黄色のちょうちょ
「わたし、近々死ぬかもしれない。」
そう言うと、夕子が読みかけの本を置いてわたしを見た。
さっきまで、ここのケーキ食べに行こうかと誘っても明日の仕事がどれだけ大変か愚痴っても、あー、とかんー、とかそんな生返事しか返ってこなかったのに、夕子は「光源氏の初恋」という分厚い本をテーブルに置いて、わたしの顔を訝しげに見つめた。
「なんか……病気なの?」
「いや、そういうのじゃなくて。毎日誰かに好きって言われすぎて、多分これ、人生の終末なんだと思って」
わたしがそう静かに、真剣に切り出すと、
夕子は眉間にシワを寄せてまた「初恋」を手に取った。
「なによ、ノロケか。心配したじゃない。」
そういうのじゃない。
惚気とか、幸せ自慢とかじゃなくて、わたしは真剣にそう考えている。
人生あがったりさがったり、いいこともあれば悪いこともあった。
父が亡くなって、母も亡くなって、家も手放して。それでも周りにはたくさん友人がいていつも支えてくれたし、仕事も評価された。それなりに恋人もいたし、お金も稼いだ。そもそも、お金持ちでなくても生活できていればそれで満足だった。
あがることと、さがることはイコールで、結局プラスマイナスゼロのところが平均値、それがわたしの考えだ。
小さな怪我をして、風邪をひいて、落し物をして、上司に叱られて。
そのかわり、割引で美味しいお肉が買えたり、駐車場にすんなり停められたり、ああ、誰かに誕生日を祝われたり。
そういう相互作用の毎日が、当たり前で安心する。
それなのに、
それなのに今は幸せの方が大きすぎてこわい。
直央は毎日、体全体で、彼の生活全体でわたしを愛してくれる。抱きしめて、かわいい、だいすきだよ、と囁いてくれる。
ついたため息さえわたしの好きなコーヒーの香りだ。
かわいいのは直央の方だよ、そう返すと、真っ赤に頬をそめて顔をわたしの肩にうずめる。
背中に回した手でゆっくり撫でると、彼のスイッチが入りそのまま好き勝手に愛撫される。
溶かされて、とかされて、
幸せすぎてこわい。
この後、どんなおそろしいことがまっているんだろう。
今だけはこのまま快感に溺れていたい、そう毎回思うけれど、ふとした時に、ああ、またマイナスの貯金をしてしまったのではという気になる。
「あのさあ、そんなで死んでたらみんな明日死ぬんじゃないの」
空になったマグカップをじっと見つめているわたしを見て、夕子が言った。
相変わらず本に視線を落としたままだ。
「そう……かな」
「そうだよ。愛をたくさん貰えてよかったじゃないの。先のことなんて誰だってわかんないんだから、貰えないより貰えた方がラッキーでしょ。」
チラッとわたしを見て、夕子は微笑んだ。
「光源氏も、そう言ってる」
夕子が帰って、部屋の片付けをして、熱いシャワーを浴びた。
スモークイエローのネイルがひとつとれていた。
彼の唯一認識できる類の色だ。
そう知ると、体の色んな部分を黄色に染めたくなる。
わたしを見ていてほしい。
ずっとこのまま変わらず、そばにいて欲しい。
わたしが貴方のものだと、そう証明したい。
年甲斐もなくこんなに熱くなるなんて、恋は恐るべきパワーを秘めている。
人にいきる力を与えたり、またわたしのように怯えさせたり。
彼の未成熟な体に抱かれて、少しはわたしも若返った気がする。それでもやはりこの年の差は埋まらないもので、話題の噛み合わない時や自分の老化を感じる度にため息が漏れる。
本当はイエローなどという浮かれた色は、もうとうに似合わないのだ。
ひまわり、お日様、ちょうちょ。
元気で、彩度も明度も高い黄色。
可愛くて若い子にとても合う。
わたしにしっくりくる色といえば、モスグリーンだろうか。
シャワーをとめて、深い緑のバスタオルを巻く。
鏡にうつる自分はそれがよく似合っていた。
ほら、ね。
左手の小指にスモークイエローのジェルネイルを施しながら一人で苦笑した。
似合わなくて馬鹿みたいだけど彼の見える世界にそれでも居たいのは、怯えた気持ちを超えたところにあるただの恋心だ。