日常パート フェイに好きな人ができる?
「ミルズさん、今日は出かけてきますね。夕ご飯前には帰ります!」
爽やかな朝日が差し込む時計店。カウンターの前に立ち、今日修理するべき時計が並んだ棚を前に静かに数を数えていたミルズは、背後から弾んだ声をかけてきたフェイを振り返った。
「……あぁ、いってらっしゃい。気をつけてな」
送り出すミルズの視線が、ふと少女の背中に留まる。いつもの動きやすいシャツとズボンではなく、今日のフェイは珍しくお洒落なワンピース姿だった。淡いピンクのリボンが揺れる、いかにも女の子らしい格好だ。そういえば少し前から、店を手伝った小遣いをチマチマと貯めて嬉しそうに買っていたな、とミルズは思い出す。
嬉しそうにドアを開け、小さく手を振って街へと駆けていくフェイを見送り、ミルズがふたたび手元の作業に意識を戻そうとした──その時だった。
店舗と作業場を隔てる、奥の暗がりから、ヌッと音もなくフェリクスが現れた。
「聞いてくれ、ミルズ」
ミルズは視線だけを一瞥させ、すぐさま心の中で深い、深いため息を吐いた。
そこに立っていたのは、いつもの柔和な笑みを完全に消し去り、顔から一切の感情が抜け落ちた相棒の姿だった。滅多に見せないその不穏すぎる佇まいに、ミルズの直感が「最高にめんどくさい予感」を告げて警報を鳴らす。
「……なんだ。まだ時計の分解作業は始まっていないぞ」
「フェイに、好きな人ができたみたいなんだ」
フェリクスは地を這うように低く、苦痛に耐えるかのように唸る声を吐き出した。
「あまりにも可愛い格好をしていたから、『今日はどうしたの?』って声をかけたんだ」
ミルズが「聞く」とも「興味がある」とも言っていないのに、男はカウンターに両手を突き、取り憑かれたように喋り始める。
「そしたらあの子、見たこともないような顔ではにかみながら、『お兄ちゃんには内緒』って、僕を拒絶して……!」
「……お前なぁ。それで、なぜそこから『好きな人ができた』なんていう極論に思考が飛躍するんだ」
ミルズはこれ以上付き合っていられないと時計の数の確認を続ける。しかし、隣の男の目は、すでに世界の終わりを幻視しているかのように昏く据わっている。
「出かける直前のあの子の、独り言を聞いてしまったんだ。……『好きな人に、びっくりして喜んでほしいな』って、愛おしそうに呟きながら鞄を整えていた」
ガタッ、とフェリクスが一歩踏み出し、完全に感情の消えた目でミルズに迫った。その目の奥に、パチパチと不穏な殺戮の光が灯り始める。
「フェイに彼氏ができるなんて、そりゃ兄からしたら嬉しいことだよ?」
フェリクスはミルズの両肩を掴み、がくがくと前後に揺さぶった。
「でも、今じゃないでしょ!」
着ている服の生地が悲鳴をあげるほど、その指先には容赦のない力が食い込んでいる。
「痛い……! 流石に落ち着けフェリクス、骨が折れる」
ミルズはフェリクスの手首を鋭く掴むと、その親指を外側へ捻って強引に拘束を剥ぎ取った。そのまま一歩踏み込んでその胸元を突き放し、乱れた襟元を苦々しく正す。
フェリクスはほんの少し重心を揺らしただけで、即座に涼しい顔で体勢を立て直した。
「フェイは十四歳だぞ。好きな人の一人くらいできるだろう」
ミルズは死んだ魚のような目で、親友を見やった。
「十四歳……? そんな、ちょっと前まで一緒に絵本を読んでいたのに、いつの間にそんなに時間が経ったんだ……?」
フェリクスは何やらブツブツと呟きながら、両手で頭を抱えて頭を振っている。
ミルズは関わり合いたくないとばかりにカウンターへ戻り、精密機器用のねじ回しを手に取ろうとした。しかし、背後から音もなく接近したフェリクスに、ガシッと襟首を掴まれる。
「ミルズ、お願いだ。尾行を手伝ってほしい」
「おい、流石に怒るぞ」
仕事の邪魔をされたミルズの口から、静かに怒気を孕んだ声が漏れる。
「君も気になるだろう? フェイがどんな男と付き合っているのか」
「興味ない」
