雨は降らない虹の向こう
ぽつりぽつりと雨が降る。
どこに?
どこにもない場所に。
ずっと、ずうっと……雨の降らない虹の向こうへ行けば、願い事がかなうはずなのに。
その後、理郷さんの死亡が確認されました。
警察が呼ばれ、私達が病院を後にしたのは、すでに日が昇り切った後のことです。
グリセルダ君は家の人が迎えに来てくれたようで、いません。今居るのは、学校の寮に帰る私と白野さん、矢野君の三人でした。
理郷さんの死――明らかに何者かによる殺人。
一体誰が? なんのために?
こう言ってはなんですが、理郷さんは教授の様な有名な研究者でなければ、なんでもありません。ただ、アルカディア対策本部の日本支部にいる数多の研究者の一人。
そんな彼が、なぜ?
それよりも心配だったのは、白野さんの事です。
前を歩く彼女の顔は、見えません。
いつものように歩いているようにしか見えない。その状況に、心が痛みます。
まるで、いつものようにと必死になって取り繕っている、そんな姿に見えたから。
見ようによっては、近しい者が殺されたと言うのに、冷たい人たと見られる態度です。でも、彼女は……自分が弱いところを見せることが嫌いです。強がりなんです。だから、私がいる前では、そんな姿しか見せられない。
少しだけとはいえ、一緒に暮らして分かってきた事です。
見守る人が必要かもしれないけれど、誰かが見ていれば彼女は弱い姿を見せないでしょう。弱い姿を見せられた理郷さんはもういない。私は、理郷さんにはなれないから、ただ遠くでその姿を見ないふりすることが一番のように思えました。
「しらのさ――」
私の言葉を遮って、バイブの音が聞こえてきました。
上着に入れたままのケータイで、先ほど電源を入れたばかりです。
慌ててだすと、何通ものメールが届いています。どうやら、気づかなかったようです。
しかし、このバイブは電話がかかってきたためになったもの。
「もしもし、教授?」
『一大事だよミント君! さあ、『場』を創りたまえ!』
「は、はい? あの、一体どうしたのですか?」
時刻は十時過ぎとはいえ、突然の電話。しかも、いきなり『場』を創れとはどういうことなのでしょう?
電話越しから聞こえる教授の声は、かなり興奮しています。
ここにゲートが開いていないこともお構いなしです。
「そもそも、ゲートが開いていませんから、無理ですよ」
『無理と思うから創れないのだ! まったく、使えない……ならば、素早く全速力で今すぐに私の元に来るんだ!』
こちらの状況を考えて欲しい者です。
ちらちらと矢野君が電話を見ながら困った様子です。
「あの、今はそれどころでは……」
『戸朱君の事は聞いている。それに関しても話があるのだ! とにかく、一大事なのだよ!』
「……わ、分かりました」
教授と会ったのはつい昨日のことだと言うのに、かなり昔のように感じました。
「すみません、矢野君。本部のほうに行かなければならない用事ができてしまったので……頼めますか?」
立ち止まり、横にいる矢野君に言います。
「あ、はい」
頷く矢野君の前で、白野さんは聞いているのか聞いていないのか、さっさと進んでいきます。
「……何事もなければいいのですが」
昨日のキュウビの件に加え、理郷さんの死……いったい、何が起こっているのでしょうか。
漠然とした不安を抱えたまま、私は白野さん達と別れました。
「……」
「……」
無言。
べつにいい。
このまま、何事もなく、無言のままでいたい。
話しかけて欲しくない。
見知った建物。歩きなれた道。あまり、考えずに歩けるのがうれしかった。
今は何も考えたくない。
さっきの光景を思い出したくない。
なにも、なにもかも、忘れてしまいたい。
きっと、これは夢なのだと、終わりにしてほしい。
ぽつりと、雨が降ってきた。
「あ、れ?」
トーマが不思議そうに手を出して雨を受ける。
空を見上げても、雲は無い。
お天気雨だ。
それが、つらい。
向こう側に行けば、きっと雨はやんでいる。
突然、トーマが立ち止まった。
なぜか、その手は私の手首を持っている。
「……白野、走れるか?」
「?」
その目は、こちらを見て居ない。
あたり――周りの道路を、住宅を、見ている。
その影から、何かが見ていた。
「逃げるぞ!」
「きゃっ」
いきなり手を引かれて走りだす。
視界の悪い雨。その中で、人の形をした様な影が追って来る。
何がなんなのか分からない。
あれはエネミーなのか。
いや、エネミーではない。絶対にない。
だって、今、ゲートは開いていない。
なら、なに?
