七月五日
二〇二八年七月五日
東京市場が開く前から、為替の気配値は異様な動きを見せていた。仲本翔子は、始発に近い時間にオフィスに入り、三台のモニターの前に座った。まだ日は昇りきっていなかったが、フロアにはすでに大半の人間が集まっていた。
九時、寄り付きと同時に、円は売り一色になった。売買は成立するたびに、次の瞬間にはさらに安い値がついた。値幅制限に近づくたびに、取引が一時的に停止する。誰かが「サーキットブレーカーだ」と短く声を上げた。停止と再開を繰り返すたびに、円はさらに水準を切り下げていった。
「これは、材料があっての下落じゃない」
隣のトレーダーが、震える声でつぶやいた。翔子も同じことを感じていた。中国からも、政府からも、この日の朝、何か具体的な事態が発生したという一報は入っていなかった。それでも、市場は、まるで何かが起きたかのように売られ続けていた。
霞が関では、朝一番から緊急の対策会議が開かれていた。大谷大介も、その末席に呼ばれていた。日銀からの担当者が、切迫した声で状況を報告した。
「介入の準備はできています。ただし、これほどの規模の下落に対して、単発の為替介入がどこまで効果を持つか、正直、確信は持てません」
会議室にいた誰もが、これまでの一年半で、小手先の対応がことごとく市場に見透かされてきたことを、痛いほど理解していた。財務大臣が、苦しい表情で決断を下した。
「打てる手はすべて打つ。日銀と協調して、大規模な為替介入を実施する。同時に、政府として、国民に向けた緊急のメッセージを出す」
大谷は、その指示を受けて、急いで声明文の草案作成に取り掛かった。これまで何度も書いてきた「遺憾」や「適切に対応」といった言葉を、今度こそ使わずに済ませたいと思いながら、それでも結局、使える言葉の選択肢は、驚くほど限られていた。
昼過ぎ、政府と日銀は、協調して大規模な為替介入に踏み切ったと発表した。同時に、臨時の記者会見が開かれ、総理大臣自らが、国民に向けて冷静な行動を呼びかけた。
「本日、特定の日付に関連した不確かな情報が拡散していることを、政府として認識しています。現時点で、我が国の安全保障上、具体的かつ差し迫った脅威が存在するという確認された情報はありません。国民の皆様には、根拠のない情報に基づく行動を控えていただくよう、強くお願いいたします」
その会見は、これまでの定型的な答弁とは、明らかに違う切迫感を帯びていた。だが、皮肉なことに、この日ばかりは、政府が本気で否定すればするほど、かえって「何かある」という空気を強めてしまう逆説が働いていた。介入の効果は限定的だった。円は一時的に値を戻したものの、夕方にかけて、再び売りが優勢になった。
翔子は、昼食も取らずにモニターに張り付いていた。ふと、彼女の頭に浮かんだのは、かつて自分が書いた「一ドル百七十円」というレポートの一文だった。あの頃の自分は、まだ「地政学リスクは限定的」と書けるだけの、ある種の楽観を持っていた。
今、目の前で起きているのは、具体的な軍事行動でも、明確な政策決定でもなかった。ただ、恐怖という感情そのものが、実体を持った経済現象として、市場を突き動かしていた。誰かが仕掛けたわけではない。だが、多くの人間が「今日、何かが起きる」と信じたことそのものが、結果として「何か」を引き起こしてしまっていた。
翔子は、自分のノートに、ひとつの言葉を書きつけた。
「予言は、当たったから恐ろしいのではない。恐れたから、当たってしまったことが、恐ろしい」
佐久間家では、その日、いつもと変わらない一日を過ごそうと、工と美咲は努めていた。会社は休めなかった。蓮の学校も、通常通り開かれていた。それでも、朝から美咲は何度もニュースサイトを確認し、工も、会社の休憩時間のたびにスマートフォンの為替アプリを開いていた。
夕方、蓮を学校に迎えに行くと、蓮は少し疲れた顔をしていた。
「みんな今日、何か起きるかもって、ずっとその話ばっかりしてた。先生が、ちゃんと勉強しなさいって、何回も怒ってた」
美咲は、蓮の頭を撫でながら、努めて明るく言った。
「何も起きなかったでしょう。心配しなくて大丈夫だよ」
その言葉が、どこまで本当なのか、美咲自身にも確信はなかった。帰宅してテレビをつけると、為替介入のニュースと、総理の会見の様子が繰り返し流れていた。ミサイルも、新たな軍事的な動きも、この時点では、まだ何も報じられていなかった。だが、円はこの一日だけで、さらに大きく値を下げていた。
工は、リビングのソファに座り、証券口座の画面を見つめていた。NISAとMMFの評価額は、円換算でこそ増えていたが、その数字を見ても、以前のような安堵は湧いてこなかった。何かから逃れられたという感覚より、この国そのものが、静かに、後戻りできない場所に向かって歩き続けているという感覚のほうが、強く残っていた。
深夜、大谷は誰もいなくなった省内のオフィスで、その日一日の記録を、あらためて見返していた。この時点で、ミサイルはまだ飛んでいなかった。中国からも、これまでのところ、目立った軍事的な動きは報告されていない。表向きには、何も「事件」は起きていなかった。
