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「充」


 鉄は熱いうちに打て。私の中にちゃんと怒りが残っている間に。

 智子と別れて早々、私は部屋でのんびりパソコンを眺めている充に向かって呼びかける。緩慢な動きでこちらに顔を向ける充の顔は、疲れは見えたが感情は感じられなかった。


 私はずいっと彼のそばに立つ。上から彼を見下ろす形になる。きっと私は今まで見せたことのない顔をしているはずだ。なのに、目の前にいる充の顔は付き合う前からずっと見てきたいつもと変わらない無表情だった。

 何も思わないのか。そんなはずはない。アンガーコントロールを使わないと感情をコントロール出来ない人間なのだ。今だって何かを感じているはずなのだ。なのにそれを顔にも、言葉にも出さない。


 ーーむかつく。


 ぐっと怒りが温度を上げる。でもこれはチャンスなのだ。彼の感情を引き出せるかもしれない、本当の彼を引っ張り出せるかもしれないチャンスでもあるのだ。


 ーー出てきなさいよ。


「ずっと何を我慢してるの?」

「……我慢?」


 彼の眉間に少しだけ皺が寄る。怪訝そうな、心当たりがない事に触れられているような表情。それとも、心当たりがあり過ぎるのだろうか。


「いつもあなたは、悪かった、すまないって謝るだけ。最近ミスとか抜けは多いし、疲れてるのかもしれないけど、やって欲しい事もやってくれてない。そんな時私はちゃんとあなたにこうしてって言うよね。その度悪かったってあなたは謝るよね。でも、本当にそう思ってる?」


 怒りに身を任せてみる。思えばいつもの小言は怒りから来るものではない。ちょっとした文句。私からすれば日常会話の一コマに過ぎない。でも今は違う。ちゃんと怒りを持って彼と向き合っている。


“あんたにはもっとちゃんと喧嘩出来る相手の方がお似合いなんじゃないの?”


 そうだ。喧嘩なんてこれまで一度もなかった。彼がいつも謝るから。私が文句を言っても彼が怒る事はないから。そして必然と私も怒るまではなかった。それは私が言いたい事を言えていたから。その先のラリーがないから。

 そう思うと虚しさも一気に込み上げてきた。喧嘩がないのは仲がよくて良い事。そうとも言えるが、全力でお互いに向き合ってこなかったとも言えるのではないか。

 私はぶつかっているつもりだった。でも充はどうだ? 私と本当に向き合ってきてくれたのか?


「言いたい事があるなら言いなよ! 私ばっかり言いたい事言って、充は全部飲み込んで謝るだけ謝って、付き合ってからずっと、あなたの本音を一度も聞いてない」


 そこまで言うと、充はすぅっと息を吸い込んだ。そしてほんの僅か、唇が動いた。


(いち……)


 そんな気がした。本当に唇が動いたのかは分からない。そう見えただけなのかもしれない。


(に……)


 いや、数えている。彼は始めている。

 ダメだ。そうはさせない。今日はダメだ。


「それやめなよ」


 ぴたっと微かな唇の動きが止まる。彼は少し驚いたような顔を見せる。


「アンガーコントロールって言うんでしょ、それ」


 彼の唇がすっと閉じていく。やっぱり、智子の言う通りだったのだ。


「6秒で怒りを抑えるってやつでしょ? それが何よりの証拠じゃない」


 させない。そんなもので抑えさせない。


「言いなさいよ! 言いたい事があるけど自分が怒らないように無理やり抑え込んでるんでしょ? でもさ、そんなのバレたら意味ないよ。っていうかもっと腹立つよ。充の考えがあってやってる事なんでしょうけど、そんなの不満があるって言ってるのと同じじゃない。自分だけはお行儀よく黙ってるつもり? 言いたい事言いまくってる私の事実はずっと馬鹿にしてた? すんごいムカつくんだけどそれ」


