CASE3-27 「……普通の下宿みたいですね」
「……トリアース地区・テキートナ通り33-4……ここね」
日が傾き、薄暗い夜の帳が下りはじめたトリアース地区の片隅で、歩道に立った標識を読みながら、マイスは呟いた。
「……普通の下宿みたいですね」
彼女の傍らで、目の前の建物を見上げながらイクサは言った。
彼の言う通り、その赤茶色いレンガ造りの建物は、下層地区でよく見られる建築様式の古いものだった。
「――ここで、今朝、スマラクトさんが暴れてたのね」
マイスは、周囲をキョロキョロと見回す。
一瞥したところ、そこまで治安が悪い地区には見えない。……冴えない中年男が、薄い頭髪を振り乱して叫び喚いていたりしたら、それは確かに衛兵隊が出張る案件になるだろう。
イクサは、そう考えながら、小さく頷いた。
「そうですね。――という事は、この建物に、スマラクトさんの彼女……いや、“彼女”と偽った、カルナさんが住んでいたんですね」
「その“カルナ”って名前も、本名かどうか怪しいけどね」
そう言うと、マイスは苦い顔をして、イクサと同じように目の前の古ぼけたレンガ造りの家を見上げた。
――昨日の夜、ダイサリィ・アームズ&アーマーの収納庫から“ガルムの爪”が消えた事を知ったスマラクトは、前日に自分がこっそり“ガルムの爪”を見せたカルナの事を怪しみ、その翌日――即ち今朝、彼女の居宅であるこの建物へとやって来たのだ。
だが――。
「……やっぱり、スマラクトさんの言ってた通り、中には誰もいないようですね」
長身のイクサが爪先立ちになって、窓から建物の中を覗くが、黄昏時にもかかわらず灯りの点いていない部屋の中に、人の居る気配は無かった。今朝のスマラクトも、この部屋の有様を目の当たりにして、ようやくカルナという女に騙された事を思い知り、その事に取り乱した挙げ句、衛兵達に拘束されたのだろう。
「……見えない」
マイスも中を見ようと爪先立ちになるが、それでも窓の縁には届かない。彼女は不機嫌な表情を浮かべ、頬を膨らませた。
イクサは、そんな彼女の様子を見て、思わず吹き出した。
「だ――大丈夫ですよ、俺がマイスさんの分までちゃんと見ますから――」
「……何か、その言い方、腹立つわね」
マイスは、ニヤニヤと微笑っているイクサの顔をギロリと睨んだが、ふと何かを思いついた様な顔をして、彼の背中を突っついた。
「ねえ、イクサくん。ちょっと屈んで」
「え? 屈む? ……何でですか?」
「――いいから! 屈んで! さあ、早くっ!」
マイスはそう言いながら、訝しげな表情のイクサの背中にのしかかった。
急にマイスの全体重を背中に預けられたイクサは、思わず悲鳴を上げる。
「ぐえっ! お……おm――」
「おm……て、な・に・?」
「――!」
背中から聞こえた、地獄の底から響いたような低い声に、彼の心胆は凍りついた。
彼は顔面から夥しい冷や汗を流しながら、何とか活路を開く言葉を掘り出そうと、必死で脳内をほじくり返す。
「お――おも……あ、いや! そ、そう! おまかせ……『お任せ下さい!』って……そう! そう言おうとしたんですよ~、あははははは!」
「……」
イクサが上げた乾いた笑い声に、疑わしげに眉を顰めるマイスだったが、ニッコリと笑うとイクサの背中にしがみついた。
「あ、そ。――じゃあ、ヨロシクね♪」
「ぐ――は、はいぃっ!」
マイスの言葉にホッと胸を撫で下ろすイクサ。彼は、間違ってもマイスの臀部に触れないよう、手の位置を慎重に調整しながら、彼女の太腿を持ち、歯を食いしばりながら立ち上がった。
マイスの重みと、仄かな温もり、そしてふたつの柔らかな感触を背中に感じながら、極力それを意識しないよう、彼はひたすら心を無にしようと努力する。――無駄だったが。
一方のマイスは、首を伸ばして、ガラス越しに暗い部屋の中を覗き込む。
「……確かに、もぬけの殻ね。もう、戻ってくる事も無さそう」
