5.ゆめうつつ
『臆病な探究者』ミセル・パーセキュトリー。
『序列』十三位にして、最も忠実な僕。反乱に暗殺は日常茶飯事なヴォイドの部下の中で、一等真っ当に慕ってくれていたのが、この男である。靴を舐めろと言えば舐めるし、自害しろと言われたら自害する。もちろん腹踊りも暗殺もペットの散歩も自治領の管理も壁の補修も盗み食いの共犯もいたずらの後始末も、命じられれば二つ返事で完璧にこなす。
それがミセルだ。
レガリアのように、上司に対して敵愾心というか、行き過ぎた支配欲のような、邪な野望は持っていない。どこまでもまっすぐで、純粋ともいえる忠誠心を真正面からぶつけてくるヴォイドの怪物。
うん、それよりも。
「なぜこんなとこにいる」
ヴォイドはゴテゴテした手裏剣のキーホルダーを眺めながら、隣に傅くミセルに問うた。誰が買うんだ。キーホルダーが付いてたら投げられないじゃん。もっと実用性を考えて欲しいものだ。
いや、手裏剣はどうでもいい。
問題は、ミセル・パーセキュトリーである。
「レガリアのように、魂から救えぬ侵略バカというわけではあるまい。いたってフツーの怪物。レア度で言ったらNだ。ノーマルだ。素材扱いされるタイプのレア度だろ」
「チクチク言葉ァ……! ヴォイドさまに言われるとへこむんでやめてください……」
よっこらせとミセルは立ち上がって、それから陳列棚の整頓を始める。仕事には熱心。
「レガリアが無理やり思い出させたんですよ」
「……」
「『前』の自分は、ヴォイドさまのヴの字も知りませんでした。魂のリサイクルは完璧に行われていたんです」
「では、なぜ?」
「だから、レガリアです」
ミセルは淡々と続ける。
「おれらは長命でしたから、記憶の残滓みたいなんは残ってたんです。それをレガリアが弄って、思い出させた。記憶を復活させた。『共鳴』、とレガリアは呼んでましたね。一人が覚えていたら、二人目を作るのは容易だって。傍迷惑な話です」
「……はあ。では、貴様以外にも『序列』のやつらがいると?」
「……」
ミセルは口を閉じた。黙々と、天体図鑑を並べ直している。必要もないのに。
「おい、ミセル──」
「ヴォイドさまは」
その沼色の瞳で、じいっとヴォイドを見つめながら。
「他の者が必要だとおっしゃるのですか」
「……」
「おれだけでいいでしょ。レガリアだって、ほんとはいらないでしょ」
ヴォイドは、ミセルが震えていることに気づいた。薄ら笑いを浮かべながら、膝をつく。ヴォイドの華奢な手を、ぎゅうっと握る。みしみし、骨が鳴っている。
「ミセル」
「お、おれのこと、捨てるんですか。お、おれは、ヴォイドさましか、信じられないのに。わかんないのに。ヴォイドさましか、全部、わかんなくて、怖い、から。おれは、ヴォイドさまがいれば、そ、それだけで、いいのに。ねえ、ヴォイドさま。お、おれのこと、み、見捨てませんよ、ね?」
「ミセル……!」
「ヴォイドさまだけなんです。お、おれがわかってるのは、ヴォイドさまだけなんです。れ、レガリアも、誰も彼もわかんないから、怖いんです。ど、どうか他の人が必要なんて、い、言わないでくださいよう。ミセルだけでいいって、ど、どうか、言ってくださいよ。ねえ、ヴォイドさま」
「ミセル、いたい!」
ほんの少しだけ力が弱くなって、ヴォイドは必死に振り払った。
ミセルはポカンとしていて、それでもすぐ顔が真っ青になり、オロオロし始める。遅い。カタツムリかよオメエ。
「ご、ごめんなさい。そんなお力が弱くなっているとは思いもよらず……」
「加減しろ、バカ」
叱られた犬のようにしょんぼりするミセルを横目に、ヴォイドは思考する。ミセルの悪癖は今に始まったことではないが、少々の扱いづらさを孕むのは事実。最悪なのが、レガリアとの仲がマイナスをぶっちぎって、犬猿どころの騒ぎじゃないこと。
面倒だ。
「……あ、勤務時間終わりますね。お先に失礼しても?」
ミセルがあっけらかんとそう言い退けて、ヴォイドはため息を吐いた。怪物は切り替えが早い。早いのはいいことだけど、結局何しにきたんだこいつ。
「何って、ヴォイドさまとお話がしたかっただけですよ」
「それだけ?」
「ええ、それだけっす」
へにゃりと笑って、ミセルは続ける。
「いつかレガリアのクソ野郎をぶっ殺してやりますから、そん時まで待っててくださいね」
「……期待しとく」
「ありがたいお言葉です。じゃ、おれは退勤するんで、お疲れ様でした」
……
お会計終わり。
