第7章
「おばさん、元気ー?」
……忘れるはずもない。Mの声だ。
だがまさか、Mが直接、かけてくるとは……
萩沼のスマホにかけておきながら、Mは私に向けて語りかけてきた。
つまり、私が萩沼を監禁していることがバレている……?
なぜ? どうやって?
「あぁ、やっぱりそうだ。如月澪だよね、おばさん」
名前を言われ、息が止まりそうになった。
「分かるよ、私。1度聞いたことのある人の声なら、声を出してなくても分かる。矛盾してないよ? 私にとって、沈黙も十分、個体を識別する声に聞こえるの。だって、呼吸の癖や、肺の使い方は、みんな違うでしょ? その人が死ぬまで、忘れないから」
改めて聞くと、高く、透き通った、人懐っこい印象の声色だ。
いわゆるアニメ声とも言えるが、声だけ聞くと、とても凶悪な本性を隠しているとは思えない。
……けれどこいつは、底知れない化け物だ。
「Mよね? あなた」
「訊かなくても分かってるでしょ? そんなに動揺してくれるなんて、なんだか照れるなぁー」
おどけた調子でMが言った。
既にバレているのなら、堂々と会話して情報を引き出せばいい。
私の視線の先で、公園にいる蒼空がベビーカーで笑っていた。
「あなたには、どうしても訊きたいことがあるのだけど……いいかしら?」
監禁部屋のテレビに映し出された蒼空の映像だ。
蒼空の死の真相を聞いてから、私はある質問の答えを、Mの口から直接、知りたかった。
ずっと喉に引っかかっていた。
声を荒げ、感情を剥き出しにしながら、問いただしてしまいそうになる。
それが子を殺された母親として、当たり前の態度なのかもしれない。
憎しみが脳を支配する前に、真っ白なキャンバスをイメージした。
今はどんな感情も白く染めて、輪郭すらも消さなければならない。
冷静さを失えば、この化け物に食い殺されかねない。
「ちょっと待って。おばさんと話す前に、快直と話させてよ。すぐ近くにいるんでしょ? 呼吸が聞こえるもん」
気配に気づいたのか、うずくまるようにして座っていた萩沼が、涙目で私を見上げた。
何か、この部屋から脱出する算段を伝える気か?
仲間が向かっているから、時間を稼げ……あるいは、もう近くまで来ている?
いずれにしても、絶対にここで萩沼を逃がす訳にはいかない。
「ふふ、大丈夫だよ。そんな大した用事じゃないし、内緒話はしないよ。話す内容はおばさんも聞いていいから」
リスクはある。だが、その後でMと話せるのなら、一旦、従う方が得策か。
それにもし何かMの言葉で問題が生じれば、すぐさま通話を切ればいいだけだ。
私は萩沼が付けていたヘッドホンを外した。
急に大音量から解放された萩沼は「え、え?」と困惑した声を出して、目を瞬かせた。
スマホを操作し、スピーカーにする。これで萩沼にもMの声は聞こえる。
「快直聞こえてる?」
Mの声に、萩沼は瞬時にスマホの方を見た。
「M……!」
萩沼は涙を流して、まるで天から垂らされた蜘蛛の糸にすがるように、希望の色を見せて微笑んだ。
……それから10秒間、私は指先ひとつ動かすことが出来なかった。瞬きも忘れ、一連の光景をただ見ていた。
その間に起きたことがあまりにも、異常な出来事だったからだ。
「――私のために、死んで」
Mは、その言葉の意味が、何の重さも持たないかのように平然と言った。
萩沼の顔から、笑顔が消えた。
血の気が引き、死人のような顔で萩沼は茫然と呟く。
「Mに……Mに捧ぐ」
その言葉を呟いた瞬間、萩沼の顔から表情が剥がれ落ちた。
目の焦点が合わなくなり、口元は笑っているのか泣いているのか分からない歪な形にねじれている。
「あ、ああ、あ……」
突然、萩沼は何か恐ろしい幻覚が見えているかのように怯え出した。髪を掻きむしり、不自然なほどに震え、額を床に何度もぶつけては、意味のない呻きを繰り返す。その声は徐々に声量を増し、膨れ上がる。
一瞬、彼の呼吸が止まった後、
「うああああ……っ」
断末魔のような絶叫と共に、手首の手錠がカチリと音を立てた。
次の瞬間、金属の刃が飛び出し、彼の両手首を容赦なく切り裂いた。
血が跳ね、空中に赤い帯を描いた。部屋は一瞬で赤く染まった。萩沼は絶叫しながら一回転し、そのまま電線の方へ、一直線に飛び込んだ。
止める間もなかった。
弾けるような音が耳に響いた。火花と煙が立ち昇り、鉄の焦げる匂いが鼻を刺した。
「Mに捧ぐ……」
最期に萩沼が呟くと、電線にからまった彼は動かなくなった。
表情には恐怖はない。むしろ微笑んでいるようにさえ見えた。
愛しい誰かを……Mを想うような、静かで彫刻のような笑み。
真っ赤に染まった蒼空が、テレビの中でぬいぐるみの男の子をかじっている。
「……どういうこと?」
萩沼が死んで、私が辛うじて最初に出た言葉だった。
「ふへへ、もう死んじゃったかな? 快直。……やっぱり私のこと、大好きだったんだね」
言葉だけの殺人。それがMには可能だと、頼中からも聞いてはいたが……
それでも、あの臆病な萩沼を?
