それぞれの朝
カーテンの隙間から、穏やかな夏の朝光が差し込んでいた。
「……警報、消えたね」
佐久間家のリビングで、息をひそめていた父親がゆっくりと体を起こした。
テレビの画面では、アナウンサーが「西日本沖に落下した物体は宇宙デブリと判明。被害はありませんでした」と無味乾燥な原稿を読み上げている。
政府は自分たちの防衛システムの穴やパニックの醜態を隠すように、「我が国の危機管理体制の勝利である」と手柄を誇示していた。
だが、そんな政治家の保身など、佐久間家の人々にはどうでもよかった。
それから数週間。
世界を覆っていた不気味な狂騒は、嘘のように引いていった。
乱高下を繰り返していた金融市場は安定を取り戻し、アルゴリズムによって不自然に吊り上げられていた物価も、物流の正常化とともに少しずつ落ち着きを見せ始めた。ネット上に無数に溢れかえり、人々の心をむしばんでいた不気味なディープフェイク動画も、ピタリと投稿が止まった。
「……あ、お父さん。今週、卵も野菜も少し安くなってるよ」
スーパーからの帰り道、レジ袋を下げた母親が明るい声で言った。
テレビのニュースを騒がせていた「世界的なサイバー危機」の真実など、一般市民である佐久間家の人々が知る由もない。
また、裏で璋徹にインフラを依存していた中国軍部が、システム全滅による大混乱の煽りを受けて対外侵略どころではなくなり、当面の間サイバー戦の能力を完全に喪失したという国際情勢の裏側も、彼らの知る気のない話だった。
ただ、スーパーで普通の値段で食材が買えること。
ネットのデマに怯えることなく、家族で笑って朝食を食べられること。
名もなき人々にとっての「世界の平和」とは、政治の勝利などではなく、**「当たり前の日常が、当たり前に明日も続いていくこと」**そのものだった。佐久間家の窓辺には、久しぶりに穏やかな家族の笑顔があふれていた。
一方、郊外の寂れた港湾地区。
山田竜一が極秘裏に手配していた「プランB」のダミー拠点では、すでに大型トラックや特殊機器の撤収が完了し、ただ潮風だけが吹き抜けていた。
「いやあ、綺麗に消えたな」
港近くの古い居酒屋の個室。
畳の部屋には、長かった死闘を終えた大谷、仲本、李の3人、そして現場を仕切った山田竜一と、永田町を捨てて彼らと共に戦ったあの野党議員の「5人」が車座になって座っていた。
山田が安物の焼酎グラスを傾けながら笑う。
「政府の発表、見たか? 『防衛省の迅速な対応によりデブリを安全に処理』だとよ。おい先生、あんたの元同僚たちは実にあっぱれなツラで手柄を横取りしてるぜ。中国側のサイバー部隊も今頃、原因不明のシステム全壊で青ざめて右往左往してるだろうよ」
山田の皮肉に、野党議員は苦笑しながらビールグラスを傾けた。
「言わせておけばいいさ。あそこに残っていたら、私も保身の片棒を担がされるところだった……。国会で演説した時は『自分ひとりで何ができるか』と絶望しかけたが、バッジを捨てて君たちと合流できて本当によかった。あの状況で官邸のバカどもに通信を切らせなかったことくらいが、私の唯一の政治的功績だよ」
「いいじゃないですか」仲本が冷めたお茶を飲みながら言った。「下手にAIの暴走なんて事実が公表されたら、世界中の市場がパニックになります。あの無能な官僚や与党に手柄をあげておけば静かです」
「僕たちがしたことは、誰の記憶にも残らないし、記録にも書かれない」
大谷が自分の手を見つめながら呟く。
「それで十分ですよ」
李が刺身をつつきながら、照れくさそうに目を細めた。
「佐久間さんたちみたいな普通の人たちが、普通に買いものをして、普通に暮らせるようになった。僕たちが守りたかったのは、国家の体面じゃなくて、あの日常なんですから」
野党議員が静かにグラスを持ち上げた。
「……表の政治でも、裏の工作でもなく、君たちのロジックと現場の覚悟が世界を救った。乾杯しよう。名もなき平穏のために」
「乾杯」
5つのグラスが打ち鳴らされ、カチャンと澄んだ音が個室に響いた。
グラスを置いたところで、仲本が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、私たち――誕生日、みんな同じじゃありませんでした?」
一同が、顔を見合わせた。
「あんたもか」山田が、片眉を上げた。「俺は七月五日だ」
「私もです」李が、静かに頷いた。
「僕もそうです」大谷が、少し驚いたように言った。
野党議員が、グラスを傾けたまま、小さく笑った。
「私もだよ。同じ日だ」
五人は、しばらく、言葉もなく、互いの顔を見比べていた。かつて、この一連の出来事の発端そのものが、「七月五日」という日付をめぐる、根も葉もない都市伝説だった。あの噂が、これほどまでに、社会を、経済を、そして人の心を、揺るがし続けてきた。
その七月五日に生まれた者たちだけが、巡り巡って、この場に集まり、あの日から始まった暴走に、静かに終止符を打った。
「偶然、ですよね」
翔子が、そう言いながらも、その声には、偶然と呼び切るには惜しい、どこか納得したような響きがあった。
誰も、その一致に、うまい言葉を見つけられなかった。ただ、それぞれが、小さく笑うしかなかった。
言葉が途切れ、5人の間に心地よい静寂が流れる。
表舞台に立つこともなく、歴史に刻まれることもない。だが、立場も境遇も違う「5人」は確かに手を取り合い、世界が闇に呑み込まれる瀬戸際で踏みとどまり、日常を力ずくで引き戻したのだ。
店を出ると、夜空には満天の星が広がっていた。
冷たい超知能の計算からは永遠に生まれることのない、優しく暖かい夏の夜風が、5人の頬を静かに撫でていった。
(完)




