表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/31

第十三話:真島哲人




真島哲人は老人である。

二人の息子を育て上げ、妻と穏やかな隠居生活。

趣味に孫との交流にと、同世代の中でも恵まれた老後を送っていた方だった。


これからも、変わらぬ日常を。

慎ましくも幸福な時間を過ごし、願わくは老衰にて生涯を終えたいところ。


そんな哲人の願望は、妻との離別によって打ち砕かれた。




「───大丈夫か、父さん?」


「大丈夫だよ。俺はどこも、なんともない」


「そうじゃなくて。

一気に色々あったから、精神的に」


「だから、大丈夫だ。

急病なんて言っても、もう歳だからな。

いつこんな日が来てもおかしくないって、覚悟してたさ」




妻とは見合い結婚だった。

特別に好き合うほどもなく、特別に忌み合うほどでもなく。

良くも悪くも、凪のような関係だった。


しかし、妻が病に倒れた時。

全力は尽くしたと、医師から宣告を受けた時。

哲人は未だかつてない、目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。




「───父さん、なんだって?」


「"一人でもやってける"の一点張り」


「意地でも施設には入りたくない感じ?」


「もともと社交性とかない人だったからな。

近所付き合いだって、母さんのおかげで辛うじてなとこあったし」


「あーあ。

こんな時こそ、母さんがいてくれたらなぁ」


「まあ、なんだかんだ我が家に愛着もあるんだろうさ。

いよいよ耄碌するまでは、本人の意思を尊重してやってもいいかもしれん」




初めての恋に敗れた時も、長らくの夢を諦めた時も。

オイルショックやバブル崩壊など、世間を震撼させる大不興に見舞われた時でさえ、なんだかんだと立ち回ってきたのに。

過去に経験したどんな災難より、ただの妻の喪失こそが、哲人にとって一番の悲劇だった。


何故ならずっと、妻は哲人の傍にいた。

オイルショックもバブル崩壊も、妻が共に乗り越えてくれた。

恋に敗れた話も夢を諦めた話も、妻は必ず耳を傾けてくれた。




「───嫌だ」


「あのなぁ。

もう嫌とか嫌じゃないとか言ってらんないの。それ以外にないって言ってんの」


「なんでだよ。

メシだって掃除だって、ちゃんと一人でやってるだろ」


今は(・・)だろ?

いつまでも続けられる保証はない」


「いつサポートが必要になってもいいように、元気なうちに安全策をってことだよ」


「その時はその時だ。

ウチで一人で、孤独死でもなんでもしてやるさ」


「またそういうこと~」




そうか、俺は。

俺が今までやって来れたのは、妻がいてくれたおかげだったのか。


親愛と感謝。慢心と後悔。

初めて自覚すると同時に、哲人は妻以外のモノをも失うことになった。




「───どこだ?ここ」


「来月から、父さんが世話になるとこ。

父さんの新しいいえだよ」


「家?

家ならここじゃない、俺たちの、昔からの家があるだろ」


「あそこはもう買い手がついた。

オレたちじゃない、別の家族が住むんだよ」


「はあ?何をそんな勝手な───」


「勝手じゃない。ちゃんと話した。父さんもちゃんと、いいよって言った」


「兄さん」


「いいから。合わせろ」


「俺、そんなこと言ったか……?」


「言った言った。

それにここは、母さんも目星つけてたとこだから。

遅かれ早かれ、ここに引っ越すのは決まってたんだよ」


「そうそう。

空きがあって良かったな」


「母さんが、ここに……?」




アルツハイマー型認知症の発症。

老いては避けられぬ道と、生死に関わる大病よりはマシと、誰もが最初は口を揃えた。

最初は誰もが、先立った妻の代わりにと、哲人のこれからを支えていくつもりだった。




「───どいつもこいつも、なんッで俺の言う通りにしないんだ!」


「だから、ここにはここのルールがあんの!

皆そのルールに従って、ある程度は我慢して生活してんの!」


「ルールなぞ知るか!

