#00. 愛が冷める日。
ハーメルン王国の公爵令嬢エルナ・オルテンスが王太子であるカメル・フォン・ダールド・ハーメルンと婚約することが決まったのは、エルナが八歳、カメルが十二歳の時のことだった。
「お初にお目にかかる。オルテンス公爵令嬢。これから私と一緒にこの国をさらに住み良くしていってほしい」
初めてカメルに顔を合わせた時。エルナは幼い年齢にもかかわらず、一瞬にして彼に惹き込まれてしまった。王族であることを示す眩しい金髪、夏の森をそのまま映したかのような濃い緑色の瞳。
ほんの四歳しか離れていないにもかかわらず、大人っぽくて王族らしいカメルはエルナに優しく、紳士的であり、頼れる存在だった。
カメルのためなら何でもできる。カメルが国を愛する分だけ、この国をより良くするためにエルナは辛く苦しい王太子妃教育を健気に耐え抜いた。
二人きりの関係に影が差したのは、エルナが十七歳の時のことだった。
[アマリア神聖王国]。
世界で唯一、聖女を持つ神聖な国の王女であり、前代未聞の力を持つと言われる聖女セレンがハーメルン王国に親善大使としてやって来ることになった。
年はエルナと同じ十七歳。聖女の象徴である銀色の髪は月光のようにきらめき、神聖力を宿した瞳は虹色に輝いていた。
息が詰まるほど美しい神聖な少女の登場に、ハーメルン王国は大いにざわめいた。
聖女セレンの神聖魔法はすさまじく、ハーメルン全体を包み込むほどの広域結界はもちろん、身体欠損者すら治療するほど強力だった。
セレンは神聖王国の親善大使としてハーメルン王国に留まり、王国が平和になることを願っていると語った。ハーメルン王国のすべての貴族、王太子カメルまでもが彼女を歓迎した。
エルナも最初は彼女を歓迎した。聖女さえいれば魔獣の侵攻も、大陸の向こうの獣人族たちの侵攻も防ぐことができ、病者たちをも救済できるからだ。
しかし、セレンが活躍すればするほど、王妃はセレンになるべきではないかという動きも強まった。
セレンに負けないよう、エルナも持つ限りのあらゆる努力を尽くして王のために献身した。監視の目が届きにくい地方を改革し、最新技術である鉄道を敷いて国民間の移動を飛躍的に高め、社会的に弱い立場の人々のために労働環境まで改善させた。
誰もエルナが王妃にふさわしくないとは言わなかった。
しかし、王妃の器であることはセレンも同様だった。
何よりもセレンは王太子であるカメルを愛していた。彼を見つめるたびに瞳に宿る光は一層きらめき、赤らめた頬はぞっとするほど愛らしかった。か弱いセレンを庇護する貴族は多く、エルナの立地は日一日と弱まっていった。
そうして一年。
セレンの愛情攻勢にも、貴族たちの反発にも。カメルはエルナの手をとってくれた。
「私が愛しているのはエルナ。君だけだから」
彼が自分を選んでくれたという事実が、エルナにとって何よりも嬉しかった。
「セレンの気持ちが落ち着くまでだけ、待っていてほしい」
だからこそ結婚式の夜。初夜を迎えられないというカメルの言葉にも、エルナは彼を信じて待ち続けた。
カメルがエルナよりセレンと親しく過ごそうとも。
彼女を優先的にエスコートしようとも。
飾りだけの王妃だと言われ本宮から追い出され別宮に留まることになろうとも。
政務すら与えられないまま同情と軽蔑の視線を同時に浴びることになろうとも。
愛しているという彼のその一言さえあれば、エルナは耐えることができた。
しかし、言葉だけの愛は決して長く続くものではなかった。与えるばかりで返ってこない愛情は、次第にエルナを疲れ果てさせ削っていった。
「いつになればあなたは私のもとに戻ってきてくれるの。いつになれば私は本来の席に座ることができるの?」
一日に一度聞こえてきた愛の囁きは一週間に一度になり、やがて一月に一度になっていった。
一年、そしてまた一年。
そうして愛が完全に冷め切ってしまう日がやって来た。
その日は一年に一度の建国記念日であり、二人の結婚記念日である王城の宴会が開かれる日だった。
当然、王妃としてエルナも宴会に参加し、聖女の庇護を得るために他国の親善大使たちも宴会に参加していた。
実に久しぶりに纏う華やかなドレス、久しぶりに見るカメルの顔にエルナは浮き立っていた。普段はセレンを優先するカメルであっても、この日ばかりはエルナに先に手を差し伸べてくれるはずだった。
いや、差し伸べてくれるべきだった――。
何かがおかしいと気づいたのは、国王であるカメルの入場の次の順番が王妃であるエルナではなく、聖女であるセレンであることを知った瞬間だった。