「もしかしたら相手は東国の協力者で、僕たちの素性を探るための罠かもしれない。もしフェイの身元から芋蔓式に正体が露見すれば、西国の作戦そのものが水泡に帰す。……これは国家の危機、ひいては世界の平和を守るための防諜任務だ」
ミルズは完全に言葉を失った。あまりに壮大すぎる被害妄想に、思考回路が本気で停止したのだ。
薄紫の瞳が、哀れなものを見るように細められる。
「……フェリクス。一般の子供に、一体どこの国のどんな大規模な作戦が防げるというんだ。お前の脳内国家は、そんなに脆弱なのか」
「国家はいつだって脆弱だ。その犠牲が僕たちだろう?次の世界の命運は、フェイのデートにかかっているんだ。」
これ以上何を言っても無駄だ、とミルズは深く、重いため息を吐き出した。このまま放置すれば、この男は一人で暴走して本当に国家規模の騒ぎを起こしかねない。それに、ここで断って作業を邪魔され続けるよりは、さっさと付き合って「ただの勘違い」だと証明し、このシスコンを黙らせる方が結果的に合理的だろう。
「……一時間だけだ」
ミルズは作業マットの傍にあるサングラスを拾い上げると、不機嫌極まりない手つきで顔にかけた。
「一時間以内にその『脅威』とやらを排除して、俺は店に戻る。いいな」
「持つべきものは最高のバディだな、ミルズ!」
「黙れ。コートを着替えさせろ」
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雲ひとつない快晴の下、噴水のある広場で、フェイは時折周囲を気にしながら立っていた。広場の中央にある大きなからくり時計をチラチラと見上げているところを見るに、約束の時間が近いのだろう。
「ターゲットはまだ現れていないようだな」
店先の陰から身を潜め、フェリクスが低く張り詰めた声で呟いた。
「おい、もう少し頭を下げろ。見つかるぞ」
隣に並ぶミルズは、不機嫌そうにサングラスの奥の目を光らせ、フェリクスの緑色のキャスケット帽を強引に引き下げさせた。
「フェイちゃーん、お待たせー!」
その時、広場に軽薄な声が響いた。
フェイの元へと足早に近づいてきたのは、眩しい金髪の男だった。フェイと同じ学校の制服を着ているところを見ると、同級生か、あるいは先輩なのだろう。
「……あんな治安の悪そうな髪型の男と、うちのフェイが……? 流石に教育上よろしくないのでは?」
「いや、髪型だけで判断するな」
フェリクスはそう呟いた。その声は酷く穏やかで、いつも通りの優しいトーンだった──が、その目の奥からは完全に光が消え失せ、底冷えするような昏いナタのような視線が、真っ直ぐに少年の首筋へと向けられている。
ミルズが静かに突っ込みを入れ、男の着こなしを観察した。シャツの第一ボタンを開け、ズボンを腰の低い位置でルーズに穿きこなす、少々不良っぽさの目立つものだった。だが、あの年代の少女であれば、一度は背伸びをして憧れてしまうような、いかにも垢抜けた佇まいでもある。
「じゃ、行こうか」
「はい!」
フェイは弾むような声で応じると、男と並んで賑やかな繁華街の方へと歩き出した。大型の商業施設が立ち並ぶエリアだ。休日の買い物デートといったところだろう。
「……フェリクス、本当にこれを続けるのか?」
「当たり前だろ。フェイに悪い虫がつかないよう、兄として厳重に監視する必要がある」
口元に柔和な笑みが残っているが目は笑ってない。
ミルズは、これから始まるであろう苦難の一時間を察し、深いため息をついた。
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「これなんてどうかな? 俺の兄はこういうのが実用的で好きなんだけど」
「わー、いいですね。色の展開も豊富だし、ここならぴったりなのが見つかりそう」
新しく入った商業施設の、少し敷居の高そうな紳士服店。ネクタイや小物を手に取りながら楽しげに相談し合うフェイたちの姿は、シックなスーツの並ぶ店内においてひどく浮いて見えた。
「……こんな店に入るなんて、相手は金髪の少年じゃなくて、もっと別の『大人』なのか? というか、十四歳にこんな紳士服店は早すぎるだろ。」
