第3章
「ふざけるな!」
蒼空の死に、真っ先に怒鳴り声を上げて私を罵倒したのは紘人だった。
「澪と出会った時から、俺は今まで付き合った女の中で、澪が一番優しくて、良いお母さんになると思ったから結婚を決めたんだ。それがまさか窓を開けたまま、何時間も居眠りをして子どもから目を離すなんて」
1つの反論も、することは出来なかった。
ただ紘人の言葉を受け止めて「ごめんなさい」と繰り返す。
こうなってしまえば、パパ活のことを持ち出して、紘人を責めることも出来なかった。
もちろん、言い訳する言葉もない。
あの時は寝不足で疲れていたとか、急に体調が悪くなったとか、窓は閉めていたはずだったとか、何を言っても、自分の犯した取り返しのつかない罪を、さらに醜く、重くするだけに思えた。
……紘人の言っていることは正しい。
蒼空が死んだのは、私の不注意のせいだ。
過去をやり直せるのなら、やり直したい。それが無理なら、私の命を蒼空にあげたい。
悔やんでも悔やみ切れない。ありえない“もしも”で心は埋め尽くされる。
息をするだけでも、1秒間生きているだけでも、内臓を焼けた鉄でぐちゃぐちゃにされるくらい痛かった。
「前にもよく見ておけって言ったよな? 蒼空がものを隠すとか言って。お前は優しいだけが取り柄のくせに、なんでこう、肝心な時には無能なんだよ」
警察は蒼空の死を事故と断定した。
私が眠っている間に、蒼空はベランダへと出た。大好きな飛行機を空に見つけて。
開いていた窓から柵をよじ登り、転落。マンション3階の約13mの高さから地面と激突し、首の骨を折って……
それが警察の捜査した結果。蒼空が転落死するまでの経緯だった。
蒼空の転落事故は、地元の新聞、ネットニュースでも小さく取り上げられ、同情してくれる人や、涙まで流してくれた人もいたけれど、大半の人は、私のことを「不注意で赤ちゃんを亡くしたバカな女」とみなした。
ネットニュースのコメント欄も、ほとんどが私の不注意を責めるものだった。
紘人とは何度も話し合いを重ねた。話し合いというより、私が紘人に責められてばかりだったけれど、蒼空の葬儀を終え、最後の話し合いになった時、紘人は予想外のことを口にした。
「俺はまだ、澪のことを愛している」
久しぶりに聞いた紘人の優しい声音が、素直に嬉しかった。
「2人の関係を、これで終わりにしたくない。それこそ、亡くなった蒼空が悲しむ。どうにか乗り越えて、またやり直したい。けど、そのためには、どうしても時間が必要だと思う」
話し合いの末、紘人は私と別居することになった。
期間は分からない。紘人がまた私を許せるようになるまで、戻って来ないという。
Mとのことがあって、とっくに私への愛はなくしたと思っていたのに。
紘人がまだ別れない選択をしてくれたことに、自分からも、他人からも責められ続け、心がボロボロになっていた私には、救いとさえ思えた。
……後から思えば、この時の私は、何も知らなかった。
蒼空の死に繋がった何人もの人間の身勝手な欲望も。パパ活夫の本当の闇も。
―――――
22年前のあの日。
小川が流れる木陰で、友達の女の子がお腹から血を流して倒れていた。
名前は芦林和奏ちゃん。
和奏ちゃんは、ほんの1か月前、交通事故でお母さんを亡くしていた。母子家庭で、和奏ちゃんの家族はお母さんしかいなかった。
近くに住む親戚の家に引き取られて、生活には困っていなかったようだけれど、和奏ちゃんは私と会う時も、よくお母さんを思い出して泣いていた。
「ひとりぼっちは寂しいよ。お母さん、何で私をひとりにしたの……?」
泣いている和奏ちゃんには、話を聞いたり、背中をさすったりして慰めることしか出来なかった。お母さんが亡くなる前は、明るくてよく笑う良い子だったから、苦しんで泣いている和奏ちゃんを見るのは、すごく辛かった。
そんな和奏ちゃんが、死んでいた。お腹を包丁で刺されて。
あの人……私の父が、殺したんだ。
包丁を片手に持ち、もう片方の、血のついた手で口を抑えて、堪えるようにして笑っていた。
やがてその手を離すと、口にべっとりと和奏ちゃんの血がついていた。
口裂け女のように、血のついた跡はまるで、口が裂けて笑っているように見えた。
そのまま包丁を投げ捨てると、父は私を押し倒した。
指が首に食い込む。力が込もり、締め上げられる。
……怖い。息が出来ない。
父は首を絞めたまま、裂けた口で私に向かって……
―――――
「苦しい、苦しい……」
