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Mに捧ぐ  作者: Sytry
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第2章

「あれからどう? お母さんは許してくれた?」

「そっか、大丈夫! 300万円くらいならすぐに用意できるから」

「この前のデート、Mちゃんモデルさんみたいに足が長くてかあーいくてドキドキしちゃった! 家で何にもしてない“おばさん”とは大違い笑」

「Mちゃんの夢のためだもんね。お金ならいくらでも援助するから! またデートお願いします」

「〇〇ホテルのスイート予約しちゃった。Mちゃんを傷つけるようなことはしないから、今夜だけMちゃんに寝かしつけてほちぃなぁ」

 紘人のメッセージは、読むだけで吐きそうになった。

 メッセージの内容も気持ち悪かったが、なにより鳥肌が立ったのは、2人のやりとりが今から1年ほど前に始まっていたことだ。紘人は私が蒼空を出産する直前にMと知り合っている。

 ……最低過ぎる。夫としても、父親としても。

 それに、いくら顔はそれなりに整っていようとも、40歳の紘人が、本気でこんな若い女に相手にされるとでも思っているのだろうか。

「私にはひろくんしかいないから。迷惑だよね。こんな病んでる子」

「え、いいの? でもひろくんに悪いよ。ひろくんに嫌われたら私、死んじゃう」

「ありがとう! ひろくん大好き。もっとひろくんと一緒にいたいよー」

「あのおばさんね。気持ち悪い。ひろくんのこと全然理解してくれないのに、ひろくん可哀想。あんなおば、ひろくんの妻じゃなくて、悪い寄生虫だからーー」

「嫉妬というか、軽蔑? ひろくんのいちばんは私だよ。あのおばに嫉妬なんかするわけないじゃん」

「いい加減うざ。おばさん死ねよ早く。なんでひろくんにそんな酷いこと言うの?」

 2人の言うおばさんやおばとは、私のことだろう。2人の世界では完全に私は悪者扱い。

 妻である私よりも、紘人は浮気相手のMの方を愛している。

 それがはっきりと分かって、私達家族に生じた亀裂や歪みは、もはやどんな理屈でも覆い隠せないほど確かな現実となって私に迫った。

 Mという女のメッセージは、嘘ばかりだと同じ女の私には分かる。というより、紘人を客観視出来るのなら、誰であっても分かって当然だろう。

 紘人に寄せた好意も、同情も、共感も、全て紘人を気持ちよくさせるためについたMの嘘だ。

 間違いなくこれはパパ活だ。

 それも、お互いが条件を提示して疑似恋愛を楽しむタイプではなく、紘人の好意を利用して、Mが紘人からお金を搾取するタイプの、最も悪質なものだ。

 パパ活女子とかいって、何でも女子とつければ聞こえはいいが、彼女達の中には、詐欺師と変わらないことをしている者もいる。

 男の気持ちを巧みに利用して、例えば親が病気とか、借金があるとか、悪い人との手切れ金が必要とか、何かしら同情を引くような理由をつけては、搾り取れるだけお金を搾り取る。

 最近、パパ活女子が詐欺罪で逮捕されたニュースも話題になっていた。

 類似する事件のニュースを見ても、他人事としか思えなくて、「なんで男はこんな嘘に騙されてしまうのだろう?」と不思議に思っていた。

 まさか、その術中に、私の夫がはまっていたとは……

 Mという女を撮った写真が1枚だけあった。

 長い金髪に、ピンクの肩出しニットを着た、今風というか、憎いと思うべき妻の私からしても、アイドルならセンターにいそうなくらい可愛いルックスと不思議な魅力を持った子だ。

 年齢は分からなかったが、見た目からして20代前半か、もしかすると10代かもしれない。

 最後のメッセージはMからだ。1週間ほど前に来ていて、後は電話を紘人から毎日のようにかけている。

「大事な話があるから、いつもの場所でね」

 