振り返ると、その中に――白い着物姿の女がいた。
仮面をかぶっている。
狐の……仮面。
追いかけて来る影の中で、ぽつんと一人取り残された様に立ちすくんでいる。
「くそっ、なんなんだよ!!」
トーマが悪態をつきながら柄をとりだす。
でも、無駄だ。だって、あれはエネミーじゃない。
ようやく、気づく。
あれは――
「どいたどいたぁっ!!」
耳障りなエンジン音と、無駄に勇ましい女性の声が思考を遮る。
何事かと音の出所――影の向こう側を見ると、真っ赤なスポーツカーがその影を蹴散らしながら走行して来るところだった。
呆気に取られるトーマはいつの間にか走るのを止めて居る。
そのまま走っていた私達の元まで余裕で追いついて来て、急ブレーキ。アスファルトに黒い筋が残った。
屋根のないオープンカーだ。乗っているのは女性。
降っている雨に煩わしそうな視線を向けながら、彼女はサングラスを外す。
「なんか良く解らないけど、これってまずい状況?」
なぜかバニラエッセンスの匂いがした。
「それで、あの『場』はどっちの『場』な訳?」
なぜか無理やり乗せられた車内。
そこで女性が運転しながら後ろに向かって聞いて来た。
後部座席に座っている私達には、彼女がどんな顔をしているのか分からない。
「『場』? あれ、『場』だったんですか?」
「うん? 君じゃないみたいだね、じゃあ隣の女の子が空操師ってことかな?」
この人――おそらく、空操師だ。
あの現象が『場』であることを分かっている。
トーマも一応空操師のはずだけど、半端者だから気づかなかったのだろう。
トーマがどういうことだと言うふうに視線を送ってくる。それを無視しながら、女性に聞いた。
「貴方、誰ですか?」
「うん? 私? 私はさと――いやいや、違った。羽水汐。ただの空操師だよ」
「……」
「……っえ?」
魔法使いと言っている時点で、『ただの』では無い気がするのだが、どうなのだろう。
おもむろに、彼女はケータイを出すと、運転したまま掛け始める。
明らかな交通違反だ。しかも、よく見たらスピードオーバーもしている気がする。
「もしもし、羊羹ちゃん? わたしわたし。え? いやいやいや、違うって! ……もう、遊ばないでよ。それより、空操師を保護した。うん。そうそう。だから、そっちに行ってもいい? え? ……分かった。こちらで引き取るわ」
会話が聞こえない。だから、一体何を勝手に彼女が決めているのか、まったく分からない事に少し困惑する。
よく解らないうちにこんな事になっているが、本当にこの人についていって良いのだろうか? いまさらに、そう考える。
「はい、本部のほうから。さてと、飛ばすよ!」
そう言って、彼女はケータイをこちらに差し出す。運転したままだから、前を向いたままだ。しかも、飛ばすと言った瞬間に明らかな制限速度オーバーを堂々と始める。
本部――というとアルカディア対策本部の事だろう。
彼女、一体何者なのだろうか。
空操師は、たとえ空操師としての能力を持っていても対策本部とまったく縁もなく普通の生活を送る人が多い。彼女は普通の生活をしているように見える。
それなのに、本部と繋がりを持っている。
声の拡大でもしたのか、ケータイからの声がよく聞こえた。
『ん、アルカディア対策本部の空操師、風間陽香だ』
「あれっ、風間さん?!」
『その声は……矢野か?』
どうやら、トーマの知り合いらしい。
「あれ、羊羹ちゃんと知り合いだったのか」
そういいながら、羽水汐は豪快にハンドルを切る。
慌てて手の近くにあったものを掴んだ。かなり大雑把な運転だ。
『もしや、白野とも一緒にいるのか?』
「は、はい……うわっ、あぶねっ」
