6話「決裂する思い」
二人は赤い絨毯の敷かれた廊下の壁際に並んで立っていました。
しばらくの間二人は黙ってローラが部屋の扉を開けるまで待っていました。
しかし、中々扉は開かず沈黙が流れていきました。「さっきまで居たあのボイラー室の扉の辺りに、私達よりももっと幼い2人の子供が居たの。腕や足を拘束され、首輪をつけられて憔悴しきった顔で私を見つめてきた。私‥さっきからあの子達のことが忘れられなくて、助けに行きたい」
グレイシアは俯きながら静かにそう言いました。エリオットはしばらく俯いていましたが「もうやめとけよ」と牽制するように強く言いました。
グレイシアは思わず彼の方を振り向き、二人はお互いに向かい合いました。「目的を忘れたのか?お前はルーヴァント岬まで行くためにこの船に乗り込んだんだろ。お前は大切な父親の遺言に書かれていた通り、真実を知るためにここまで来たんじゃないのか」
彼は真っすぐに彼女を見つめながら諭すように言いました。
「下手なことをして自分が死んだらどうする」彼は最後に低い声でそう付け加えました。
グレイシアはエリオットが自分のことを思ってそう忠告してくれているのは、痛い程分かっていました。ですが、恐らくあそこで拘束されていた子供達2人は、昨日列車の中で侯爵の手下がショーに使うと言っていた子供たちなのではないかとグレイシアは推測していました。
グレイシアとエリオットは運よくあの列車で出された食事を食べなかったから、こうして生き残ることが出来たのです。逆に言えば、あの時死んでいても全くおかしくありません。
グレイシアはあの列車で、テーブルの下で亡くなった多くの子供達の姿が、脳裏から離れませんでした。
「今ならまだ間に合うわ。あの子達だけでも助けたいの」彼女は決意を込めて再びそう言いました。
「助けられたら自分は犠牲になっても良いっていうのか。全くお前らしいな」エリオットは敢えて非難するように言いましたが、グレイシアは態度を全く変えないどころか、彼を突き放すように冷たくこう言いました。
「ええ、そうよ。だからもう私のことは忘れて」これにはエリオットも怒ってこう言い放ちました。「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ!」グレイシアも負けずに言い返しました。
「エリオットこそ!貴方はいつも私を助けてくれる。でも今回ばかりは違うわ。私は得体の知らない誰かに追われている身なの。お父さんも殺されてしまった。こんな私と居たら貴方まで確実に危険な目に遭う」彼女は珍しく溢れる感情を露わにしてそう言いました。
「そんなの今更だろ!」彼はそう言うと荒立つ自分の気持ちを抑えるために拳を握りました。「私‥いつも守られてばかりじゃない。そんな自分が不甲斐ないわ」グレイシアは彼から目を逸らすと躊躇いがちにこう言いました。
「貴方はこれまで一度も私を憎らしいと思ったことが無いと言える?周りと違って外へ働きにも出ず、16歳になる今の今まで世間知らずに本を読みながら、まるで父親の様に接してくれる優しいお爺さんに守られて育った私を」彼女は自嘲的にそう言いました。彼女は今まで自分がずっと胸の内で押し殺してきた思いを勢い余って全て打ち明けたのです。
グレイシアは黙っていましたが、緊張と後悔で口の中が自然と酸っぱくなりました。
エリオットはそんな彼女の言葉を聞いて思わず目を見張りました。エリオットは胸の中で色んな感情が一気にうごめきましたが、深く息をして冷静さを取り戻そうとしました。
「お前、もしかして昨日列車であのクズ野郎たちに言われたこと、まだ気にしているのか?」エリオットは、グレイシアが彼らに絡まれていたことを思い出しそう言いました。