そもそも俺は、こんなとこ最初から来たくなかった!」


「要求が通らないからって全否定すんのやめろよ!

ここ探すのだって、引っ越しだって、オレらがどんだけ大変な思いしたか……!」


「恩着せがましい言い方するな!

母さんだったら絶対そんな言い方はしなかった!」


「母さんはもう居ないつってんだろ!」


「真島さん。

お気持ちは分かりますが、今日のところは……」




認知症の症状には、大別して二つのパターンがあるという。


日に日に覇気を失っていくタイプと、日に日に衝動を抑えられなくなっていくタイプ。

健康だった当時と比べて、静かになるタイプと、怒りっぽくなるタイプ。


哲人の場合は後者だった。

暴力に訴えることはないにせよ、頭に血が上りやすい体質になってしまった。




「───申し訳ないです。

昔はまだ、ここまでじゃなかったんですけど……」


「分かります。

認知症になると、人格までガラッと変わっちゃうことも少なくないですから」


「……一生、このままなんでしょうか。もっと酷くなったりとか」


「そこはなんとも。

ストレス要因を減らしていけば、暴れたりは防げると思いますが……」


「ストレス……。

じゃあオレ、しばらく顔見せない方が良さそうですね。

会うとだいたい喧嘩しちゃうし、オレ自身、今の親父に、あんまり会いたくないし」


「父さん。

話、まだ続きそう?」


「いや、もう終わるよ。

しばらく来れなくなるから、じいじに最後の挨拶してやって」




食事の味付けが好みじゃないとぼやいたり。

朝ドラに出ている俳優が目障りだと怒鳴ったり。


哲人はいつも、何かに怒っていた。

周囲はいつも、哲人の何かに振り回されていた。


やがて哲人は、誰からも好かれない老人になった。

息子も孫も、滅多なことでは会いに来てくれなくなった。




「───今日も、面会希望は無しですか」


「そう、ですね。今のところは」


「もう、半年になるのに。

誰も、会いに来ない。電話もくれない」


「あー……。ほら、季節の変わり目って、どこも忙しかったりしますから。

たまたま都合つかないってだけかも」


「なにヘラヘラしてんだよ。

お前さんもアレか。内心では俺のこと馬鹿にしとるんか」


「まさか。

僕はただ、哲人さんとコミュニケーションを───」


「コミュニケーションがなんだ!哲人さん哲人さんって、馴れ馴れしく名前で呼ぶな!」


「ちょ、落ち着い───!

すいません誰か!こっちヘルプお願いします!」




哲人は分からなかった。

息子や孫が会いに来なくなったのも、施設の職員が余所余所しくなったのも。

自分に原因があるとは、想像さえしなかった。


ただ、衝動だけが込み上げ続けた。

原因不明の焦りから生じた怒りが、いつも哲人の頭と心を掻き乱した。




「───真島さん、おはようございます。

今朝のご気分はいかがですか?」


「いいよ。今朝は、天気がいいから。

天気がいいと、気持ちも晴れ晴れするよね」


「え……。あ、はい。そうですよね。ええ」


「そっちは後で、自分でやるから。

君は他の、別の仕事、行ってきていいよ」


「え?でも、いつもは───」


「いつも、気遣ってくれて、ありがとうね。

おかげでいつも、助かっているよ」


「……真島さん。なんだか、今朝は随分───」




ところがだ。

ある日を境に、哲人はぱったりと怒らなくなった。

好みじゃない食事を出されても、嫌いな俳優がテレビに映っても、こんなものだろうと受け流せるようになった。


一体なにが、哲人を変えたのか。

哲人の急な改心に周囲は驚いたが、しばらくして理由が判明した。




「───父さん」


「じいじ、来たよ」


「あたしもいるよー!」


「おお、おお。俺の天使たちが来てくれた。

珍しいじゃないか、ここずっと、連絡もなかったのに」


「……うん。久しぶり。

電話の一本くらいは、しても良かったんだけど───」


「いいさ、忙しかったんだろ?