望遠鏡と星座早見を抱き抱えて、スキップでもしそうな勢いで、ヴォイドは科学館を後にする。実際はスキップなんてしない。したらこける。レガリアをおいてけぼりにして、駐車場でヴォイドははしゃぎ回った。
「転びますよ。ほら、落ち着いて」
「落ち着いているさ! なあ、レガリア! 今日の夜は晴れるか?」
「一応晴れの予報ですが……ああもう。とにかく止まってください! 落として壊したら目も当てられません!」
ほんの少しだけヴォイドは止まり、しかしまた走り出す。この科学館の駐車場で一等目立つベンツに近づいていく。早く帰りたい。確かベランダがあったはずだから、そこで星を見たい。今度は本当の星空を見たいのだ。これがはしゃがずにいられるだろうか。組み立ては……レガリアに任せよう。絶対できないから。
あ、そうだ。
レガリアと言えば。
「なー、レガリア」
「なんです。落として壊してももう買ってあげませんからね」
「貴様、他の『序列』メンバーに会ったことあるか?」
レガリアが足を止めた。
ヴォイドも釣られて立ち止まる。望遠鏡を抱え直し、レガリアにニコリと笑いかけ、続けた。何も言わず押し黙るレガリアに、優しく伝えた。
「別に言いたくなければいい。言わなきゃいい。取捨選択ぐらい貴様がしろ。そこまで面倒を見てやる義理はない。言わぬが花と思ったのなら、余に教えなければいい」
「……」
「ただ、余からの信頼は失うと思え」
「……最初から信頼なんてないでしょうに」
「ああ、だから言っている。支配のコツはなりふり構わず甘やかし、信頼を得ることが重要だろう?」
「……」
「なあ、『侵略種』?」
「……あははっ!」
レガリアは。
どこまでも変わらぬ怪物は。白銀の髪と真紅の瞳をもつ人間モドキは。どこまでも反乱しか考えない、どうやったって救えないヴォイドだけの、可愛い部下は。
ケラケラ笑って、まっすぐ歩いてヴォイドを追い越し、車の鍵を開け後部座席のドアを開いて。
「そーいうとこが甘いんですよ、ヴォイド様」
全く悪びれず、そう言った。
……
どうやらヴォイドという魔王は甘ちゃんらしい。
え、ひどくない? 少なくとも部下が上司に言うことではなくない? なんてひどいんだろう……。繊細なヴォイドの心はシクシク泣いている。もっと優しくしてほしい。こう……毛布で包むように、それこそ蝶よ花よと愛でてほしいのだ。
帰宅したヴォイドは夕飯であるレガリアお手製のハンバーグを頬張る。美味しい。こんなに料理上手かったっけ? レガリアにはどちらかというと書類仕事やら政治関係のお仕事をさせていたけど……。うーん、采配間違ってたかなあ。
それはそうとて。
「完成したか?」
「してません黙ってください」
レガリアは必死に望遠鏡を組み立てていた。
もちろん夕飯を終えてから。レガリアが食べ終わっていてヴォイドはまだ食べているのは、単にヴォイドが食べるのが遅いだけである。レガリアは社会人特有の早食いの後、いい感じに夜も更けてきたし、天体観測のために買った望遠鏡を作るぞーってなった。そこまではよかった。
問題は、思っていたより望遠鏡の組み立てが難しかったこと。
レガリアはヒステリックに叫びながら、説明書と睨めっこしつつ望遠鏡を組み立てていた。ヴォイドは付け合わせのコーンをフォークで突きながら、うめくレガリアを観察する。コーンはまだいい。問題はにんじんである。レガリアがいるうちに押し付けときゃよかったなあと思い込みながら、あまり噛まないようにして飲み込んだ。コーンは……なんでつぶつぶなんだろう。一気に飲み込めないじゃん。フォークで掬って喉の奥に流し込んだ。ちょっと詰まってむせた。
「あーもう! どうやってはめるんですかこれ!」
「……さあ」
「さあじゃありませんよ! もう! プラスドライバーがいるなんて聞いてない!」
望遠鏡に理不尽な怒りをぶつけつつ、レガリアは数年ぶりに活躍したプラスドライバーで望遠鏡を完成させていく。ヴォイドはごちそうさまをして、食器をシンクにおいて水につけた。油汚れは落ちにくいらしい。知らんけど。
ヴォイドは麦茶をコップ二つ分だけ注いで、一つはレガリアの近くにおき、一つはローテーブルに置いたのちソファに寝転がりながら飲んだ。テレビの電源をつけて、軽くザッピング。お、サスペンスドラマやってんじゃん。どうやら『前』の自分が見ていたらしく、大体のあらすじは頭に入っている。確か恋人を殺された主人公が犯人を見つけて復讐する話。結構血みどろ。毎週過激表現で炎上する、問題しかないドラマである。さて、主人公の恋人を殺した犯人は誰だろうか? やっぱヤス?