「別にそう言う訳じゃないわ」彼女は俯きながらそう言いました。「貴方は急に父親が出て言っても、周りから非難されたとしてもめげずに頑張っているじゃない。それに比べて私は…」彼女は自分を卑下して言いました。彼女は、本当はずっと周りの子供達やエリオットとの差を感じながら過ごしてきたのです。
「お前はお前だろ。お前がずっと努力しているの、俺は知っているよ。凄いと思っていたけどな。いや‥‥本当はそれと同じくらい可哀そうだとも思っていた」エリオットは言いづらそうにそう言うと、彼女から距離を取るようにグレイシアの居る壁際から少し離れました。
「お前はあの爺さんに縛られているように思えたからさ。いくら危ないと言ったって麓の街くらい連れて行ってやればいいのにと思っていた。お前は街へ行って遊びたい。本よりかわいいドレスが欲しいって俺には言うくせに、爺さんの前ではさもお勉強が大好きですって素振りでずっとあの山のお家に閉じ込められて、いつの間かそんな爺さんの世話を付きっきりでやっている。それを何一つ嫌な顔せずにこなしているお前を見ているとさ、俺にはそんな甲斐甲斐しいことは出来ないと思っていた」彼は急に冷めたような表情で淡々とグレイシアに言いました。
グレイシアは彼から一気に心理的な距離を置かれたように感じて苦い気持ちがこみ上げました。「そんなことないわ」彼女は俯きながら小さくそう言うと、エリオットに近づきしっかりとこう言いました。
「私は助けに行くわ。止めないで」エリオットは自分が敢えて冷めたような態度をとっても、全く変わらない彼女の態度に切なさと強い憤りを感じました。
「もういいや。お前は自分を犠牲にして、誰かのために一生尽くして死にたいんだろ?」エリオットはグレイシアの方を向くと呆れたようにそう言いました。
「そんなの勝手にやっていろ。俺は知らない」そしてエリオットは最後にグレイシアにそう言い残すと、彼女に背を向けて長い廊下を歩いて行きました。
「これで‥‥よかったのよ」グレイシアは小さく呟きました。彼女が眉を悲しげにひそめていると、勢いよくドアが開く音がしました。
「中に入って!!」ローラは無邪気な笑顔でグレイシアに向かって言いました。グレイシアは気を取り直して、ヒューバートン男爵家の部屋にお邪魔することにしました。
彼女は非常に運が良かったのです。何故なら、彼女が部屋へ入った直後にジルフォード侯爵の手下がこの部屋の前を通りがかったからです。
グレイシアは恐る恐る部屋の中を見回しました。それは広々としたリビングのような部屋で絵画や彫刻、花瓶に飾られた鮮やかな花に、花柄の立派なソファーとテーブルが中央にありました。
調度品はどれも豪華な作りで、グレイシアは今まで自分が住んでいた家の部屋と全く異なる華やかな内装に呆気にとられていました。
彼女がきょろきょろと辺りを見回していると、ローラは彼女のズボンの裾を引っ張ってリビングの先の部屋に案内しました。そこは小さな部屋で天蓋付きのベッドが少し離れた位置に二つあり、大きな衣装棚に立派な鏡のついた引き出し付きの化粧台がありました。
そして、その床には沢山の荷物の入った大きな鞄がどさりと置かれていました。グレイシアはその鞄から丁寧に中身を取り出しているやや丸まった背中のふくよかな女性に目が留まりました。
彼女は紺色のワンピースに白いエプロンを身に着け、丸みの帯びた皺の刻まれた丸みのある顔に、白髪交じりの茶髪にフリフリのヘッドドレスを付けていました。
グレイシアの視線に気づいた彼女はにっこりと微笑みました。グレイシアも彼女に会釈すると、見かねたローラがグレイシアの為に彼女を紹介しました。
「メイドのメアリーよ!凄く優しいの!後、この部屋には貴方と私と、メアリーしかいないから安心して」ローラはそう言って、天蓋付きのベッドまで駆け寄ると、赤いベルベッドのカーテンをめくり、ふかふかのベッドの上に飛び乗りました。