お前らが元気でいてくれれば、俺は十分だ」


「……変わったな、親父。

前会った時と、別人みたいだ」


「なんだそりゃ?俺は俺だよ。

この通り、いつもの通りの、真島哲人77歳だ」




まだ、哲人の衝動が全盛だった頃。

怒っていない時の哲人は決まって、自分語りに終始していた。


勉学にスポーツにと、多才で多忙な青年期を過ごしたこと。

女性にはモテる方だったが、付き合うと長続きしなかったこと。


妻の料理で好きだったのは、玉子と手羽元の甘辛煮だったこと。

妻の服装で好みだったのは、洋服よりも和服だったこと。

妻との初めてのデートでは、せっかく整えてきた髪に烏のフンを落とされて、妻に手を叩いて笑われたこと。


過去の自慢話と、妻との思い出話。

二つのパターンしかなかった自分語りの、後者だけがなくなった。

妻との思い出を、できなくなってしまった。




『───母さんの話をしなくなった?』


『そうなんだよ。

話す内容は基本、昔のことなんだけど。

母さんとのエピソードだけ、ごっそり抜け落ちてるというか……』


『本人には?母さんのこと覚えてるって聞いたの?』


『一応覚えてる、っぽくはある。

ただ、こっちから話す分には、そうだそうだって肯定すんのに、本人の口から言わせようとすると、なにも答えられないんだよ』


『シンプル自慢話オンリーな、ベーシック痴呆ジジイになったと』


『身も蓋もなさすぎ』


『それはそれで厄介そうだけどな。

いや、癇癪起こしたりが無くなっただけマシか?』


『……母さんを犠牲にしたみたいで、手放しには喜べないわ、なんか』




哲人の衝動の正体。

それは、妻のいない現実と、妻のいない現実を未だ受け入れられない事実。

自らに対する齟齬と乖離と、腹の底から湧くような恐怖だった。


故に哲人は、妻との思い出と引き換えに、本来の人格を取り戻した。

否、本来よりも真っ当な人間性を獲得した。


妻ありきでの哲人であったからこそ、妻の存在も思い出も失くした哲人は、以前までの彼とは別人になったのである。




『───聞いたよ、デイケアのプログラム受けてるんだって?

あんなもん気休めだって、前は馬鹿にしてたのに』


『ほんとになぁ。

やったこともないのに決め付けて、良くなかったと今は思うよ』


『そうやって反省できるってことは、そのぶん成長したってことかもね』


『ありがとう。

お前の方はどうなんだ?カミさんの体調、良くなったのか?』


『だいぶ。

まだ安静にしてなきゃだけど、来年には外出も好きにできそうかな?』


『そりゃ良かった。兄さんも心配しとったぞ』


『聞いた聞いた。

色々大変な時期に重なっちゃって、申し訳ない限りだよ。

兄さんにも、父さんにも』


『なにを謝ることがある。家内は一番に大事にするもんだ。

お前はお前で、よくやってる』


『……ほんとに、変わったんだね』


『なにがだ?』


『ううん。

そのうち僕も、施設に顔出すよ』




たとえ仮初めでも、表向きには穏やかな日常。

扱いやすくなった哲人を、周囲の誰もが歓迎した。


一件落着かに思われた。

だが哲人の中では、何も終わっていなかった。




「───てっちゃん!会いに来たぞ!」


「おお……!

誰かと思えば、女たらしの委員長じゃないか!」


「おいおい、いつの名前で呼んでるんだ。

女遊びも委員長も、とっくの昔に卒業したよ」


「そうだったな。

して、なんでまた、こんなとこに?本州の方でやってるんじゃなかったか?」


「旅行だよ。見納めを兼ねてな。

せっかく地元に寄るんなら、こっち残ってる奴らに挨拶回りと思ってよ」


「律儀なとこは変わらずだねぇ。

───と、その袋は?」


「お目が高い。

ほれ!懐かしの写真を纏めてきたんだ。

なんと、お前の嫁さんが映ってるのもある!」


「嫁さん……?」


「おいおい、まさか忘れちまったなんて言わないよな?

