5話「二人の侵入者」
グレイシアとエリオットは、生きた心地のしない長い夜をやり過していました。
その一方で、こんな恐ろしい事件が同じ列車で起こっていることなどつゆ知らず、後部車両に乗っている貴族達は皆優雅に過ごしていました。
列車は何回か燃料の補給のために停車しましたが、それ以外は事故も無くひたすら走り続け、翌朝には無事に目的地であるサンダースノー波止場に到着しました。
* * *
グレイシアが覚めたのは、朝日が昇ってから少し経った後でした。
列車が止まる際に発した汽笛のせいで嫌でも目が覚めたのです。
エリオットもその凄まじい音で彼女と同時に目が覚めました。
すると早速、昨日会った例のジルフォード侯爵の手下の二人が、グレイシアとエリオットの居る料理の残り香のする部屋までやって来て、手当たり次第に子供達を担ぐと荷台へと運び出し始めました。
グレイシアとエリオットは、勿論生きていましたから、死んだふりは出来ても体温や少しの鼻息で、生きていることが気づかれてしまわないか心配でした。
ですが手下二人は相当焦っている様子で、夢中になって駆け足で子供達を運び出していましたから全く気付かれませんでした。
なにせ子供達の死体を運んでいることが後部車両に乗っている貴族達に万が一バレてしまえば、大変なことになりますし、しばらくすればこの列車は車庫に戻ってしまうからです。
ですから、列車が到着して間もないこの間に作業を終わらせないといけなかったのです。
グレイシアとエリオットは、朝方の寒空の下で同じ柵付きの荷台に乱雑に放りなげられました。
そして荷台付きの簡素な馬車は凄まじい速さで走り出し、あっという間に倉庫前まで到着しました。
倉庫は簡素な石造りの大きな建物でした。
その倉庫前で怪しげな黒いローブを着た長身の男二人が待ち構えていました。
そして小太りの手下は馬から降りると、黒いローブを急いで身に着け、そこで待っていた二人の男達と三人がかりで荷台から子供達を倉庫内に移動させました。
後から次々に別の手下が乗った馬車が到着し、倉庫に子供達の死体がどんどん運ばれていきました。
倉庫内は木造で薄暗く、壁につるされたランプの明かりが辺りを照らしていました。
数隻の船が止まる波止場の倉庫と言えば、食料品や資材などの大量の荷物を仕分け、検品を行うための場所だと思いますが、それにはそぐわない内装をしておりました。
倉庫は、部屋の中心に物がなく、大広間の様になっていたのです。
部屋の隅に甲冑や剣、動物の体の一部に怪しげな液体の入った壺に、数冊の分厚い本が乱雑に並んだ本棚と黒い布がかかった”何か”が置かれたテーブルがありました。
そして驚くべきことにその床一面に、黒ずんだ血で綴られた巨大な魔法陣のようなものが描かれていました。
グレイシアとエリオットは他の子供達と同様に、乱暴に冷たい床の上に放り出されました。
二人は強く体を打ち付けて体の痛みを感じましたが、ぐっと堪えて我慢しました。
エリオットは少し目を開けて周囲を観察しました。
その光景は常軌を逸したものでした。
目の前に居る黒いローブを着た男三人の内、小太りの手下は分厚い本を片手に何やら呪文を唱えており、残りの二人の男は奇妙な踊りを踊っていたのです。
グレイシアも薄目を開けて、床に描かれている魔法陣が先程見た時と違って、なにやら怪しげな紫色のまばゆい光を放っていることに気づきました。
「血は赤から黒になるまで絶えず注ぐ、悪しき力を我が身に捧げよ」
グレイシアは小太りの手下がそう唱えているのを耳にしました。
二人はこの場から一刻も早く抜け出さなければ手遅れになると思い、互いに目配せしました。
するとその瞬間、呪文を唱えていたはずの小太りの手下が絶叫しました。
「やめろ!!!!ああああああ乗っ取られるぅぅぅ!!嫌だああああああああああ」