そして体を反対向きにして、ベッドに頬杖をつきながら、くりくりとした目でグレイシアの方を見ました。「私に会いに来てくれたんでしょう?私も貴方のことがずっと恋しかったの」
ローラはそう言うと恥ずかしそうに枕をぎゅーっと抱きしめてジタバタしました。そしてグレイシアに自分の側に座るようにポンポンとベッドの上を叩きました。
グレイシアは恐る恐るそのベッドの上に座りました。するとローラは体をすぐに起こしてグレイシアと横並びになって座り、彼女の両手を包むようにとりました。
「貴方は私の命を救ってくれた、王子様だわ」ローラは芝居がかったようにグレイシアの瞳を見つめて言いました。先程から感じていたローラの態度に違和感が募っていたグレイシアは、彼女の誤解を解こうとこう言いました。
「貴方が私のことを思ってくれているのは嬉しいのですが、実は私…」グレイシアは自分が男性ではなく女性だということを、ローラに伝えようとしましたが、彼女があまりにも目を輝かせながらこちらを見ており中々言い出せませんでした。
「貴方の名前はなんていうの?」ローラはそう言うと小首を傾げました。「グレイシアです。ミス・ローラ」彼女は恭しく言いました。
「もっと自然に話して!お友達みたいに」彼女はそう言うと、グレイシアの灰色の瞳を惚れ惚れするように見つめて言いました。
「貴方の瞳って、凄く綺麗‥あれ」ローラはそう言って一瞬黙り、再びまじまじと彼女の顔全体を見て驚いたように言いました。
「やっぱり、貴方のお顔、お姉様にそっくり」ローラがそう言うと、鞄から洋服を取り出していたはずメアリーも急にこちらに体を向けてそう言いました。
「あら、確かにそうですよね!私も先程そう思いましたよ」グレイシアは二人から似ていると言われて、少したじろぎました。
ローラや夫人の髪の色はグレイシアと似たブロンドの髪でしたが、瞳の色は薄い水色でした。
グレイシアの瞳の色は灰色だったものですから、彼女の姉は母親譲りの水色の瞳ではないのだと思いました。だからと言って彼女はこの二人になんと返したらよいか分かりませんでした。
黙っている彼女にローラはこう言いました。「そんなことより、やっとこのクルーズが楽しくなりそう!!グレイシアのおかげ!!」彼女は興奮気味にベッドの上を飛び跳ねはじめました。
「ローラ様!!危ないですよ」メアリーは慌ててローラを止めようとしましたが、彼女は言うことを聞かずにびょんびょんと楽しそうにジャンプをしていました。
「こんな退屈な船乗りたくなかった!舞踏会に出るのも憂鬱!全然楽しみじゃないもん!」ローラはそう言い放つと急に疲れたのかジャンプするのを止めて、グレイシアの隣に座りました。
彼女はベッドを降りるとすぐにメアリ―のいる方に向かって歩いて行きました。そして、大きな鞄の中から一冊の絵本を取り出しました。
ローラはそれを持って再びベッドまで戻ると、それをグレイシアに渡して無邪気にこう言いました。「この本、読んで!」グレイシアはその絵本を受け取りまじまじと表紙を見つめました。
その絵本の表紙には題名である、お姫様と王子様の冒険という金色の文字が書かれていました。
彼女はその本に見覚えがありました。そして、可愛らしいローラの顔を見つめました。「この絵本、読んだことあるの?」ローラは、グレイシアが懐かしむような表情を見せたものですからそう聞きました。
「ええ、6歳の誕生日にお父さんがこれと同じ絵本を私にくれて、読み聞かせてくれたわ」グレイシアは本の中身に目を落としながらそう言いました。
彼女は思わず感傷に浸りそうになりましたが、ぐっと堪えていました。
「じゃあ、私にも読み聞かせて!」ローラはそう言って、グレイシアに絵本を読むように促しました。「ローラ様、その絵本は後で私が読んで差し上げますよ」メアリーは何気なくそう言おうとしましたが、彼女がそう言う前にグレイシアは口を開いて、物語を読み始めました。
