1−16
オリーもフレアも焦っていた。
情報を得る度に混乱していく。
ベルトン邸に着いた時には、既に団長が戦闘不能となっており、大男も臓物を曝け出して死んでいた。
戻ってきたばかりの剣士は突然アルノルドと戦い出し、魔術士がルルト達が不在にも関わらず、双子の赤ちゃんを抱き抱えている。
極めつけに、エルメリアが塊炭の中からアフォードを生み出して倒れた。
客観的に見れば、ランク10冒険者達が敵であるとは思われたが、それを裏付ける確証に欠けていた。
バカ団でまともに動けるのはアルノルド一人、全滅するのは時間の問題だが、情だけで動くのは早計だ。
かと言って、見過ごすことも出来そうにない……。
二人がもどかしい気持ちを持て余している時、キエロスと呼ばれた男の言葉が、二人を突き動かした。
「赤ん坊はどうでも良い!メスガキ確保が最優先だ!」
確証を得た。
ランク10冒険者達は、ベルトン家の幼い双子をどうにかしようとしていた。それを取り止めて、今はエルメリアをどうにかしようとしている。
どこからどう見ても明らかに敵だ。
「加勢します!」
言うが早いか、フレアが飛び出した。
周りの視線が、一斉に声のした方を向いた。
フレアが掲げる杖先に、橙色の光が灯る。
周りには拳大ほどの石がいくつも浮遊している。狼達を痛めつけたそれとは、明らかに大きさが異なっていた。
声の主を探し、フレアの姿に気が付いた時には、シャルロッテに向かって無数の石が射出された後だった。
一つは直線上に、一つは弧を描き、それぞれが意思を持っているかのように、別々の軌道を描いて、前方後方と言わず、あらゆる方向からシャルロッテを襲った。
盾も鎧もお構いなしに、身体中に石が被弾する。
一瞬、「お゙っ」という呻き声が聞こえたかと思うと、防御姿勢を取る間もなかったシャルロッテの無防備な身体は、まるで風に翻弄された木の葉のように宙を舞った。
……そして、落ちた。
微動だにしないシャルロッテを、キエロスが呆然と眺める。
一体何が起きたのか……。
我に返り、シャルロッテに近付こうとした矢先、辺りが急激に冷え込んだような寒気を感じて、足元から何かが迫り上がってくる気配を察知した。
次の瞬間、まるで刃物のように鋭い一枚の氷刃が、鋭い音を立てて地面から現れた。
咄嗟に後ろに飛び跳ねて躱そうとしたが、躱し損ねた左脚が、いとも簡単にキエロスの身体から切り離された。
その氷刃は、背丈の倍ほどに迫り上がった直後に霧散した。
まわりの空気が急激に冷やされ、水滴が煙のように舞う。
視界の端に凍り付いた左脚が転がっている。氷刃が触れた身体を見れば、同じ様に凍り付いているのがわかった。それなのに、異常な熱さを感じる。
瞬間的に凍り付いたからか、出血はしていなかったが、じわじわと痛みらしき感覚も迫ってくる。
溶け出せば一気に出血するだろう……。
キエロスはすぐさま腰に通していた紐を取り外し、足の付け根をきつく縛り付けた……。
・
水色に輝く残光を帯びた魔法書を閉じてから、オリーは舌打ちした。
少しばかり魔法の発動が遅れたため、キエロスを仕留めそこねた。
「風か水にすれば良かった……」
独り言つ。
しかしあれ程の傷、致命傷には変わりないだろう。事態が急変するとしても、今しばらくは反撃は疎か逃げることも容易くはないだろう。
シャルロッテは、フレアの魔法によって生きているかも死んでいるかもわからない状態だ。
おそらくは気絶しているだけだとは思うが、気が付いた所で、全身の打撲から身動き一つ取ることさえ不可能だろう。
もう一人、女魔術士は魔力を回復するためか、玄関先から一歩も動こうとしていない。警戒するに越したことはないが、今はまだ心配は無さそうだ。