明らかに彼は様子がおかしくなり、嗚咽交じりの奇声を上げ、片手に持っていた本を手から滑らせて落としました。
そしてあろうことか彼はその場にうずくまり、頭を何度も、何度も激しく床に打ちつけ始めました。
一方、踊りを踊っている二人の手下達はそんな狂気めいた彼の様子など、一切気にも留めていませんでした。
やがて彼らも動きがたどたどしくなり、奇声を発しながら自らの仮面をはぎ取ると、目と鼻と口から血を溢れんばかりの血を流し、犬の様に四つん這いになって周囲を走り回りました。
グレイシアは困惑した表情で、このなんとも悍ましい光景を目の当たりにしていました。
彼女と同じくらいの年齢の少女がこの光景を目にしたら、あまりの不気味さに号泣してしまうでしょう。
その時、鋭い銃声が周囲に響き渡り、二人の手下達は驚いたような声を上げてから、ずどんと鈍い音を立ててその場に倒れました。
グレイシアは驚いて辺りを見回すと、エリオットがいつの間にか銃を構えて立っていました。
彼がこの怪しい手下二人を一瞬で仕留めたのです。
グレイシアは立ち上がり、足元の床一面の魔法陣に目を落としました。
先程紫色のまばゆい光を放っていた魔法陣は、呪文が中断されたせいか光を失っていました。
それから彼女は倒れている小太りの手下の方へ向かうと、彼が落とした怪しげで重厚な本を手に取りました。
本の背表紙は黒い光沢のある皮で出来ており、黒い山羊が彫られていました。
グレイシアは本を恐る恐る開きましたが、どのページをめくっても何故か白紙でした。
彼女は思わず眉をひそめてから、その本を倒れている小太りの男の側に置きました。
その時、彼女はその男の側に小さな鮮血のついたナイフが落ちていることに気づきました。
彼女は思わず顔をしかめた後、顔を上げて辺り全体を見回しました。
そして彼女は今度は、隅にあるテーブルの上に黒い布で覆われた”何か”があることに気づきました。
「何かしら‥‥これ」
彼女はテーブルの前まで行き、その布の掛けられた塊をまじまじと見つめながらそう呟きました。
しかし、彼女はこれ以上辺りを調べると危ないことが起きる気がして、すぐにエリオットの方へ目をやりました。
「気味が悪いな。早く出ようぜ」
彼が早口にそう言ったので、グレイシアは頷くと彼の後ろについて行くことにしました。
二人は薄暗い倉庫の出入り口の扉の前までたどり着きました。
エリオットは、その扉を少し開けて外の様子を伺いました。
どうやらこの扉のすぐ近くにジルフォード侯爵の手下二人が見張っているようでした。
エリオットはすぐさまグレイシアを扉の側から離れるように指示し、狙いを定めて手下二人を撃ちました。
鋭い銃声が鳴り響き、二人は完全に不意を突かれた様子で鈍い音を立ててどさりと倒れました。
恐らく今の銃声で、遠方に居た手下に気づかれたことを察したエリオットは、グレイシアに声を掛けようと後ろを振り返りました。
しかし彼女はいつの間にエリオットのすぐ傍に立っていました。
そしてグレイシアは緊迫した状況の中、思いがけない言葉を口にしました。
「足手まといになるのは嫌なの。
エリオット、私は豪華客船に向かって走るから。
その隙に逃げるのよ」
グレイシアは彼に早口でそう言いました。
「何を言っている、お前」
エリオットは冷静さを保っていましたが、動揺が隠しきれず右の眉を少し動かすとそう言いました。
「時間がない。1…2…3、今よ」
彼女はそう言うと勢いよく飛び出していきました。
エリオットは彼女の捨て身の行動に冷や汗をかきましたが、彼女がカウントを始めた頃には次の行動に移っていました。
倉庫を飛び出したグレイシアの目の前には3隻の貨物船が止まっており、その他にも豪華客船に招待された客の、何隻もの船が止まっていました。
