わたくしを間者に仕立てた偽の密書、お書きになった御方には牢へ入っていただきます
母が隣国の生まれであること。十八年のあいだ、わたくしの咎はそれひとつきりだった。
エステル・ハルステッド。伯爵家のひとり娘である。社交界はわたくしを「あちらの血」と呼ぶ。扇の陰で、茶器の湯気の向こうで、聞こえるように──そして咎めれば聞こえなかったと言えるように。
母はわたくしが十の年に亡くなった。この国の言葉に少しだけ癖のある、よく笑うひとだった。母の持参した領は川と街道の交わる土地で、隣国との商いはあそこを通らずには成らない。人はそれを富と呼び、富と呼んだ同じ口で、わたくしの血を疑った。母は亡くなる前、その領をわたくしに遺した。父の伯爵領とは別の、わたくしひとりの名の土地である。
母は寝物語に、あちらの言葉を教えてくれた。麦の育つ国の、やわらかい言葉。それはわたくしの宝で、同時に社交界にとっては疑いの種だった。だからわたくしは人前では決して口にしないと決めて育った。
十五で社交界へ出た夜のことは、いまでもよく覚えている。挨拶を交わした侯爵夫人が、扇を閉じながら仰った。「まあ、この国の言葉がお上手ですこと」。わたくしはこの国で生まれ、この国で育った。そう申し上げると、夫人は困ったように笑い、それきり別の令嬢の輪へ移っていかれた。
わたくしはその夜、扇のあおぎ方をひとつ覚えた。囁きが聞こえたら、聞こえなかった顔のままゆっくり三度あおぐ。それだけのことで、たいていの夜会はやり過ごせた。
婚約者はダミアン・レムケ。宰相補ボードワン・レムケ様のご子息である。四年前、婚約の席でダミアンは言った。「父上がお決めになったことです」。それきり四年、あの方がわたくしに向けた言葉で、それより長いものを知らない。
だから年明けの拝賀の席も、わたくしは慣れたつもりでいたのだ。陰口の毒には。
──その毒が陰から出てきた。
◇
拝賀の儀は大広間で行われる。玉座に王、その脇に大法官と重臣が居並び、貴族は家格の順に進み出て年頭の言祝ぎを述べる。
ハルステッド家の番が済み、わたくしが列へ戻ろうとしたときだった。
「陛下。年頭より恐れ入りますが、火急の儀にございます」
進み出たのは宰相補ボードワン・レムケ様だった。捧げ持った文箱を掲げ、広間へよく通る声で言う。
「ハルステッド伯爵令嬢エステルは、隣国へ我が国の内情を流しております。証拠はこの密書の束。国境の宿場にて、運び屋もろとも押さえたものにございます」
広間が水を打ったように静まり、それからさざめきが返ってきた。ほら、と言う声を、わたくしは確かに聞いた。ほら、やはり、あちらの血。囁きは扇の陰から出て、初めて堂々と声になっていた。
文箱から取り出された文の束が、係の手で大法官へ渡されていく。
「読み上げをお許しいただけますなら──北の城砦に詰める兵の数、街道の橋普請の日取り、塩の備えの量。いずれも、政に与る家の者でなければ知り得ぬ事々にございます」
束の一通が開かれ、係の者が文面を掲げて示した。流れるような隣国の文字。それを読める者はこの広間に幾人もいない。読めるのは──あちらの血を引く、わたくしのような者だけ。
仕組みとしてはよくできていた。文字が読めないからこそ、皆は中身ではなく封を信じる。封蝋の紋を信じる。
「文面は隣国の言葉。筆はおそらく女の手。そして封には──ハルステッド家の封蝋が捺されております」
ざわめきがひときわ高くなった。ダミアンが父の隣へ進み出るのが見えた。あの方はわたくしを見なかった。
「父上がお調べになったことです。間違いはございません。……わたくしは、この婚約を白紙に戻していただきたく」
破談の言葉だけは、はっきりとわたくしへ向けて言うのだ。四年間で一番長い言葉が、それだった。義父となるはずだった方の隣で、婚約者だった方が、揃いの立ち姿でわたくしを裁いていた。
泣くべき場面なのだろう。膝をつき、潔白を叫び、慈悲を乞うべき場面なのだろう。──あちらの筋書きでは。
指先が震えそうになるのを、裾を整える仕草の中へ隠した。震えてよいのは指まで。声は渡さない。
わたくしは玉座へ一礼して、ただ一言だけ願い出た。
「恐れながら、陛下。その密書を、この場で検分くださいませ」
広間がまた、ざわりと揺れた。命乞いを始めるはずの罪人が、証拠の検分を願ったのだから。ボードワン様が一瞬こちらを見て、それから何事もなかったように視線を戻したのを、わたくしは見ていた。