とすれば、現時点で優先すべきはエルメリアである。
オリーもフレアも初めて目にしたが、アフォード復活のための術を使用したのだろう。おそらくは魔力を使い果たしているに違いない。
二人は共に、走るようにしてエルメリアの元に向かった。
「エムちゃんしっかりです!」
フレアの呼び掛けに返事はない。
呼吸はあるが意識が無い感じから察するに、やはり完全な魔力切れだろう。
魔力を回復するためにはしばらく休息が必要と思われるが、残念ながら、今の状況ではそんな余裕が無いことは明らかだった。
少しでも魔力を回復して目を覚ましてもらわなければ、逃げるにしても戦うにしても、状況は良くならないだろう。
オリーは早々に次の行動に移った……。
・
この状況を呆けずに見ていろというのは、無理な注文であった。
アルノルドは、この瞬間に起きた出来事を全て傍観していた。正確に言い例えるとすれば、周りから完全に取り残されていた。
聞き覚えのある少女の声に振り返ると、振り返った逆の方向から、何かがいくつも衝突する音が聞こえた。
その音のする方に向き直すと、先ほどまで対峙していたはずのシャルロッテが、宙を舞い地面に落ちた。
そうかと思えば、キエロスの足元から氷刃が現れ、彼の脚を切断して消えた。
まったくもって理解が追いつかなかった。けれども、何となく、助かりそうだという希望の光のようなものが見えた気がした。
「アルノルド!エムちゃんを!」
オリーの声にアルノルドが我に返る。
アフォードを生き返らせ、その直後にそのまま倒れ込んでしまった、奇跡のような存在の少女の名を呼んでいる。
彼女はその奇跡の発現によって、双子の赤ちゃんをさら拐おうとしていた悪漢達に標的とされた。
今この場で彼女を守るのは、自分の役目であったはずだ。
アルノルドは、徐々に鮮明になる思考で状況を手繰り寄せ、すぐさまエルメリアの元に駆け寄ると、少女の上体を抱きかかえて盾を前にして身を隠した。
「フレア!ルトトちゃんとルトラちゃんをお願い!」
その声に反応して飛び出していくフレアが見えた。
それとほぼ同じ早さで、オリーがアフォードの元に向かうのが見えた……。
・
修道士や僧侶といった本職には到底叶わないが、回復魔法もそこそこ使える。
学者を目指すうえで大方の属性は網羅していたし、回復魔法については、魔法学校でも他者に負けない回復力を誇っていた。
瀕死に見えるアフォードの体力も、多少でも回復できるはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、オリーは魔法書を開き、アフォードに回復魔法を掛けた。
純白の光が魔法書から溢れ、アフォードのもとに降り注ぐ。
……しかし、か細く弱々しい息遣いは変わらない。
一度では全く足りていない……。
先程よりも魔力を集中して、二度目の回復魔法を掛けるが、大きな変化は見られなかった。
やはりここまでの重症者には、より強力な回復魔法が必要なのだろうか。
一瞬エルメリアの方を見る。しかし、エルメリアが目を覚ます様子はない。
アフォードに目を戻した時、ふと『魔法は想像力』というアウギュリエスの言葉を思い出した。
瀕死の相手に回復魔法を使った経験など無いが、きっと何とかなる。
「魔法は想像力!」
自分を鼓舞するよう呟き、オリーはアフォードが立ち上がる姿を想像して、三度目の回復魔法を掛けた……。
・
何かが近付いてくるのが目に入った。
それはまるで疾風のようで、急速に近付いてくるそれを、女魔術士は為す術もなくただ目を見開いて見つめるしかできなかった。
息を呑む隙さえなく、ほんの数瞬で目の前に降り立った少女は、まるで鬼神のような目つきで睨みつけてきた。
「返しなさい」