そのすぐ側には貨物船の比にならないくらい巨大なまるで城の様に豪華な蒸気船が浮かんでいました。
その船は全体的に白を基調としており、構造としては1階から5階までありました。
長さはおよそ全長40mもあり、数百名もの人数が乗れそうな頑丈な造りに、デッキからの展望は見事なものだろうと感じさせました。
そして金色のユニコーンの顔の船首像が付いており、船のあちこちに装飾が施されていました。
しかし、彼女にはゆっくりとこの船を鑑賞する余裕など無く、息をすることも忘れて全力でその船目掛けて走りました。
この豪華客船の周りには、この美しくて立派な船を一目見ようと、サンダースノー波止場付近に住む人々や、付近に丁度居合わせた船乗り達が大勢居ました。
そしてなんともう既に、船の搭乗口の前には人々の列が出来ていました。
そこには沢山の荷物を抱える使用人と、豪華なドレスを身に纏い優雅に談笑する夫人達や、眩しく照り付ける日差しを疎ましそうにしているシルクハットを被った紳士達が列に並んでおりました。
グレイシアは搭乗口の辺りへ目をやりました。
階段を登った先の搭乗口の下には赤い絨毯が敷かれており、ジルフォード侯爵の手下が招待状を確認するために立っておりましたから、彼女はもう一つの目立たない船員用の入り口から船に侵入することにしました。
しかし、搭乗口の付近に居る彼女の存在に気づいた数名の手下達がこう叫びました。
「あそこにいるぞ!!捕らえろ!!!」
彼らは大きな声で叫びました。
彼女は慌てて一目散に、その船員用の入り口に向かって走り、なんとか船の中に入りました。
彼女は行く先も考えずにひたすら走りました。
すると急に空気が煙たくなり、息がしづらくなりました。
なんとそこは本来働くはずであった、複数のボイラー室と機関室の入り口がある通路でした。
彼女は走りながら通路の先に目を凝らすと、向こうからやって来る侯爵の手下の姿が見えました。
グレイシアは後にも先にも進めなくなり、咄嗟にボイラー室に逃げ込みました。
すぐさま部屋の中に入ると、彼女の目には炎の燃え盛る大きな釜戸と火夫の役割をしている一人の乗組員の姿、複数の配管とレバー付きの複雑な装置が目に飛び込んできました。
彼女は近くに積まれていた石炭の入っている袋の山の中に、空の袋があることに気づき、その中に身を潜めました。
その一方で乗組員は、煤だらけの薄い上着にズボンを履き、全身汗まみれになりながらシャベルで釜戸に石炭を運び入れていました。
重苦しい空気の中、切羽詰まったような表情で黙々と作業を進める彼は、幸いにもグレイシアがここに来たことも、石炭の袋の中に入ったことにも気づいていない様でした。
しかし、すぐに侯爵の手下の男1人がグレイシアの後を追ってやって来ました。
彼は大股歩きでニタニタと意地の悪そうな笑みを浮かべながら中に入って来ました。
「ここに隠れているんだろぉ?大人しく出て来い!!!」
彼はそう怒鳴るとボイラー室の中だというのに、手当たり次第に辺りを撃ちまくりました。
グレイシアは銃弾が自分の頭上をかすめたのに気づき、思わず身震いしました。
「袋の中だな」
意地の悪そうな手下の男はグレイシアが袋の中に隠れていることに勘づいて、そうしたり顔で口にすると石炭の袋の山に目を向け、それを敢えて”左から順番”に撃っていきました。
グレイシアは次々と等間隔に鳴り響く激しい銃声を耳にし、息苦しい袋の中で自分の死を覚悟し、涙が溢れそうになるのを堪えて目を固く閉じました。
心臓が破裂しそうなほどバクバクと鼓動し、全身が痺れるような感覚に陥りました。
遂に自分の真横で激しい銃声が響き、遂に自分の入っている袋が撃たれるとグレイシアは確信しました。
「さようなら、エリオット」
