CASE3-25 「『ご苦労様♪』――って」
アナークスの怒声混じりの命令に駆り立てられた秘書のサファリアは、メイド服のスカートの裾を翻しながら、小走りで赤毛の女の後を追いかける。
(……いた!)
彼女が赤毛の女の後ろ姿を視界に収めた時、女は店舗のエントランスから外に出ようとしていた。
サファリアはその脚を緩めると、微笑を浮かべてエントランスで受付に並ぶ客達に会釈をしながら、一直線に女の消えた入り口の扉を目指す。
開店中の為、開け放たれた扉の脇に身を潜め、首だけをそっと伸ばして、外の様子を窺う女秘書。
(あ――マズい!)
彼女は、焦りの表情を浮かべた。彼女が尾行するべき赤毛の女は、通りの前で手を挙げ、一台の辻馬車を呼び止めたところだったからだ。馬車に乗り込まれてしまったら、彼女の脚ではとても追いつけない。
サファリアは忙しなく往来を見回し、こちらへ向かって走ってくる別の辻馬車に目をつける。
彼女は歩道の端から車道へ身を乗り出すと、ブンブンと大きく手を振った。
突然、目の前にメイド服姿の女が現れたのに気が付いた辻馬車の御者は、慌てて手綱を引く。
馬は、突然の理不尽な命令にけたたましい嘶きをあげながら、必死で脚を踏ん張る。
そして、馬車は女秘書の目の前数十センチのところで、ようやく静止した。
「おい、姐ちゃん! 死にてぇのか、テメエ!」
という御者の怒声も無視して、サファリアは前方を指さして叫んだ。
「ちょっと! そんな事はいいから、前の馬車を追いかけて頂戴!」
そう言いながら彼女が前に目を向けると、前で停まっていた辻馬車の客車の扉がちょうど閉じたところだった。
それを見た女秘書の表情が強張る。
「ほら、もう出ちゃう! 早く――早く乗せて!」
「何だよ何だよ! いきなり出てきて藪から棒に! 訳が分からねえぞ、姐ちゃん!」
「あーっ! もう!」
状況が掴めず、目を白黒させている御者の様子に業を煮やしたサファリアは、苛立たしげに舌打ちをすると、懐から取り出した金貨を御者の掌に滑り込ませた。
「つべこべ言ってないで! ――コレは前金! あの辻馬車を最後まで追いかけられたら、もっとチップを弾んであげるから、黙って私の言う通りにして頂戴! お解り?」
「ふえっ? こ――こんなに……?」
掌に、金貨のずっしりとした重みを感じながら、戸惑うような表情を浮かべた御者だったが、『もっとチップを弾む』という秘書の言葉に、目をギラリと輝かせた。
「――か、畏まりやしたぁっ! 姐ちゃん……いえ、お客様っ! 早く後ろに乗ってくだせえ! この『狂乱の辻馬車師』イニディの名にかけて、屍鬼よりもしつこく、地の果てまでも追いかけ続けてやりまさぁ!」
「……きょ……『狂乱の辻馬車師』……?」
女秘書は、御者が名乗った二つ名に何ともいえない嫌な寒気を感じたが、そうこう言っている間に前方の辻馬車は走り始めていた。それに気付いた彼女は、慌てて客車の扉を開け、中に乗り込んだ。
「はい! 急いでッ!」
「か~しこ~まり~ッ! キチンと掴まっててくんなせい! 揺れますぜぇいッ!」
彼女の声を受けてペロリと舌なめずりをしたイニディは、眼前の馬の尻に向けて、裂帛の気合を込めた鞭を振り下ろした!