自分よりもはるかに年下であろう少女に、言葉を返すことすらできない。まるで、金縛りにでもあったかのように身動き一つできず。唾を飲み込むのが精一杯だった。
半開きの口を閉じることもできない女魔術士に、少女がさらに詰め寄る。
「聞こえなかった?その子達を返しなさい」
同じ魔術士ゆえか、シャルロッテに放った魔法を見ただけで、自分と少女の間にある、愕然とする程の力の差がわかった。
あれは地属性の、たかだか初級攻撃魔法のはずだ。しかし、あんな動きをするのは、今の今まで見たことがない。
魔力が十分であったとしても、自分に勝ち目があるとは到底思い至ることが出来なかった。
子供のくせに……。
そんな感情が無いわけではなかったが、それを思ったところで、どうにかなる話では無いことは承知していた。
女魔術士の思考と感情は、すでに少女への恐怖で支配されていた。
逆らっても得することなど何も無い。魔術士は素直に双子を少女に引き渡した。
双子を腕に抱き、笑顔にも見える寝顔を見て、その子達が無事であることを確認して、ようやくフレアは安堵した。
「お家でおねんねです」
優しい笑顔で双子に話しかける。
玄関扉を開け中に入る。中は『しん』と静まり返っていて、ルルトやパルルの声どころか、物音一つしなかった。
そこはかとなく胸騒ぎを感じながら、リビングへ続く扉を開けた……。
・
三度目の回復魔法によって、アフォードの呼吸は緩やかでしっかりとしたものに変わった。
立ち上がって、挨拶でもしてくれるようであれば良かったのだが、流石にそこまでの回復はできなかった。
後は本職に任せる他ない。
一先ずやるべきことはやったと一息つく。
状況はどうなったか、顔を上げフレアの姿を探し始めたその時、不意にアルノルドの叫ぶ声が耳に入った。
「オリビアさん!伏せて!」
瞬間、ちらりと見えた目線の先で、キエロスが自分を狙い短弓を構えているのがわかった。
めい一杯引かれた弦から指が離れ、矢がオリーの胸元目掛けて一直線に飛来する。
もう少し気付くのが早ければ、魔法でどうにか出来たかもしれない。しかし、矢は放たれた後だった。
直撃を免れようと身体を捻って矢を避ける。ヒュンッ!と音がして、矢が暗闇に吸い込まれるのが見えた。
辛うじて直撃は回避できた。
アルノルドもオリーも胸をなで下ろしたが、矢はオリーの右腕を掠めていた。
・
「ちっ!」
キエロスが矢の行方を見届けて舌打ちする。
片脚を奪った魔術士を仕留め損ね、ほんの少し苛立つ。しかしその顔は、どこか笑っているようにも見えた。
「まぁ良い、掠っただけでも十分だ」
そう呟いた後、下半身を引き摺るようにして何とか屋敷の前まで移動すると、胡座をかいて両腕を支えに天を仰いだ。
片脚を奪われていなければ、魔力切れの使えない女魔術士のことなど放って、逃げることも出来ただろう。
いや、シャルロッテが戻ってきた時点で、赤ん坊を拐ってさっさと逃げれば良かったのでは無いか……。
女魔術士がガキどもの始末をヘマしていなければ……、じじいが死んでいなければ……、そもそもシャルロッテがこの戦士達の存在に気付いていれば……。
「しくじり過ぎだ……」
キエロスから独り言がこぼれる。
どこかの時点で機転を利かせていれば、ここまで下手を打つことはなかっただろう。失敗続きに熟考しそうになるが、今はそれを顧みる時ではないと頭を振るう。
生き延びるためには、現状をどうにかしなければならない、片脚を失った状態でやれることは限られている。
キエロスは、玄関先で何かに怯えている女魔術士を見た。
「おいお前!何とかしろ!」
具体性も何も無い、ただの怒号を浴びせられた女魔術士は、困惑した顔でキエロスを見つめ返す。
何を何とかしろというのか…。
