第288話 無力な挑戦者
夏休みも、あと三日で終わってしまうこの日、春香は早朝から自転車で一人、箱根山へ向かった。
箱根口を通過し、本格的な登りが始まる手前のこの辺りの沿道で、何台ものロードバイクが待機していた。
「なんだ? この待機組は?」
すると一台のバイクが春風の走りに並走してきた。
TIME?
「コルナゴのキミ、一緒にバディ組まないか?」
「えっ?」
そういうことか。
ライドパートナーのお誘いだったのか。
「どう?」
「はい」
「僕はエディ、キミは?」
「春風です」
「僕は専門学校生だけど、春風くんは?」
「高校生です」
「ええ? 高校生なの? まさか、トライアルに出るとか?」
「ええ、そのつもりですけど」
「凄いや! ねぇ、所属はどこに?」
なんかしつこいや、この人。
面倒くさい人に捕まったのかも?
まあ、いいや。
どこかのタイミングでちぎってやるよ。
「ERC……江ノ島ロードサークル」
「知らないけど、この辺りのチームなの?」
ムカムカ!
この辺りじゃちったぁ名の知れたチームじゃい!
「僕は栃木県日光市いろは坂をホームにしている、日光サイクルファンクラブの会計係の富山エドワードだ」
日光サイクル……?
聞いたことあるような、ないような?
それにしても、栃木に富山、なんなんだ?
会計係なら大人しく電卓叩いてろ!
「じゃあ、まずは僕が引くからついてきなよ」
「どうぞ」
「カチカチカチ」
エディがギアを三段上げたのを春風は聞いてしまう。
「三段?」
普通なら足に負荷がかかるギアアップは避けるべきと習ってきたそんな常識はどこへやら、エディはシッティングのまま加速を始めた。
おいおいおい。
なんと言う滑らかな加速してやがるんだ。
春風は度肝を抜かれた。
「春風くん、ちゃんとついて来なよ!」
少し舐めていた。
自分を恥じる。
負けるか!
「ガチャガチャガチャ」
「春風もギアを三段上げ、ケイデンスを通常より上げてみた」
あれ、無理してあげたはずなのにギア変が高域でも滑らかだぞ?
どう言うことだ?
あれ、あれれ。
ギアが増えてる?
……あっ、天野さんだ!
天野さん、貴方らしいですね。
僕のバックギアは十三段に、しかもギア比を僕の脚質に合わせて調整してくれているんだ。
さりげなくメンテナンスなんて言っておいて、箱スパのトライアルレースで本気でぶつかって来いって言われたような、そんな気持ち、受け止めましたよ。
見てて下さいよ!
やって見せます!
天野さん!
「ウオーーー」
振り返ったエディのすぐ横を、静かに急加速して行くコルナゴV3RSはまさにクライムキングにふさわしい走りを見せつけた。
「おいおい……とんでもない奴に声かけちまったみたいだな……ふふふ、しかし俺もついてるな、こんなところで熱いバトルがやれるなんてさ」
先を行くRSの加速は春風の想像を超えてきたが、まだ、後ろにはピタリとエディが張り付いていた。
「なかなかだねぇ。この箱根を走るに適したチューニングなんだね。でも、キミ自身の走りはどうかな?」
「負け惜しみを! どうかなって余裕かましていていいんですか? 行きますよ!」
と春風は一段、また一段とギアを上げて激坂を減速することなく登って行った。
「威勢がいい、気に入った。ふふふ、私のアルプ・ドュエツが久しぶりに走りたがっている」
エディもタイトな加速で春風の追走を続けた。
そしてふたりは拮抗したまま、最高到達地点付近まで登ってきたあたりで、不本意にもこの戦いは幕を閉じた。
「あーっ!」
春風は左足が突如痙攣したことでバランスを失い、自転車を降車したのだ。
その異変に気づいたエディも自転車を止め、春風に駆け寄った。
「痙攣かい?」
「ええ、なんとか」
「ドリンクは?」
「大丈夫、ありますから」
「水分を取りな、暑くなってきているから」
「配慮いただき……すみません」
「それにしても、キミのバイク凄いんだね。箱根用に上手くセッティングされてるけど、これを自分で?」
春風はバツが悪そうな顔つきで答えた。
「いや、知り合いに」
「そいつは凄い知り合いだ。相手にしたら手強いかもな」
「……そうでしょうね」
「キミも少し線が細いけど、しっかりとトレーニングするといいんじゃないかな?」
「……そうですね」
「トライアルでまた逢おう、春風くん」
と別れを告げながら、エディは走り去っていった。
春風は胸を抉られるどの悔しい言われ方に、グローブを外し、路面に叩きつけガードレールに倒れ込んだ。
「クソ、クソ……なんでだよ!」
溢れる涙が路面を濡らした。
春風は病み上がりであって、体調が万全でなかったことはあるにしろ、決定的に欠けている技術面での知識と経験に打ちのめされたのだ。
春風はこの時、途轍もなく大きな壁を天野寛に感じていた。
「僕は自転車は乗れても、自転車のことは何一つ扱い切れていないんだ」
身の丈を知らされた箱根ヒルクライムに終わり、ただただ、自分の力のなさに脱帽させられた春風であった。
そしてTIMEに乗った富山エドワードへのリベンジは、箱根スパイラルのトライアルレースに持ち越されることになった。




