第111話 三ツ辻、外への入口になる
アオイを、三ツ辻へ、連れ帰った。
歩けるまでには、なっていなかった。ガンとクロが、簡易の担架を作り、交代で運んだ。森を抜け、草地を渡り、三ツ辻の柵の中へ。二千年前の人間が、初めて、三ツ辻の地を、踏んだ――正確には、運ばれた。
古代の人間を、迎える、最初の場所は、禁域では、なかった。三ツ辻の、食堂だった。
ハナが、温かい汁を、用意して、待っていた。
「お帰りなさい」
ハナが、五人を出迎える。それから、担架の上のアオイを見た。「いらっしゃい」
アオイは、食堂に、運ばれた。
暖かい。火が、焚かれている。湯気が、立っている。人が、いる。二千年ぶりの、人の、暮らしの匂い。
ハナが、温かい汁を、アオイの前に、置いた。
「飲めますか」
椀に手を添える。「無理なら、後でも、いいです。でも、温かいうちが、美味しいです」
アオイは、その汁を、見た。湯気が、立っている。簡素な、汁だった。根菜と、干し肉の、汁。三ツ辻の、いつもの食事。
アオイは、震える手で、椀を、持った。一口、飲んだ。
そして、泣いた。
涙が、こぼれた。
アオイは、声を、上げなかった。ただ、椀を、両手で持ったまま、涙を、流していた。
「……温かい」
声が、震えていた。「温かい、ものを、飲むのは、何年ぶり、でしょうか」
「二千年ぶり、です」
スズが、小声で答えた。
「二千年」
アオイが、椀を見つめた。「そんなに、経ったのですね」
誰も、何も言わなかった。アオイの、涙を、見ていた。世界の、秘密より、外界より、航行より、先に、温かい汁が、あった。それが、二千年眠っていた人を、人として、迎えた。
「ハナさんの、汁は」
スズが、そっと言った。「いつも、温かいです」
「当然です」
ハナが、胸を張った。「冷めた汁は、出しません」
この壮大な場面で、いちばん揺るがないのは、やはり、この人だった。
その時、食堂の、入口で、物音がした。
ミルクと、バターが、覗いていた。アオイを、見ている。
アオイが、二頭に、気づいた。涙を、拭きながら、見た。
「あれは」
目を細める。「管理生物、ですか」
「管理……何ですか」
「環境を、管理する、生物です」
アオイが、二頭を見る。「草を、食べて、植生を、保つ。そういう、生物が、いました。ヤヒロには」
五人は、顔を、見合わせた。それから、スズが、口を開いた。
「除草係です」
「除草係」
アオイが、繰り返す。
「ミルクと、バターです」
スズが、二頭を指した。「草を、食べます。それだけです。管理とか、難しいことは、わかりません。ただ、草を、食べます」
アオイは、その答えが、理解できない、という顔をした。だが、それから、少し、笑った。二千年前の、立派な呼び名が、三ツ辻に来た途端、ただの「除草係」に格下げされた瞬間だった。
「除草係」
アオイが、口の中で転がす。「そういう、呼び方も、あるのですね」
バターが、食堂に、入ってこようとした。
「バター、だめです」
スズが、慌てて止める。「お客さんが、いるんです」
バターは、それでも、入ってこようとした。ミルクが、首で、押し戻す。
アオイが、その様子を、見て、また、少し、笑った。
「あの、小さいほうは」
口元を緩める。「好奇心が、強いですね」
「バターです」
スズが、苦笑する。「なんでも、口に、入れます。紐も、袖も」
「管理生物にしては」
アオイが、目を丸くした。「自由ですね」
「自由です」
スズが、うなずく。「除草係ですから」
その、何気ない、やり取りが、アオイの、緊張を、少し、ほぐしたようだった。二千年前の人間と、今の人間。世界の、見方は、まるで違う。だが、温かい汁と、自由な除草係の前では、同じ、人間だった。
その夜、アオイは、三ツ辻の、用意された部屋で、休んだ。
まだ、多くは、語れなかった。体が、本調子では、ない。だが、いくつか、わかったことが、あった。
ヤヒロという、世界の名前。外部環境制御が、止まりかけていること。標塔、B区画、そして、ヤヒロの、航行。
「これから」
カイが、評議会で切り出した。「アオイさんから、少しずつ、話を、聞きます。世界の、こと。外の、こと。でも、急ぎません。アオイさんが、回復してから」
「三ツ辻に」
ドウが、帳簿の手を止めた。「外を知る者が、来ました。これは、大きな、ことです」
「三ツ辻は」
カイが、これまでを振り返る。「変わりました。最初は、ただの、中継所でした。三集落の、間の。それが、判断の、場所になり、情報の、場所になり、そして――」
「世界の、外へ、続く、入口に、なった」
ミコトが、後を引き取った。
「はい」
評議会の、後、カイは、外に出た。
冬の、夜空に、星が、出ていた。動かない星。アオイは、世界が、航行する、乗り物だと、言った。なら、この星は、外界の、星なのかもしれない。
ガンが、隣に、来た。
「終わったな」
白い息を吐いた。「禁域の、扉を、開けて、中の人を、起こした」
「終わって、いません」
カイが、首を振った。「始まりました。アオイさんから、世界のことを、聞きます。外部環境制御が、止まりかけている。それを、どうするか。標塔の、中心へ、行けるか。まだ、たくさん、あります」
「そうか」
ガンが、肩をすくめた。「なら、また、続きだな」
「続きです」
カイが、星を見上げる。「父の、続きを、私が、やります。そして、その、続きを――」
「みんなで、やる」
「みんなで、です」
食堂の、ほうから、ハナの声が、聞こえた。アオイに、もう一杯、汁を、勧めているらしい。罠工房からは、ガンとクロの、短い会話。厩舎からは、ウメとマツの、鳴き声。三ツ辻の、いつもの、夜だった。
その、いつもの夜に、二千年前の人間が、一人、加わった。
去年の春、三ツ辻は、禁域の、扉の前に、立っていた。
今、三ツ辻は、その扉を、開けて、中の人を、迎えた。
禁域は、怖い場所から、調べて戻る仕事に、なった。そして、その奥から、世界の、秘密が、人間の形を、して、現れた。
野廻り隊は、禁域に、入り、戻り、外を知る者を、三ツ辻に、迎えた。三ツ辻は、三集落の、中継所から、世界の、外へ続く、入口に、なった。
だが、薪割りも、食事も、見張りも、隊商対応も、続く。アオイが、来ても、ミルクと、バターは、いつも通り、草を、食べている。世界の入口になろうが、除草係は、除草係だった。
「次は」
カイが、つぶやいた。「標塔の、中心、でしょうか。それとも、外部環境制御の、ことでしょうか」
「アオイに、聞いてからだ」
ガンが、短く言った。
「はい」
カイが、うなずいた。「焦らず、でも、止まらず。一人じゃ、なく、みんなで」
冬の風が、三ツ辻の柵を、静かに、揺らした。
三年目の冬が、終わろうとしていた。次の春には、新しい仲間が、一人、増えている。そして、世界の、もっと深い秘密へ、続く道が、開いている。
扉の、向こうへ。三ツ辻は、また、一歩、進んだ。
*第3部「扉の向こうへ」完。*