流れを断ち切るかのように一人で入場することになったエルナを見つめる貴族たちの視線は非常に不安で、おぞましいものだった。不穏な空気が宴会場を埋め尽くした。
エルナは王妃としての威厳を保とうと努めた。不穏さの原因が何であるかを把握するために目を泳がせた。そして。
「エルナ王妃。君に失望した。聖女を陥れていじめるとはな。王妃としての権威はいったいどこへ行ったのだ?」
「……はい?」
不穏な静寂を切り裂くように響いたのは、愛する男であり国王であるカメルの声だった。状況が理解できずにぼんやりと視線を向けると、そこには微かに表情を乱したカメルがセレンの肩を抱き寄せたまま立っていた。
「私には指一本触れないくせに、聖女の肩は抱き寄せることができるんだな」
どうして他の何よりもこんな馬鹿げた考えが真っ先に浮かんだのだろうか。一種の現実逃避なのだろうか。
「国母という立場を利用して弱者をいじめ、辱めたこと。本来ならば重く罪を問うべきだが、慈悲深い聖女様が許してくださるとおっしゃった。しかし、このように許すことも見せしめにはならぬゆえに」
「……見せしめ」
エルナの唇が小さく震えた。しかし、彼女が吐き出した言葉は他人はおろか、自分自身の耳にも届かなかった。
「そうだ。エルナ王妃。聖女の慈悲に感謝し、この場で罪を認め、ひざまずくのだ。聖女が許したと言うまで顔を上げず、深く謝罪するように」
世界中が濁っている中で、夫であるカメルの声だけがはっきりと響いた。いつだって彼女に愛を囁いていたその声が。身に覚えのない罪をでっち上げて彼女を断罪する。
その事実を認識した瞬間、カメルへの愛がカランと音を立てて砕け散った。鋭いガラスが全身に突き刺さり、ひとり取り残されたエルナはすべてのことがむなしく感じられた。
一度心が冷めてしまえば、何もかもがどうでもよくなった。この国も、あの男も、貴族も、聖女も。すべてのものが彼女の関心の外へと追いやられた。ぼんやりとカメルを見つめると、彼は唇を噛み締めた。
彼が一度でもエルナを支持してくれたなら、未来は変わっていたのだろうか?
いや、そんなことは存在しないのだから意味のない仮定だろう。
「エルナ王妃。聞こえないのか? 今すぐ……」
「ええ、ええ。分かりました。耳が痛くなるほど何度も仰る必要はありませんよ」
普段なら絶対にしない皮肉をたっぷりと込めたエルナは、ふっと笑うとドレスの裾を裂き、中に着ていたパニエを荒々しく引きちぎった。パニエを投げ捨て、そのままどんと音がするようにひざまずいた。
沈黙の中で断罪を見守っていた貴族たちが息を呑んだ。エルナは気にする様子もなく頭を地面につくほど深く下げた。
「申し訳ありませんでした。聖女様を侮辱した罪をお許しください。どうか広い御心で慈悲を授けてくださいますよう」
「あ、あの……ここまでなさる必要は……あっ! 顔を上げてくだい。早く」
エルナが必要以上に低姿勢で出たからだろうか。セレンは戸惑いに満ちた声で慌てて言葉を続けた。それにエルナは床に頭を押し付けながら言葉を続けた。
「いいえ。これくらいしなければ聖女様の気も晴れないでしょう。間違っていました。お許しください」
「ゆ、許しました! もうしたから!!! お願いです。顔を上げてくだい!」
聖女の焦った叫びに、エルナはようやく顔を上げてセレンを見つめた。真っ青になった顔には途方もない戸惑いが浮かび上がっていた。彼女が先に土下座をしろと言ったくせに、なぜあんな顔をしているのだろうか。
(まあ、どうでもいいか)
乱れた髪をかき上げながら、エルナはふと指に引っかかる王冠に気づいて目を丸くした。あ、そうだ。
「すべての貴族が集まった場で断罪されるということは、私に王妃の資格がないことを示唆されているのでしょうから、これ以上こんなものは必要ありませんね」
「待て、エルナ王妃。それは……」
エルナはカメルの言葉が終わるのも待たず、頭の上に載せられていた王冠をセレンの方へ投げ捨てた。勢い余って王冠を受け取ったセレンは全身をブルブルと震わせていた。エルナはセレンにも、カメルにも視線をくれることなくその場から立ち上がって言った。
「聖女を陰謀にかけた大罪人エルナは、この時間をもって王妃の座から退き、平民となります。聖女様とどうかお幸せに」
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