「俺を逃がすために何とかしろって言ってんだよ!」
言っている言葉の意味は理解できた。
しかし同時にそれが、自分にとって何の利益もないただのやり損であることもわかった。
この男、キエロスを逃した後自分はどうなる。あの少女が屋敷の中から戻ってきた時、自分は無事にこの場所から逃げ果せることが出来るだろうか。
すっかり少女に怯えてしまった女魔術士に、『キエロスを逃がす』という選択肢など無くなっていた。
「……自分で、何とかしてください……」
拒絶を受けてキエロスが唖然とする。片脚が健在ならば、近付いて手の一つも出していたかもしれない。
キエロスは開きかけた口を閉ざし、女魔術士への苛立ちを抑えて何かを考え始めた。
しばし考え込んだ後で、口を開き直した。
「もう一人のガキは屋敷の中か?」
少女の鬼神のような目を思い出し、ビクッと体が強張る。どうにかこうにか首から上を動かして、女魔術士は首肯した。
「手を貸してくれ。片脚じゃまともに歩けねえ」
強張る身体を無理やり動かし、キエロスに近付き肩を貸した。玄関先まで歩を進めると「ここで良い」と言ってキエロスが座り込んだ。
懐から何かしら器具を取り出し、扉に細工を施していく。
罠を仕掛けているのだ。
『夜影士』などという大層な称号をぶら下げているが、元はただの盗賊だ、キエロスらしいやり口だと思いながらも、あの少女を閉じ込めてしまえば、もう対峙することも無いだろうという安心感から、身体の緊張が解けていくのがわかった。
「中のガキはこれで良い、あっちのガキももうすぐだろう……」
額に浮き出た油汗を手の甲で拭いながら、キエロスはニヤリとしてみせた……。
・
リビングの扉を開け、中に入ったフレアの目に飛び込んできたのは、テーブルに突っ伏して倒れている、ルルトとパルルの姿であった。
得も言われぬ不安に駆られ、小走りで二人のそばに駆け寄った。
呼吸があることに安堵する。しかし、かなり深く眠りについているようだった。
フレアは双子をベッドに寝かせ、ルルトとパルルの元に戻ると、二人を揺り動かして起こそうとした。
しかし、二人ともぐったりとしていて、目を覚ます気配はなかった。
どれだけ眠りが深いといっても、体を揺すられて起きないことはないだろう。とすれば、睡眠魔法を掛けられた可能性がある。
睡眠魔法は術者の技能に依るところもあるが、抵抗しようとした分だけ、掛かった際の眠りが深くなる傾向がある。
ここまで起きないのであれば、おそらくは魔法で間違いないだろう。
もしくは……。
一瞬、キエロスが話していた『龍眠薬』という言葉が頭を過った。
聞いたことのない名前だが、団長ですら卒倒する代物のようだ。冒険者でもない二人がそれを使われでもしていたら、このままずっと目を覚まさないのではないか……。
そこはかとない嫌な予感がフレアを襲った。
血の気が引く感覚の後すぐに、頭に血が上る感覚がフレアを翻弄した。
杖を持つ手が震え、ミシミシと音が鳴るほどの強さで堅く握りしめた。
「まだわからない。フレイア、冷静になるのです」
自分に言い聞かせて深呼吸する。
睡眠魔法で眠らされているのであれば、ある程度時間が経過することで自然と目を覚ます。そうでなくとも、何かをきっかけに突然目覚めることもある。
とにかく落ち着いて、もう一度、今度は先程よりも強めにルルトの身体を揺さぶった。
「ルルトさん!起きてください!」
何度も声をかけながら続ける。
しかし、ルルトは目を覚ます気配を見せず、パルルも同じく、目を覚ます気配は無かった。
やはり『龍眠薬』が使われたのだろうか……。
不安がフレアを焦らせる。
二人を起こそうとする声は次第に大きくなり、その声に不安を感じ取ったのか、寝室からルトトとルトラの泣き出す声が聞こえてきた。