「余計な一言だ。十四歳でも着る人間は着る。」
ハンガーに掛かったジャケットを選ぶフリをしながら、ヒソヒソと声を潜める大人が二人。
超一流の隠密スキル(スパイ技術)をこんな場所で無駄遣いし、店員の目を盗んで少女たちの会話を盗み聞きしている。スパイどころか、このままだと普通に不審者として警備員に通報されないか、ミルズはある種の本物の危機感を覚えていた。
「大人っぽいのが好みなんだ?」
「はい! でも、普段はこういうカチッとした服を着ない人だからな……」
「えー、でもネクタイを持たない仕事じゃないでしょ? 一個あったら絶対に便利だよ」
ネクタイを首元に当ててみせながら笑い合う二人の会話は、客観的に見れば至極微笑ましい、微笑ましすぎる光景だった。
(……普段は制服を着ない大人。ネクタイを持つ仕事──)
ミルズはサングラスの奥で、じっとフェイの手元にあるネクタイの色と、その会話の条件を脳内で照らし合わせる。
毎朝パン屋から帰るフェリクスの姿が、一瞬だけ脳裏をよぎったが……ミルズは静かに思考をシャットアウトした。
(……いや、まさかな)
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「そろそろお昼だな……。フェイちゃん、何食べたい?」
「そうですね。あのお店とかどうですか?」
「いいね、ならお昼はここにしよう」
時計の針がてっぺんを指す頃、金髪の先輩とフェイは、最近新しくできたという地中海料理の店へと入っていった。
「ミルズ、僕は何も食べられる気がしないからコーヒーだけでいいや。君は何を食べる?」
「……俺も同じでいいって、おい、もう一時間すぎたぞ。そろそろ店に戻ってもいいか?」
フェリクスはもう、仲睦まじく店へ入っていく二人を見ていられないといった様子で、がっくりと肩を落としていた。いつもの柔和な笑顔は完全に消え失せ、顔から一切の感情が抜け落ちている。
本業の時計の修理は気になるが、流石に軍人時代ですら見たことのないほど打ちひしがれている親友を、このまま放っておくわけにもいかない。ミルズは深いため息をつくと、フェイたちが入った店の斜め向かいにある、小さな喫茶店を親指で指し示した。
「帰る前に、あそこのコーヒーでも飲むか」
二人は喫茶店のカウンター席に腰を下ろした。幸いにも、そこからは通りを挟んだ窓際席に座るフェイたちの姿がよく見渡せた。楽しそうにメニューを覗き込む二人の姿が、ガラス越しに映っている。
「……僕が行方不明になって、三年か」
隣に座ったフェリクスが、ポツリと呟いた。
「そりゃあ、フェイだって好きな人の一人や二人、できるよね。……でも、僕は、あの子がそうやって誰かを好きになるような、そんな普通の成長をしていく姿を、ずっと隣で見てやることができなかったんだ」
店主によって運ばれてきたコーヒーからは、香ばしい湯気が立ち上っている。
フェリクスはミルクも砂糖も入っていないブラックコーヒーのカップの縁を見つめたまま、もう一度、消え入りそうな声で溢した。
「ちゃんと、近くで見てやりたかったな……」
──その、親友の痛切な背中を見ては声をかけずにはいられなかった。
「……おい、フェリクス。そんな死にそうな顔でコーヒーを睨むな。ブレンドが不味くなる」
ミルズはぶっきらぼうにそう告げてカップを口に運び、温かい液体を一口流し込んだ。ソーサーへ戻したカップの縁を無骨な指でなぞりながら、どこか遠くを見る目で言葉を続ける。
「フェイとお前は、孤児院にいた頃から二人きりでやってきたんだろ。……お前が行方不明になっていた三年間、フェイはお前を必死に探しつつも、ちゃんと前を向いて、自分の人生を歩もうとする強さがあった。俺は、あいつにそんな心の余裕があったのかと、むしろホッとしているぞ」
ミルズはサングラスの奥の視線を、斜め向かいの窓際へ向ける。
「……お前がいなくなった分、あいつに当たり前の日常を送らせてあげることが、俺にできるせめてもの役割だと思ってたからな。あんな風に、普通の女の子として笑えているフェイの姿を見られるのは、俺にとっても安心だ」