そう呟くマイスだったが、彼女の声に失望の色はない。充分に予想していた結果だったからだ。
――と、その時。
「――おい! 何やってるんだ、アンタら!」
突然、ふたりは背後から厳しい声をかけられた。マイスとイクサがハッとして振り返ると、彼らの前に大きなモップを抱えたちょび髭の男が立っていた。
彼は、眉間に皺を寄せながら、ふたりの顔を訝しげに眺める。
「この家は、今は空き家だが、歴とした私有地だ! 家の中を覗き込んで。何をしようと――!」
そこまで言うと、男はハッとした顔になって、慌てて持っていたモップを構えた。
「も――もしかして、オメエら泥棒だな! ふてえ野郎共だ! ジッとしていろよ、すぐに衛兵隊を呼んで……」
「あ、あの! 違うんです! お――俺たちは、怪しい者では……!」
とんでもない勘違いをされている事に気が付いて、イクサは慌てて頭を振るが、
「ふ、ふん! どっから見ても怪しいヤツらだろうが! こんな夕暮れ時に、こっそり空き家の中を覗き込んでやがって……! 大人しくお縄にな――」
「いえいえ、それには及びませんわ」
警戒心を露わにする男に対して、イクサの頭上から涼しい声をかけたのは、マイスだった。
彼女は、イクサの背中から飛び降りると、長いスカートの裾を抓んで、優雅に一礼した。
そして、柔らかな微笑みを浮かべる。
「私有地の中に勝手に入り込んで、どうも済みません。――ひょっとして、このお家の大家さんですか?」
「お……? お……おう……」
マイスの優雅な所作に、男はすっかり毒気を抜かれた顔で、ぽーっとしながら頷く。
彼の答えに、マイスは顔を輝かせる。
「まあ! それはちょうど良かったわ! 実は、私たち、この度結婚する事になりまして――」
「――は? はいぃっ? け、結婚……ング!」
思わぬ話に、イクサが上げかけた驚愕の声は、途中で呻き声に変わった。彼の足先を、マイスが踵で思い切り踏みつけたからだ。
(……話合わせて!)
と、耳打ちされたイクサは、目に涙を浮かべながらも小さく頷いて、咄嗟に彼女の肩を抱いてニッコリと笑った。
「あ、そ……そうなんですよ! それで、俺たちの愛の巣を探して、今あちこちの物件を見て回ってまして――」
「――で、ふと通りがかったこの物件が、何だか気になってしまって。……ついつい、勝手に敷地に入ってしまったのですわ。……本当にごめんなさい」
マイスは、イクサの言葉に続いて言うと、もう一度深々と頭を下げた。遅れて、隣のイクサも彼女に倣う。
男は、そんなふたりの様子に、目をパチクリさせていたが、やがてその顔に満面の笑みを浮かべた。
「ああ~! まあ、そういう事だったんですかぁ! これはこれは……こちらこそ、とんだ失礼を!」
先程までの警戒は何処へやら。男は相好を崩し、揉み手をしながらペコペコと頭を下げる。
「あー、お客さんは運がいい! ここは、つい昨日まで店子さんが住んでいたんですが、昨夜になって、急に引っ越してしまいましてね……。ちょうど空き家になったところで御座います! 今なら、すぐにご契約頂けますよ!」
「まあ、そうでしたの! それは嬉しいわ。ね、ダーリン♪」
「へ? ――あ、ああ、そうだね……マイ……は、ハニ―!」
ニコニコと笑いかけてくるマイスに合わせて、イクサは引き攣った笑いを浮かべる。
と、マイスは大家の方へと向き直り、悪戯っぽい目で彼に尋ねる。
「あの……、せっかくなので、ちょっと部屋の中も内見してみたいんですけど……いいですか?」
大家は、そのマイスの頼みに満面の笑みで頷いた。
「ええ、ええ、もちろんですとも! あ……ただ、昨日の今日なので、まだ前の店子さんが出ていったまま、掃除も出来てない状態なんですが、それでも宜しければ……」
「あ、もちろん、大丈夫ですわ!」
マイスは、大家の言葉にニッコリと微笑んで言った。
「もう、前の方が出ていったそのままの状態で……寧ろ、その方が好都合ですわ」




