最終話:あなたと
〈魔女〉になった春が過ぎて、昴の制服は夏服になった。
新しいセーフハウスは山あいの田舎だ。日に数本のバスしか来ず、家よりも田んぼのほうが多い。ビルの代わりに山の木々が立ち並ぶ空は、都会よりも青く広く感じる。
暑い季節になっても日々に変化はなかった。訓練でかく汗の量が増えて、たまに昴が互助会の用事で出かける。
こんな田舎でもやることがあるなんて大変だなぁ、と平はぼんやり思っていた。自分も何か手伝えたらいいのに――昴の帰りを待つのは、無力感を抱く時間に変わっていた。日が長くなると、一人の時間も長くなったように錯覚する。ゆっくりと茜色に染まっていく空が、もどかしかった。
ぽつ、と窓を叩く音に目を取られる。窓に水が滴り、一条の線を引いていた。すぐに水滴は増えていき、あっという間に窓を洗うような土砂降りになった。
ひどい夕立だ。ふと思いつき、傘立てを見に行くと、傘は減っていなかった。
昴と交わした約束が頭を過る。けれど、自分だってそれなりに訓練は積んできたし、少しぐらい……逡巡の果てに、よし、と平は傘を二本取って、昴との約束を破った。
外に出ると、降り始めの雨で粘土のような香りがする。夏の暑い空気が、雨で冷やされて引き締まったような気がした。
昴の出かけた方向は覚えている。何もない田舎道だ、道なりに歩けば会えるはずだ。
そして、目論見通り、昴はいた。
山の合間の森に挟まれた道の真ん中に、昴は立っていた。雨に濡れ、こちらに背を向け――血塗れだった。
陥没した地面に水と血が流れこみ、薄い赤の溜まりを作っている。
銃や防具を身につけた男たちが辺りに転がっている。
森の木の枝に引っかかり、血を流して呻く人。
横転した車と、それに潰されている人。
昴の周囲には破壊の跡しかなかった。
一人だけ、右腕が不自然な方向に曲がった男が、苦痛に顔を歪めながら、昴の前に跪いている。
「あなたたちの命に興味はありませんが、しっかり報告してください。何度来ても無駄だと」
冷たい声で言い放った昴に、男は罵倒の言葉を吐き捨て、ふらつきながら森の中に姿を消した。
激しい雨の中で、濡れて顔に張りついた髪を昴は鬱陶しげにかき上げる。小さく嘆息すると、彼女は踵を返した。その顔に感情はなく、目前の光景に無関心だ。
平に気づくと、昴は驚いたように目を見開く。
そして、少し寂しそうに、笑った。
「……平とはまだ、普通の女の子でいたかったのですが」
投げかけられた言葉に、何も答えられなかった。
そうだ、傘を渡さないと。昴はずぶ濡れだ。タオルも持ってくればよかったかな。風邪を引いたら大変――
足が、足がどうしても前に進まない。
降りしきる雨で、二人の間が隔てられてしまったようだった。
平は何も言えず――何も言えない自分を恐れて、その場を逃げ出した。
後ろで昴の声が聞こえたような気がしたが、足を止められなかった。気がつくと傘はどこにいってしまっていて、濡れ鼠になっていた。
今まで昴は何度、互助会の『用事』をこなしてきたのか――普通の日常のすぐ近くにあった悍ましいものを知り、吐き気がこみ上げる。その場で胃の中のものを戻してしまった。
自分が約束を破らなければ、何も変わらずに済んだのだろうか。けれど、それでは何も変わらない。昴が心のどこかで寂しそうに笑い続けるだけだ。
この世界で、〈魔女〉として、人間として、自分はどうすべきだったのだろうか。
ぱしゃり、と水音がして平は顔を上げる。そこには荒い息で目を血走らせた、右腕を庇う男がいた。
さっき、昴が逃がした男だ。
「お前も、〈魔女〉だな……娘と、同じくらいの、ただの女の子が……」
ぎゅっと歯を食いしばると、男は平の顔を蹴りあげた。咄嗟に魔力で防御しようとしたが間に合わず、平は鼻血を出して仰向けに倒れる。
男は平に馬乗りになり、左手でナイフを振りかざした。痛みで涙目になりながらも、平は必死で男の腕を押さえる。
「どれだけ殺せば気が済む! お前たちも一度、奪われてみろ!」
ちり、と平の中で、何かが焦げつくような気がした。
何て。
身勝手な。
これが人間なの?