フェリクスは弾かれたように目を見張り、それから、いつもの柔和な笑みをその唇に宿した。
「……そうか。僕がいない間、君がずっと近くで支えてくれていたんだもんね。君から見て、フェイが今あんな風に笑っていられるなら、本当に安心だな」
フェリクスは愛おしそうに一口コーヒーを啜ると、どこか悪戯っぽくミルズの顔を覗き込んだ。
「店に帰ったら、僕の知らなかった三年間の思い出話、たくさん聞かせてよ。相棒」
「あぁ、お前の気が済むまで付き合ってやる。……さて、あとは子供たちの時間だ。俺たちは店に帰──」
「あ、それとこれとは話が別だからね」
ぴしゃり、とフェリクスの声が響いた。
感動的な余韻をすべてかなぐり捨てるような速度で、フェリクスは残りのコーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。カウンターに多めの紙幣をスッと置く手つきには、一切の躊躇がなかった。
「今日の新しい思い出として、あの金髪くんが僕らの大事なフェイをお目にかけるに値する男なのか、最後までちゃんと見極めないと」
窓の向こうでは、ちょうどフェイたちが席を立ち、店を出る準備を始めていた。フェリクスの目の奥からは、再び静かで凄まじい「防諜任務」の光が蘇っている。
「じゃあ行こうか、ミルズ。君の索敵能力が必要だ」
「一人で行け。俺の作業時間をこれ以上奪うな」
ミルズがそれだけ言い捨て、席を立とうと腰を浮かせた──その瞬間だった。
ガシッ、と。
上体を起こしかけたミルズの肩を、フェリクスがいつも通りの優しい笑顔のまま、元軍人の圧倒的な握力でガッチリとホールドした。
「……フェリクス、肩の骨が軋んでいるんだが」
「気のせいだよ。さあ、フェイたちが出るよ。僕たちも遅れないように行かないとね」
フェリクスはミルズの腕をがっちりと組み、まるで仲の良い親友同士が肩を組んで歩くような自然さで、強引にミルズを店の外へと引っ張り出した。
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「みてください。この服、似合うと思う!」
「いいね、サイズは大丈夫かな?」
「うーん、もう少し大きければ大丈夫だと思います」
並んだポロシャツを手に取り、金髪の少年に当てながら楽しげに選んでいるフェイ。二人の距離は近く、客観的に見ればまさに微笑ましい学生カップルそのものだった。
「流石に近すぎる……。もう少し距離を考えて欲しい。公共の場だぞ」
物陰のハンガーラック越しに、フェリクスが目の奥に昏い光をパチパチと宿らせながら凝視している。
「お前ほど見まくってる奴はいないがな。むしろお前のその態度が不審者として見られているぞ」
服を選ぶフリをしてジャケットを手には取っているものの、一歩間違えれば通報されそうな相棒の横顔を、ミルズは肘で鋭く小突いた。
「フェイちゃん、こっち」
「なんですか?」
二人は店の奥の商品を見に行ったのか、ここからでは死角になってよく見えなくなった。
「あっ──」
不意に二人の会話が途切れたため、こそっと距離を詰めて覗き込む。すると、何やら互いの顔が異様に近い。
「せ、先輩……」
「っとごめん、大丈夫だった?」
二人は大慌てで体を離した様子だった。
どう見ても、足元を滑らせて転びかけたフェイを先輩が咄嗟に支えただけのハプニングなのだが、あまりにもタイミングが最悪すぎた。
「ミルズ、あの二人、今……」
いつもの完璧な美貌を完全に喪失し、この世の終わりを幻視したような顔で呟く。
「キスしてた……」
シスコンフィルターの異常数値により、フェリクスの脳内防諜システムは最悪の形でエラーを起こしていた。
「おい、待てフェリクス。今のはどう見ても──」
ミルズは冷静に弁解しようとしたが、相棒の耳にはもう、世界崩壊の鐘の音以外は届いていないようだった。
「ごめんミルズ……。ちょっと、外の空気吸ってくるね」
