第1章 鏡の中にいたのは、俺ではない
前世の俺は、どう控えめに表現しても格好いい人間ではなかった。
三十五歳、無職、独身。身長はそれなりにあったが、それ以上に体重があり、伸ばしっぱなしの髪と無精髭を整える習慣もとうの昔に失っていた。
高校卒業後に入った会社を数年で辞め、その後は短期の仕事を転々とし、いつしか外へ出ることそのものが億劫になった。親から渡される最低限の金で生活し、昼夜逆転した部屋の中でゲームと動画とネット小説を眺める。
女性と最後にまともな会話をしたのが何年前だったかも覚えていない。
そんな俺の人生は、大事件が起こるわけでもなく、あっけなく終わった。
その日も。
いつもと変わらない一日だった。
目を覚ましたのは夕方。
カーテンは閉めたまま。
部屋の中には空になったペットボトルとコンビニ弁当の容器が転がっていた。
「……もうこんな時間か」
誰に言うでもなく呟く。
スマホを見る。
通知は通販サイトとゲームだけ。
友人からの連絡など何年もない。
俺は布団から身体を起こした。
それだけで息が少し切れる。
「運動しないとな……」
そう言いながら。
もちろん今日もしない。
何度繰り返したか分からない言葉だった。
冷蔵庫から炭酸飲料を取り出し。
昨日買った菓子パンを食べる。
それからパソコンの電源を入れた。
ゲーム。
動画。
ネット小説。
気づけば外は真っ暗になっていた。
「……腹減った」
立ち上がろうとした。
その時だった。
「ん?」
胸の奥に。
妙な痛みが走った。
「……何だ?」
最初は軽かった。
寝違えたのかと思った。
だが。
数秒後。
「っ……!」
胸が強く締めつけられた。
息が吸えない。
「な……なんだ、これ……」
椅子から立とうとして。
脚に力が入らなかった。
そのまま床へ膝をつく。
心臓が異常な速さで鳴っている。
冷たい汗が額から流れた。
(救急車……)
スマホ。
机の上。
手を伸ばす。
届かない。
「くそ……」
床を這う。
ほんの二メートルほどなのに。
やけに遠かった。
指先が机へ触れる。
スマホが落ちた。
画面が光る。
それを掴もうとして。
腕から力が抜けた。
「……嘘だろ」
怖かった。
ものすごく。
俺はまだ三十五歳だった。
何もしていない。
いや。
何もしなかった。
仕事から逃げて。
人から逃げて。
外へ出ることからも逃げた。
明日やればいい。
来月から変わればいい。
そのうち痩せよう。
そのうち働こう。
そのうち誰かと話そう。
ずっとそう思っていた。
でも。
(そのうちって……)
いつだ。
胸の痛みが強くなる。
視界が暗くなっていく。
こんな時になって。
どうでもいいことばかり頭へ浮かんだ。
高校時代。
会社へ入った頃。
最後に友人と飯を食べた日。
母親が部屋の前へ夕食を置いていった時の音。
(俺……)
一体何をしていたんだろう。
別に。
世界一の人間になりたかったわけじゃない。
金持ちになりたかったわけでも。
有名になりたかったわけでもない。
普通に外へ出て。
普通に働いて。
誰かと話して。
たまには笑って。
それくらいで良かったはずなのに。
「……もう一回」
声になったのかも分からない。
(もう一回だけ)
もし。
もう一度人生をやれるなら。
今度は。
少しくらい外へ出よう。
誰かに話しかけられたら。
逃げずに返事くらいしよう。
何か一つでも。
自分からやってみよう。
そんなことを考えながら。
俺の意識は途切れた。
……そして次に目を覚ました時。
「……誰だ、こいつ」
俺は鏡の前で固まっていた。
そこにいたのは、見覚えのない少年だった。
銀色の髪は、月光を細く紡いだように滑らかで、前髪の奥に覗く瞳は澄み切った青。肌は雪のように白く、鼻筋は端正で、どこから見ても現実離れした顔立ちをしている。
細身ではあるものの、服の下には無駄のない筋肉がついていた。
年齢は十八歳。
そして何より恐ろしいのは――。
「……これ、俺なのか?」
鏡の少年も同じ言葉を口にした。
頬をつねれば、鏡の少年も頬をつねる。
右手を上げれば右手を上げる。
間違いない。
俺だった。
その瞬間、知らない記憶が頭の中へ雪崩れ込んできた。