泣き声がする方に視線を向ける。
「ルトトちゃんもルトラちゃんも心配してます!起きてください!」
言いながら視線を戻そうとした時、ふとルルトの手が動いたような気がした。双子の赤ちゃんの声に反応したのかもしれない。
フレアは咄嗟に寝室に戻り、小さなベッドを押してリビングに戻った。
ルルトのそばにベッドを置き、もう一度ルルトを起こす。
「ルルトさん!起きて!!」
今度はしっかりと手が動くのがわかった。娘達の泣き声に何かを感じているのだろう。
「ルルトさん!しっかりです!!」
大きく揺さぶったルルトの身体がピクリとした後、「ハッ」としたように上体を起こし、すぐさま泣き声を上げる双子を抱き上げた。
「よしよし、二人ともどうしたの?お母さんはここにいるよ」
抱き上げられた双子は、ルルトの温もりと声に安心したのか、ぐずるのをやめて笑い声を上げた。
その声に反応したのか、パルルも、「んー」と唸りながら両腕を上げ、伸びをするように目を覚ました。
四人の無事を確認したフレアから、「ほっ」と小さなため息が出た。ようやく心の底から安心できた。
・
オリーは時折り意識が遠のく感覚を味わっていた。強烈な眠気と言って間違いないだろう。
まるで睡眠魔法を掛けられているような気分だったが、女魔術士が魔法を仕掛けている様子はなかった。
事態はまだ終結していない、ここで気を失ってしまっては、この先どうなるわからない。
片脚を落としたとは言えキエロスは未だ健在であり、相手の戦力を削りきれなかったのは痛手であった。
キエロスだけでも確実に仕留めておけば、魔力が十分でない魔術士相手ならば、たとえアルノルドであったとしても、遅れを取ることはなかっただろう。
何とかしたいが……。
自分の頬を叩いてどうにかこうにか頭をスッキリさせようとするが、視界がぼやけるのと同時に思考もぼやける。
一点を見つめているようでいて、実際は何も見えていない状態が続く。
次第に瞼に何かがぶら下がったように重くなり、開けているのが億劫になってきた。
「……ごめんアルノルド、エムちゃんを連れて逃げて……」
振り絞って出したその言葉の後で、オリーはバタリと倒れ眠りに落ちた。
アルノルドは目の前で倒れたオリーを見つめて途方に暮れた。
逃げろと言われて、そう安々と逃げられる状況にあるとは思えなかった。
手合わせと称して一騎打ちを挑んできたシャルロッテが虫の息になり、キエロスは片脚を失い、魔術士は魔力切れで座ったままで、確かに状況は好転しているように思えたが、実は、自身を取り巻く困難な状況は、それほど変わっていないように思えた。
片脚を失ったとはいえ、キエロスには短弓がある。魔力切れとは言え、魔術士相手に剣士の自分が対抗できるのか不安しか無い。
そもそも、加勢してくれたオリーやフレアを置いて逃げることなど、アルノルドに出来るはずもなかった。
アルノルドはエルメリアを抱えたまま少しずつ前進し、オリーの側まで近付くと、二人を守るように盾を前に出した。
「きっと、フレイアさんが来てくれますよ……」
自分に言い聞かせるように呟いて、アルノルドはランク10冒険者達を睨んだ……。
・
「ようやく落ちたか……」
オリーに放った矢には、龍眠薬を仕込んでいた。
直撃しなかったとして、時間はかかれど掠ればその効果は現れる。例えその効果が気休め程度だったとしても、今この瞬間眠らせてしまえば、逃走する時間を稼ぐくらいには効果があるはずだ。
キエロスが舌舐めずりするような仕草を見せた。
「残るはあのガキだけだ……。
俺とメスガキの逃走を手伝ったら、あのガキは好きにして良い」
アルノルドを顎で指しながら、女魔術士に話す。