直前まで見せていた彼の表情から推測するに、Mの言葉を聞くまで、彼は死ぬことなんて、まったく考えてもいなかったはずだ。それどころか、Mが自分を救ってくれるとさえ思っている様子だった。
Mは用なしとみなして萩沼に自死を命じた。
萩沼はMの意図を分かったうえで、その命令に従ったのだろう。異常なまでの忠誠心、もしくは、愛情に操られて……
スマホのスピーカーをオフにし、耳に近づける。
萩沼の自死を目の当たりにし、心が一切、怯まなかったと言えば嘘になるが、一瞬、血の付いた父の笑みを思い浮かべると、雑踏のような感情は色と形を失い、純度の高い憎しみだけが一欠片残った。
「快直を監禁するなんて、けっこうエグいことすんじゃん。快直、臆病な子犬みたいで可愛かったから気に入ってたのに。よくも私に殺させたわね。許さないぞー。なーんて、よくも、とか思ってないけど」
「殺してくれてありがとう。手間が省けて助かったわ」
「うそうそ。本当は自分で殺したかったくせに」
Mは電話の向こうでクスクスと笑った。
「おばさんのことはだいたい知ってるよ。私に復讐したいんだってね。めんどくさいこと考えるじゃん。せっかく生かしてやったんだから、命大切にしなよ」
如月澪は何も知らない。
その前提がMにあることは、私にとって最大のアドバンテージだった。
それが覆ってしまった以上、復讐の難易度は格段に上がったと思っていい。
一体、どこから情報が漏れたの?
考えられるとしたら、萩沼を自宅に運んだ時だ。
あらゆる視線を警戒し、誰にも気づかれずに運んだと思っていたが、Mの関係者に目撃されていたのかもしれない。
「あんたもせいぜい私に殺されるまで、金持ち自慢でも夢助でもして、自己顕示欲と承認欲求満たしてなよ。偽セレブ」
「ははっ、殺されるって? 無理無理。私に復讐しようとした人、みんなお亡くなりになってるから。おばさんも私に辿り着く前に、必ず死ぬよ。なんなら今ここで、自殺させてあげようか?」
Mの言葉は、あながち脅しではない。
おそらく、私の居場所は割れている。向こうにその気があれば、人を送り込んで私を殺すことは簡単に出来る。
頼中がいるとは言え、悠長に電話している時間はない。
「殺しが好きなのね。息子の蒼空も、あなたの指示で殺されたことは分かってる。実行役に萩沼と、夫の紘人がいたことも……」
「そっか。おばさん、赤ちゃん殺されたことで、一番怒ってるんだ。私てっきり、イケメンの旦那さん取られたからだと思ってたよ。ひろくんがおばさんより若くて魅力的な私を選んだってことは……おばさん、女として終わってる、ってことじゃん」
「私のことはどうでもいい。興味がない。私が知りたいのは、なぜあなたは蒼空を殺したのかってことよ」
「んー?」
「パパ活で紘人からお金は十分得ていた。そのために紘人は蒼空のための貯金を貢いで、借金までしていた。だったら蒼空を殺す必要はなかったはずでしょ?」
蒼空を殺した動機。
どうしても、それだけはMに直接、訊いておきたかった。
「うーん。答えてもいいけど、おばさんと私じゃ価値観が違いすぎて理解出来ないと思うよ」
「別にあなたを理解したいわけじゃない。ただ、あなたが私に殺される直前に、下手な言い訳で蒼空を出されるより、今ここで聞いておいた方がいいでしょ?」
「うざっ、て思うけど、ちょっとイカれてて、いいね。ご存知の通り、私にはたくさんパパがいるんだ。そもそもひろくんを狙ったのは、お金よりひろくんの顔が“ある人”に似てたから。まぁ、それはどうでもいいんだけど、とにかく私は、ひろくんの愛が欲しかった。独占したかった。簡潔に言うなら、それが理由」
「愛? 嘘までついて、お金も貢がせてたじゃない?」
「それは、愛の証明だよ。貧乏人にこの感覚分かるかな? お金って、愛の友達なんだ。それは愛の証明であり、愛されてる人の元に自然と集まってくる。私がお金持ちなのは、誰よりも愛されるために生まれてきたから。ひろくんも私を愛してくれたから、自然とひろくんのお金も私の元に集まってきたの。でも、それだけじゃ足りなかった」
