらしい。同じ宿運の許へ生まれ落ちた存在で、お互いに強く惹かれ合うのだとか。
ノエルとユーベルもそういうものなのだろう、とチェレスティーノは思った。
「チェレスティーノ!」
一瞬気が逸れた隙を突いて、ノエルの鋭い声が飛ぶ。
ハッとして身構えたその瞬間、真横から大きく重たい衝撃が襲ってきた。
防御の為に咄嗟に差し出した銃身が、ガツン、と硬い音を立てる。倒れ込みながら音の主を睨みつけた。
「――…出やがったな、化けモンが!」
チェレスティーノの銃は鋭い牙に咬みつかれ、その向こうからグルグルルという低い唸り声と、腐臭のする熱い息が襲いかかって来る。
すっかりと夜陰に包まれた森の中でも、辛うじて差し込む細い月明かりが、その姿をノエルとチェレスティーノの目に見せる。
筋肉質な身体は硬質な体毛にびっしりと覆われ、頭の上の方でピンと立った三角の耳は忙しなく動き、ぐっと突き出た鼻先は黒々として湿っている。その容貌は全体的に犬か狼のような造形をしていた。
獣人――人狼だ。
村人を襲っていたのは、やはり人狼だったか、と食いつこうとしてくる鋭い牙を押し戻しながら、チェレスティーノは舌を打つ。
食いつかれるのを避けて防御する両腕に力を入れながら、腹筋と両脚に力を入れ、僅かに振り被って反動をつけ、敵の腹部に勢いよく当てて蹴り上げる。ぎゃうっと鋭い悲鳴を上げて跳ね飛ばされた相手は、こういうことに対する反応は鈍いのか、受け身を取ることもなく傍の樹へ背中を叩きつけられていた。
蹴った脚の動きを利用して跳ね起きたチェレスティーノは、間髪入れずに銃口を向け、狙いを定めた人狼の胸に銃弾を撃ち込む。
「ぐ、があああっ!」
人狼の口から鋭い悲鳴が上がり、仰け反った喉へも一発撃ち込み、肩と腹にも同じように撃ち込んだ。
血飛沫の代わりに焼け焦げた臭いと煙のようなものが立ち昇り、苦しげな声を上げてのた打ち回る。
「やめて、チェレスティーノ!」
「うわっ!?」
残りの弾丸も撃ち込んでしまおうと引き鉄を引きかけた腕に、ノエルが悲鳴を上げてしがみつく。驚いたチェレスティーノはその勢いで引き金を引いてしまい、照準のずらされた銃弾は隣の幹へと撃ち込まれた。
「なにしやがる!」
「駄目! 人殺しになっちゃうよ!」
引き剥がそうと腕を振るうチェレスティーノへ、ノエルは必死に叫んだ。
「怪異なんかじゃない! 人間だよ!!」
切羽詰まったその声に、えっ、と小さく声を詰まらせ、チェレスティーノは銃を握る腕を強張らせる。
「人間の、男の人だよ」
ノエルは青褪めた顔で更に強く言った。
彼女の空色の瞳には、目の前の敵は、ごく普通の人間の男性の姿として映っている。
見た目の年齢は、ユーベルやチェレスティーノよりは少し上のようで、二十代の半ばから三十代ぐらいに見える。体格はあまりがっしりとはしていないが、両方の肩から先が奇形のように盛り上がって太く逞しくなっている。
気の弱そうな両目からは滂沱と涙を零し、唇からは低い呻き声と涎を零している。チェレスティーノが撃ち込んだ銃弾による傷が痛むのか、もっと別のことが原因かはわからないが、彼は苦痛に呻きながら泣いていた。
チェレスティーノは銃を構えたまま、目の前で蹲る存在を見つめる。彼の琥珀色の瞳には、やはり剥き身の筋肉質な上半身は固そうな体毛に覆われ、突き出た鼻先とその下の口には鋭い牙が並び、耳も尖がっている異形の姿が映り込んでいる。どう見ても人狼だった。
けれど、ノエルの瞳は『神眼』と呼ばれる特殊なものだ。
その瞳は怪現象の元を浮き彫りにして物事の本質を見抜き、時には離れた場所の事象を盗み見て、人によっては、いつか訪れる未来の様子を知ることも出来るというものだ。
その瞳を持つ少女が断言する。
目の前にいる者は異形の怪異ではなく、人間である、と。
チェレスティーノは強く舌打ちした。自分の目には獰猛な人狼にしか見えない。けれど、ノエルの目には人間に見えている。
幼い制止の声に惑い、どうすればいいか逡巡するが、答えなど最初から決まっていた。
真実を見通す目が人間だと示しても、異形化している人間はもう人間ではない。今のところ、異形化して理性を失った人間を元に戻すような技術はないし、そういう研究をする団体も存在しない。