『どうやら、まずい状況になっているようだな』
「えっ、いや、そういうわけじゃな……がっ、っつ」
別に、まずい状況になっている訳ではない。暴れ馬にのったらこんな感じなんじゃないかと思うほどの乱暴な運転に振り回されているだけだ。
あまりにも酷いので、会話は全てトーマにまかせて、ひたすら聞くことに専念する事にする。こんな中で会話なんて出来ないっつうの。
『では、手早く説明するぞ。昨夜未明から空操師、もしくは空操師としての能力を持つ者がゲートの出現を確認していないにもかかわらず『場』を無意識に創りだしてしまう事件が相次いでいる。本来は本部に来てほしいところだが、現在、空操師が多くいた本部は大混乱だ。今も『場』があちらこちらで創られてしまっている』
「は? え、なんでなんですかっ?! 『場』は、ゲートが出現しないと創れないはずですよね?!」
『嗚呼。……目下捜査中だ。佐島……おっと、今は羽水か。汐は私とミントの友人だ。訳あって空操師では無い道を選んだが、彼女は信頼できる。少しの間彼女の店で待っていてくれ。混乱が収まり次第、ミントが迎えに行く』
「は、い……。……だから、ミントさんは本部に」
どういうこと?
『場』が、ゲート無しに創られている?
しかも、無意識に?
後ろを振り向く。
影が、まだどこかにいる気がした。
なんで、今まで『場』が創れなかったのに、こんな場面になって創られた?
言いようのしれない怒りが、行き場を無くして渦巻いている。
もう、何がなんだかわからなかった。
走行、五分弱。
世にも恐ろしいドライブから帰還すると、目に前にあったのは見知らぬ店だった。
ところで、私は今、本当に地面に立っているのだろうか。地面が揺れている。
店前にはちょっとした駐輪スペースがあるくらいの、小さな店舗。
しかも、内装は未完成で、まだ開店していない。
ショーケースや奥の調理場から見て、どうやらケーキ屋かなんかだろう。
「車置いて来るから、ちょっと待ってて」
そう言うと、羽水汐は無駄にエンジン音を響かせながら少し離れた所にあるらしい駐車場に車を移動していく。
周りには店が多い。ここは……一本向こうは確か駅前のメイン通りの道な気がする。
メインから外れているけども、けっこう人通りの多い場所だ。
「おい、白野……周り見ろ」
「……また、か」
影が、あたりから現れる。
やっぱり、近くにいたのだ。
いや、空操師の創る『場』から生まれた存在なら、私の近くにいるのは当然、か。
「おい、これはなんなんだよ」
「知らない。けど、『場』から生まれたモノだとは思う」
おそらく『場』が、暴走している。
考えたくないが……自分の『場』が。
かなり昔――そう、あの頃に習ったことを思い出す。
『場』は、空操師の心で決まる。
その心が惑えば、迷えば、混乱すれば、『場』も又、惑い、迷い、壊れる。そして、空操師の制御すら不可能になる――ことがあるらしい。
今まで、そんな事考えてこなかった。
目の前で暴走した『場』を見たことが無かったし、聞いたこともなかった。
今起きている自分の『場』の暴走が、本当に暴走なのか自信が持てない。
「……おれの『場』なら、止められるか?」
「……」
思わずトーマの顔を見る。
そういえば、こいつは空操師で、『場』が創られているのにもかかわらず『場』を創った馬鹿者だったっけ。
「なあ、これ、時雨日和、だよな?」
突然、だった。
「お前の何時も創っている『場』とは、違うよな?」
それは、言って欲しくない、探って欲しくない、一言だった。
「やっぱり、白野の『場』は、時雨日和なんじゃないのか?」
「黙れ! こんなの、私の『場』じゃない!」
認めたくなかった。