 翌日、私はどうしても調べなければならないことがあり、蒼空を連れて朝から外を歩き回っていた。

 それが終わると、玄関で靴を履いたまま座り込み、頭を抱えた。

「お金のこと、全部紘人に任せていたのが悪かった……」

 貯金なんてバカのすることだから。年金が当てにならない今の時代、お金は眠らせないで、しっかり運用しないと。

 そんな紘人の言葉を信じて、私は産休前に働いて稼いだお金の管理は全て紘人に任せていた。

 12年間働いて稼いだお金だ。紘人はバカにしていたけれど、自動車部品のメーカーで働いていた私の仕事は、決して楽なものではなかった。

 蓋を開けてみたら、投資、積立はおろか、保険まで全て解約済み。蒼空の学資保険もだ。

 500万円はあったはずの預貯金も30万円ほどに減っている。

 私の稼いだお金はおろか、私達家族が未来のために、蒼空のためにと蓄えていたお金が、全て消えている。

 おそらく紘人がMという女に全て貢いでしまったのだろう。

 それだけなら、まだマシだった。

 何とか気力を振り絞り、靴を脱いで、リビングで蒼空を遊ばせると、紘人の部屋へ行った。紘人は在宅で仕事をする時もあり、記者という仕事柄、個人情報を扱うから、と紘人の許可なしに部屋には入れないルールがあった。私は今日まで律儀にそれを守ってきたが、机の中を調べると、借用書が出てきた。一体、何社から借りたのだろう、と目を疑うほどの数だった。

「たった1年で1,000万円……」

 バカじゃないか、と笑いたくなった。でも、笑えない。消費者金融だけでなく、闇金にまで手を出していた。

 これを借りた時、多額の利息は、どうする気だったのだろう?

 紘人の資産の全てを把握していなかったから正確なことは分からないけれど、貢いだ総額は5,000万円を超えているのではないだろうか。

「私だけじゃなくて蒼空もいるのに……ありえない……」

 普通の家族。当たり前の幸せ。

 ずっと夢見て、やっと掴んだと思ったのに。硝子細工のように脆く砕けて、指の隙間からこぼれ落ちていく。

 胃を握り潰されたように、お腹が激しく痛んだ。落ち着け、と自分に言い聞かせるも、脳の回路をナイフで切断されたかのように正常な思考が出来なくなり、呼吸が苦しくなっていく。

 肺を抑えながらリビングに戻ると、過呼吸寸前で立っていられなくなった。ソファで横になり、胸の辺りをかきむしりながら呼吸をしずめる。

ようやく落ち着いた頃、蒼空の姿が目に入った。

 「5,000万円」という現実と、「離婚」という選択が頭をかすめた。

 その時、蒼空がつかまり立ちを始めた。小さなテーブル型のおもちゃにつかまり、一生懸命立ち上がった。人気キャラクターをあしらった赤ちゃんが喜ぶ仕掛けがたくさん付いたテーブルで、紘人が買ってきてくれたものだ。

 しばらくテーブルにあったおもちゃの装飾を見ていたが、蒼空はバランスを崩して、転倒した。私は蒼空の体を受け止める。下には厚手のプレイマットが敷かれていたから、万が一転んでも当たり所が悪くなければダメージは少ないだろう。これも紘人が買ったものだ。

 そろそろ立つのではないか、と紘人と話したことを思い出す。その時の紘人の顔は確かに笑顔だった。蒼空の成長に幸せを感じているように思えた。

 それは私の知っている家族の幸せを一番に考えてくれる夫で、パパ活にハマって、Mという若い女を溺愛する夫ではなかった。

 私は借用書や預金通帳をもとあった場所に戻した。

 紘人にはMとの一面もあるかもしれない。けれど、紘人は、例え私にはもうないとしても、蒼空のことは今でも愛している。

 そして蒼空には、紘人が必要だ。蒼空もきっと、パパである紘人を愛しているのだから。

「その愛があれば、きっと家族は大丈夫……」

 Mの愛は嘘でしかないんだ。必ずいつかは騙し切れなくなる。そうすれば紘人は目を覚ますだろう。いや、それよりも早く、蒼空の存在が、紘人の目を覚まさせてくれるかもしれない。

「……だとしたら、まだ私達家族は終わっていない。蒼空のおかげで、私達はまだ繋がっている」

 現に紘人から離婚の話は切り出されていない。

 パパ活をするような紘人でも、家族は捨てられないんだ。

 紘人が目を覚ませば、Mを詐欺の罪に問える。

 そうすれば全額でなくても、お金はいくらか戻ってくるはず。

 ……後から思えば、この時の私は、完全に冷静な判断力を失っていた。

 なぜ、蒼空の父親とは言え、最低な人間であることに変わりない紘人を捨てる選択を、もっと真剣に考えなかったのだろう?