長く苦しめるよりは、早々に神の庭へと送ってやることが教皇庁の考えであり、祓魔師の理念でもある。
「悪いな、お嬢」
チェレスティーノは銃を構える。
青褪めるノエルの目の前で、最後の一発を、呻いて蹲っている人狼の脳天に撃ち込んだ。
銃弾が撃ち込まれた衝撃で人狼の身体は大きく一度震え、それから頽れるように地面へ倒れ込み、そのまま動かなくなった。
チェレスティーノは大きく息を吐き、倒れ込んだ人狼の様子を注視しながら、空になった弾倉に銀製の弾を素早く詰め直す。
ノエルは真っ青になって震え、恐ろしさを感じて息を飲むが、なにかを言うことはなかった。
彼はノエルの目には人間の姿として映っていたが、既に理性を失い、異形と化していた怪異なのだ。それは自分でも目にしたとおり、他者に危害を加える危険な存在で、そういうものを駆逐討伐するのが祓魔師に課せられたものだ。
これが、祓魔師の仕事なのだ。
祓魔師がそういうものだとわかってはいた。けれど、実際に目にしてみると、恐ろしい。
ノエルは自分の持つ特異な『目』は、退魔に有用だと思っていた。だからこそ、人々を怪異から護る祓魔師になりたいと思っていたのだが、もしかすると、それは間違いだったのかも知れない、と思い始める。
怪異を見抜き、その正体を探り、霊的な存在もはっきりと視認出来る『目』は、きっと役に立つと思っていた。けれど、これではあまりにも見え過ぎる。
チェレスティーノが人狼だと言っていた男は、今も人狼の姿をしているのだろうか。ノエルの目には、一人の成人男性が倒れているようにしか見えない。
死んでしまった、殺してしまった、としか感じられないこの『目』をどうにかしなければ、ノエルには祓魔師など無理だ。
だからなのだろうか。育て親であるマリーが、ノエルが祓魔師になることに反対していたのは。
ただ単に、危険なことをして欲しくなくて、それが心配だからだと思っていた。けれど、赤ん坊の頃から育ててくれたマリーのことだ、きっとこうなることをいくらか予想していたのかも知れない。
そうして、ユーベルもその可能性を考えていたのだろう。だからノエルの猟銃に弾はいらないと言い、用意してくれなかったのだ。
怪異を狩るのに有効なのは、祓魔師の持つ特殊な『力』と、浄化の作用を持つ銀製の武器だ。多くの祓魔師は己の扱いやすい武器に、自分の持つ『力』を乗せて使い、怪異を倒しているのだという。
教皇庁管轄下でそういった退魔専門の武器を製造している工房があるという話は、祓魔師になる為にはどうすればいいのか調べているときに耳にしたことがある。チェレスティーノが使っている拳銃も、ユーベルが使っているという長剣も、そういう工房で作られたものなのだろう。
けれど、いくら浄化の作用を持たせた特殊な武器であろうとも、実際に使えば、普通の人間や動物にも物理的な攻撃を加えられる武器に他ならない。つまり、人を殺せる道具であることは紛れもない事実なのだ。
殺傷能力のある実弾が入っているとわかっていたら、恐らくノエルに引き鉄は引けない。万が一にも人間を傷つければ、そのことに恐れて二度と武器を手に取れなくなる。だから、ユーベルは『力』を扱う為の補助として、銃だけを渡してきたのだろう。
ノエルは静かに唇を噛み締める。
何故今回に限って、ユーベルがノエルを同行させたのか、ずっと疑問に思っていた。
今まで何度か一緒に出かけたりしたことはあったが、危険だとわかっている場所へ連れ出すことはなかった。だからこそ、ノエルの『目』が必要だというのは方便で、きっとなにか他にも理由があるのだとは薄々感じていたのだが、もしかするとノエルの資質を試そうとしてたのかも知れない、と思い至る。
ノエルの見え過ぎる『目』で、霊的ではない怪異に遭遇したときにどう対処するのか、それを見ようとしたのではないだろうか。
そうだとしたら、ユーベルの思惑は成功している。ノエルはチェレスティーノが人狼だという怪異の正体を、ただの人間だと判断し、攻撃をやめさせようとしたのだ。相手はリリベル村の人々を二十人も殺している犯人なのかも知れないのに。