◆ ◆ ◆ ◆
「――お客さん! ……お客さん!」
「う……うう……な、何……?」
辻馬車に備え付けのゲロ袋に顔を突っ込みながら、半ば気を失っていたサファリアは、御者の声で我に返った。
「……お客さん、先方は、目的地に着いたようですぜ……」
「――え!」
彼女は、御者の囁き声にハッとして立ち上がった。その拍子に、彼女は客車の低い天井に強かに頭をぶつけ、今度は頭を抱えて悶絶する。
サファリアは、頭を打った痛みと『狂乱の辻馬車師』による卓越したドライビングテクニックのせいでフラフラしながらも、客車前方の覗き窓から外の様子を窺う。
――なるほど。確かに、イニディの辻馬車の前方20エイムほどの所に、一台の辻馬車が停まっている。
「……赤毛の女は……降りた?」
サファリアは声を潜ませて、運転席に座る御者の後頭部に向けて訊いた。
彼女の問いに、御者は首を横に振った。
「……いや。あそこに停まってから、まだ誰も降りてきてないっすわ。――というか……」
そう言うと、御者は訝しげな声色で囁く。
「……ひょっとして――ハナから、誰も乗ってないんじゃないですかい?」
「は――?」
御者の言葉に、サファリアは唖然とした。
「え……いや、そんな……まさか……でも――え?」
金魚のように口をパクパクさせるサファリア。彼女は、五分以上も首を傾げ続けていたが、その間も前方の辻馬車に一切動きが見られない事に業を煮やし、遂に重い腰を上げた。
彼女は客車のドアを開けると、小走りで前方の辻馬車に近付く。
サファリアは辻馬車の傍らにピタリと身を寄せると、首を伸ばして、側面の窓から客車の窓を覗き込んだ。
そして、思わずその目を丸くする。
「……へ――?」
間の抜けた声が、口から零れた。
窓の隙間から見えた客車の中には――誰も居なかった。
「……え? な……何でぇっ?」
彼女は、思わず声を荒げると、血相を変えて客車の扉を開け放った。
だが、やはり、中には誰も居ない……。
「へ? ちょ、ちょ! だ、誰だアンタ! いきなり人の馬車に――!」
「ちょっと! アンタ!」
突然の闖入に驚いた御者の胸倉を掴んで、サファリアは強い口調で詰問する。
「さっき乗せた女はどうしたの? アナークスR・Wの前で乗った、赤毛の厚化粧の女は――!」
「へ――い、いや! あ、あのぉっ! ゆ、揺らさないで! や、止めてくれい~!」
激しく頭を振り回されて、目を回しながら御者は悲鳴を上げた。
その言葉にハッとして、サファリアは手を止める。
御者は咳き込みながら、辟易とした様子でぼつりぼつりと話し始めた。
「あ……女って……さっきの蓮っ葉なネエちゃんか……。いや、あのネエちゃんなら、乗ってないですぜ……」
「の――乗ってないぃ? そ、そんな訳ないでしょ! 私はちゃんと見たの! あの女が、この扉を開けて乗り込むのを!」
「い――いや、確かに乗り込んだ事は乗り込んだんですがね? すぐに降りていっちまったんですよ、反対側のドアから」
「は――反対側の……ドアぁ?」
御者の答えに、サファリアは呆然として、入ってきた側の反対側に目を向けた。――確かに、向かい側にも同じような扉がある。
そんな彼女の様子を怯えた目で見ながら、御者は言葉を続けた。
「……いえね。確かに妙なネエちゃんでしたね。客車に乗り込んだかと思ったら、アッシに金貨を一枚握らせて、『アタシはこのまま降りるから、アンタは客乗せた体で馬車を出して、適当なところまで走らせて』なんて言うんですよ。確かに妙だなぁとは思ったんですけどね。金貨一枚の仕事としちゃ随分とワリが良かったんで、引き受けちまったんですわ」
「――じゃ、じゃあ……あの女は――!」
「……だから、あのネエちゃんは、あそこですぐに降りて、そのまま対向の歩道を越えて歩いて行っちまいましたぜ。――ああ、そうそう」
御者は、ふと思い出したように呟くと、サファリアの顔を見ながら言った。
「――で、そのネエちゃんから、アンタ宛に言付けを預かってました」
「は……? 言付け……? 私に……?」
意想外の言葉に、キョトンとした顔を見せるサファリアに頷き掛け、彼は言付けを伝えた。――若干の後ろめたさと、彼女への憐憫を含めた声色で。
「へえ……。それがその……『ご苦労様♪』――って」




