CASE2-12 「バスタラーズじゃ」
バスタラーズ老人の嗄れた声が、室内に響き渡る。が、彼の声に応える者は居なかった。
老人の白い眉が吊り上がる。
「なんじゃなんじゃ! 客がやって来たのに、『いらっしゃいませ』の挨拶も無いのか! 接客の基本じゃろ――」
「何だぁ、このジジイ!」
矍鑠たる老人の一喝を途中で遮ったのは、髭面男だった。男は、勢いよく椅子から立ち上がると、肩を怒らせながら大股で、入り口に立つバスタラーズ老人の方へと近付いていく。
「あ――、お、お客様!」
髭面男の態度に剣呑なものを感じたイクサは、慌てて髭面男を呼び止めるが、その耳には届かない。
遂に、バスタラーズ老人の目の前で仁王立ちする髭面男。
「……何じゃ、キサマは」
バスタラーズ老人は、眉間に皺を寄せて、髭面男を睨みつけた。とはいえ、小柄な老人と巨漢の髭面男との身長差はかなりのもので、バスタラーズは目一杯首を上に反らして、下から見上げる格好になる。
髭面男の顔に、侮蔑に満ちた薄笑みが浮かぶ。
「何だ、ジジイ。その口の利き方は? テメエこそ、誰なんだよ、コラ」
「さっきも名乗ったじゃろうが。バスタラーズじゃ」
威圧感たっぷりに、背中を曲げながら、己の髭面を老人の頭上に近づけながら睨み下す髭面男に対し、微塵も怖じける事無く、下から睨み返すバスタラーズ。
彼は、大袈裟に溜息を吐くと、フルフルと首を振りながら言う。
「まったく……近頃の若いモンは、物覚えが悪いのお。そのでかい頭の中に詰まっておるのは、チーズか何かか?」
「ああっ?」
老人の傲岸不遜な物言いに、髭面男のこめかみに青筋が浮く。
――だが、相手は老い先短い老人だ。そう考え直した髭面男は、気持ちを落ち着かせるように小さく息を吐くと、
「おう、もうちょっとだけ長生きしたいのなら、口の利き方に気をつけた方が良いぜ、爺さん。……因みに、今日は生憎、この店は貸切だ。大人しく帰って、孫と一緒に茶でも啜ってろや」
と、口の端を歪めて、しっしっと手を振った。
だが、その言葉を聞いたバスタラーズ老人は、トボけた態度で首を傾げてみせる。
「……貸切? はて、入り口に掛かっておったプレートは『営業中』じゃったがのう?」
そう言いながら、バスタラーズは店内を見回し、カウンターの奥に座るシーリカを見付けた途端、その顔をだらしなく緩めて、大きく手を振った。
「おお、居るじゃないか、シーリカさんや! ――先日、修理で預けとった斧を取りに来たんじゃが、出来とるかの?」
そう言いながら、杖を突き突き、カウンターの方へと歩み寄ろうとする。が、老人の行く手を、怒りで顔を真っ赤にした髭面男が両手を広げて遮る。
「おい、クソジジイ! 俺の言った事が聞こえてなかったのかぁ? 痛い目に遭いたくねえのなら、サッサと失せやがれって言ってン――ッ!」
目を吊り上げて恫喝する髭面男の叫びは、途中で唐突に途切れた。
不意に、髭面男の脚が宙に浮き、彼の身体はクルリと半回転したのだ。
「な、ア――――ッ?」
驚きの声とも悲鳴ともつかない奇声を上げた髭面男は、強かに頭を床に打ちつけ、派手な音を立てて床に倒れた。床の上に大の字にノビた髭面男は、白目を剥いて、完全に気を失っている。
「人の通り道を塞ぐからじゃ、バカ者」
バスタラーズ老人は、事も無げにそう言うと、犬の糞を避けるかのように、髭面男の上を跨ぎ越えた。
そして、カウンターの前に来ると、深々と椅子に座っているラシーヴァに話しかける。
「――見たところ、もうお前さんの用事は終わっておるようじゃの。なら、サッサと退いてくれんかの? ワシャ腰が悪くてのお……。椅子に座らんとキツくて堪らん」
「は――はあ? 何を言ってるんだい、爺さん?」
ラシーヴァは、目の前で起こった顛末に唖然としていたが、老人の言葉を聞くと気色ばんだ。
「ボクとシーリカちゃんは、一緒にデートの行き先を楽しんで考えてる所なのだよ! いい歳こいて色気づいた爺さんの分際で、ふたりの時間を邪魔しないでくれるかな?」
「……『楽しんで考えてる』のう……」
バスタラーズは首を傾げて、ラシーヴァの顔とシーリカの顔を交互に見た。
そして、ギロリとラシーヴァの顔を睨めつけて、静かな口調で言った。
「……ワシには、そのように目に涙を一杯溜めて青ざめとるシーリカさんが、楽しんでおるようには、どうしても見えんがのう……」
「な――何だとッ?」
バスタラーズの言葉に、顔色を失うラシーヴァ。握り締めた拳がフルフルと震えている。
だが、老人は、眼前の男の怒気にも気付かぬ様子で、淡々と言葉を継ぐ。
「第一、ここは修理受付の窓口じゃ。お前さんの受付はもう終わっとるんじゃろ? ならば、早う席を立って、次の客に譲らんかい! グダグダと無駄な世間話で、シーリカさんの仕事を邪魔するでないわっ!」
「――! グ……ぐうう……」
バスタラーズの正論を前に、ラシーヴァは反論できずに、目を剥いたまま、ギリギリと歯噛みする。
ふたりのやり取りを傍観していたイクサは、思わず拍手しそうになったが、
(……いや、それ、アンタが言うか!)