「ヴォイド様、このネジってここので合ってます?」
「知らん。説明書読め」
「読んだんですけどね。なぜか一本余るんですよ。怖いですよね」
「……大丈夫なのか?」
「知りません」
八十五インチの画面の中では、主人公がようやっと見つけた推定犯人をボコボコにしているところだった。そこをそう切り取っても、そんな風に血は出ない。やっぱり作り物だ。てか全部が動脈じゃないんだから、そんな赤くもないぞ。もっとドス黒いぞ。フィクションに文句垂れても仕方ないけどさ。
ちなみに推定犯人はヤスじゃなかった。くそう。
「……できました!」
「おー、おつかれ。余ったネジは無事使えたのか?」
「いや、なんか二本増えました」
「なんで?」
耐久性にかなりの不安が残る望遠鏡の完成である。見れりゃいいだろうというなんとも乱雑な信念のもと形になった。壊れないといいなあ。
非力になってしまったヴォイドにはベランダまで運べないので、お疲れだったがレガリアが運んだ。こればかりはしょうがない。
ベランダは家賃に見合って広かった。手すりの近くに望遠鏡をおき、覗き込む。つまみを調整し高さを調整し、見えるように工夫を凝らし。説明書と解説動画を片手に調節し、倍率を合わせる。なかなかうまくいかず投げ出しかけた時に、やっと見えた。
星雲が見えた。
きらきらと輝く紫がかった星雲が、はっきりと。
「どーです、ヴォイド様。見えました?」
「……」
「ヴォイド様?」
「レガリア!」
ヴォイドはバッと顔をあげ、レガリアに捲し立てる。レガリアの手を引き望遠鏡の目の前まで移動させた。見てほしい。『故郷』のものとはまた違う、しかし美しい星々を、見て欲しかった。
「見てみろ! すごいぞ!」
「押さないでくださいよ。えーっと……ああ、本当だ」
レガリアがじいっと星を観察しているのを見て、ほらどうだとヴォイドは得意げになる。レガリアが望遠鏡を独占している間、ヴォイドは肉眼での天体観測を試みた。
見えなかった。
都会の、地上の光に押しつぶされて、全然見えなかった。なんとなく手すりに寄りかかる。
「レガリア、変われ」
「えー、買ったのワタクシですし、もう少し見させてくださいよ。あ、土星とか見たくありません?」
「余は銀河が見たい」
「けちですねえ」
買ったのも組み立ても移動も、やったのはレガリアだが、正真正銘ヴォイドの望遠鏡である。レガリアを押し除けてまた陣取った。星座早見を片手に、倍率を変え向きを変え様々な工夫を凝らし、銀河を見る。
「きれいだなあ……」
「どれがどの銀河とか、わかるんですか?」
「今見ているのはオリオン星雲だな」
はあそうですかと気の抜けた返事をして、レガリアはベランダから室内に戻っていく。洗い物をするらしい。働き者なこって。
ヴォイドはしばらく、天体観測に勤しんだ。ここで位置を覚えねば目標を達成する前に死んでしまうぞと、己を鼓舞しながら。
……
どんな人間だろうが怪物だろうが、ある程度の文化的生活を送るためには金がいる。
タワマンの最上階でエアコンをガンガン働かせながら、電気を無駄遣いしつつ怠惰を貪るには、当たり前のように金がいるのだ。それも生半可な金額ではない金がいる。同情に一銭の価値もないのはみなさまご存知の通りだろう。
ともかく。
この、タワマンの最上階。そこに住まう怪物二匹。ヴォイドとレガリア・S・ファルサ。
「出かけるのか?」
ヴォイドは寝ぼけ眼を擦りながら、慌ただしく準備をするレガリアに声をかけた。ちなみに着せられたのは真っ白いネグリジェである。着心地がいいのがムカつく。
レガリアは一日ぶりに見たスーツ姿で、やっとのこさ起きてきた上司を横目に、革の鞄に資料を詰めていた。
「ああやっと起きたんですかヴォイド様。お寝坊ですね」
「うるさい。ああ、眠い……」
あくびをする。ソファに寝っ転がった。テレビをつけて、適当にチャンネルを切り替える。どこもニュースしかやってねえ。つまらん。