名前はレオン・アルセリア。
アルセリア辺境伯家の三男。
魔力は平均程度。
学問も平均。
社交性に至っては、貴族の子息としてかなり問題あり。
ただ一つだけ。
俺には、この世界でもほとんど存在しない異常な能力が与えられていた。
《剣聖》。
そう意識した瞬間、身体の奥から大量の知識が湧き上がった。
構え方。
踏み込み。
呼吸。
間合い。
重心。
相手の肩、腰、視線、指先から次の攻撃を読む方法。
片手剣、大剣、細剣、刀に似た東方剣、果ては折れた木の枝を武器として扱う技術まで。
「……いやいやいや」
俺は後ずさった。
「待て。おかしいだろ」
昨日まで、階段を上っただけで息切れしていた男である。
それが今では、剣を見るだけで何百通りもの攻撃方法が頭へ浮かんでくる。
試しに部屋の隅に置かれていた練習剣を握った。
その瞬間だった。
身体が勝手に動いた。
一歩。
腰を落とし。
剣を抜く。
ヒュン――。
空気が裂けた。
気づいた時には、反対側の壁に飾られていた花が一輪だけ落ちていた。
茎だけが綺麗に切れている。
「……怖っ」
自分でやったのに、自分が一番怖かった。
そこで扉が叩かれた。
「レオン様、お時間でございます」
「時間?」
「本日は王立セレスティア高等学院へのご入学日でございます」
俺は固まった。
記憶がさらに繋がる。
王立セレスティア高等学院。
王国中から十八歳以上の貴族子弟や、特別な才能を認められた者だけが集められる三年制の高等教育機関。
剣術。
魔術。
政治。
外交。
領地経営。
そして社交。
卒業生の大半が、この国の中枢を担うという超名門校。
つまり。
「……学校?」
前世で引きこもりだった俺が?
貴族だらけの?
社交必須の学校へ?
「無理だろ……」
* * *
その一時間後。
俺は巨大な馬車から学院を見上げていた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。
学園というより宮殿である。
白亜の校舎がいくつも連なり、尖塔の先には青と金の旗が翻っている。中央には噴水があり、その周囲には見たこともない花が咲き乱れていた。
そして何より。
(……美男美女しかいないんだが)
馬車から降りてくる学生たちは、揃って育ちの良さそうな者ばかりだった。
その中でも目立つのは、やはり貴族令嬢たちだった。
学院の女子制服は、濃紺の上着に白いブラウス、膝丈のプリーツスカート。そして白いニーソックスを合わせるのが基本らしい。
栗色の長い髪を背中まで流した、見るからにおっとりした伯爵令嬢。
金髪を縦巻きにした、いかにも気位の高そうな公爵令嬢。
短い赤髪に剣を提げた、騎士家出身らしい活発な少女。
青みがかった黒髪を真っ直ぐ腰まで伸ばした、東方系の端正な令嬢。
白いニーソックスに包まれた健康的な脚で石畳を歩く彼女たちは、それぞれ雰囲気がまるで違う。
上品。
快活。
冷静。
華やか。
人見知りらしく侍女の陰へ隠れている子までいる。
(……無理だ)
俺は真顔になった。
画面の中ならいくらでも見られる。
しかし生身の女性は別だ。
しかも全員、貴族。
下手なことを言えば家同士の問題になりかねない。
(目立つな。絶対に目立つな。三年間、背景になるんだ)
決めた。
俺の目標は平穏な学園生活。
剣聖だろうが何だろうが、使わなければいい。
適当に授業を受け、友達は無理でも知り合いを二、三人作り、無事卒業する。
それで十分だ。
そう思って歩き始めたのだが――。
「ねえ」
背後から声をかけられた。
身体が硬直した。
女性の声。
(俺じゃない。俺じゃない。絶対別の奴だ)
「そこの銀髪の方」
俺だった。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは、先ほど見かけた栗毛の令嬢だった。
柔らかな栗色の長髪を腰近くまで流し、深い緑色の瞳をしている。白いニーソックスと学院制服を品よく着こなし、立ち姿にも育ちの良さが表れていた。
「あの……これ、落とされましたよ」
差し出されたのは、一枚の学生証だった。
俺は自分の胸元を確認する。
ない。
「……俺のです」
「やっぱり」
令嬢が微笑む。