こんなものが私の『場」だと、認めることなんて出来なかった。
「どうして――」
トーマの言葉が止まる。
ふと、見ると、影の中にあの……白い着物の女がいた。
見て居る。
こちらを、いや、私を見ている。
それが、過去を思い出す。
「私は、こんな『場』、認めないっ」
後ろには店。前からも横からも、影に囲まれてもう逃げ場はない。
それが、少しずつ近寄って来る。
「こんな『場』、認めない……から……だから私は……」
『場』を創ろう。
こんな『場』は自分の『場』じゃない。
だから――
「死乃《The future》絶対《of their》完結《fixed》理論《death》――!!」
ゲートは開いていない。
でも、この状況。風間陽香から聞いた話。
それを信じるのならば、『場』を創ることも可能なはずだ。
「ちょっ、白野っ?!」
暗い、闇が辺りを閉ざそうとする。
影を塗りつぶすように、黒く、暗く、それは広がる。
あたりに『場』が創られていく。
暗い、ただ攻撃だけを考えた『場』、死乃絶対完結理論。
それが、創られていく。
「お前たちは……消えろ!!」
影が、消えて行く。闇に飲まれていく。
塗りつぶされていく。
久しぶりな気がした。
今まで毎日では無いけれど、連日『場』を創っていた。それが、一週間以上創らなかった。
創れなかった。
それが、なんで今は創れるのか分からないけれど。
――時雨日和が消えて行く。
「ちょっ、『場』?! まさか、暴走してるの?!」
異変に気付いた羽水汐が駆けよって来る。が、もう終わっている。
「……消えろ」
暗い世界が一瞬にして霧散する。
終わった。
息をつくと……どっと疲れが押し寄せてきた。
「なんだかしらないけど、一件落着?」
落着……したのだろうか?
なにも分からないまま、終わったような気がする。
甘い匂い。
白い湯気が立つカップが渡される。
店の少し奥にある喫茶店の様なスペースで、私とトーマは休憩していた。
まわりはまだ開けられていない家具や機械が置かれている。
あと一ヶ月もしないうちに開店するらしいが、こんな様子で大丈夫なのだろうか。
羽水汐は店の奥、調理場のほうで何やら行っている。
「……お前、なんで時雨日和を否定するんだよ」
「あんたに関係ない」
間髪いれずに返答する。
「やっぱり、時雨日和は白野の『場』なんだな」
「それを確認して、どうする」
「いや、別に……。でも、『場』は創れるように戻ったんだな」
「……」
何も言わずに頷く。
『場』は創れた。それは確かだ。
そして、原因も……分かった。理解した。
「つーか、なにが原因だったんだよ」
「あんたのせい」
「ちょっとまて。おれかよ」
「いくら考えてもあんたのせい」
「なんでおれのせいなんだよ」
「あんたが、時雨日和を引きずり出したからに決まってるでしょ」
沈黙。
トーマがこっちを見ている。
けれど、その視線を合わせることは無い。
カップにたまった、茶色の液体を見るだけ。
「あんな、過去の遺物を」
忘れたいと願って、ほとんど消えかけていた記憶。それを、引き摺りだしたトーマを睨みつけた。
「自分の『場』だったものに対して、酷い言い草だな。……『場』は、自分の心を現すんじゃなかったのか? お前は――」
「昔を否定した。だから、あの『場』はもう要らない」
「どうして……」
どうしてもこうしてもない。
あの『場』では、あのときの自分では、何もできなかったからだ。
何もできないで、何も守れないまま、何もかも終わったからだ。
過去の自分が、嫌いだった。
だからだ。
「それなのに今さらっ、今さら、時雨日和が必要になるなんてっ。……あの時は、まったく意味なんてなかったのに!」
どうして?
