第一話 薔薇と先生
私が先生と出会ったのは、しとやかな雨が降る日だった。
庭に植わった梔子の花を傘もささずに見ていた先生を、私は今でも思い出せる。
先生の泣きそうな淡い笑みには雨の匂いに混ざった梔子の香りが漂っていた。
あれから五年、私はずっと許されない恋をしている。
「お嬢さま、お体がすぐれませんか?」
心配そうな声音に、私は自分がいつの間にかぼんやりとしていたことに気づいた。
「平気よ。まとめかたを考えていたの」
万年筆を握りなおし、手元の原稿用紙にそれらしい言葉を書き連ねていく。
窓硝子を雨粒が伝う。外では梔子の白い花が咲き誇っている。その光景に、先生と初めて出会った日のことを思い出していたなどと、本人に言えるはずもない。
先生が用意した今日の課題は二つ。阿蘭陀の植物学書の翻訳と、翻訳した植物の特徴を読み解き、西洋医学と東洋医学の二つの視点から薬の効能をまとめること。
月に一度、特別に与えてくださる課題で、私にとっては一番の楽しみでもある。
いつもならば喜々として筆を走らせる私が、今日は窓の外を見て呆けているともなれば、先生が憂慮するのも無理はない。
「ほら、できたわ。確認して頂戴」
私は本当に体調が悪いわけではないと先生へ示すために、わざとらしいほど無邪気を装って先生へ原稿用紙を手渡す。
先生はそれを丁寧に読み、下げていた眉と口角をようやく持ち上げた。
「うん、よくできていますね。考察も素晴らしいです」
私へ原稿用紙を戻して、先生は懐中時計を開く。時刻を確認した先生は顔を上げた。
「今日はここまでにしておきましょうか」
「もう? いつもより一時間も早いわ」
「ですが、きりも良いですし。お嬢さまもあまり無理をしてはいけませんよ」
課題に対する反応から、てっきり先生を説得できたものと思っていた。が、それは思い違いだったらしい。先生はいまだ私を気遣わしげに見つめている。梅雨の時期は特に私が体調を崩しやすいということを知っているからだろう。
「今日は本当に調子が良いのよ」
私がむっと頬を膨らませると、先生は苦笑した。
「お嬢さまのお体は、お嬢さまが思っている以上に繊細なんですよ」
「あら、看護婦になるためにはたくさんの勉強が必要だとおっしゃったのは先生でしょう?」
「体あってこその勉強ですから」
「もう。いくつの頃の話をしているの? 私が心臓移植を受けたのは七つの時だし、お医者さまからお墨付きをいただいて退院したのは十二の時よ。五年も経ってるんだから」
「それは、そうですが……」
先生はいよいよ言葉に詰まり、嘆息混じりに私たちの間に置かれていた分厚い植物学書の頁をめくった。
「仕方ありませんね。では、この項目で最後にしましょう」
「ふふ、そうこなくっちゃ」
書かれた蘭語に指を滑らせ、辞書を引き、紙に文字を書き留める。
外に降る雨のことも、咲き誇る梔子のことも忘れて、ただ先生をこの場に引き止めるために私は万年筆を動かした。
その間、先生は難しそうな小説に目を落としていた。
辞書で調べるふりをして、私は時折、先生の横顔を盗み見る。
絹のように艶やかな黒髪が先生の切れ長な目元に影を作っていた。
――綺麗な人。
初めて会った時から先生の印象は変わらない。作られたような美しさであるのに、どこからか家族のような親しみと胸を締め付けるような切なさがこみ上げてくる。
先生の夜空を閉じ込めたような瞳が文章を追って小刻みに揺れる。
あまり見ていると気づかれてしまいそうだと、私も慌てて辞書へ視線を戻した。
――こんなことをしなくても、なんの理由もなく、ずっと傍にいられたら良いのに。
叶わない願いを胸の奥にしまい、私は再び原稿用紙に向き合った。
最後の読点を書き、うんと伸びをする。
「先生」
声をかけると、先生は文庫本を静かに閉じた。
「できましたか?」
「ええ」
原稿用紙を渡す手に少しばかりの緊張が走る。
先生が確認を終えたら、今日の授業は終わりだ。家庭教師の先生が次に来るのは三日後。ここから先生を待つ長い三日が始まると思うと、どうしたって憂鬱な気持ちに苛まれる。
先生はそんな私の気持ちも知らずに原稿用紙を読み込むと、できの良い生徒にそうするみたいに穏やかな笑みを浮かべた。
「こちらもほとんど完璧ですね。僕が教えることがなくて申し訳ないくらいです」
「そんなことないわ。先生のおかげで医学の勉強ができるんだもの」
「お嬢さまは、教材さえあればお一人でも問題ないと思うんですがね」
「でも、私、先生がいないと不安だわ。女学校でも医学のことは教えてもらえないし」
だから、いつまでも先生にいて欲しい。暗にそう伝えたつもりだったが、先生はまるで子供か妹をあやすように目を細めた。
「大丈夫ですよ。お嬢さまはすでに充分立派な志をお持ちですから」
「立派? 幼少の頃に世話になったから、恩返しがしたいって思うのは普通のことでしょう?」
「普通は、病院に世話になることも多くありませんよ。なっても、恩を返さぬ人がほとんどです」
「知ってるように言うのね」
私の返答に、先生は返事をしなかった。
先生は過去の話をしたがらない。個人的な話も。
きっと、今の私との会話になにかしらがあったのだろう。教えてほしいと思うと同時に、踏み込んで先生が離れてしまっては嫌だという思いが混ざる。
「……とにかく、先生は家庭教師なんですから。きちんと働いてくださいませ」
因循な気持ちをごまかすように言えば、珍しく先生が笑声を上げた。
「はは、そう言われては返す言葉がありませんね」
くしゃりとした幼い笑みに心が跳ねる。
こういうところがずるいのだ。いつもは十七も年が違うと言って大人ぶるくせに、時々少年のような笑顔を見せる。
「……まったく」
呆れが口から漏れ出た。
これ以上は心臓に悪い。私の場合冗談でなく、それこそ物理的に負荷がかかれば、また体調を崩してしまうかもしれない。
私はなけなしの理性と持ち前の我慢強さを発揮して教材を片付けた。今日はお開きだ。先生が持ってきてくださった植物学書と蘭語の辞書を返却すると、彼は恭しくそれを受け取って鞄にしまう。
「それでは、そろそろ失礼いたします」
先生は長椅子に畳んでかけていた黒い羽織を手に取る。彼がそれを羽織った瞬間、ふわりと梔子の香りが広がった。
甘く、異国情緒を感じさせる独特な香り。私の好きな先生の匂い。
今日何度目か胸が締め付けられる。甘く切ない痛みに慣れることはない。
思わず胸元に手を添えると、繻子のリボンに指先が触れた。
先日、婚約者からもらったものだ。苦い思いが顔を覗かせ、私を現実に引き戻す。
――これは、望んではいけない恋なのよ。
自身に言い聞かせて顔を上げると、身支度の済んだ先生が私を怪訝な顔で見つめていた。
「お嬢さま? やはり体調が……」
「なんでもないわ、行きましょう」
私が看護婦になりたいと願うよりも、もっと叶わない恋。早々に諦めるべきもの。
私と先生はただの家庭教師と生徒なのだ。たとえどんなに先生が私に優しくしてくださり、私が先生を恋しく思っていようとも。
私には婚約者がいるのだから。