そして、普通の人間に対しては殺傷能力などない空砲すら、自分で引き鉄を引くことはしなかった。構えもしなかった。まったく以て闘う意思がないこれでは、完全に祓魔師失格ではないか。
まだ幼い故か、考えが甘かったのだ。
自分では出来ると思い込んでいた。けれど、いざ元は人間である怪異の前に立ってみればなにも出来なかったどころか、退治しようとしている仲間を止める始末だ。
「行くぞ、お嬢」
自分の行動に不甲斐なさを噛み締めて俯いていると、人狼が絶命したようだと確かめたチェレスティーノが声をかけてきた。
その声にハッとする。今もまた、なにも出来なかったし、しなかった。
ノエルが思い悩んでいる間にチェレスティーノは自分の成果を確かめ、次の行動に移る為の支度を整えていたというのに、なにもしないで突っ立っていただけだ。
「……ごめんなさい」
急に自分が恥ずかしくなった。
このハーヴィーの森に来る前に、ユーベルはノエルを守ってくれると言っていた。けれど、足手纏いにはなりたくなかったし、守られるだけなんて嫌だとも思っていた。その為にユーベルは猟銃を用意してくれたのだ。
胸にかかる銃帯を握り締め、ノエルは顔を上げる。
「ごめんなさい、お仕事の邪魔をして。もう、迷わない」
しっかりと見上げてくる眼差しに、ある種の決意を感じ取ったチェレスティーノは、なにも言わず、納得したように微かな笑みを浮かべた。
攻撃を受けたときに投げ出していたユーベルの太刀を拾い上げ、奥へ向けて顎先をしゃくる。ノエルは頷いた。
「……今度はあっちの方」
先程までとは少しずれた方向を指し示す。ユーベルはまだ移動しているようだ。
そうか、と頷いたチェレスティーノは、指し示された方向へ向かって走り出した。ノエルも遅れずに駆け出す。
絶対にもう迷わない。チェレスティーノの拳銃は弾倉に六発装填出来る仕様のようだが、使いきれば補充しなければならない。予備だって何発分あるのかわからないが、そんなに多くは持っていない筈だ。
今はここにいないユーベルだって、近接戦が得意で剣を使ってはいるが、その攻撃範囲は自分の周辺に限られてくる。届かないときや、存分に振るえないときがある筈だ。
そういった隙間を僅かでも埋めることが、なんの訓練も受けていなくて、慣れてもいない今のノエルにも出来ることだろうと思う。
やるんだ、と決意を固めて走りながら、銃帯の留め具に手をかける。緩めておけばいつでも手に取れるし、今度は躊躇ったりしない。
ユーベルが追っているのは、昨夜から世話をしてくれていたシスター・カロリーヌだという。つまり、あの優しげな女性が、今回の一連の事件に関わっていたのだ。
詳しいことはたぶんユーベルもチェレスティーノもわかっていない。ただ二人は、彼女が事件に関わっていたという事実を掴み、追い駆けている。その判断にノエルは従うべきなのだ。
彼女は人間だ。昨夜初めて会ったときも、今朝も、夕方に帰って挨拶したときも、なんの違和感も感じられなかった。つまり、ノエルの『目』にはまた普通の人間の女性の姿が映る筈なのだ。
それでも攻撃しなければならないのだろう。攻撃することになるのだろう。
「俺だって初めは困惑したもんさ」
ノエルの気持ちを見抜いたのか、前を行くチェレスティーノが話しかけてきた。
「憑依型の奴なんか、まんま普通の人間だからな、見た目は。その辺にいる普通のおっさんやおねえちゃんが、自分の意思と反したことでまわりに危害を加え、こっちを攻撃してくる。そんなのやりづらくって堪らんもんだ」
それが当たり前だろう、とチェレスティーノは双眸を細く笑ませて言った。
「いつの間にかそういうのにも慣れる。だが、慣れるまでにはそれなりの覚悟と時間も必要さ」
ノエルにはそれがまだ全然足りていない。だから今日はなにも出来なくて、戸惑って悔しくて、足手纏いになってしまって申し訳ない気持ちになったとしても、それが普通なのだ、と軽い調子で語りかける。
慰められているのだ、とノエルは感じた。彼が伝えてくる言葉は、今ノエルが気づいて悩んでしまっていたことだから。
ノエルは微かに笑みを浮かべ、大きく頷き返した。やはりこの男は、見た目の厳つさや粗野な言動に反して、面倒見がよくて優しい人なのだ。