メアリーは思わず目の前の光景に驚きました。彼女が驚いたのも無理はありません。なぜなら、煤まみれで小汚い服を着た、見るからに貧しそうな子供が、裕福な貴族の娘に絵本を読み聞かせているのです。
グレイシアは抑揚のついた声で、物語をすらすらと読み続けました。ローラはうっとりとした表情で、グレイシアが両手に持っている絵本の美しい挿絵をのぞき込みました。
メアリーはこの光景を目にして、驚いていましたがお嬢様の表情を見て微笑ましく思いました。この船に乗り込むまでの彼女は大変不機嫌でしたし、グレイシアと再会しなければ彼女はずっとあの態度のままだっただろうと思うからです。
メアリーも安堵したように微笑みながら、二人を見守っていました。グレイシアが絵本を読み終わるとローラは拍手をしました。
「素敵なお話!!今度は違う本を読んで!」彼女は本を新しい本を持ってこようとまたベッドから降りて、鞄から絵本とは異なる系統の分厚い学問の本を取り出しました。
その瞬間、3人が居る部屋のドアがゆっくりと開いたものですから、3人とも揃ってドアの辺りを振り返りました。するとそこには火照った顔で苦しそうな表情を浮かべているグレイシアと瓜二つの美しい少女の姿がありました。
彼女はリリィ・プライス、ヒューバートン男爵家の長女でした。彼女はそろりそろりと中へ入り、後から先程まで一緒に居た執事のジェイスが入って来ました。彼はよろけたリリィを軽々しく腕に抱きかかえると、グレイシアとローラが座っているベッドではなくもう一つのベッドに、彼女を寝かせました。
メアリーは血相を変えてリリィの元へ行くと、彼女の額に手を当てました。「まあ!!大変、酷い熱だわ!!」メアリーはびっくりした声を上げてあたふたと部屋を出ていきました。
そしてすぐにメアリーは冷水の入ったポットとカップ持って現れました。リリィはゆっくりと体を起こして、メアリーからそのカップを受け取ると、口を付けて飲もうとしました。
その瞬間、再びドアが今度はバンと大きな音を立てて開きました。その場にいた一同は皆荒々しいその音に気づき、揃って扉の方を振り返りました。
「リリィ!!お前は本当に役立たずな娘だね!今日の舞踏会は大事な、大事な絶好の機会なんだよ!それなのに熱を出すだなんて信じられない!!」ヒューバートン男爵夫人のエミリー・プライスがそう叫びながら恐ろしい形相でずかずかと脇目も振らずにリリィの居るベッドの前までやって来ました。
彼女は昨日噴水広場でギャングの襲撃から守った際に夫人を初めて目にした時、こんなに美しい女性が存在するのかと内心驚いていました。
ですが、彼女は助けた自分らに酷い言葉を投げつけてきましたし、先程ロビーでローラを怒鳴り周囲の注目を集め、見るからに具合の悪そうな自分の娘に怒鳴っているのを目にして、グレイシアにとってもう彼女は感情の起伏の激しい、恐ろしい人にしか見えなくなりました。
「いいかしら?この舞踏会はお前の結婚がかかっているんだよ。これはお前だけの問題じゃない。私達ヒューバートン男爵家一族の運命がかかっているんだよ。必ず出席してジルフォード侯爵の息子の心を射止めるのよ。分かったわね!!」夫人はリリィ向かって指を指しながら、大声でまくし立てました。
彼女はヒューバートン男爵家の長女であり、グレイシアと同い年でした。
彼女の瞳はやはりグレイシアと同じ灰色の瞳でしたが凍り付いたような目で、夫人を見上げていました。リリィは恐怖の余り手に持っていたカップを落としてしまいました。
カップから水が派手に零れ、掛け布には大きな染みが出来ました。それを見かねたメアリーは、慌ててその掛け布を鞄から取り出したタオルで拭き始めました。