うなされながら目を覚ました。着ていたシャツが汗で透けるほど、恐怖を感じていたらしい。
久しぶりに父の夢を見た。蒼空が生まれてからは、思い出すことすらなくなっていたのに。
私はまだ、蒼空が転落したマンションに住んでいた。
周りからは出ていくことも選択肢のひとつだと言われたけれど、しばらく蒼空が生きた痕跡のあるこの部屋から出ようという気にはなれなかった。
外はすっかり夜だ。
この時間になると、余計に寂しくなって、部屋を見渡して、蒼空がいた姿を思い描き、記憶の影を追ってしまう。
そんな時、テレビの後ろの陰で、蒼空が描いたであろう落書きを見つけた。
赤い色……その色合いからして、蒼空が最期まで握っていた口紅で描いたものだ。蒼空は赤が好きだった。
1歳にも満たない蒼空が描いた歪な絵。
でもそれが何なのか、私には分かった。
四葉のクローバーだ。
それは私が蒼空と過ごす時、毎日着ていたエプロンの胸の辺りに刺繍されていた四葉のクローバーによく似ていた。
蒼空を抱いてあやしていた時、蒼空の目に、一番よく映っていたのが、この四葉のクローバーの刺繍だったのかもしれない。
どうしようもないほどの切なさに、胸を締めつけられた。
同時に、絵に描いて残してくれるほど、私を見つめてくれていたことが、蒼空の愛のような気がして、堪らずに涙が込み上げてきた。
「蒼空に会いたい。蒼空に。蒼空、蒼空……」
リビングには小さな蒼空のお仏壇がある。
お仏壇には、笑顔の蒼空の写真と、花とお線香、そして蒼空が最期に握っていた形見の口紅がお供えされていた。
口紅を手に取り、胸に抱いた。どの形見より、この口紅が蒼空にとって大切な意味が込められているような気がした。
その時、インターホンが鳴った。咄嗟に私は口紅をズボンのポケットに入れる。
ここのマンションは住民共用のロビーにオートロックの扉があって、インターホンを鳴らした後、住民がロックを解除しないと、中に入れない仕組みになっていた。
荷物ならロビーにあるポストに置き配するようにしてある。蒼空が亡くなり、ネットで誹謗中傷を受けるようになってから、誰かと顔を合わせるのは極力避けたくなっていたからだ。
「誰だろう? こんな時間に……」
少し気味悪く思いながら、モニターを覗いた。
そこには、黒髪で大きな瞳をした10歳くらいの男の子が、月明かりに照らされて、立っていた。
かなりの美少年だ。
一瞬、イタズラかと思ったけれど、彼の纏うオーラはどこか神秘的で、まるで神社の神様が人間の姿を借りて現れたようだ、と本気で思った。
「如月澪さんですね」
少年が言った。子どもが発したとは思えないほど冷たく、それでいて心に響くような不思議な声色だ。
「そうだけど、あなたは?」
「如月蒼空君の転落事故について、真相をお話しに来ました」
体が一瞬、ビクリと震えた。
「真相? ちょっと待って、どういうこと?」
「時間がありません。端的に言います」
次に少年が言った言葉で、私は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「あれはただの転落事故ではありません。ある女とその手先による、殺人事件です」
「……え?」
殺人?
微塵も考えが及ばなかった、可能性のひとつだった。
蒼空が誰かに、殺された?
「……でも警察は事故だって断定したし、あの時、あの場所にいたのは私ひとりで……」
「おかしいとは思いませんか? 蒼空君は窓に設置されていた柵をよじ登り、落ちたそうですね。ですが、落ちた蒼空君の手には、何が握られてましたか?」
私の頭に、転落死した蒼空の姿がフラッシュバックした。
吐き出しそうになるのを堪えながら、私は言った。
「口紅……」
「そうです。ようやくつかまり立ちが出来るようになった1歳未満の子が、口紅を握ったまま柵を登るのは不可能です」
言われてみれば、確かにそうだ。柵を登ろうとすれば、両手を使う。口紅は途中で落としてしまうだろう。いや、そもそも蒼空の力で柵を登れるかどうかも怪しい。
「あなたが眠っている間に、蒼空君は誰かに窓から落とされた。そしてあなたが眠ったのも、全て犯人に仕組まれたことだったのでしょう」
恐ろしい可能性が過ぎった私は、モニターのすぐ後ろにあるキッチンへ向かった。
あの日、私が飲んだ麦茶。あれを飲んでから、急に意識が遠ざかった。
どれほど探しても、麦茶を入れていた容器も、注いだコップも見つからない。
そういえば、目が覚めた時、飲み途中だった麦茶のコップは、どうしただろうか?