魂が完全に消し飛んだような薄い笑みを浮かべ、ふらふらとした足取りで店から出ていくフェリクス。その後ろ姿を見送り、ミルズが盛大なため息を吐き出そうとした──その時だった。
「これに決めました! お兄ちゃんのプレゼント!」
死角になっていた店の奥から、ふと、弾んだ少女の小さな声が響いた。
ミルズはサングラスの奥の目を見開き、ハンガーラックの隙間から二人の姿を凝視する。
「いいじゃん。軍人のお兄様によくお似合いで?」
「ありがとうございます。きっとお兄ちゃんも気に入ってくれると思います!」
フェイは胸元に抱えた先ほどのポロシャツを、それはそれは嬉しそうに見つめていた。
──その瞬間、ミルズの頭の中で、バラバラだったピースが文字通り音を立てて噛み合った。
兄が軍人。紳士服を着ない男。
先ほどフェイが「もう少し大きければ大丈夫」と言っていたのは、金髪の少年のサイズではなく、元軍人であるフェリクスのあのガッシリとした体格を想定していたからだ。
(……おい、嘘だろ。あの子は兄のための誕生日プレゼントを選んでいたのか)
フェイは、行方不明だった三年間を埋めるように、大好きな兄のために一生懸命サプライズの贈り物を探していたのだ。
すべての真相を理解した瞬間、ミルズの額に、ドッと凄まじい頭痛が押し寄せてきた。
「チッ……面倒なことになりやがって」
ミルズは小さく悪態をつくと、フェイたちに気づかれないよう音もなく踵を返した。
自分の大事な作業時間をこれ以上不審者の介護に費やされてたまるか──と、ミルズは鋭い足取りで、店を出ていったフェリクスの背中を追いかける。
幸いなことに、フェリクスはそう遠くへは行っていなかった。
商業施設のすぐ側にある、緑豊かな公園。その片隅のベンチで、男はまるで世界から光が消え失せたかのように深く深く項垂れていた。
「おい、フェリクス。」
今ここで勘違いを正してやりたいが、それではフェイの健気なサプライズが台無しになってしまう。だからこそ、店に戻ったらこのバカに釘を刺しておく必要があった。
「あいつがプレゼントを持って戻ってきたら、お前は何も知らないフリをして、いつも通り──」
いつも通り、嬉しそうに受け取ってやれ。
そう続けようとした、まさにその時だった。木々の向こうから、聞き馴染みのある澄んだ少女の声が響いた。
「今日はありがとうございました!」
「こちらこそ楽しかったよ。また学校で」
どうやらフェイと金髪の少年は、ここで別れるようだった。その瞬間、フェリクスが、弾かれたようにバッと立ち上がった。その目の奥には、悲壮な決意と凄まじい「防諜任務」の光が再びギラギラと蘇っている。
「おい、話を聴けバカ。今すぐ帰って──」
ミルズは今度こそ物理的に相棒の襟首を掴んで止めようとしたが、フェリクスは見事な身のこなしでそれを軽く躱した。そして、まだ真実を知らずに手を振っているフェイの方へと、真っ直ぐに歩み寄っていく。
「フェイ」
──すべてを完璧に勘違いした男は。
夕暮れの木漏れ日の中で、これ以上ないほど全肯定の優しい声色で、最愛の妹を呼び止めた。
「え……お兄ちゃん!? と、ミルズさん!?」
フェイはハッとした顔になり、手に持っていた、あからさまにプレゼント用の包装が施された紙袋を大慌てで背に隠した。
「今日はどうしたの? ミルズさん、仕事じゃなかったんですか?」
「フェイ、ごめん。僕はあの金髪の少年を、どうしても認められない」
フェリクスはフェイの前に膝をついて目線を合わせ、少し悲しげに慈愛に満ちた言葉を告げる。
「付き合ってどれくらいなのかは知らないけれど、公共の場でキスをするような関係はまだ早すぎる。」
完全に硬直したフェイの顔からは、一切の感情が消え失せていた。目の前の兄が何を言っているのか、脳の理解が追いついていないのだ。
「そんなに早く、大人にならなくていいんだよ」
あまりの怒涛のパワーワードに、フェイは恐る恐る、引き攣った声を紡ぐ。
「きす……?お兄ちゃん、ミルズさんの前で何不潔な妄想言ってるの!?」
顔を真っ赤にして慌てるフェイに、フェリクスは至って真面目に答える。