まずい。
近い。
女性が近い。
しかも美人。
前世のコミュニケーション能力では処理不能だった。
「あ、ありがとう……ございます」
敬語なのか貴族口調なのか、自分でも分からない中途半端な返答になった。
彼女は少し驚いたように瞬きをする。
「同級生なのですから、そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
「緊張してない」
即答した。
嘘だった。
ものすごく緊張している。
「そうですか?」
「はい」
「お顔、少し赤いですけれど」
「暑いから」
「今日はかなり涼しいですが」
「……体質です」
もう駄目だ。
開始三分で不審者になった。
ところが栗毛の令嬢は、馬鹿にするどころか口元を押さえて小さく笑った。
「面白い方ですね」
「どの辺が……」
「全部です」
逃げたい。
「私はエリシア・ローゼンベルク。ローゼンベルク伯爵家の次女です」
スカートの裾を軽く摘み、優雅に一礼する。
「あなたは?」
「レオン・アルセリア」
「アルセリア辺境伯家の……?」
「三男です」
「では、同じ剣術科ですね」
俺は固まった。
「……なんで分かるんですか?」
「アルセリア家は王国でも有名な武門ですもの」
初耳だった。
いや、記憶を探ればちゃんと出てくる。
辺境伯である父も、二人の兄も軍人。
長兄は騎士団。
次兄は魔導騎兵隊。
そして三男の俺だけが、これまで剣術の才能をほとんど見せなかった。
(まずいな)
剣聖スキルなど発覚したら、面倒になる未来しか見えない。
「では、入学式で」
エリシアが去っていく。
俺はその後ろ姿を見送りながら、胸を撫で下ろした。
「……なんとか会話できた」
それだけで達成感があった。
だが安心したのは三十秒ほどだった。
学院中央から鐘が鳴る。
新入生たちが一斉に講堂へ向かい始めた。
俺も流れに乗ろうとした、その時。
「きゃっ!」
声が上がった。
見ると、馬車を引いていた巨大な馬が暴れている。
何かに驚いたらしい。
御者が手綱を引くが止まらない。
馬車が横へ傾く。
その進行方向には、一人の女子生徒がいた。
金髪の縦巻き。
さっき見かけた公爵令嬢らしい少女だ。
周囲が悲鳴を上げた。
彼女も逃げようとするが、足がもつれた。
(危ない)
そう思った。
次の瞬間。
景色が変わっていた。
「……え?」
俺は彼女の前に立っていた。
自分でも、どうやって移動したのか分からない。
剣聖スキル。
身体が反射的に動いたのだ。
迫る馬。
俺は腰の練習剣へ手を添えた。
(斬るな)
馬に罪はない。
なら。
一歩前へ。
馬の鼻先を避け。
手綱を掴み。
身体を捻る。
力では止めない。
進行方向だけを変える。
「おおっ……!」
御者の声。
暴走していた馬が円を描くように向きを変え、最後には俺のすぐ横で嘶きながら停止した。
静まり返った。
学院前にいた何百人もの視線が、一斉に俺へ集まっている。
(……やった)
違う意味で。
(終わった……)
絶対に目立たないと決めてから、まだ十分も経っていない。
背後を見る。
助けた金髪の令嬢が、石畳に座り込んだまま俺を見上げていた。
宝石のような青い瞳。
整いすぎた顔。
そして、ものすごく気の強そうな表情。
「あなた……」
「怪我は?」
「ありませんけれど……今の動きは何ですの?」
「偶然です」
「そんな偶然がありますの!?」
ですよね。
人混みの向こうでは、エリシアが目を丸くしてこちらを見ている。
教師らしき騎士たちも集まり始めた。
「今の足運び……」
「何者だ、あの銀髪は」
「アルセリア辺境伯家の三男らしいぞ」
「三男? 剣才がないと聞いていたが……」
ひそひそ声が広がっていく。
俺は空を見上げた。
(神様)
いるのか知らないが、一応言っておこう。
(剣聖スキルをくれたことには感謝する)
ただ。
(コミュ障まで治してくれとは言わないから、せめて目立たず生きる方法も一緒に教えてほしかった)
そんな俺の願いを嘲笑うように、入学を告げる二度目の鐘が高らかに鳴り響いた。
こうして、元キモデブ引きニートだった俺――レオン・アルセリアの、平穏とはほど遠い貴族学園生活が始まった。