それにしても、眠い。少々夜更かしをしてしまったからか、とにかく兎角眠い。体を丸めてうとうとする。レガリアの声が聞こえる。
「いいですか? 遅くとも八時には帰りますので、勝手に出かけないでくださいね。チャイムが鳴っても無視していいですからね。お昼ご飯と夕ご飯は冷蔵庫にありますから、チンして食べてください。あああとお風呂の使い方はもうわかってますよね? ここのボタンを押したら──」
「わかってるって……。んー、いってらっしゃい……」
「……おねむですねえ」
「ねむい……」
「では、いってきます、ヴォイド様」
玄関からガチャリと音がして、扉が閉まった。
一秒。
二秒。
三秒。
ヴォイドはぴくりとも動かない。そのままソファで寝入ってしまったように、動かない。静かに呼吸する。
四秒。
五秒。
六秒。
「……『子供騙しの嘘寝入り』解除」
ボソリと呟いた。
次の瞬間、霧が晴れたように眠気が吹き飛んだ。どっかいった。目はこれ以上ないぐらい冴え渡っている。清々しい朝である。
ヴォイドはガバリと起き上がり、どたどた足音を鳴らしながら玄関を見た。
「予想はしていたが、やられたな」
靴がなくなっていた。レガリアの靴もない。長靴もサンダルもブーツも、全てなくなっていた。無駄に広い玄関は空っぽである。靴箱にはテープが貼ってあって、一度でも開いたらわかるようになっていた。
「相変わらず性格の悪い……まったく、ここまで清々しく堂々と監禁されると、こちらの感覚が麻痺してくるな」
あくびをしながらヴォイドはリビングに戻る。軽くテレビのリモコンをいじり、おかあさんといっしょする番組といないいないをばあする番組を梯子して、それから消した。この時間帯のテレビはつまらない。真昼間だから星も見れず、することがない。
ヴォイドはぐるりと部屋の見回す。とりあえず隠しカメラはなさそうだ。なんとなくの体感だけど、それでもヴォイドの体感だ。バカにはできない。とりあえず不躾な視線らしきものは感じないから、大丈夫だと思う。きっと。多分。メイビー。
とりあえずソファから起き上がって洗面所で顔を洗い、歯を磨き、それからまたリビングに戻って用意されていた朝ごはんを食べる。ホットサンドだった。おいしい。もぐもぐと口いっぱいに詰め込んで味わいつつ、ヴォイドは思考を回そうとするが、うまく頭は働いてくれなかった。どうもぼんやりしているし、考えられない。徹夜明けの頭は動かない。
ごちそうさまをして、皿をシンクに置く。食器洗い? しない。やったことないし。
またヴォイドはソファに戻る。クッションを抱えてテレビをつけて、つまらなかったからすぐ消した。お腹がいっぱいになったからか、またあくびが出る。瞼を擦る。
……?
おかしい。どうにも、おかしい。なぜ眠い? ほんの少しの違和感が、ヴォイドの胸を少しばかり圧迫する。
……うーん。でも、まあ。どーでもいいか。眠いし。レガリアを勘繰っていても、証拠がないんじゃどうしようもないしどうにもできないし。
「……寝るか」
眠い時は寝るのが一番である。どうせまた夜更かしするのだから、今のうちに眠っておこうじゃないか。まだ魔法の影響が残っているのか、結構ねむいし。
ペタペタと廊下を歩いて、自室に戻る。星々で飾りつけられた、自分の部屋。窓のない部屋。
がちゃんと扉が閉まった。
……
なんてことはなかった。
ヴォイドは眠り起き昼食をとり眠りまた起き夕食を食べまた眠った。レガリアが帰ってきたことにも気づけず眠り続け、風呂が沸いたから入ってくれと言われるまで、眠り続けた。なんとか重い頭を働かせ風呂に入り、そのあとは髪も乾かさず寝た。
だから、ヴォイドの一日を語るのなら、いや、ここ一週間の様子を語るなら、前述だけで十分なのである。眠って眠って、眠り続けた。魔法はとっくのとうに解けているのに、なぜか眠くて仕方なかった。
(だめだ)
ヴォイドは気づいている。
(このままじゃ、取り返しがつかなくなる……!)
