第1話 悪役令嬢は、今日も台詞を間違える
王立エルヴェール学院には、完璧な物語があった。
平民出身の少女リゼットが、聖女の力に目覚める。
王太子アベルが、彼女の清らかさに心を奪われる。
そして、王太子の婚約者である公爵令嬢イザベラが嫉妬に狂い、リゼットをいじめる。
最後は卒業舞踏会で、王太子がイザベラを断罪する。
リゼットは聖女として認められ、王太子と結ばれる。
誰もが知っている筋書きだった。
なぜなら、この国には「女神の台本」があるからだ。
王族も、貴族も、神殿も、学院の教師も、皆それを信じている。
台本に従えば、国は繁栄する。
台本に逆らえば、災いが起きる。
だから、物語の登場人物に選ばれた者は、その役を演じなければならない。
聖女は清らかに。
王太子は勇敢に。
悪役令嬢は、愚かに、醜く、嫉妬深く。
けれど、イザベラ・ノクス公爵令嬢には一つ問題があった。
彼女は、台詞をまったく覚える気がなかった。
「リゼットさん、あなたのような平民が殿下のそばにいるなんて、身の程を……」
そこまで言って、イザベラは手元の台本を見た。
「あら、つまらない台詞ですわね」
王太子アベルが顔をしかめる。
「イザベラ、今は大事な場面だぞ」
「存じておりますわ」
イザベラは台本を閉じた。
そして、リゼットに向かって優雅に微笑んだ。
「リゼットさん、その靴、左右が逆ですわ」
「えっ」
「あと、殿下の後ろに立つときは半歩下がりなさい。王族の隣に立つなら、転ばない歩き方くらい覚えることですわ」
周囲の生徒たちはざわめいた。
本来なら、ここはイザベラがリゼットを侮辱し、リゼットが涙を浮かべ、王太子が彼女をかばう場面だった。
しかし実際には、リゼットは慌てて靴を直し、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます、イザベラ様」
「感謝しないでくださいませ。悪役らしく見えませんわ」
イザベラはそう言って、扇で口元を隠した。
王太子アベルは苛立った。
「君はいつもそうだ。台本通りに悪事を働けばいいものを、なぜ余計なことをする」
イザベラは笑った。
「殿下こそ、台本通りに恋をするのは楽しいですか?」
アベルは答えられなかった。
その日から、学院の物語は少しずつ狂い始めた。
イザベラは、リゼットの教科書を隠す場面で、代わりに分かりやすい参考書を机に置いた。
リゼットのドレスを破る場面で、縫製の甘い部分だけを切り落とし、仕立て直させた。
リゼットに毒入り紅茶を飲ませる場面では、紅茶を一口飲んで顔をしかめた。
「毒以前に、茶葉が死んでいますわ」
そう言って、茶会そのものを中止にした。
学院中が混乱した。
悪役令嬢が、悪役をやってくれないのである。