オリーとフレアの加勢により、窮地に追い込まれていると思われたが、状況は再びキエロスに味方しているように見えた。
「……荷馬車まで歩けますか?」
女魔術士がキエロスの顔を伺いながら尋ねるが、キエロスはそれに頭を横に振って答えた。
荷馬車はそう遠くない場所に隠してある。しかし、今のキエロスには、一人でそこまで向かえるほどの体力は残っていなかった。
大男かシャルロッテか、どちらかでも無事であったならば、荷馬車を玄関先まで着けることが出来ただろう。
残念ながら、今となっては馬車を動かすことが出来るのは、キエロスしかいなかった。
不可能を憂いても仕方がない。どのみち逃走を図るには、女魔術士に荷馬車まで身体を支えて貰う必要があった。
「とりあえず、あのガキを眠らせるなりしたらどうだ」
キエロスの声色から、彼が明らかに弱っていることが窺えた。こんな状態で馬車を動かすことなど出来るだろうか。
女魔術士に不安が過ぎる。
ただの剣士であるアルノルドに、睡眠魔法を掛けることなど造作も無い。魔力の回復は万全では無いが、その程度で枯渇するようなことはない。
問題なのは、重症のキエロスを頼って逃走を図ってみたところで、御者であるキエロスが息絶え、早々に馬車を捨てなければならない状況になる可能性だ。
少しでも魔力を温存しておきたい。ならばいっそのこと……。
とりとめもなく考えを巡らせ、女魔術士はアルノルドが盾を構える方へ向き直りながら、一つの結論に辿り着いた。
「……そろそろ、良い頃合いじゃないかと話していたんです……」
ボソボソと独り言のように話しながら、女魔術士がアルノルドの方へ歩を進める。
「……そそのかしたのは、あの男ですよ……」
大男の亡骸を一瞥しながら、どこか笑っている様にも見えた。
「……あの男がいない今、私は本当に自由になれる……」
そこまで言って女魔術士はゆっくりと身体を反転し、弱った顔のキエロスに向き直った。
その顔に、先程までの強張った表情は無い。
笑みと言われればそう見えるかもしれないが、どちらかと言えば、正気を失ったような表情にも見えた。
「てめぇ、さっきから何言ってんだ?」
キエロスが女魔術士を睨み付けて問いただすが、返事は無い。
女魔術士は目を細め、どこか冷めた表情でキエロスを見詰め返した。その手に持つ杖が、灰色がかった土色の光を湛えている。
見覚えのある睡眠魔法の光では無い……。
「……もっと早く、こうしておくべきでした……」
おもむろに両手で杖を頭上に掲げた。
光が強さを増す。
「……さようなら、キエロスさん」
そう言って杖を振り下ろし、キエロスに魔法を掛けた。
灰褐色の光がキエロスを包み込む。
足元からじわじわと身体が硬化していくのが見えた。
それは、足先から膝を越え、腰から胸を這い上がり、両肩から手の指先まで侵食した。
キエロスの目に、女魔術士の顔が映る。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「クソが!」
そう言い残して、最後に首から頭頂までを覆い尽くし、キエロスの全身が石となった。
石化魔法。
相手の身体を、まさしく石にする上位魔法。
術者に依る解呪か、高位の司祭でもなければ元に戻すことはできない。対人に於いては禁忌とされる魔法であった。
石像と化したキエロスを前に、女魔術士が声高に笑い声を上げる。狂気じみた笑い声は、聞くに堪えないものであった。
一頻り笑った後で、アルノルドの方を向く。
先程まで笑い声を上げていたとは思えないほど冷酷な眼差しで、アルノルドの目を見つめてボソリと言い放った。
「アルノルドといったかしら、その子達を助けたかったら、私の言うことを聞きなさい」