Mの声音が暗く沈んだ。蒸し暑い部屋の中なのに、気温が一気に下がった気がした。
「ひろくんの気持ちは完全におばさんからは離れてた。けど、赤ちゃんとは、私との間で、ちょっと愛が揺らいでたの。あれれ、このままじゃ、ひろくんの愛の天秤が、私より赤ちゃんに傾くかもしれない。私にとってひろくんは唯一の存在だとか、男として特別視していた訳じゃないけど、私を愛せなくなったパパがひとりでもいるのは許せなかった。だから私への愛の証明のために、ひろくんに赤ちゃんを殺させた……」
「ふざけるな。そんなくだらない理由で、人の命を奪っていいはずがない」
憎しみと怒りで、腑をぐちゃぐちゃにされた気分だった。
頭には割れるような痛みが走り、両目から血がボタボタと溢れ、頬から首を真っ赤に染めた。
「言ったじゃん。おばさんには理解出来ないって。いくら考えても分からないんだよ。もう誰からも愛されなくなったおばさんには」
そう言って、Mは「ギャハハハッ」と笑った。
私はおろか、蒼空の命にまで唾を吐き、見下すような笑いだった。
「絶対にお前は殺してやる……」
「やってみろよ? おばさん」
Mは笑いながら言った。
「どんなに私が憎くても、赤ちゃんのことを愛して、涙流して、悲しんで、神様に祈っても、私には指1本触れられない。だって私が神様だもん。私が望めば人は死ぬし、願えば生き返るって信じてる子だっているよ。おばさんも、殺した赤ちゃんも、神様に選ばれなかったゴミ。それだけ。お金だろうが、愛だろうが、赤ちゃんの命だろうが、この国の頂点にいる特権階級の私が、ド底辺のゴミから搾取して、何の罪になるのさ? 現に私は許されてる。私という天上を見上げるお前ら誰ひとり、私を殺せてないじゃん」
私はスマホを床に落とし、踏み潰して破壊した。
息が乱れ、様々な感情が荒波のように押し寄せる中、こめかみの辺りを思いっきり殴った。
息が正常に戻り、荒波は静まった。
これでいい。冷静さを失えば、必ず判断を間違える。
「如月さん、さっきの悲鳴は萩沼の……ああ、やっぱり殺したのか」
恐る恐る頼中が部屋へ入ってきた。萩沼の悲鳴には気づいていたが、私が見るに堪えない残酷な方法で萩沼を殺していると思い込み、直視する覚悟ができるまで作業部屋にいたらしい。
「Mと話したが、有力な情報はほぼ引き出せなかった。ここはもうMに知られてるから、急いで拠点を変えよう」
私は淡々と頼中に指示を出し、家を出る準備を進めた。
萩沼は、最期の瞬間まで、Mを神とでも信じていたのかもしれない。……けれど神とは何だろう。命を与えるのが神なら、命を奪うだけの存在は、もはや悪魔だ。
頼中の手配してくれたワンボックスカーに製作した爆弾などの荷物を詰めた。頼中に萩沼が死んだ経緯を伝えながら、死体を乗せ、まずは萩沼の死体を埋めるために、山へと向かった。
「こちらが復讐に動いていることがMに知られている。おそらく、萩沼を運んでいる姿をMの仲間に見られていた。それかもしかすると、もっと前から。例の少年との会話を、萩沼の他に聞いていた人間がいたとも考えられる。萩沼にも気づかれずに」
「そんな馬鹿な? 周囲は僕も警戒していた。まして少年との会話の時から尾行されていたなら、そんな怪しい奴に気づかないはずがない」
「だから絶対に大丈夫、という願望が、思い込みにすり替わっていたのかもね。それより気になるのは、Mに萩沼の監禁を最初から知られていたと仮定して、なぜMは約1週間、私達に危害を加えることもなく泳がせていたのか?」
「泳がせていたと言うより、萩沼を助ける機会をうかがっていたんじゃないかな? でも助けられそうになかったから、萩沼が余計なことを喋る前にM自ら殺した。非情だけど、Mにとって萩沼はその程度の価値の人間に過ぎなかったから」
「……普通に考えればそうよね」
でも、Mってそんなに優しいかしら?
