必要ないもの
「私にも、亘さんが必要なんです」
佳那の場違いな告白に、亘はほんの少し心が揺れ動くのを感じた。決して嫌なザワめきではなく、こちらにもまた必要とされているという満たされたような思い。芽生えた怒りは簡単に消え去り、思わず鼻の下を伸ばし、込み上げる喜びを必死で堪えた。
そんな亘の表情を見逃すはずもない由美子は、肘で思い切り亘の横腹を突く。そして亘にアイスピック並みの鋭利さを纏った視線を投げ付ける。
「バッカじゃないの」
由美子には、亘の心が手に取るように分かった。今こんな場で、相手の女の言葉に浮かれるバカな男……。
だから、だから気が付いたのだ。浮気をしているかもしれない……と。それは、女の勘などではない。女が何となく気付くのは、観察眼の鋭さ故だ。いつもとほんのちょっと違う様子……
いつもより鏡の前にいる時間が長い、いつもよりネクタイの柄を気にしている、普段は選ばないようなシャツを選んで買ってきた……そんな些細な事の積み重ね。たまたまそんな事もあるかもしれない。しかし、そこに表情の変化も加われば、グレーだったものはたちまちブラックに近付くのだ。
だら由美子には、正直“証拠”は無かった。単なる自分の中の確信。それだけだった。そんなものに怯えて暮らす事に、耐えきれなくなり鎌をかけたのが、結果的に今日という日を迎える事になった。
恐れていた事が現実となったが、ハッキリした方が対処法も考えられる。由美子は意を決して佳那との賭けに出る。
「こんなバカ男の、何が必要なのよ?」
「いや、それはあんまりじゃ……」
脇腹に肘打ちを喰らい悶絶したまま亘が嘆く。
「それは、あんまりですよ。私には必要です。亘さんの……」
「亘の、何?」
「……から、だ、です」
「はぁ?どんだけよ、あんた。頭、大丈夫?正気?」
「そう仰いますけど、じゃあ、奥様は、亘さんの何が必要なんですか?」
「だからさ、家族だからね。子供達の父親なのよ、これでもね。育てて行く義務ってもんがあるでしょうよ。生活していかなきゃならないのよ」
「と言う事は、その役割が果たされれば、十分なんじゃないですか?奥様は、亘さんの体は必要ないですよね?」
「体が必要ないとか、意味分かんないでしょ?自分の立場、分かってる?自分が何したか分かってんの?何でそんなにエラそうにしてられんのよ!」
またも勢いで語気が荒くなる由美子に対し、どこまでも冷静な様子の佳那。勝算でもあるかのような態度は、由美子を不安に陥れそうになっていた。
「もし、奥様が、亘さんの体ごと必要としているのであれば、当然私は身を引きますし、どんな罰でも受け入れます。ですが、この先、亘さんがまた我慢を強いられるようなら、私は、私は……引き下がれません。この先、一緒になることが出来なくても、互いに必要な部分を分け合う事は出来ないでしょうか?」
佳那からの提案に驚いたのは、由美子より寧ろ亘の方だった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。分け合うって、俺はモノじゃないんだから……」
すると由美子が亘の言葉を遮るようにして佳那に対して確認のように聞き返す。
「必要な部分を分け合う?」
言葉を遮られた亘が、佳那と由美子を交互に見ながら再び2人に訴える。
「だからね、俺は、モノじゃないしね、あの……やっぱりさ、ごめん、これ以上はもう……」
「もう、何よ?浮気はしません、ごめんなさいって?ハハッ、判断は私に任せたんでしょ?黙ってて」
佳那からの提案に興味を持った由美子が亘の訴えを退ける。
必要ないもの……今の家族の形、築き上げてきたものが崩れ去らない方法、それだけを由美子は考えていた。この女一人を排除して慰謝料でも貰って終わりにすれば済む話ではあるが、また同じような事が繰り返されるかもしれない。それならいっそ、自分が必要としていない部分をこの女に任せた方が安心ではないか?
浮気に気付き、苛立つ気持ちは何が原因だったのかーーー
愛していたからか?裏切られたと思っていたが、一体何を、裏切られたというのか?嘘をついて、他の女に会いに行っていた。会って……していた事は、どうだ?亘の気持ちは、愛は、何処にあるのか?
亘の異変に気付いてからも、家族への在り方は変わらなかった亘。生活費を使い込むような事もなく、子供達との時間を疎かにする事もなく寧ろ、優しさが増したようにすら感じていた。それが、罪悪感から来るものであったとしても。
由美子は自分が、家族がこのままなら、何ら不都合な事はないのではないかと、思い始めていた。