 怒りに身を任せれば言葉はするすると出てきた。自分でも驚く。こんなにも私は腹が立っていたのか。


「休みの日くつろいでるだけなのに、私はちゃんと休日だってやらないといけない家事はやってるのに、あなたは何もしないんじゃない。疲れているから休みたいのは分かるけど、だからって簡単な家事一つやらずほったらかしにしたり、どうしてそんな事になるわけ? ねえ、こうやって言われている今も本当は怒ってるんでしょ? ムカついてるんでしょ? 黙ってないで言いなよ。言いたい事があるなら全部言ってみなよ! 言えるもんなら言ってみろよ!」


 頭にがっと血が上りどんどん自分が昂っていく。

 充は、唇が震えていた。初めて見る彼の変化だ。よく見れば指先も少し震えている。怒り慣れていないのだろう。怒りをどう表に出せばいいのか分からないのだろう。内に込める、鎮める事はうまいが、その逆はやった事がないのだ。

 

 ーーそうよ。言いなよ。


 目も血走り始めた。初めて二人の間に入った亀裂のようにも感じた。

 ここで終わるのかもしれない。終わり。終わりか。そこまでは考えていなかった。私もたいがいだ。いつも何かを言葉にする時その先を想定しない。その時思った事をその場で言う。ひょっとしたら今日で終わってしまうなんて考えもしなかった。

 智子はきっと分かっていたはずだ。でもきっと彼女は、それも見越した上であえて言わなかったのだろう。その時はその時。豪快な彼女らしい。

 

 そうだ、ここで終わってもそれはそ


 がん。


 どさっ。


「……へ」


 目の前から充が消えた。代わりに視界には誰かの足が、まるで壁に立っているような奇妙な光景が映った。重力が法則を変えたような世界の変貌。突然の事で思考がうまく回らない。


 ーーえ、なに?


 壁に立つ足。でもここは、私達の部屋だ。ずっと二人で住んだ、今ついさっきまでいた私達の部屋だ。途端頭がじーんと熱を持つ。やがてそれは鈍い痛みに変わり始めた。


「いっ……た……」


 自然と痛みが口から漏れた。

 どういう事。そこでようやく私は顔を上げた。反転したような世界は気のせいだ。この世界は何も変わっていない。私の目の前にいるのは充だ。充。

 

 ーー充……?


 彼の身体は小刻みに震えていた。そして彼の右手はぐっと握り拳のままわなわなと震えている。唇も同じように震えている。しかしそこには場違いに思えるほど奇妙な笑顔があった。


「やっと、超えたよ」


 笑いながら充は右手の拳を振り下ろした。拳は私のこめかみに直撃する。強烈な衝撃と痛みを伴いながら、勢いそのままに床に頭を打ち付け更なる痛みが襲った。


「超えた超えた。無理だ、もう無理。無理無理」


 彼の拳は止まない。雨のように私の頭だけを狙い、何度も何度も打ち下ろされる。手や腕で防ごうとしてもその上から殴り、またその手を払いのけて執拗に殴り続けた。


「言いたい事? あるよ。あるに決まってる。でも君みたいに何も考えずに口にするような馬鹿じゃないんだよ」


 が、ご、が、ご。


「休みの日なのにゆっくり? 馬鹿言うなよ。仕事してるんだよ。君は何も見えてないし、何も覚えてない。家で僕が仕事の話を一度したら、家庭に仕事の話を持ち込むなと言ったのは君だ。だからなるべく会社で残業して仕事をするようにした。でも会社は残業規制でね。それでも終わらないから最近支給されたPCで家でも仕事するようにしたんだ。一度君は何それと聞いてきたけど、もちろん僕は嘘をついたよ。君の為にね」


 が、ご、が、ご。


「君はいいよな。大した仕事もせずに定時でゆったり帰って、同僚や友達とディナー。休みの日だって好きなように出掛けてばかり。洗濯物? えらそうに、ほとんど毎日やってるのは僕のほうじゃないか。君が家事をするのはたまに気が向いたら程度。料理だってほとんどしないし、たまにしたと思ったらクソ不味い料理ばっかり。逆にどうやってるのか不思議なぐらいだよ」