どうしてあの時は、アキホの隣にいた時は、まったく意味が無かったのに。誰も助けることなんて出来なかったのに。だから、変わろうと思ったのに。
「いまさら……」
だから、死乃完結理論を創れなくなった。
今さら必要とされた時雨日和と必要とされなかった死乃絶対完結理論。
必要が故に創っていた死乃絶対完結理論と不必要だったから消した時雨日和。その矛盾。
どうしようもない矛盾が心を乱し――『場』を創れないほどの混乱を招いていたのだ。
「馬鹿だなお前。散々人のやることには出来ないとかなんだとか言ってたくせに、自分は不可能みたいなことやってんのな」
「は?」
「だってそうだろ? 二つの『場』を持ってるなんて、不可能だとか出来ないことだろ?」
なんとなく、呆れる。なんで今、そんな話をして来るのかと。
でも……確かにそうかもしれない。
「時々、羨ましいよ」
そんなこと、考えたことが無かった。
散々無理だとか出来ないとか言って来たけど、自分もありえないようなことをやっていた。
「不可能、か」
「そうか? で、あの影はなんだった訳?」
「知らない」
「自分の『場』だろ?」
「じゃあ聞くけど、自分の『場』の効果を全て言える?」
意地の悪い質問だと思う。
「言えないな」
当然だろう。
半端にしか『場』を創れない。しかも、創るたびに変わる様な不安定な『場』を創る空操師なのだから。
それを知っていて質問返しをした。意地が悪い。
「じゃあ聞くな」
そう言って、何事もない様に一口ココアを飲む。
甘い。
別に甘いものが苦手な訳ではないが、少し甘すぎる気がした。
「なぁ、白野。ならあいつは……白い着物の女は、誰だ?」
「お嫁さん」
「ぶっ」
「なぜにふいた」
「……お前の口からお嫁さんなんて言葉を聞くなんてと」
「黙れ」
本当の事なのだから仕方が無い。
あれは、虹の向こうへ行って嫁に入る狐だから。
「お天気雨に虹と狐とお嫁さん……ね。まるで、狐の嫁入りだな」
「……」
思わず視線をそらす。
「え、まさかまじで?」
「そろそろ黙れ」
「はいはい」
トーマの言った通りだ。時雨日和は……元々狐の嫁入りをモチーフにした『場』だった。
お天気雨の虹の向こうにいく狐が、きっと幸せになるだなんてずっと信じていた。
でも、そんなこと、なかったけれど。
「虹の向こう側は、きっと雨が降っていない。そこでずっと幸せに狐の夫婦は暮らしました。おしまい」
「……?」
「いつも、そう聞いてきたから、ずっと」
だから、あんな『場』が出来た。
いまさら、そんな話をするとは思っていなかった。同時に、今になってその話をする、少し恥ずかしいきがする。昔は、よく話していた内容なのに。
苦笑する。
なんだかおかしくて。
そして、もう戻れないことを思い知らされる。
もう、誰も居なくなってしまった。
もう、唯一となってしまった大切な人が――理郷戸朱が死んだ。
今回の『場』の暴走の根本の原因は、それなのだと気付いていた。
「もう、意味なんてないけど」
「意味はあるだろ」
「……?」
どこか、その声は真剣だった。
「なんだった、いつだって、昔があるから今があるんだろ。時雨日和があったから、死乃絶対完結理論が出来たんだろ? 意味はあるよ。ただ、その方向性が間違ってる気がするけど」
「意味が分からない」
「おれも」
「なら言うなよ」
「うっせ」
ため息をつく。
ただ、口元に笑みが浮かんでいることに気づかれないよう、顔をそむけて視線を出入り口に向ける。
と、端から洋服が見え隠れしていた。