だが、円はこの一日で、着弾の夜以来、最大の下落幅を記録していた。株式市場も乱高下し、複数の中小金融機関が、資金繰りへの懸念から一時的に取引を制限する事態に追い込まれていた。「何も起きなかった日」として、この一日は記録されるはずだった。
大谷は、翔子が公表したレポートの結びの一文を、もう一度思い出していた。「誰が、どれだけのコストを負っているのかを、社会全体が正確に認識することから、議論は始まるべきだ」。
壁の時計は、二十三時を回っていた。大谷は帰り支度を始めようと、資料をまとめかけていた。七月五日という日付そのものに、特別な意味などなかったのかもしれない――そう自分に言い聞かせながら。
二十三時四十分過ぎ、大谷の携帯端末が、けたたましい音を立てた。防衛省筋からの緊急連絡だった。画面に表示された文面を読んで、大谷は資料の束を取り落とした。
「中国側より、事前通知。軌道制御を喪失した宇宙関連物体、日本近海に落下の可能性――」
二年前の、あの夜とまったく同じ文言だった。だが、通知が届いてから着弾までの猶予は、前回よりもさらに短かった。大谷は指示されるまま、省内の危機管理センターへと走った。
センター内は、すでに怒号に近い声が飛び交っていた。防衛省の統合幕僚監部からの回線がスピーカーにつながれ、現場と中枢との間で、切迫したやり取りが交わされていた。
「イージス艦、PAC-3、ともに厳戒態勢は維持していました。七月五日という日付が警戒対象になっていたぶん、二年前よりは初動は早い。ですが――」
現場士官の声が、一瞬詰まった。
「通知から着弾予測時刻まで、残り十五分を切っています。目標の再突入から着弾までの飛翔時間を考えると、迎撃システムが実際に照準を合わせられる時間は、さらに短くなります」
「何発、落とせるんだ」
誰かが叫ぶように尋ねた。答えは、誰の耳にも重く響いた。
「イージス艦とPAC-3を合わせて、同時に対処できる目標数には、物理的な上限があります。前回の規模――百発を超える飽和攻撃だとすれば、すべてを撃墜することは、現実的に不可能です。優先度の高い目標から、順に対処します」
「優先度は、誰が、どうやって決めるんだ」
その問いに、はっきりと答えられる者は、その場に一人もいなかった。人口密集地か、防衛関連施設か、それとも、まだ確定していない着弾予測の精度そのものが、そもそも十分ではなかった。数字とアルゴリズムに委ねられた判断の速さと、それを見守ることしかできない人間の遅さとの落差が、センター内の空気を、ますます張り詰めさせていた。
その混乱のさなか、レーダー解析班の一人が、上ずった声を上げた。
「予測着弾範囲に、異常があります。一部の弾道が、当初のシミュレーションより南寄りに逸れています。このままの軌道だと……台湾海峡周辺にも、着弾する可能性があります」
センター内が、一瞬、静まり返った。
「日本への攻撃じゃないのか。なぜ台湾に」
理由を説明できる者は、誰もいなかった。だが、悠長に理由を考えている時間は、もう残されていなかった。大谷の隣にいた外務省の連絡官が、ほとんど反射的に、台北の対話窓口へと直通回線をつないだ。
「こちらは日本政府危機管理センターです。至急、緊急連絡をお伝えします。中国側から事前通知のあった落下物について、一部が貴地域への着弾の可能性があると、レーダー解析で判明しました。詳細は不明ですが、直ちに警戒態勢を取っていただくよう、強く要請します」
正式な外交手続きを踏む余裕は、どこにもなかった。確証のないまま、不完全な情報のまま、それでも伝えないよりはましだという、ぎりぎりの判断だった。電話の向こうで、台北側の担当者が息を呑む気配が、大谷にも伝わってきた。
「情報、感謝します。こちらでも直ちに確認します」
短いやり取りだけを残して、回線は切れた。大谷は、受話器を置いたあとの静寂の中で、自分たちが今できたことは、二年前、四国の夜に中国から届いた、あの空疎な通知と、本質的にはそう変わらないのではないかという思いを、拭い去ることができなかった。ただ、事前に伝えること。真実のすべてを説明できないまま、それでも伝えないよりはましだという、同じ構造の中に、自分たちもまた、立たされていた。
二十三時五十九分、着弾が始まった。センター内のスクリーンに、日本国内の複数地点と、台湾近海の複数地点とを示す光点が、ほぼ同時に明滅した。
日付が変わった直後、佐久間家のリビングでも、Jアラートの警報音が鳴り響いた。工と美咲は、蓮を抱きかかえるようにして、玄関脇の狭い廊下に身を寄せた。テレビの画面には「緊急速報」の赤い文字が、繰り返し明滅していた。
「大丈夫だから」
美咲が、震える声で、繰り返し蓮に言い聞かせていた。その言葉が、本当に大丈夫だという確信からではなく、そう言うしかないという、ただそれだけの理由から発せられていることを、工は痛いほど理解していた。
窓の外から、遠くかすかに、これまで聞いたことのないような重い音が響いてきた。四国の夜から一年八ヶ月。「何も起きない日常」への信頼は、この夜、完全に失われた。
七月五日という予言は、当たったのか、それとも、恐れられたからこそ実現してしまったのか。その答えを、まだ誰も、持ち合わせてはいなかった。
日付は、すでに七月六日に変わっていた。