「これから始まる茶会にはなんとか、出席します。でも舞踏会へは…」リリィは消え入りそうな声でそう言いました。
「腑抜けたことを言わないで!茶会だけに出席しようだなんて、これ以上馬鹿なことを言わないで頂戴!!」夫人は苛立ちの余り、血管が破裂しそうな程顔を赤くさせて怒鳴りました。
グレイシアはこの隙にベッドの下に隠れようと思いました。逆上しているこの夫人に、部屋に居ることが彼女にバレたら自分の命は無いと思ったからです。
しかし、時すでに遅く夫人はすぐにグレイシアを見つけるとさらに怒りを露わにしました。「何故、この汚い灰色の溝鼠みたいな子供がこの部屋に居るのよ!!ローラ、どうして私の言うことが聞けないの!!」夫人は容赦なく恐ろしい剣幕でローラに怒鳴りました。
ローラは恐ろしさの余り急いでメアリーにしがみつきました。「奥様、その方はグレイシアと言うのですよ。ローラ様に絵本を読み聞かせてくださりました」メアリーは夫人を宥めるように優しく言いました。
これを聞いた夫人は笑い話でも聞いたかのように高らかな声を上げて笑うと、グレイシアを睨みつけて言いました。
「何を言うかと思えば、メアリー。私にくだらない冗談をするのはよしてほしいわ。バージュウェイ育ちの小汚い子供なんかが文字なんて読めるはずがないでしょう!!!」グレイシアは決して態度には出しませんでしたが、夫人のその嫌味ったらしい言い方と、ヒューバートンの領主の夫人であるにもかかわらず、その責任下にある領地であるはずのバージュウェイの街を馬鹿にしたことに対して嫌悪しました。
グレイシアは何も言い返さず、静かにローラが次に彼女に読んで貰おうとして鞄の外に出した分厚い学問の本を手に取ると、中身をすらすらと読み上げました。
グレイシアが難解な文章まで読めることをまざまざと見せつけられた夫人は思わず尻込みしました。そして、考えを改めたのか彼女にこう言いました。
「お前、昨日噴水広場で見た時から思っていたけれど、本当に髪の色も背丈も顔立ちも似ているし、なんといってもその灰色の目がリリィそっくりだわ」夫人はまじまじとグレイシアとリリィの顔を交互に見て言いました。
グレイシアは本を鞄の中にそっと戻すと、彼女は何を言い出すのだろうと緊張した面持ちで立っていました。夫人はそんなグレイシアの傍まで近寄ると、彼女のくたくたのシャツの襟元をグッと掴み、顔を近づけ見下すような冷やかな目でこう言いました。
「お前、リリィのふりをして舞踏会に出なさい。従わなければこの船から海に突き落とすわ」グレイシアは夫人の言葉に驚き、目を丸くしました。
体中に冷や汗をかき、突然そんなことを言われて戸惑い頭がついていきませんでした。夫人はグレイシアの襟元から手を離すと、その手を汚い物にでも触れたかのようにハンカチで拭いていました。
グレイシアはその仕草を目の当たりにして、自分が軽蔑されていると強く感じました。
「やだ!!グレイシアはずっと私と一緒に居るの!!」ローラが駄々をこねるように言いましたが、夫人はピシャリと言いました。
「黙りなさい!!これ以上口答えしたら、お前も海に突き落とすわよ!!」夫人は恐ろしい形相でローラを睨みつけ脅しました。ローラは泣き出してメアリーにしがみつきました。
「奥様、本当によろしいのですか?」彼は夫人の元にさり気なく近寄るとそう耳打ちしました。ジェイスは夫人が怒り狂うことは日常茶飯事だったものですから、すっかり慣れていました。
「今日この船のクルーズに招待されたこと自体が名誉あることなのよ。しかもジルフォード侯爵が主催しているのなら立場上、出ないわけにはいかないわ。それに舞踏会にリリィが出られないことがリーフウッド男爵夫人のあのクソ女に知られたら、嘲笑されるに決まっているわ!!!絶対に‥‥絶対にそんなの嫌よ」夫人はそう言って、手に持っていた扇子をへし折りそうな程強く握りしめました。