「……罪を認めぬ、ということかな」
大法官が問う。わたくしは首を振った。
「認めるか否かを申し上げる前に、まず物をあらためていただきとうございます。文とは、そのためにあるものでございましょう」
大法官は束の一番上の文を取り、封蝋へ片眼鏡を寄せた。老いた眉がわずかに動いた。
「ハルステッド家の紋。川舟に、麦穂──いや」
そこで言葉が止まる。
「……麦穂が、三本ある」
その呟きの意味が分かった者は、広間に幾人もいなかったと思う。わたくしには分かった。分かって、それでようやく指の先が冷たくなった。
(お祖父様の代の、旧い紋──)
三年前、王命で紋章改めが行われた。国中の家紋をあらため、重複を整理し、登録をし直す大掛かりなものだ。ハルステッド家はその折、祖父の代からの旧紋を王家へ返上して新しい紋を賜った。麦穂は二本に減り、川舟に帆が加わった。旧い紋の印型は一式すべて納めてある。
つまり、あの封蝋は。
「文書院──文書院は控えておるか」
大法官が声を張るより早く、文官の列の端から一人が駆け出していた。検分の間じゅう、身を乗り出して封蝋を凝視していた若い文官だった。
「文書院院長ニクラス・シュヴァルベ。受領簿をお持ちいたします」
拝賀の日、文書院は当年の綴りとあわせ、慣例により節目の年の綴りを控えの間に備えている。紋章改めの年の綴りもそこにあった。
駆け戻った院長は息を整えるのもそこそこに革の綴りを開き、読み上げた。
「紋章改め、第三十一号。ハルステッド伯爵家。旧紋──川舟に麦穂三本──の印型一式、王家へ返上。受領、王宮文書院。院長代理の署名、ならびに立会人二名の署名、あり」
顔を上げ、彼は広間へ向けてはっきりと言った。
「返上された印型は文書院の封庫にあり、この三年、出納の記録はございません。正規の手続きでこの封蝋を捺せる者は、この国にひとりもおりません。捺せるとすれば──返上より前に、型を写し取った者だけにございます」
広間がどよめいた。
「──お待ちを」
ボードワン様の声がわずかに速かった。
「写しの型など、いくらでも作れましょう。返上の前に、ハルステッドの家の者が手元に残したのやも知れませぬ。むしろ、それこそが動かぬ証……」
「レムケ卿は、よくご存じですな」
大法官が顔も上げずに言った。
「封蝋から型が写せることを、ずいぶんとよく。──いや、お続けくだされ。それで、ご令嬢がご自分の家の廃れた紋を、わざわざご自分の密書に捺した理由は、何でございましょうな」
ボードワン様の口が開いて、閉じた。
係の者が検分の卓へ残りの束を並べていく。封蝋はどれも同じだった。麦穂が三本。三年前に死んだ紋が、ひとつ残らず几帳面に捺されていた。几帳面さだけは、あの家の家風なのだろう。
老人は文を軽く掲げ、今度は広間じゅうへ諭すようにゆっくりと言った。
「レムケ卿のご説明によれば、この束にはこの秋に日取りの決まったばかりの橋普請のことまで書かれておるそうな。今年の内情を封じた紋が、三年前に死んでおる。──仮に、ご令嬢がまことに間者であったとして。おのれの密書に、おのれの家の、廃されて足のつく紋をわざわざ捺す方はおられません。この封蝋が語っておるのはただ一つ──この文は、ハルステッド家の外で、ハルステッド家のものらしく見えるよう作られた、ということですな」
告発はその場で崩れた。
誰も、わたくしの弁明を必要としなかった。文と簿と理屈だけがそれをした。
「レムケ卿」
玉座から初めて声が降りた。
「その束は、そなたが押さえたのであったな」
「は……運び屋が、国境の宿場で……」
あの滑らかによく通る声が、聞き取れぬほど掠れていた。
「大法官。調べよ」
わたくしは誰も告発しなかった。する必要がなかった。裾を整え、もう一度だけ深く一礼した。
さっきまで「ほら、やはり」と囁いていた口々が、もう別のものを囁き始めていた。おなじ囁きが向きだけを変えて。
◇
その夜、屋敷へ戻ったわたくしは母の部屋の鍵を開けた。
文机の抽斗に小さな麻の袋がある。母が国から持ってきた花の種。この国の土では咲かぬと言われ、それでも母が毎年蒔き続け、とうとう一度も咲かなかった種の残りだ。
袋の口を握ったまま、しばらく座っていた。
泣くなら、ここでだ。広間ではない。