老人に対して、心の中で密かにツッコんだ。
と、突然、
「う……五月蝿い!」
ラシーヴァがカウンターに拳を叩きつけ、椅子を蹴って立ち上がった。
「老人! 四の五の言わずに、今すぐ消えるのだな! でないと、ナラディス近衛騎士団のエース・ラシーヴァ様が、直々に貴様を無礼打ちにするぞ!」
そう絶叫すると、ラシーヴァは腰の剣の柄に手を掛け、バスタラーズを恫喝する。
「――!」
「お、お客様! 落ち……落ち着いて!」
シーリカの顔色が蒼白になり、イクサは慌ててカウンター越しに静止しようとする。
――が、そんな周囲の喧騒とは対象的に、ラシーヴァと対峙するバスタラーズの表情には一片の焦燥の色も無かった。
「ナラディス……近衛騎士団の騎士の質も、随分落ちたもんだのう……。嘆かわし――」
「黙れッ!」
苦々しく肩を竦めるバスタラーズに、怒りで目を血走らせたラシーヴァが、拳を振り上げて殴りかかった。
「お――お客様ッ!」
「逃げて下さいっ、バスタラーズ様ッ!」
イクサは、カウンター越しに届かぬ手を伸ばし、シーリカは悲鳴の様な声で老人に叫んだ。
ふたりが交錯すると鈍い音が響き、
「ぐ――はぁッ!」
血反吐を吐くような悲鳴を上げて、床に転がったのは――ラシーヴァだった。
「ふむ、丸腰相手に剣を抜かなかったのは、お前さんにも騎士としての矜恃が残っておったという事かの? ――辛うじて、だが」
バスタラーズ老人は、眼下に横たわったラシーヴァの喉元に杖の先を擬しながら、低い声で言った。そして、すぐに杖を引いた。
「さて、これでようやく、この老人の言葉がお前さんの心に届いたかの? ――なら、早よ帰りなされ。大事になるのは、お前さんにとっても、良い事では無かろう?」
そう、床に転がるラシーヴァに言い捨て、先程まで彼が占拠していた椅子に腰掛けるバスタラーズ老人。
ラシーヴァは、蒼白な顔で起き上がると、顔を伏せて店を出ようとする。――と、
「おお、若いの。ついでに、そこに転がっとるデカいのも、一緒に持っていってくれ。邪魔でかなわん」
バスタラーズの言葉に、彼は目を剥いたが、喉まで出かかった言葉を無理矢理呑み込んだ様子で、大の字でノビた髭面男の足首を掴んで、引きずりながら店から去っていった。
――扉が完全に閉まり、呼び鈴の音が治まると、
「ば……バスタラーズ様! ありがとうございました!」
シーリカが、目に涙を一杯に溜めながら、老人に深々と礼をした。慌てて、イクサとスマラクトも、彼女と同じように頭を下げる。
バスタラーズ老人は、呵々大笑して言った。
「ハッハッハッ! 他ならぬシーリカさんの苦境じゃ。このくらい、安い安い! 何せ、シーリカさんには、一方ならぬお世話になっておるからのう!」
と、今度は打って変わって厳しい目で、イクサとスマラクトを睨みつける。
「それにしても、情けないのう、貴様らは! 大の男がふたりも雁首揃えておりながら、主らの同僚の娘が困っておるのに、手をこまねいて見ているだけか! 恥を知れいっ!」
「――すみませんでした!」
老人の雷の如き一喝に、イクサは素直に頭を下げた。言い訳ならいくらでもできるが、そんな繰り言を並べても、まだ若い娘に心細い思いをさせて怖がらせた事には変わりない。
イクサは、老人に次いで、今度はシーリカにも頭を下げる。
「シーリカちゃん……、怖い思いをさせちゃって、ホントにゴメン」
「ふ……ふえっ?」
いきなり頭を下げられて、潤んだ目を白黒させたシーリカは、アタフタしながら手をバタバタさせる。
「そ……そんな! イクサ先輩は悪くないですよぉ! 先輩は先輩で、ずっとあのヒゲの人の対応にかかりきりになってたんですから……!」
「……そう、そうなんですヨ! いやー、大変でしたヨぉ。あの髭面に、訳の分からないイチャモンを付けられて……。そもそも、主任がもっとズバッとアイツの言い分をぶった切ってくれれば、こんなに長引く事も無かったんですヨ! それに、ボスも、肝心な時に居ませんし……大体――」
「…………」
シーリカの言葉尻に乗っかって、ベラベラと言い訳と釈明をし始めるスマラクトに、三人は白けた視線を送る。
当然、
「おい、貴様ァ! 何、自分の事は棚に上げて、全部他人のせいにしておるんじゃあ! ええい、そこに直れ! ワシがみっちり、その捻くれた根性を叩き直してくれるわッ!」
その自分勝手な責任転嫁の言い訳三昧は、バスタラーズ老人の逆鱗に触れた。
「ひ……ひいいい〜っ!」
老人の雷霆の直撃を受けて、情けない悲鳴を上げたスマラクトだが、もう遅い。
――それから閉店まで延々と、バスタラーズによるスマラクトへの大説教は続くのであった――。