彼女は心の中でそう呟きました。
その瞬間、鋭い銃声が数発響き渡り、どさっと何かが地面に勢いよく倒れる鈍い音がしました。
グレイシアはそれが自分の入っている石炭袋を撃った銃声だと思っていましたから、まだ生きていることが信じられず、状況を整理したくても頭が追い付かないまま硬直していました。
すると、自分の入っていた石炭の袋がビリビリと勢いよく破かれました。
彼女は恐る恐る目を少しだけ開くと、目の前に道化師の格好をした男がしゃがんで彼女をのぞき込んでいました。
グレイシアは侯爵の手下であるはずのその男に、されるがまま勢いよく肩に担がれました。
グレイシアは一体、今何が起きているのか分かりませんでした。
彼女は担がれながら、ふと目を落としました。
すると恐らく先程グレイシアを撃ち殺そうとしたであろう、恰幅の良い道化師の姿をした侯爵の手下が、見事に胸を数発撃ち抜かれて血だまりと共に無残に倒れていました。
そしてもう一人侯爵の手下がこちらに向かって気配がしたものですから、彼女はすぐに目を閉じて項垂れました。
「そいつが船に紛れ込んだガキか。お前が始末したのか?」
やって来た長身の侯爵の手下の低い声が、彼女の耳にも聞こえてきました。
彼女を担いでいる手下の男は頷き、ボイラー室の扉の前まで行きました。
グレイシアは再び薄く目を開きました。
そして、ふと扉のすぐ側で家畜につけるような黒い足枷と首輪をつけられ、麻縄で腕を固く縛られて、怖気づいた表情をしている、栗色の髪の自分達より幼い少年と少女の姿を目撃しました。
彼らがはめている足枷には、球体の重りがついており、縛られている両腕は赤く痛々しく腫れていました。
彼らは怯えと諦めの感情が混じったような虚ろな表情を浮かべていました。
グレイシアは、思わず彼らをなんとかしてあそこから助けたいと強く思いましたが、今の自分にはどうすることも出来ないと悟りました。
彼女は再び目を閉じました。
* * *
グレイシアは手下に担がれながらボイラー室を後にしました。
彼女は、何故か自分を助けてこの長い通路を歩いているこの手下の男に、自分の身を任せることにしました。
今の彼女にはただそうすることしか出来なかったからです。
しばらく黙ってその手下に担がれていると、徐々にボイラー室から遠のいているせいか、煙たさが消えて呼吸がしやすくなっていきました。
彼女は追手の気配が無くなった気がして、恐る恐る小さな声で尋ねました。
「貴方は私を助けてくれたんですか?」
手下はしばらく黙っていましたが、やがて口を開きました。
「ああ、そうだよ。グレイシア」
馴染みのある声と自分の名前が聞こえた瞬間、グレイシアは心臓が飛び跳ねました。
「エリオットなの?その恰好は」
彼女は思わず驚いて目を見開き、すかさずそう聞きました。
「侯爵の手下から身ぐるみ奪って着替えたんだ。元の服も中に着ている」
エリオットは平然と言いました。
「そんな‥‥どうして」
彼女はなるべく目立たないように小さな声で話していましたが、内心凄く動揺していました。
色んな感情が一気に彼女に押し寄せてきたからです。
エリオットはしばらく黙っていましたが、まるで予期せぬ出来事に遭遇したような態度をとる彼女を、一瞥するとこう言いました。
「囮になろうとしたんだろうけどな」
そして、彼はこう付け加えました。
「見くびるなよ。俺がお前を見捨てられると思うか?」
グレイシアは彼の言葉にじんと胸が熱くなるのを感じました。
「本当にありがとう」
彼女は安堵したように小さくそう呟きました。
エリオットは満足げに頷き、口元に微笑を浮かべました。
そんな彼ですが、グレイシアと同様にこの巨大な船の何処に何があるかなど、全く把握しておりません。
そういう訳ですから、彼は実は手当たり次第にこの長い廊下を歩いていました。