あの時は酷く気が動転していて、はっきりとは覚えていない。
ただ、自分で片付けた記憶もない。それどころではなかったのだから、目が覚めた時に消えていたとしても、疑問には思わなかっただろう。
「あなたが口にしたものに、睡眠薬が盛られていたんですよ。そして容器などは、証拠を消すために処分された。そんなことが可能な人物に心当たりはありませんか……?」
氷水を浴びせられたように、全身に悪寒が走った。その直後、お腹の底から血が沸騰するような熱が込み上げてきた。
「紘人……夫の紘人が、蒼空を殺した……?」
私の疑問に、少年は写真を1枚取り出した。ここからでは、よく見えない。
「事故直前のロビーの監視カメラの映像を切り取った写真です。映っているのは、あなたの夫の如月紘人さん、他、2人の男。3人が共犯となり、誰かひとりが蒼空君を窓から落としたのでしょう。“彼女”の命令によって……」
少年は参考にしてください、と写真をポストに入れた。
「彼女って誰? 紘人は誰かの指示で蒼空を殺したの?」
少年は、私が最も聞きたくなかったであろう人物の名前を出した。
「Mです。紘人さんらはMの指示で、蒼空君を殺したんです」
頭が割れるような痛みが走った。目の前が真っ白になり、Mの顔が脳裏に浮かぶ。
M……M……夫のパパ活相手の……?
蒼空が転落死する1週間ほど前に、Mは紘人に「大事な話がある」とメッセージを送っていた。
もし、あれが蒼空を殺す計画の話だとしたら……?
いや、あるいは、もっと前から……紘人が急に育児に非協力的になった辺りから、Mは蒼空を殺すように紘人に命じていて……だから、優しかった紘人の態度が急変した……?
「たしか、蒼空が死んだ時も、あの場にMは来ていた……」
当時のことが、まるで過去に戻って、その場にいるかのように思い出された。
笑い声を漏らしたMが、言葉を発する。
悦に浸るように、蒼空の亡骸を抱き締める私を見下し、興奮が抑えられない様子で頬を紅潮させて。
「ひろくんをパパと呼んでいいのは私だけだから」
あの時、私の心が聞くことを拒否した言葉が、無意識に蓄積された記憶の片隅から、想起された。
何度も、何度もリピートされる。
ピキリ、と何かにヒビが入る音がした。
「大丈夫ですか?」
少年の声で、意識が今に戻る。
ズボンのポケットに入れていた口紅を取り出す。
「……まるでこの口紅は、蒼空が私にMと紘人達に殺されたことを伝えようとしてくれていたみたい」
蒼空が無理やり体を掴まれ、窓へ連れて行かれた時、そして落ちる瞬間、どれほど怖かっただろう。地面と体が激突し、首の骨が折れた時、どれほど痛かっただろう。
向き合うのが怖くて考えないようにしていた蒼空の死の痛みや恐怖に、初めて私は思いを巡らせた。
……Mは私から何もかも奪った。
お金も。
夫の愛も。
けれどそれはまだ、取り戻せると思っていた。
家族3人なら、乗り越えられる試練だと。
「違った。Mは蒼空の命まで奪った……私から、大切なものは全て……」
痛いほど口紅を握りしめた。すると、ボトッと、目から何かが落ちた。
……涙ではない。赤黒い血だった。
「許さない。蒼空を手にかけた夫も、男達も、そして蒼空の死を笑い、指示を出した元凶であるMも……」
ボトボト、と目から血が流れ続ける。
まるで私の中の血が、強い憎しみに応じて沸騰し、溢れ出るようだった。
「絶対に復讐してやる……」
少年は薄らと笑みを浮かべた。
「……出来るんですか? ただの主婦でしかないあなたに」
紘人の言葉を思い出す。
『優しいだけが取り柄の君』
紘人は私を罵倒する時、よくこの言葉を使っていた。
優しいだけと私を見下し、バカな女とでも思っていたから、私から蒼空を奪っても、それが私に知られたとしても、私は反抗することもなく、夫から1歩引いたところで泣いていることしか出来ない、とでも思っていたのだろうか?