「それにしても、ユーベルの野郎、何処まで行きやがったんだ?」
子供に気遣って慰めの言葉を投げかけたことが照れ臭かったのか、立ち止まって辺りを見回し、ぶっきら棒な口調でそんなことを言う。
確かに言うとおりだ。かなり奥の方まで来た筈なのに、なにかが動き回る気配すら感じられない。
けれど、確実に近づいてはいる筈だ。さっきよりもユーベルの存在を強く感じる。
その直後だった。
まわりの木々がざっと葉音を立てたかと思うと、チェレスティーノは間髪入れずに拳銃を構え、音のした方角へ向けて引き鉄を引いた。今度はノエルも躊躇わずに猟銃を構え、隙のある背後を警戒した。
残響が消えても変化は訪れず、なんら手応えはない。チェレスティーノはチッと舌打ちを零し、銃を構え直す。
「……ユーベル?」
このまま警戒しつつ前進する、と手振りで合図してきたチェレスティーノに頷き返したとき、ノエルはハッとした。
「いたか?」
「うん!」
返事もそこそこに駆け出す。
向かった先に小さな赤い実の生る山査子の茂みがあったが、構わずに突き進む。木にあった棘が頬や手などを引っ掻くが、気にしてなどいられなかった。
だって感じられたのだから。ユーベルが、傷ついて血を流している気配を。
「ユーベル!」
叫びながら抜けた先には、捜していたユーベルの姿があった。
「ノエルさん……」
声に気づいたユーベルが振り向き、驚いたように銀灰色の双眸を瞠った。
ユーベルなんか大嫌いだ。いつも意地悪だし、口が悪いし、変なところを触ってくることもあるし、なにかされる度に腹が立って仕方がない。
けれど、傍から離れるのも痛い目に遭われるのも、本当は嫌だ。
急いで駆け寄り、その僧衣を乱暴に掴むが、掌に冷たい感触があったのでギクリとして思わず手を離した。
薄い月明かりの下で見てみると、掌が赤く汚れているのがわかった。
「やられたのか?」
大柄な身体では山査子の茂みを抜けられず、僅かに迂回して追いついたチェレスティーノは、脇腹のあたりを押さえているユーベルの様子に息をついた。
ええ、と頷いて苦笑し、溜め息を零す。
「丸腰であれの相手は、さすがに少し骨が折れました」
実際には腹を食われたのだが、と軽口を交えながらユーベルが視線で示す先を追うと、誰かが倒れている。
「死霊傀儡です」
ノエルは聞いたことがなかった呼称に首を捻って瞬くが、覚えのあるチェレスティーノは僅かに息を飲み、倒れている人型を睨み据える。
「あの女――カロリーヌは、死霊術師だったのか?」
「そのようですね」
死霊傀儡と呼ばれるものは、読んで字の如く、死霊術師と呼ばれる邪術師達の使う道具で、手懐けた死霊を封じて操る為のものだ。多くは人型をしている。
「本人は?」
「あれを俺に嗾けて、逃げました。申し訳ない」
「いい。丸腰だったんだから仕方ねえよ」
溜め息混じりに首を振り、持って来た剣を渡した。受け取ったユーベルは手早く布袋を開き、得物の具合を確かめる。
「傷は?」
「避けたんで、そんなには深くないと思います」
取り敢えず止血はするべきか、とチェレスティーノが覗き込む横で、ノエルはスカートの肩紐を下ろし、シャツの釦を外した。
その一切の躊躇いを感じさせない脱ぎっぷりにチェレスティーノがギョッとしている間に、ノエルの小さな手はユーベルの僧服を開いて自分のシャツを巻きつけ、傷口を覆ってきつく縛りつける。多少心許ない手当てではあるが、一応の血止めにはなるだろう。
「風邪ひきますよ」
「そんなのいい。……馬鹿ユーベル」
言い返しながら両目が潤んだ。
無事でよかった――意地っ張りで素直じゃない少女は、珍しく偽りのない感情をはっきりとユーベルに向ける。その様子にユーベルは苦笑した。
「チェレスティーノ」
ノエルの頬を撫でて服を閉じながら、ユーベルは先輩祓魔師を呼んだ。
「あの傀儡、被害者の一部を接ぎ合わせて作られた死体人形です」
険しい表情で伝えられた現況に、チェレスティーノも顔色を変える。
「欠けていたのは、食われた所為じゃなかったのか」
確認の為に呟かれた言葉に、ええ、とユーベルは頷く。
