第9話
ブルーナは私が生まれたばかりの頃、少しだけ自分の過去について話してくれた事がある。
北の森で生まれ育ち、ずっと死と隣り合わせで生きてきた事。親はとっくの昔にブルーナを捨てて森を出たため、ブルーナには信じられる者が自分しかいなかった事。それがなんの因果か、277年前のある日先代の魔王に拾われて王に仕えるようになった事―――。
最初の内は下働きであったのが、実力社会での生活はブルーナに合っていたらしい。あっという間に頭角を現し、たった数十年で王族を教育する身分までのし上がっていった。277年。この数字は、長生きである魔族からしても、決して短いものではない。その長い時間を、ブルーナは王に仕え続けたのだ。
北の森は魔族にとっても、さほど安全な土地とは言えない。生まれたばかりの魔族ならなおさらだ。なにせ魔獣の巣窟となっているような場所である。そこでの生活は、あまりにも心許ないものであっただろう。だがブルーナはそこで生活し続けた。
独りは寒くて寂しい。ブルーナはその事を知りつつ、それでももし外に出ても独りであったら、もし誰にも愛されなかったらと思い、森に残ったのだろう。希望はあくまでも希望のままの方がいい。そこに踏み込んで、下手に現実を知るよりも知らない方が幸せな時もある。
ところが、彼女を見出してくれる人に出会えてブルーナは救われた。私は当時の事を見た訳ではないが、話しているブルーナの穏やかな顔を見たら、それがどれほどブルーナの救いになったのかはよくわかる。ブルーナは、やっと信じられる人を見つけたのだ。それが例え孤高の魔王であろうと。
でもお兄様は―――…。
「だからブルーナは」
私を利用してでも、お兄様を助けたかったんだね。
「……」
私は手を伸ばして、私と同じように固く握りしめたブルーナの拳に触れた。大きくて、ちょっとひんやりしていて、まだ力加減を知らない、けれども苦労を知る優しい手。ブルーナはなにも言わなかったが、それが答えであるような気がした。
私はブルーナほど情に篤い魔族を知らない。これは憶測に過ぎないが、ブルーナは私を大事にしてくれるのと同じくらい、お兄様の事も大切なんじゃないかと思う。
ブルーナはきっと、お兄様が――先代魔王の息子であるお兄様が――、この先永遠とも言える時間を孤独なままで過ごさねばならない事を知っていて、初めからから憂慮していたのだろう。だからこそ妹である私には、唯一良くも悪くもお兄様と対等に立てる可能性がある私には、お兄様をなんとかできるのではないか、という微かな希望を託そうとした。
そしてそのためには、私とお兄様が対峙しても倒れないほどの力が必要であった。まあ、それも失敗に終わった訳なんだけど。結果として、5年10年と待てども私が生まれる事はなく、お兄様の心は死んでいったのだ。
私はいまでもお兄様の冷たい瞳を思い出すと、背筋が冷たくなる。いくら事情を知ったとは言え、瞬きをした瞬間に殺されてしまうのではないか、という本能的な恐怖からだ。もう一度お兄様の側に行けと言われたら、しばし躊躇し――――……ん?
私はそこまで考えて、いや、待てよ?と思った。逆にそれを利用すればよいのではないか、と。つまり、私がお兄様に気に入られる事で、危険因子が激減し死亡確率が低下する上、あわよくばお兄様という最強の用心棒が手に入るかもしれないのだ。
しかも成功すれば、ブルーナを約100年間悩ませ続けてきた頭痛の種が消えるどころか、私の頭痛の種まで飛んでいくという、いい事尽くめである。実にスバラシイ。実にテンサイである。私に天から二物も三物も与えていただいて、逆に申し訳ない気持ちだ。これからはぜひ目覚めた人、もとい目覚めた魔族と呼んでくれたまえ。ふははは。
「ブルーナ!」
私は突如として布団の中から立ち上がると
「……?」
「私、頑張るよ!」
「は?」
素で驚くブルーナを横目に、選挙活動中の政治家のような、無駄にありあまったやる気を迸らせた。その勢いで跳ね飛ばされたくま吉が、ベッドの下で運悪くブルーナに踏みつけられて恨めし気な声を上げる。が、耳も政治家仕様になった私には、都合の悪い事は一切聞こえない。むしろ応援として背中を後押ししてくれているかのようだ。
「私、頑張ってお兄様を攻略してみせるから、ブルーナは安心してね!!!!」
「………」
グッと拳を固めると、私は街頭で叫ぶ立候補者のごとく声高に宣言をした。ブルーナが、急にゴミと道具の境目を見るような目つきで私を凝視するのが気になったが、それもいまの内だ。いずれ私の素晴らしさに気づく事になるでしょう。その頃には、私を第2の魔王として崇め奉っているだろうから、なんら問題はない。
それにしてもなんと言う美味しい設定なのだろうか。愛を忘れた美男子×健気な美少女?それとも冷酷な魔王×深窓の姫君?あるいは、大雑把に人外×人外(前世は人間)?考えるだけでゾクゾクソワソワするじゃないか!
なにを隠そう私は、逆境になればなるほど萌える…、おっと失礼、燃えるのだ。という訳で、お兄様は首を洗って歯を磨いて待ってろよ!!
こうして私のお兄様攻略計画~ツンツンからデレデレに~が幕を切って落とされた。
その夜、魔王の鼻が妙にムズムズしたとか、しなかったとか。