生まれて初めて、他人への口答えが、口を衝いて出た。
「あ、あなたたちが襲ってくるから、昴みたいに奪われた子がいるんだ!」
「黙れ化け物! 大人しく人類の薪になればいいものを!」
男は全体重をかけて、ナイフの切っ先を平の喉元に届かせようとする。平の未熟な身体強化では、まだ大の男に抗えるほどの力は出せない。徐々に押し負け、切っ先が首へ迫ってくる。
男は瞳孔が開ききっていて、瞳の奥には殺意と憎悪しかなかった。
これが、今の自分が世界から向けられている目。お前に与えられるものは呪詛だけだと、世界から言われているようだった。これから自分は、目前のナイフのように、何度となく刃を突きつけられ続けるのだろう。
耐えられるわけがない。
ちょっと前まで、自分は何でもない、普通の人間だったのに。
とても、独りでは――
脳裏を一人の少女の姿が過る。
自分勝手な感情と欲望に、平は泣きそうになった。
さっき逃げだしたのに。話も聞かず。一方的に拒絶したのに。
昴は生きてきたのだ、この世界を。一人の女の子が耐えてきたのだ。涙も見せず、弱音を吐くこともなく、普通に憧れながらも、彼女は平を導く星でいてくれた。
――あぁ、わたしは彼女となら生きていけると思っている。
ぷつりと、ナイフの切っ先が喉に刺さったとき、平は叫んでいた。
「そんな、目を――わたしたちに向けるな!」
散らかれ。
気がついたときには、平は〈世界〉の力を使っていた。
こんなにも残酷なのに、それを当たり前にした秩序としている世界。その中に、平の意志で一滴の黒いノイズを垂らし、波紋を作る。乱れ、染まり、混沌を生み出し、呪詛を返した。
じゅっ、という音がして、焦げと生臭さが混ざったような臭いがする。
男が悲鳴を上げて自分の目を押さえた。平の上から転がり落ちて、苦しみながら地面の泥にまみれてのたうち回る。熱い、熱いと繰り返しながら、平を呪う言葉を吐き散らかし――やがて気を失い、動かなくなった。
平の体は震えていた。魔力を使った寒気だけのせいではない。自分が取り返しのつかないことをして、それができる人間なのだと理解した怖気だった。
何も傷つけず、傷つけられない平凡な自分より、誰かを傷つけても守りたい〝特別〟を見つけてしまったのだ。
「平……」
声のほうを振り向くと、そこには昴がいた。
曖昧な距離から、恐る恐るという調子で、ゆっくりと歩いてくる。
道端に倒れている男を一瞥して、昴は言う。
「……命に問題はないですが、確実に失明したでしょう。この人間はもう、無力です」
平は呆然としたままへたりこむ。がむしゃらに魔力を使った反動で、体が冷え切って上手く動かせなかった。
昴は膝をついて目線を合わせると、平の頬をはたいた。
「なぜ、約束を破ったんです」
「……ごめんなさい」
「死んで、いたかも知れないんですよ」
「……ごめんなさい」
「君は――」
口を開きかけて、昴は顔をくしゃくしゃにすると、平を抱きしめた。
「〈星〉の力が、上手く使えません」
ぼそりと、震える声で昴はこぼした。
「平がいなくなったことを想像した途端、このざまです。私もまだ、未熟ですね」
雨の中に、二人の涙が混じった。
雨がやみ、二人はどちらからともなく手を繋ぎ、セーフハウスに戻った。
帰り道は、雨上がりに鳴き始める蝉の声だけが響き、お互いに一言も言葉を交わさなかった。
無言のまま帰宅すると、泥だらけになった服や体を綺麗にするために、二人でシャワーを浴びて着替えた。
疲れ切っていて、夕飯を食べるという発想もなく、そのままベッドに横になった。電気を消す直前の「おやすみなさい」という言葉が、久しぶりに交わした言葉だった。
平に背を向けて横になる昴は、数分もすると寝息を立て始めた。無理もない。自分よりももっと長い時間、気を張っていたに違いない。
平も疲れを感じて、微睡みながら、瞼がわずかに重くなってきていた。
平は腕を伸ばし、眠る昴へ手のひらをかざす。今はまだ、彼女は隣にいてくれている。すぐそこにいるのに、近くにいることを確認したかった。
星のような人。どうか、手の届かない人にならないで。
今日、昴と一緒に生きていくことの本当の意味を、ようやく理解できたと思う。〈魔女〉になることと、〈魔女〉であることの重みは、まったく異なるのだ。
平は心の中でどこかに告げる。
わたしは〈世界〉の〈魔女〉――世続平。
薄い闇の中で平は目を閉じた。視界は完全な闇に包まれ、明日の訪れを待つ。
ハロー、世界。わたしはここにいます。あなたはどこにいますか?