死亡診断書に書かれていた検死結果にも、警邏が取得し、祓魔師協会の方へ伝えられていた情報にも、どの被害者も腕や脚などの遺体の一部が未発見であるということは伝わっていた。それを警邏も祓魔師達も、恐らく遺族である村人達でさえも、襲ってきた何者かに食われてしまったものだと思っていた。
けれど、違ったのだ。失われていた遺体の一部は、シスター・カロリーヌによって持ち去られ、継ぎ合わされて傀儡に作り替えられていたのだ。
「死霊を操る場合、故人の持ち物を傀儡に入れておくと扱いやすいらしいですが、まさか肉体の一部を用いるとはね……」
「ひでぇ女だ」
なんという冒涜行為か、とチェレスティーノは舌を打つ。あの女は聖教会に奉職する修道女でありながら、被害者の尊厳を踏み躙り、死者を弄んでいたのだ。
あんな優しげで嫋やかな様子を見せていながら、なんという残虐非道なことをしていたのだろうか。
そして、恐らく継ぎ接ぎする過程で出た余分なものを、煮込んでスープにまでしている。
あの美味そうな匂いのするスープを思い出すと、否応なく吐き気が込み上げて来そうになる。
「胸糞の悪い話だ」
吐き捨てられた呟きに、ノエルも同意する。
チェレスティーノは顔を顰めて息をひとつ吐くと、残弾と投擲用小刀の位置を確かめる。
「森を出られたら大事だ。俺は先に行くから、お前も追えるなら来い」
この森を東方面に抜ける途中には国境があり、すぐに隣国アーデブルク帝国だ。そちらからの討伐要請は出ていない。
呼ばれれば世界中を駆け回るエテルノ聖教会所属の祓魔師でも、許可の下りていない場所へ勝手に行くわけにはいかない。いくら身分証を持っていたとしても、それは不法入国を犯すことになる。
ユーベルは「すぐに行きます」と頷き、駆け去るチェレスティーノの背中を見送った。
それから息をつき、僅かに掠れた声でノエルを呼ぶ。
「力を貸せ、ノエル。お前にしか出来ない」
口調が聞き馴染み深いものに戻っている。まわりに人がいなくなったからだろう。
「なにをする?」
ほんの少しだけ残っていた涙を乱暴に腕で拭い、苦しげに曇った顔を覗き込む。
「――…誓言を」
その言葉で、ユーベルが相当に疲弊している事実を悟る。思ったよりも傷が深かったのだろう。
けれど、言われたことに従えば、ノエルにも無事では済まない。それを知っているからこそ、一瞬躊躇うが、答えは既に決まっていた。
「勝てる?」
「勝つさ。本来なら、そんなに手古摺るような相手じゃない」
「じゃあ、いい」
即座に頷き返し、ユーベルの手を掴む。
その手を、肌着を捲くった下にあるささやかな膨らみの間に導いた。胸から腹にかけてある古傷の上に、ユーベルの手が重なる。
「――汝に命ず」
その序言を口にすると、傷口が火を押しつけられたかのように熱くなり、その下にある心臓が大きく鼓動を刻む。
「我が血潮に結ばれし盟約の許、汝、我が命に従え」
心臓が痛いくらいに激しく鼓動を打ち、ノエルは頭痛と眩暈を感じる。けれど、それを耐えなければならない。
やり方は教えられていたので、知っていた。それでも、実際にこの言葉を口にしたのは初めてのことで、こんな状態になるだなんて知らなかった。
揺れる視界と痛む心臓に僅かな恐怖を感じながら、気が遠くなりそうな変化を堪えるように唇を噛み締め、手を伸ばす。指先が震えるその小さな手を、ユーベルがしっかりと掴んだ。
銀灰色の瞳が見つめてくる。その見慣れた瞳の中に、僅かに揺らめく炎のような金の虹彩が躍る。
初めて出会ったときに見た色だ。恐怖の記憶の中に押し込んでいたその色を思い出し、ノエルはなんだか泣き出したい気持ちになり、僅かに口許を歪めた。
「契約の許、ノエル・ブランカが枷を解く――我が敵を屠れ、悪魔べリアル!」
その名を呼んだとき、重なり合った掌の下で、ノエルの心臓が燃え上がるような熱さと痛みを伴って鼓動を打ち、青白い炎のようなものが噴き出し、バチン、となにかがはじけるような音があたりに響く。
一層強く燃え上がるその炎に包まれながら、金色の瞳が僅かに笑んでこちらを見つめていた。
初めて出会ったときの瞳ね、と思って僅かに微笑み返すと、その瞳が近づき、唇を重ねてきた。