あのサイコパスなら、最初から萩沼を見捨てて、私達をいの一番に殺しに来そうなものなのに。
2人殺すには、条件が足りなかった?
いくらMが警察に手を回せるとは言え、1週間程度では計画も実行役も準備不足だったのかもしれない。
……少し深読みのし過ぎだろうか。
Mの性格から憶測で仮説を立てるには、まだ私はMを知らな過ぎる。直接会話しただけで、まだ私はMのパーソナリティを30%も理解出来ていないだろう。これに関しては、頼中の推理の方が正しいと思えてきた。
「いずれにしても、Mは僕達を本気で殺しに来る」
重苦しい表情で頼中が言った。
「萩沼がMの言葉だけで死を選んだように、Mのためなら命を何とも思わない人間なんていくらでもいる。例え他人の命でもね」
……Mとの会話で、ひとつ後悔していることがある。
Mに蒼空を殺した動機なんて、訊くんじゃなかった。
いたずらに心を乱されただけだ。
蒼空の死に理由なんて必要ない。……殺された、それだけで十分だった。
動機が私の殺意を風化させることなんて、あるはずがない……
山に萩沼の死体を埋めている時、頼中はずっと吐いていた。
その前にやった、私のある行為のせいだ。
「まさか死体で人体実験をするなんて。しかも、あんな黒く焼きただれた死体。警察の職業柄、グロ耐性は強いけど、ちょっとさすがに僕は耐えられなかったよ」
吐くだけ吐いた頼中が言った。
「そう? おかげで爆弾のデータは取れた。死体は喋らないから、効率的だったわよ」
私は頼中に水を渡した。
「これでいくつか面白い爆弾ができる。拠点の手配はよろしく」
「山からほど近い独立した借家を1軒見つけたから、偽名で手続きしてる。爆弾の実験にもちょうどいいと思う」
「そう。ありがとう」
「如月さんはMに顔が知られてしまっている。僕は直接、Mに会ったことはないが、協力者として素性が割れていないと考える方が不自然だろう。これからの復讐は、桁違いに困難になる」
「勝算はある。そう遠くないうちに、Mは必ず殺してやる。いや、ただでは殺さない……」
まるでオーダーメイドの靴のように、彼女の苦しみにぴったりと合うような地獄の中で……
「蒼空が味わった恐怖や痛みを、遥かに超える死を与えてやる……」
……だが、そのためにはMに関する情報が足りない。
蒼空以上の苦しみを味わわせるためには……
「Mが一番愛しているもの……それを知り、奪うことが今後の復讐の鍵となるはず。だが、その前にまずは、蒼空を直接手にかけた赤い髪の男を殺す……」
夫の紘人も憎いが、居場所がはっきりしているうえに、殺すだけなら一番容易い。後回しで問題ないだろう。
「ついさっき入った情報だけど……」
頼中はポケットからスマホを取り出した。
「赤髪の男の正体が分かった。新宿のVIPERというホストクラブでホストをしている」
私は少年から渡されたぼやけた写真ではなく、はっきりと写った頼中のスマホの写真を見て、息を飲んだ。
……この男、知っている。
「名前は伊竜玲冴。Mが今一番推しているホストだよ」
間違いない。
こいつは昔、私をいじめていた主犯格の同級生だ。
―――――
中学生の時、私は長野の雪山で制服を脱がされ、手を縛られたまま、同級生達に囲まれていた。
女子だけでなく、男子もたくさんいた。
みんなはひとりずつ、私の体にペンで文字を書いた。
「殺人鬼の子」「同罪」「人間のクズ」「犯罪者予備軍」「死ね」「死ね」「死ね……
それだけなら、まだ耐えられた。
むしろ同級生達の中にいた、以前、何度も遊んだことのある子達から、私はまだ、友達として見てくれているのではないか、彼女達が私を救ってくれるのではないか、と期待までしていた。
そこへ、伊竜がやってきた。
切れ長の目で、全体的に冷たい印象だが、顔は整っている伊竜は、不良というジャンルが好きな女子から絶大な人気があった。
伊竜は縛られている私を見て、何か滑稽なものを目にしたような低い笑い声を出した。まだ顔から笑みが消えないうちに、彼はポケットから彫刻刀を取り出した。
「たくさん刺青彫ってやるよ。犯罪者」
私の髪を掴み、顔を上げさせた。恐怖で歪む私の表情すら、楽しんでいるようだった。
その時見た光景は、大人になった今でもトラウマのように思い出す。