ジェイスに、夫人がリーフウッドの名前を出してきたので、内心うんざりしました。リーフウッド男爵家とヒューバートン男爵家はお互いにいがみ合っていたのです。
それというのも、リーフウッドはヒューバートンの隣にある土地で、広い鉱山や緑あふれる山々が豊富であり、なんといっても銃器の生産工場が多く、一部の土地には物騒で野蛮なギャング集団のアジトがあるという噂がありました。
そんな土地を治めるリーフウッド男爵は、隣にある土地のヒューバートンを侵略しようと企んでおり、一度戦争を起こし、両方に多額の損害が生じ因縁は解消されずそのままでした。
そういうわけですから、ヒューバートン男爵家とリーフウッド家は敵対しあっていることは、ほとんどの貴族が周知の事実でした。
「リーフウッド男爵家、ねえ…」ジェイスはやむを得ないかと思い、グレイシアの方を横目見ました。
するとジェイスは思いがけず、言葉を失いました。なぜなら、グレイシアがこんなことを口にしたからです。
「分かりました。ミセス・ヒューバートン。舞踏会に出席させていただきます。ただし条件があります」その場にいた一同はグレイシアに注目しました。
「この船のボイラー室に拘束されて、閉じ込められている子供達が居ます。私が彼らを助ける手助けをしてほしいのです」彼女の心からはすっかり戸惑いが消え、決心がついたように落ち着いた表情をしていました。
そして彼女の灰色の瞳は人を魅了させるほどの神秘的な美しさを放ち、その美しさは夫人も思わずたじろぐほどでした。しかし夫人はまたしてもグレイシアを嘲笑するようにこう言いました。
「この私に交渉を持ち掛けるなんて、本当に小賢しくって尊敬しちゃうわ」ギロリとグレイシアを睨むと、その態度とは裏腹にすぐにジェイスにこう命じました。
「ボイラー室までこの小娘を決して周囲に見つからないように連れていきなさい。私は先に茶会の会場へ向かうわ。リリィ、茶会には必ず出席しなさい」それから夫人は部屋を出ていきました。
グレイシアはまるで嵐のような夫人が出て行った後、思わずその場にへたり込みそうになりました。そんな彼女にジェイスが声を掛けました。
「ヒューバートン男爵夫人に意見するとは、貴方は素晴らしく肝の座った身の程知らずなようですね。気に入りましたよ」彼はそう言うと、眼鏡のふちを上げてウインクしました。
ジェイスはこの予期せぬハプニングを何故か楽しんでいる様でした。そんな彼とは違ってグレイシアは複雑な心境でしたが、ジェイスがついてきてくれることに感謝し、彼と一緒にボイラー室に行くことにしました。
部屋を出る際に、ローラが心配そうな顔でグレイシアを追いかけてきましたが、メアリーが彼女を止めました。リリィは本当にしんどそうな様子でしたが、彼女は部屋から出ていくグレイシアの姿を横目見て憂鬱な表情を浮かべました。
それからよろよろと化粧台の前に座り、引き出しから陶器で作られた頭に花冠をつけ花束を手にした、ドレスを着た大変可愛らしい小さな女の子の人形を大事そうに取り出しました。
彼女はその人形を優しく撫でて、何かを呟いていました。それから彼女は鏡に映る、自分のやつれた赤い顔を目にして、思わず泣き出してしまいそうになりましたがぐっと唇を噛み締めました。
そして彼女は張りつめた表情で、メアリーに髪型と化粧を直してもらうことにしました。その一方でグレイシアは部屋を出てジェイスと共にボイラー室までの道を急ぎました。
彼女は心の中でエリオットの安否を気にしていました。
「どうか、彼が危険な目に遭いませんように」彼女は心の中でそう祈りました。
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