「私の演技に騙されていたとも知らずに……」
紘人と出会った日も、結婚して妻になってからも、私は意図的に演じていた。穏やかで、温かみのある優しい女を。
冷酷な父が殺人を犯してから、娘として同じ血を引く私の人生は、暗闇に閉ざされてしまった。
父が殺人を犯した。それを理由に、数々の凄惨な“私刑”を受けた。そしてある日の雪山で、私は一線を超えた同級生達の行為によって、完全に心を失くしてしまった。
何をされても痛みすら感じず、そして自らが何をしても、一切心が揺れなくなっていた。
父の血を誰よりも色濃く継いでいたのは私だった。
人間の心を失くし、己の快楽のためなら、何の躊躇もなく人を殺して、娘さえも手にかけようとした父と、私はそっくりだった。
冷たい子とみなされ、周りの人間や母にさえ、似ていると嫌悪されるほどに。
きっかけは、父の“結末”を知ってしまったことだった。
このままだと私も、いつか破滅してしまうと思った。
父の血に飲み込まれ、やがては自分も殺人を犯してしまうのではないか、父と同じ運命を歩んでしまうのではないか、と恐怖で心を病んでしまったこともある。
だから私は、演じることに決めた。人間らしく、温かみがあって優しい人を……父と正反対の人格になるために。
必死で血に抗い、普通を装って、心があるふりをした。
そんな私に本当の心をくれたのは、蒼空だった。
蒼空のおかけで、私は人間らしくなれた気がした。本当の温かさや優しさを持てた気がした。
蒼空がくれた幸せが、私を父の血の呪縛から解き放ってくれた。演じることなどしなくても、私は蒼空がいれば、自然と心を持つことが出来た。笑うことも、人を心から愛することだって、出来たはずだった。
けれど、蒼空が殺された今となっては……
「蒼空の無念を晴らし、あいつらへ復讐するためなら、私は蒼空からもらった心を捨てられる。父のような、人の心を持たない悪魔にでもなってやる……」
髪を掻きむしり、血の流れが激しくなった目を見開いた。
「例え、父の血に飲み込まれ、父と同じ結末を辿ろうとも……必ず、必ず復讐を成し遂げる……」
殺人鬼の子であったことを、今だけは恵まれているとさえ思えた。
私に、人殺しの才能があって良かった、と。
「Mを追えば分かると思いますが……」
少年は空気が冷んやりと重く感じるような声色で言った。
「Mは完全な異常者です。そしておそらく、この国で最も殺すことが難しい女でしょう。今度はあなたの命さえ奪われかねない。それでも、やりますか?」
私は蒼空の形見である口紅を口からはみ出すほどにベタベタと塗った。
私の首を絞めた時、父の口に付着した血が、口が裂けて笑っているように見えた、あの血を再現して。
まるで父が取り憑いたような感覚になった。
これで、父と同じ悪魔になれた、と私の中で誰かが囁いた。
「関係ない。私が復讐を誓った以上、誰であろうが確実に殺す……」
少年は一瞬、体を震わせた。
「もしかするとMは、絶対に手を出してはいけない悪魔の逆鱗に触れてしまったのかもしれませんね……」
「もう遅いけど、私に話したことを後悔してるの?」
「いえ……」
少年は黒い前髪から覗かせた目を光らせ、歯を見せてニヤリと笑った。
「ゾクゾクします……」
少年の目的は不明。なぜ私にMのことを話したのか?
彼の中で、なぜMと蒼空の転落死事故の真相を結びつけることが出来たのか?
そしてなぜMについて、こんなにも詳しいのか? Mと何らかの関係にあるのか?
……全てが謎だ。
だが、どうでもいい。
この少年とは、必ずまた会える気がする。
「迂闊でした。小声で話しますが、動揺しないで聞いてください」
唐突に少年が言った。声を潜め、口もほとんど動かさずに喋る。
「私達の会話を盗み聞きしている男がいます。マンション入口の柱の陰。……おそらく、蒼空君を紘人さんと殺した男のひとりです」
少年の言葉に、心臓が鼓膜を揺らすほどの音を立てた。
「場合によっては、あなたは最初の殺人を犯さなければなりませんね……」
少年はインターホンの画面から煙のように姿を消した。
本当にまるで、幽霊や神様の化身のような子だ。
インターホンの通話ボタンを切る。真っ黒になったモニターを見つめながら、私はこれからについて、計算を始めた。