「何って、あの少年と付き合っている話だけど」
「付き合ってない!!!!!」
今日、フェイを尾行して以来、間違いなく一番大きな声が夕暮れの広場に響き渡った。
フェイは肩を激しく上下させながら、交互に二人を睨みつける。
「あの人は学校の先輩! お兄様が軍人だから、その方の意見を参考にしながらプレゼントを選んでたの! お兄ちゃんの誕生日までに内緒にしたかったのに……っ!」
話しているうちに、蜂蜜色の瞳にじんわりと涙が溜まっていく。恥ずかしさと、サプライズを台無しにされた悔しさによるものだろう。
その言葉を聞いた瞬間、目の前の兄は至近距離で雷撃に打たれたかのような衝撃に貫かれ硬直した。
その隣で、ミルズは額に手を当てて深く項垂れた。
「ていうか、お兄ちゃんついてきてたの!? ミルズさん、なんで止めなかったの!?」
顔を真っ赤にして怒髪天を突くフェイ。
その瞬間、真っ先に口を開いたのは、全てを知っている時計師だった。
「待てフェイ。俺はこいつの妄想の同犯じゃない。さっきの店でお前のプレゼントに気づき、このバカを家に引きずり戻そうとしていた」
ミルズは一切の感情を排した声で、隣で機能停止している相棒を容赦なく指差した。
「すべては、この重症のシスコンが『キスしてた』とバグを起こして突撃したのが原因だ。俺は何度も止めたが躱された。不可抗力だ」
「ちょっと……! ミルズ!? ──ごめん、ごめんなさいフェイ、僕も完全に勘違いしてたんだ!」
「言い訳無用! お兄ちゃんは誕生日が来るまで口きかないから! 」
フェイはぴしゃりと言い放ち、完全に魂の抜けた兄から顔を背けた。そして、保身の弁をまくし立てた時計師をジロリと睨む。
「ミルズさんも、気づいてたならもっと全力でお兄ちゃんを羽交い締めに(ホールド)して止めるべきでした! だから連帯責任です。帰りにお詫びとして、美味しいアップルパイを買ってください!」
「……分かった、パイの店に寄ってから帰る」
淡々とそう応じた時計師は、サングラスの奥で密かにほっとした顔をした。甘味への献上によって、最少の罰で無罪放免を勝ち取ったのだった。
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「で、何で俺が呼ばれたんだ?」
白ウサギ時計店の2階、キッチンの椅子の背もたれにどっかりと体重を預け、不機嫌そうに足を組んだノックスが、目の前の少女を睨みつける。
フェイはむすっとした顔で、ミルズが「お詫び」として買ってきてくれたアップルパイをフォークで突き刺しながら答えた。
「知らないわよ! 脳みそが勝手にノックスお兄ちゃんに切り替えたんじゃないの?」
「……ケッ、要するにただの兄妹喧嘩の愚痴聞き役かよ」
最愛の妹からの完全拒絶にフェリクスの精神が耐えきれず、防衛反応で強制的に人格が切り替わってしまったらしい。ノックスからすれば、ただの情けない兄妹喧嘩の尻拭いで引っ張り出されたわけで、完全にいいとばっちりだった。
「小娘一人に彼氏ができただの、男がどうだの。あいつは本当にイカれてるな」
「本当にね」
フェイはアップルパイを口に放り込み、冷静に指摘する。
「……そもそも、小娘。お前が本当に惚れているのは、あの──」
「ストップ! むぐっ、ゲホッ、やめてッ……!」
慌ててノックスの口を塞ごうと身を乗り出した瞬間、噛み砕く前の一大塊のアップルパイが喉の奥にスポンと直撃した。
フェイは胸を叩きながら涙目で激しく咳き込む。ノックスは、その情けない自爆っぷりを心の底から楽しそうに、意地の悪い笑みを浮かべて見下ろした。
「おいおい、静かにしろよ。下で耳をすませてる時計師に、変な誤解をされたらどうするんだ?」
「んぐ……っ、だ、誰のせいだと思ってるのよ……!」
涙目で睨みつけるフェイに、ノックスは「フン」と鼻を鳴らす。
「揃いも揃って、どいつもこいつも本当に節穴だな」
一階からは、いつもの平穏を取り戻したミルズがこれ幸いと作業に没頭している、チチチ、と規則正しい時計の秒針の音だけが、静かに響いていた。