 なぜ、すぐにでも蒼空を連れて出ていこうと思わなかったのだろう?

 ……この時が、未来を分かつ最後の分岐点となっていたとも知らずに……

 私は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。

 ソファに戻り、カーテンが開かれたベランダを見ると、晴天の空には、青が広がっていた。遠くには、飛行機が飛んでいる。

 最近、蒼空は飛行機に夢中だ。蒼空という名前を付けたからだろうか。

 目にするだけで「きゃっ、きゃっ」と喜んで、どんなに大泣きしていても、天使のような笑顔になる。その顔がたまらなく可愛くて、私まで飛行機を見ると、反射的に笑顔を浮かべてしまうようになった。

 麦茶を一口飲んで、深く息を吐いた。

 この麦茶は紘人が今朝作ってくれたものだ。最近、家事には非協力的だったのに、暑いから室内でも熱中症には気をつけて、と私の体の心配までしてくれた。

 神様は乗り越えられる試練しか与えないという。

 だからこれも、私達家族がもっと強い絆で結ばれるために神様が与えてくれた、乗り越えるべき試練なのかもしれない。

 きっと、この試練を乗り越えた先、私達は今よりずっと幸せになれる。

 そう思ってみたら、少し気持ちが楽になった。

 同時に、体に異変が起きる。

 瞼が重い。気分が悪くなって、体から力が抜ける。

 蒼空はまた、つかまり立ちを始めた。

 ……転んだら、危ないよ。

 手を伸ばすも、視界がどんどん狭くなっていく。

 そのまま私は、気を失うように眠ってしまった。


 ……何時間経っただろう。

「蒼空?」

 目を覚ますと、蒼空の姿が見当たらなかった。

 窓が開いている。外が妙に騒がしい。嫌な予感が、胸に広がる。

 3階の自宅から、外の駐車場へ降りた。人だかりができていた。

 最初は、マネキンか何かかと思った。

 ……騒がしい人々の中心で、蒼空が倒れていた。

「どいてください……」

 群がる人を押し退けて駆け寄ると、ぐったりとした小さな身体を抱き上げた。

額に赤い筋が流れ、口元も静かに染まっていた。まるで色を失った世界に、ひとしずくだけ垂らされた絵の具のように。

 その手には口紅が固く握られている。前に蒼空が隠して、なくしていたものだ。

 首の脈を確認したあと、胸に触れ、口に触れた。

 息をしていない。心臓の音も。脈も。

「死んでる……?」

 心は冷静さを保っていた、というよりも、ただ白く、現実から迫るものを、全て感じないように拒否しているようだった。

 気がつくと私は、蒼空を抱き締めていた。

 昨日、おやすみ、と言って、胸をとんとんと叩いた時、今日、おはよう、と言って、頭を撫でた時、あれほど、温かかった蒼空が、今は氷のように冷たい。

 静かに涙がこぼれた。蒼空の名を、祈りのように何度も繰り返す。

 ふと、騒がしい人の中から、唯一、異色な音を聞いた。

 吹き出したような、笑い声だ。

 思わず、目が向いた。人だかりの奥の方で、金髪の若い女が白い歯を見せてニヤニヤと笑みを浮かべていた。

 ……Mだ。写真とよく似ている。

 でも、なぜ、ここに?

 Mと目が合った。Mは私に向けて、見下すように目を細めて言った。

「ひ〇くんをパ〇と〇〇〇〇〇〇〇私だ〇だから」

 様々な雑音の中、その全ての言葉は聞こえなかった。……いや、本当は聞こえていたけれど、Mの言葉を理解することを、心が拒否していたのだろう。

 しかし、この数日後、ある少年によって、私はこの時のMの言葉を思い出すことになる。

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