しかし、急に場違いな所に来てしまったことは彼にも分かりました。
彼は恐らくこの豪華客船の華麗なる招待客をもてなす最初の顔、ロビーに来てしまったのです。
* * *
広々としたこの空間には、明らかにエリオットやグレイシアが一生働くだけは手に入らないような見事な調度品、宝石の散りばめられた大きなシャンデリアが天井に爛々と輝いておりました。
そこには、先ほど搭乗口の辺りでグレイシアが見かけた貴族達や荷物を抱えた使用人たちがぞろぞろと一人の紳士を囲むようにして立っており、近寄るだけでも恐れ多い雰囲気が漂っていました。
その紳士は大柄で背はさほど高くありませんでしたが、羽付きの黒いシルクハットを被り、宝石の散りばめられた、ワインレッド色の刺繍の入ったコートを着て、大粒の宝石のついたステッキを手にしていました。
そして彼は、はっきりとした顔立ちに、威厳のある雰囲気を放っていましたから、誰かに言われなくても彼こそが、この豪華客船の持ち主である”ジルフォード侯爵”であることが自然とこの場に居る誰にでも分かりました。
エリオットはこの華やかな空間の中心に居る彼が、前に街で彼を見かけた時の何倍も高貴な存在であるように思えましたが、昨日と今日で体験した恐ろしい出来事が脳裏をよぎり、彼をここから撃ち殺してやりたい気分になりました。
「クソ野郎が」
彼はそう吐き捨てるように言いました。
するとそんな彼に向かって、水色のフリルが沢山ついたドレスを着たツインテールの女の子が突進してきました。
彼は苛立つ自分の感情に気を取られ、彼女を避けきれずそのままぶつかってしまいました。
「ごめんなさい!」
彼女は申し訳なさそうに謝ると、顔を上げてじっとエリオットの肩の辺りを見つめてこう言いました。
「ねえ、貴方が担いでいるその人のお顔を見せてもらえないかしら」
エリオットは思わず、まじまじとその子の顔を見ました。
彼はその子に見覚えがあったからです。
それというのも、その子は昨日、自分らがルビークロスの噴水広場で夫人と一緒にギャングに襲われかけていたところを助けた、ヒューバートン男爵の末娘でした。
エリオットは、断るのも不自然だと思い、仕方なく担いでいたグレイシアを抱えなおすとその子の前に膝をつき、グレイシアの顔を見せました。
グレイシアは一体今のどんな状況なのか分からず、思わず目を開いてしまいました。
その女の子はまるで恋をするような瞳でグレイシアを見つめていました。
グレイシアは自分へとじーっと向けられた視線に、体が思わず強張りました。
「やっぱり!街で私を助けてくれたギャングのお兄さんだ!」
その子はグレイシアの顔を認識すると、ぱっと明るい表情を浮かべてそう言いました。
エリオットは彼女があまりに大きな声でそう言ったので、思わず周りを見回しました。
しかし、周囲に居る達はまだ侯爵の話に夢中になっており、こちらのことなど一切気に留めていない様でした。
「この者は侵入者です。危ないですので、関わるのはよしてくださいね」
エリオットはその子になるべく柔らかい声で優しく言うと、グレイシアを担ぎなおしました。
しかし、その子は慌てた様子でこう言いました。
「やだ!だってきっとその方は私に会いに来てくれたんだもの!ついて来て!」
彼女は水色のリボンのついたおさげをブンブンと振りながらそう言いました。
そして、エリオットの服の裾を引っ張り歩き出そうとしました。
その女の子は、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていました。
「言い訳がないでしょう!!」
しかし、耳を裂くようなその力強い声が響き渡り、女の子とエリオットはいつの間にか、自分達の正面に恐ろしい形相で立っている女性を、はっとした表情で見つめました。