 が、が、ご、ご。


「それでもうまくやらなきゃって、僕は君と違うから。良き彼氏、良き旦那であろうとした。結婚なんてそんなもんだと思った。うまくやる為には調和が大切だ。その為にはコントロールが必要だ。君の言う通りアンガーコントロールさ。なかなかうまくいったよ。最初はね」


 が、ご、ご、ご。

 拳は止まない。気付けばより強烈な衝撃も混ざった。足で踏みつけられているのだろう。怒りの感情を剥き出しにした暴力。私が引っぱり出したくて引き出した彼の本性。彼の中に溜まっていた感情そのものだ。

 

 こんな、こんな暴力が宿っていたなんて。

 これは、彼の中にずっといたものなのか。

 それとも私のせいで育ってしまった、生み出されてしまったものなのか。


「無理だよ。無理無理。6秒なんかで君の言動を自分の中でコントロールするなんて無理だ。いずれ超える。崩壊する。そんな事自分でも分かっていた。でもやれる限りやらなきゃと思った。その代わり、別の感情が芽生え始めた。6秒で治まらなかったら、6秒をもし超える事が出来たら、その時は思いっきりぶちまけていい事にしよう。それが僕へのご褒美だ。僕はずっと耐えてきたんだ。だってそうだろ。自分の給料だけでは買えないようなものまで僕の金で買ってるんだから。自分の金だけではいけないような贅沢な食事を、毎週毎週楽しんでるんだから。さぞ君は楽で、ストレスのない、言いたい事も言えて、やりたい事も出来る、素晴らしい人生を送れているだろうね。僕と違って」


 痛みも意識も遠のき始めた。しかしそこで彼の暴力は止まった。そして今までの暴力が嘘のような、優しい掌が急に私の頬を包んだ。


「ありがとう。これからは僕も我慢しないよ。こんなにもスッキリするもんなんだね。君の見ていた景色は素晴らしいよ」


 ぞっとした。このまま暴力を浴びせられ、事切れた方が幸せのように思えた。

 でも違う。これからなのだ、私達の本当の結婚生活は。


「これからもよろしくね、美和」


 名前を呼び捨てされたのはこれが初めてだった。だからこれはやはりスタートなのだ。

 これから私を待つ環境は、今までとは全く違うだろう。それこそ6秒なんかで調整出来るようなものではない。

 

“思いっきりぶつけてやりなよ。6秒の間も与えないほど追い込んだら、さすがの旦那もぶち切れて言いたい事言ってくれるわよ”


 馬鹿だ。本当に。ぶつける事はその逆も然りなのだ。


“カッとなってその場の感情で取った行動のせいで取り返しがつかなくなったり台無しになったりする事あるでしょ? そういう事をしないように、冷静に判断が出来るようにってので怒りを鎮める方法なのよ。怒りを感じたらまず6秒自分の中で数えて怒りを抑え、その後に落ち着いて自分が取るべき行動を選択する。まあそんな感じね”


 おかしいじゃない。だからこそのアンガーコントロールなのに。それを壊したらどうなるかって、あんたも言ってたじゃない。

 

 ーーねぇ智子、ひょっとしてあんた、こうなる事も分かってたんじゃない?


 これから私を待つものは、どれだけの忍耐が必要になるのだろう。

 たった6秒の先を壊した結果は、先の見えない更なる絶望の始まりだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 実際、六秒なんかじゃ収まらないらしいですね。その時は飲み込んでも、消化できないから溜まる一方。で、いつか爆発する。本当に、この作品通りの出来事は結構起きてるんじゃないかと思います。 この友人…
[一言] 超えちゃったんですね でも、そこからが新しい関係性のはじまり どろどろした雰囲気 怖いけれど面白かったです
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