(お母様。旧い紋が、わたくしを守りましたよ)
麦穂が一本多い、あの野暮ったい紋が。
袋の口を結び直したとき、指はもう冷たくなかった。
◇
沙汰の場は月が変わる前に開かれた。
御前に、ボードワン・レムケ様とレムケ家の家令が引き据えられている。わたくしも召し出され、末席からそれを見ていた。見ておくべきだと思ったのだ。
引き据えられたあの方は拝賀の日と同じ礼服を着ていた。ただ、あの日と違うのはまわりの目である。列席の家々──あの方に頭を下げてきた家々が、いまは咳ひとつせずその背中を眺めていた。
卓の上には密書の束と並べて、蝋の鋳型がひとつ置かれていた。家令の部屋の床下から出たという、旧い紋を写し取った型である。動かぬ物が二つ、当人たちの面前に並んでいた。
大法官が調書を読み上げる。
「密書の封蝋に用いられた旧紋の型は、四年前の婚約取り交わしの折、レムケ家がハルステッド家より預かった祝い状の封蝋から、家令が写し起こしたもの。文面はボードワン・レムケが口述し、家令が隣国の言葉に起こして筆を執った。運び屋は雇われ者にて、国境の宿場で押さえられるところまで、雇い主の指図のうちであった」
狙いも、調書の文言のまま読み上げられた。『ハルステッド領の通商の利を、咎による召し上げののち、宰相府の差配の下に置くこと』。領地方を預かるのは、宰相補その人である。
母の領。川と街道の交わる、わたくしひとりの名の土地。はじめは婚姻で取り込む算段が、領は嫁いでもわたくしの名に残ると知れて、廃して召し上げさせる筋書きへ変わったのだという。
型の手本にされたのは、婚約の年の祝い状──紋章改めより前の封蝋だった。あの方は手元の旧い封蝋を写させ、その紋が翌年の改めで死んだことを確かめなかった。紋章改めの布告に、宰相府の判を捺した当人が、である。
「恐れながら──恐れながら、陛下。わたくしは、国を思えばこそ。あちらの血を引く者が政の近くにあることの危うさは、いずれ必ず……」
「国を思う者は、偽の密書を書きません」
大法官は調書から顔も上げなかった。
「そなたが案じておったのは国ではなく、ハルステッド領の帳簿でございましょう。調べは、そこまで出ております」
「ボードワン・レムケ。文書偽造ならびに誣告の罪により、爵位を剥奪のうえ、投獄に処す」
係の者が進み出て、あの方の胸から宰相府の徽章を外した。外された徽章が盆の上で小さな音を立て、あの方はその音に、肩だけでびくりと応えた。
それでも最後まで姿勢だけは崩さなかった。ただ、引き立てられる間際に一度だけこちらを見た。何か言いかけ、言葉にならず、口だけが動いた。
わたくしは目を逸らさなかった。逸らさぬために、来たのだから。
「家令、同罪。投獄に処す」
家令は震え、主人の名を呼びながら引かれていった。
そして。
「ダミアン・レムケ」
ダミアンは罪には問われなかった。何も知らされていなかった、と調べが出たからだ。けれど。
「そなたは御前において、調べを経ぬ告発に唱和し、婚姻の約を一方的に破った。官途への推挙は、生涯これを行わぬ」
罪でも罰でもない。調べもせずに人を裁いた者を、王はもう官に推さぬ。それだけの話である。
あの方は顔を上げ、場違いなほど素直な声で言った。
「お待ちください。わたくしは──父上が、本物だと仰ったのです。父上がお調べになったと。わたくしの、どこに誤りがあったと仰るのですか」
誰も答えなかった。答えを持っている者は、もうこの広間にいなかった。あの方は分からぬまま、退出の礼だけは正しく取って下がっていった。聞けば、家財をまとめて領地へ引くという。
哀れとは思わなかった。ただ、四年前の婚約の席と同じ顔だと思った。
(四年間で一番長いお言葉が、ご自分の弁明でしたのね)
それだけを、覚えておくことにした。
◇
沙汰が下りると、屋敷へ招きの文が相次いだ。
夜会に、茶会に、観劇に。差出人は扇の陰でわたくしを「あちらの血」と呼んでいた家々である。文面はどれも似ていた。かねてよりご令嬢の聡明さには感服しており──。
領地へ発つ前のダミアンからも、一度だけ文が来た。誤解が解けて安堵している、ついては婚約についても、あらためて話し合えないか──。わたくしは封を切ったことをすこし悔やみ、返事は書かなかった。あの方へ宛てる言葉は、四年のあいだに使い切ってしまった。