周りの同級生達も伊竜の異常な行動に一瞬、難色を示したが、やがて魔女狩りで狂乱する民衆のように、自分に出来ないことをしてくれる伊竜の残酷さを「かっこいい」ともてはやした。
……まるで世界から私だけが色を失ってしまったような、深い孤独を感じた。
淡い期待を込めていた友人と思っていた子達の醜い笑顔から、私は彼女達にとって、どうでもいい存在なのだと悟った。
誰も私を助けてくれない。
誰も私を対等な人間として見てくれない。
私の居場所は、もうどこにもなくて。私は独りで。私は……
その時、父のようになりたいと思った。
あまりの恐怖に、父のように心を失くして、何も感じなくなってしまいたかった。
……消えろ。消えろ。私の心、消えてしまえ。
すると不思議なことに、彫刻刀の刃が体を切り裂いても、何も感じることがなかった。
それどころか、自分の欲望のためなら、何でも出来る気がした。
今の私が、蒼空の復讐のために、悪魔になろうと誓ったように。
伊竜だけでなく、この場にいる全員、殺してやろうと思った。
しかし、私がその殺意を実行に移すことはなかった。
殺人を犯した父の“結末”を知ったからだ。
私はもう二度と、父の血に飲まれたくないと思った。父とは違う人間になろうと決意した。
それが今、蒼空の復讐のために、私はあの時殺しそびれた伊竜を、殺そうとしている。
あの時の私が否定した、父の血を使って……
―――――
「萩沼さんを殺し、伊竜さんを殺すところまで駒を進めたようですね」
ホストクラブVIPERの下見を終え、新宿駅を歩いていた私は、後ろから声をかけられた。
この声、あの少年?
「振り返らないでください。ここなら監視カメラもありませんが、万が一また会話を聞かれたら厄介です」
「伊竜への復讐は明日決行する。まさかそのことを知って接触してきたの?」
この少年がM側の人間かもしれない。
けれど私の復讐のきっかけを作ったのは彼だ。
……何か訳があるはず。
「それは偶然ですが、伊竜さんの復讐の前に、もう一度あなたと話したかった」
「なに?」
「私もあなたの復讐の計画に組み込んで欲しい」
凍らせた肺から発せられたような、冷たい声音だった。
「……Mを殺したいってこと?」
「はい。私はMが憎い。あなたと同じくらいの殺意が、私にもあります」
思わず一瞬だけ振り返ってしまった。
その時見えたのは、深海のように暗く沈んだ黒い瞳。
底知れない闇を抱えるような彼の目は、とても10歳前後の子どものそれとは思えなかった。
「予定通りなら、Mは明日、VIPERに現れます。普段の傾向からして、11時頃までは店にいるでしょう。私は午後10時30分に店の3箇所同時に火を放ちます。その混乱に乗じてVIPERに侵入し、Mと2人きりになる状況を作ります」
「……そんなこと出来るの?」
「はい。準備は整えてあります。ただし、Mを足止め出来るのは、最高で5分が限界でしょう。それまでにあなたは伊竜さんへの復讐を終わらせ、Mを殺しに来て欲しいんです。子どもの私の力ではMを殺せないリスクの方が大きいので」
話に乗るべきか?
萩沼がわざとこの少年を逃がしたのはほぼ確定。
その時点で、彼には疑惑が残る。
……だが、伊竜だけでなく、Mも始末出来るのなら、またとないチャンスだ。
それに私を復讐に導いた理由によっては、彼のMへの憎しみは嘘ではない。
むしろMが憎いからこそ、私を復讐に駆り立て、Mを殺すための駒を増やした、と考えるのが普通だ。
現に彼がいなければ、今も私は蒼空の死について何も知らずに、ただ罪悪感に苛まれ、後悔することしか出来なかっただろう。
「……いいわ。あなたの計画に乗りましょう」
もちろん、少年を100%信じていい確信がある訳ではない。
……利用されているのかもしれない。それでも構わない。今は、彼の憎悪と狂気が、私を前に進ませてくれる。
「ありがとうございます。上手くいけば、炎に焼かれてMの死体には何の証拠も残らないかもしれません。そうすれば完全犯罪です」
「今更、警察に捕まるのが怖いなんて……」
言いかけた時、背後から少年の気配が消えた。
これでMへの復讐が手の届くところまで来た。
同時に、言葉にならない嫌な胸騒ぎがしたのを、私は意図的に解釈するのを止めた。