ヴォイドはこの異常事態に気づいているからこそ、気づかないふりをし続ける。ベッドの上で丸まって寝ている。夢現に、ヴォイドはただこの状況を打破する得策を練っている。
結果はまあ……芳しくないが。それでも、無駄ではないはずだ。
(何日経った。陽の光が入ってこないから、体内時計が狂っている。まともな判断ができない。今は真夜中か。真昼か。レガリアは出かけているか。腹は減っていない。風呂は……きっとレガリアが入れてくれているのだろうな。人形の手入れが好きなやつだ。そうだ。そうだから、なんだ。今現在の状況を振り返れば、そんなのは些末時だろうが。考えるべきことが何なのかを考えろ……)
ヴォイドは幻想を見つつ、考える。まずい。非常にまずい。非情にまずい。幸運の女神様はヴォイドが嫌いらしい。非情なまでに非常事態に追い込んでくる。ああ、くそっ! ヴォイドの思考回路はとっくのとうにジャムっているらしい。玉詰まりである。渋滞である。アイディアが眠気によって突っかかっているのである。
(ねむい)
ヴォイドは淡く光る、ベッド脇の星形ランプを見つめる。何の意味もない、生産性なぞ皆無な行為であった。
(何を盛られた)
ヴォイドは考える。やはりレガリアが何かしたのだと確定づける。確証する。そうだ、魔法を試そうか。大抵の魔法は、ヴォイドは弾いてしまうから、やはり科学方面からのアプローチが最適解だろう。毒でも盛られたのか?
ともかく、試してみる。
「……『魔をもって毒を制す』」
不発。
そもそも制する毒がなかったらしい。何も起きなかった。ヴォイドはさっきから眠ってばかりだから、起きなかったのは半分正解である。誰も何も、この部屋で起きていない。
いや。
ヴォイドは『起きなかった』のではなく『起きられない』のだけど。
それはともかく、魔法が不発であったということは、毒物の類は盛られていないということ。ならば、魔法の類だろうか。解除できるだろうか。てか効かないはずなんだけどなあ……転生してカンが鈍ったか?
ヴォイドは指の表面を噛み切った。血が漏れ、シーツが赤く染まる。
ヴォイドは怪物だから、その体は毒である。青酸カリも真っ青な毒物だ。あくまで対人間、対魔法道具に限られるし、毒として使うと念じなければ変化しないが。
溢れた血を舐め取り、呟いた。口の中が鉄臭い。
「……『毒をもって魔を制す』」
またもや不発。
何なんだ。何が正解なんだ。この急激な眠気は、絶対レガリアの魔法か毒かなのに。なんで。あーもう、わっかんねえー……。思い込みってセンはあるだろうか? それかミセル……。いや、ミセルはないか。うんうん、あいつが自分に魔法を向けるはずがない。『序列』十三位だし。あるはずがねえ。世の中の数少ない『絶対』である。
だからなんだ。
この眠気をどうにかしなければいけない。毒でもない。魔法でもない。じゃあ何だろう? わからない。わからないのは恐ろしいらしい。ヴォイドは今恐ろしく思っているのだろうか? それこそわからない。どうでもいい。ねむい。思考がまとまらなくなっていく。
なんかもう、どうでもいい。
まずは眠る。眠気を一旦リセットし、それから考える。そうした方がいい。そうしなければならない。自己からの脅迫的なまでの強迫で、ヴォイドは目を瞑る。
まずい。
ああ、本当にまずい!