わたくしは騒がなかった。詫びてくださるなら受け取る。招いてくださるなら、これまでどおりの付き合いの分だけ伺う。それ以上は返さなかった。
◇
雪の残りが庭の隅へ追いやられたころ、王宮文書院の院長が伯爵家を訪ねてきた。
ニクラス・シュヴァルベ。あの日、受領簿を抱えて駆けた人である。院長と聞けば老人を思い浮かべるところだが、近くで見るとやはり若い。指先に、洗っても落ちないインクの色が染みていた。
応接の間で彼は名乗るより先に深く頭を下げた。
「まず、お詫びを申し上げます。文書院は三年前、旧紋の返上を受領しておきながら、写しの型が世にあり得ることまでは疑いませんでした。疑っていれば、あの束は御前へ出る前に止められたはずです」
「おやめくださいませ。あなたの簿が、わたくしを守ったのです」
「簿は、書いてあることしか守れません」
彼は顔を上げた。
「ですから、あの日は簿でないものも走らせました」
「……走らせた、と仰いますと」
「わたくしの足です」
真顔で言うので、笑ってよいところか一瞬迷った。この方の冗談はどうも包み紙が地味でいけない。
「あの場で封蝋を疑ってくださったのは、あなたおひとりでした」
「十年、封と署名ばかり見て暮らしております。人の顔は覚えられませんが、紋は忘れません。それに──ハルステッド家の文書は、十年分すべて封庫にございます。あの家の封蝋を、わたくしは何百と見てまいりました。麦穂の数が違えば、気づかぬはずがございません」
何百、と胸の内で繰り返す。わたくしの家の文を、この方はわたくしより多く見て育ったらしい。
それから彼は、革の包みを差し出した。
「今日は、これをお届けに参りました。受領簿を繰るうち、行き当たったものです」
包みの中は一枚の古い通行証だった。十九年前の日付。隣国からの入国の記載。そして通行人の署名の欄に、少し癖のある、忘れようのない手蹟。
(──お母様の字だ)
十九年前、母はこの署名ひとつでこの国の門をくぐった。誰の陰口もまだ知らない、ただの旅人として。インクは褪せていたけれど、伸びやかな筆遣いは記憶の中の母の手のままだった。
「お母君がこの国へ嫁いでこられた日の記録です。文書院の綴りに眠っておりました。原本は院に残す定めですので、これは手続きを踏んだ写しにございます。写しの型と違って、こちらは足がついても困りません」
冗談のつもりらしかった。生真面目な顔のままなので、気づくのが一呼吸遅れた。
わたくしが笑うと、彼は安堵したように息をつき、それから居住まいを正して耳慣れない言葉を口にした。
「ドブラ・ジェトヴァ、エステル様」
少し癖のある発音のそれが母の国の言葉だと分かるまで、また一呼吸かかった。
「……いま、なんと」
「『新しい年が、あなたに良い麦を実らせますように』──お母君の国の、年明けの挨拶だそうです。発音は、商館の通事に習いました。遅くなりましたが、年頭のご挨拶です」
彼はインクの染みた指を軽く握り、続けた。
「あなたの母君の国の言葉は、陰口ではなく挨拶から覚えるものでしょう」
目の奥がふいに熱くなった。
(泣くなら独りのときと、決めておりましたのに)
俯いたわたくしに彼は何も聞かず、茶が冷めるまで麦の育て方の話をしていった。
◇
春になった。
母の種が咲いた。
温室でもなんでもない、母の部屋の窓辺の鉢でである。十九年咲かなかった種がなぜ今年に限って咲いたのか、庭師は首をひねっていた。土を変えたわけでも水を変えたわけでもないという。
(種にも、聞こえていたのかもしれませんね)
この家からあの囁きが消えた、はじめての冬でしたから──そう言うと、ニクラス様は生真面目に「植物に聴覚は」と言いかけ、やめて、「そうかもしれません」と言い直した。そういう方である。
王宮前の広場には、春ごとに花市が立つ。文書院の伝手で隅に場所を分けてもらい、わたくしたちは母の花を並べた。見慣れぬ異国の花は人を集め、売り物ではないと知ると、皆ふしぎそうに顔を寄せて名を聞いていく。
「なんという花です?」
「母の国では──」
教えた名を、客が覚えて帰る。隣ではニクラス様があの癖のある発音で季節の挨拶を客へ返し、客が笑って真似をする。覚えたての挨拶を、得意げに連れへ披露していく子どもまでいる。
(お母様、ご覧になっていますか)
わたくしは籠から花を一本抜いて、隣の生真面目な横顔へ差し出した。
(了)