「で、そっちの聞きたそうな人は何を聞きたい訳?」
「あ、ばれてた? いやー、聞こうと思った訳じゃないんだけど、会話が聞こえて来てね……別に、聞きたいとかないけど」
ありふれたいい訳だ。
それこそ、使い込まれて手あかがべったりなくらい。
「一応、なんで暴走していたのかはちょっと気になっていたけど」
「あ、そう」
でもまあ、別にいいかと思っている自分がいる。
もう、どうでもよかったのかもしれない。
全て、言いたかったのかもしれない。
「時雨日和はまごうこと無き私の『場』……でも、もうなかったことにした存在しない『場』。それがさっきの答えだよ、矢野冬真」
「……」
なぜか、トーマは驚いた顔をする。
なぜか、目をそむけて「そうか」と答える。
「はいはい、お話しも終わったようですし、試食どうぞ」
その間に入ってきたのはシオだ。
「は?」
「おっ、もしかしてこの店でだす奴ですか?」
「そうそう。もうすぐ開店するの。よろしくねー」
突然出されたのはカップケーキみたいなやつだった。それも、何種類もある。
マドレーヌだとかブラウニーなんだとか、こじゃれた名前を言われたがこう言うのには疎い。
「食べて、食べて」
「じゃあ、遠慮なく」
一番端にあった四角いやつをトーマは手にとって口に運ぶ。
本当に遠慮なかった。
「はい、白野ちゃんも」
「……」
とりあえず、さっき名前を言われた奴をとる。たしかイチゴ味だとか言っていたはずだ。既に名前を忘れていたが。
チョコとイチゴの甘酸っぱさが口の中に広がる。
「あ、ただね。これさ……十五分の一の確率で唐辛子入ってるから気をつけて」
トーマが口を押さえてどこかに走り去った。
運が悪い奴だ。
「なんで唐辛子を……」
「いや、ちょっと間違えて」
「……」
菓子を作るキッチンになぜトウガラシが置いてあるのだろうか。
あまり料理をしないから分からないが、普通間違えないだろ。
直後、砂糖の代わりに塩を入れた酷い思い出を思い出して、とりあえずカップを口に運んでごまかした。
誰に対してごまかしたのか分からないが。
こうして、他のことを考えることはとても楽だった。
今は、別の事を考えたかった。
たとえ、それが先に引き伸ばされるとしても。
今は、考えたくなかった。
理郷戸朱が死んだという事実を。
もう、助けてくれる人は、いない。
それは、されていたはずの会話。
語られなかった電話の内容……
「もしもし、羊羹ちゃん? わたしわたし」
『申し訳ないが、『わたしわたし』という名前の人に心当たりが無いのだが……詐欺か?』
「え? いやいやいや、違うって!」
『冗談だ。なんだ、汐?』
「……もう、遊ばないでよ。それより、空操師を保護した」
『空操師……? まさか、『場』の暴走がまた起こっていたのか?』
「うん。そうそう。だから、そっちに行ってもいい?」
『いや、それは困る。こっちにも多くの空操師が押し掛けているのだ。むしろ、ここは危険かもしれない』
「え? ……分かった。こちらで引き取るわ」
『すまないな。ところで、その空操師と少し話をさせてくれ」
「ん。はい、本部のほうから。さてと、飛ばすよ!」
汐はそう言って保護をした少女と少年に目を向ける。
まだ子どもっぽさの抜けきらない高校生の二人は、案の定乱暴な運転に目を白黒させている。
ちょっとぐらいこうして他のことにきをとられていれば、すこしはましになるかもしれない。と、汐は考える。
とはいえ、もうちょっと自分の運転の腕をあげたほうがいいのかもしれない。と、彼女はふたりの様子に反省していた。