……
ストックホルム症候群。
誘拐事件や監禁事件において、被害者が加害者に殺されぬように、一種の防衛反応として、加害者に好意的な感情を抱くこと。
被害者は加害者の許可がなければ食事もできず、トイレにも行けない。生理的欲求すらままならない状況を送ることを余儀なくされる。そこで加害者が許可を出し、ようやっとまともな文明人としての生活が送れるようになる。するとどうだろう? 加害者に対して感謝の気持ちが生まれるのだ。本来ならば感謝なんてする必要なんてないのに、してしまうのだ。そんな生活が長いこと続く。長く長く長く、日数の感覚もバカになって、加害者以外と会話もできなくて、いつかは逃げられると信じて希望を持ちなんとか生き残ろうと頑張って、しかしいつまで経っても助けは来ず、いつの間にか逃げたいと思うことも逃げ出せると信じることも無くなって、長く、長く、長く、明日には加害者に殺されるかもしれないという極限の緊張感が続いて、生き残りたくて、だから必要以上に加害者に同情し同調し加害者には自分が必要だと、殺されることはないんだと思い込み、緊張を解きたくて、安心したくて、ただ帰りたくて、でも加害者は帰してくれず、この現状を受け入れるには自分は好きで加害者の元にいるのだと自身の気持ちすら変えるしかなくて、マトモなままじゃ気が狂いそうだったから、でも、長い、長い、長い、長い監禁生活はどう頑張ってもどう努力してもその生活が根本から変わるはずもなくて──
……まあ、つまり。
最初から嫌われていても、どれほど嫌い合っていても、たとえ星占いの結果が相性:星ゼロだったとしても、相手を好きになってしまうことはあるってことだ。吊り橋効果……とはまた違うか? どうでもいいが。
だって、関係ないし。
……
レガリア・S・ファルサは『侵略種』である。
文字通り侵略することに長けた怪物だ。領土はもちろん、権力、金銭、価値、思考、人間、全てを侵略し己がものとする。違和感さえ残さず、まるで最初からレガリアが頂点であったかのように、事実を書き換える怪物。
それ故に、彼女は侵略する。
自分自身を誇示するかのように、侵略を続ける。世界ごと飲み込んでしまうまで、続ける。レガリア・S・ファルサという怪物はここにいるのだと喧伝するように、続けて続けて続けて──
最終的に飲み込めなかったのが、侵略できなかったのが、ヴォイドである。
だから必然、レガリアはヴォイドを侵略したい。自分色に染め上げたい。
レガリアはヴォイドが眠る部屋の扉を開ける。『協力者』と作った牢獄だ。魔法と科学。どちらの方面からもアプローチ。この部屋に仕掛けられた魔法も、食事に盛られ服に散布された毒も、同時に解かねば意味のない、鉄壁とも言える牢獄。
ヴォイドは眠っているようだった。
「ヴォイド様、お食事の時間ですよ」
時間は告げない。時間帯はいつだって正確に、同じ周期に決めている。窓も時計もないこの部屋は、いつだって時間の感覚が狂う。
ヴォイドは眠っている。揺すって起こし、その体を抱き抱え、冷めたスープを口に流し込んだ。もちろん毒入り。抵抗なく飲み込んでくれる。
お人形遊びは好きだ。
だからこんなことをしている。怪物は自身の欲望に正直だから。たとえ嫌いあっていても、そいつが見目麗しいお人形になってくれたら話は別。ひどく愉快で痛快である。レガリアは抵抗しないヴォイドに頬擦りをした。冷たい、生きているとは思えない皮膚の感触。
楽しい。
ああ、本当に、楽しい!
……
リマ症候群。
誘拐事件や監禁事件において、加害者が被害者と過ごすうちに一定の好意をもってしまうこと。
しばしばストックホルム症候群と対比されるこれは、どちらかといえば一方的で傲慢な愛情である。ストックホルム症候群が生き残るための処世術なら、こちらはただの勘違いであろう。自分の思い通りになる人間の方が、少しばかり見下せる人間の方が好意を抱きやすいのと同じ。いや、実際は違うかもだけどさ。しっかし、勝手に共感してくれていると思い込んで、子供の頃の夢やら何やらを語り、挙げ句の果てには人質を解放してしまうなんて、人間の勘違いとは恐ろしいものである。
加害者は被害者を支配することができる。
それはつまり、上位存在気分が味わえるということだ。被害者は加害者を好きだと思い込まなきゃやってられないのに、加害者は被害者が反抗しないことを知っているから、好き勝手な感情を抱く。それが嫌悪でも無関心でも同情でも何でもいいが、好意が向けられた場合だけ、リマ症候群と名がつくのである。
この場合。
被害者には、反撃するチャンスが生まれると考えられないだろうか?
恋に浮かれ切って頭がパッパラパーになっている人物を背中から刺すのは、とても容易だと思わないか?