その女性こそ、昨日広場でこの女の子と一緒に助けた、あの嫌味なヒューバートン男爵夫人でした。
夫人は自分の娘に説教をし始めましたが、その子は耳を塞ぎながら首を振っていました。
エリオットは面倒なことになりそうで関わりたくないと思い、さり気なくその場を去ろうとしました。
その時、恐らく彼女らの執事と思われるアッシュグレーの髪をまとめ、口ひげに金縁の眼鏡をかけて燕尾服を着た男性が颯爽と現れ、夫人に恭しくこう言いました。
「奥様、旦那様がお呼びです」
夫人はその言葉で我に返りました。
慌てて先ほどまで自分が居た場所に目をやると、大勢の貴族達とジルフォード侯爵が「一体何事か?」とこちらをじろりと凝視していました。
先程夫人が上げた怒鳴り声のせいで、注目を集めてしまったのです。
夫人は恥ずかしくて居ても立っても居られなくなり、すぐに執事にこう命じました。
「ジェイス、この暴れる娘を部屋まで連れていきなさい。
もう一度言うわ、ローラだけを連れて行って頂戴」
彼女はそう言うとくるりと踵を返して、貴族達が集まっているジルフォード侯爵の居るロビーの中央辺りに戻っていきました。
エリオットはしばらく唖然としていましたが、執事のジェイスがお嬢様である、その女の子に跪いてこう尋ねました。
「ローラ様、いかがいたしましょう」
彼は、そう言うとお嬢様の側に立っている侯爵の手下の方をちらりと横目見ました。
「ねえ、ジェイス。この人が担いでいるお方を部屋に連れて行っちゃだめ?
昨日、街で怖い人達から助けてくれた王子様なの」
ローラは上目遣いで頼みました。
「そう言うことでしたら、歓迎しましょう」
彼はにこやかにそう言って彼女にウインクすると、立ち上がりました。
彼が言いつけられたことを機械的に行う、普通の執事であればここで断るでしょう。
しかし、彼は予想外の面白い出来事が好きでしたし、何といっても彼は旦那様や奥様ではなく、自由奔放で可愛らしい小さなお嬢様の味方だったのです。
「ついて来て!」
ローラはエリオットに向かって笑顔でそう言うと、ドレスの裾を掴みながら、ちょこちょこと歩き出しました。
ジェイスはローラの後を歩き始めると、振り向いてエリオットにこちらまで来るよう目配せしました。
エリオットは他に行く当ても無かったので、有難くついていくことにしました。
こうして彼らはロビーを抜けた先にある赤い絨毯の敷かれた長い廊下を歩いて行きました。
エリオットは足が少し沈むくらいにふかふかとした絨毯の踏み心地に驚きました。
彼は今までこんなに上等な絨毯の上を歩いたことなど一度も無かったからです。
彼は貧富の差をまざまざと感じました。
この廊下は来客用の部屋が並んでおり、招待された貴族達が頻繁に出入りする場所ですから、装飾のついたランプが薄いクリーム色の壁に等間隔につけられ、高級な雰囲気を醸し出していました。
ヒューバートン男爵夫人の娘のローラと、その執事のジェイスはある部屋の前で立ち止まりました。
エリオットもそれと同時に立ち止まり、部屋の焦げ茶色のドアに飾られているネームプレートの文字を見ました。
確かにそこには「プライス家」と書かれており、ヒューバートン男爵家一同が宿泊する部屋でした。
ジェイスはローラと何か言葉を交わした後、エリオットに軽く会釈して廊下を引き返していきました。
ローラはエリオットの方を振り返るとこう言いました。
「今メアリーと話してくる!ちょっとそこで待っていて!」
ローラはそう言うとドアを開けて、すぐに部屋の中へ入っていきました。
エリオットはその様子を見届けると、辺りに誰も居ないことを確認してそっとグレイシアを抱えなおし、彼女を絨毯の上へゆっくりと下ろしました。
Merry Christmas