亡くなってまだ10年も経ってないんだろ?」


「ああ、うん。忘れちゃいないよ。

ただ、こんな顔だったかと、思って」


「とぼけないでくれよ。

しっかりここに、同じ頃の写真を自分で飾っとろうが」


「あ、これ。

……そうか、この人。俺の、嫁さんだったのか」




大切なことを忘れている気がする。

本来の自分は、こんな人間ではなかった気がする。


忘れたくない焦りから、忘れてしまった怒りへ。

思い出せない怒りから、覚えていない焦りへ。


実は哲人は、焦りと怒りが直結しなくなっただけ。

衝動の意味が変わっただけで、衝動自体は消えていなかったのだ。




「───真島さん?どうしました?」


「なんでもないよ。

ちょっと、気分が悪いだけ」


「大丈夫ですか?園長に連絡しますか?」


「大袈裟だよ。

ちょっと横になれば、すぐに良くなるから」


「うーん……。

後で様子見に行きますけど、何かあったら、コレ。

ナースコール、遠慮せず押してくださいね?」




発露されなくなった衝動が、自分の中に蓄積されていく。

自分の中に蓄積された衝動が、自分の人格ごと塗り替えていく。


漠然とした恐怖は確かにあるのに、それを食い止める術を哲人は持たなかった。

こんな時に妻がいてくれたらと、本能が求める存在の、名前を呼ぶことさえも。




「───真島さん、どう?」


「普通に寝てる。今のところは大丈夫そう」


「ならいいけど……。

前にも同じようなこと言ってたし、食欲もないみたいだから、要注意ね」


「分かりました。周知しておきます」




哲人は思った。


口を開けば昔話ばかりだなんて、とんでもない。

周囲にとっては昔のことでも、自分にとっては最近のことなら、それは最近の話だ。


ただ起きて、飯を食って、眠って。

ここでの暮らしは代わり映えしないから、取り沙汰するほどじゃないだけだ。




「(どこだ、ここ。

俺は、眠っていたんじゃなかったか)」




哲人は怖かった。


本当はもっと、実際の最近の話をしたい。

代わり映えしなくても、ちょっとした出来事の、ちょっとした世間話をしたい。


なのに、どういうわけか、言葉にならない。

意図して覚えないのではなく、覚えておけない。


ある日を境に、自分の記憶は更新されなくなってしまった。

ある日から、自分の時間は止まったままなんだ。




「(そうか、夢だ。

だから俺は若い頃の姿をして、家族と暮らした家にいるのか)」




そうだ。

あれは確か、あの人が死んだ日だ。

あの人が死んでから、俺の中で少しずつ、減ったり削られたりしているんだ。


そうとも。

あの人が死ぬまでの記憶は、確かにある。

色んなところへ行って、色んなことをした。

その時の景色も匂いも、昨日のことのように思い出せる。




「(この人は、誰だ。

俺たちの家にいて、俺に話し掛けている。

服の色は鮮やかなのに、声も顔も、霞みがかって、よく分からない)」




なんでだ。

あの人との思い出は覚えているのに、あの人を思い出せない。

可愛らしい人だったと、印象を映像に起こせない。


あれ。

あの人って、誰だっけ。




「(何度も何度も、夢に見た。

目覚めるたびに忘れてしまう、いつも俺の傍にいる人。

ずっと、俺の傍にいてくれた人)」




大事な人なんだよ。

優しくも正しくもなかった俺を、そんな貴方でいいと言ってくれた。

俺の人生で一番の、欠かせない登場人物だったんだよ。

大事にはできなかったけど、大事な人だったんだよ。

なんで、大事なことばかりを、昔から、俺は。




"───あなたは長生きしてくださいね。"




4月30日。23時50分。

ふと眠りから覚めた哲人は、発作的に思い出した。


あの人とは、誰なのかを。

今にして有り難みの分かる、たった一人の妻の名前を。




「いかないでくれ。

俺を置いて、お前だけ、先に」




やっと思い出した。

妻を愛していたことを。

妻と生きた人生は幸せだったことを。

妻にとっての自分が、どんなに酷い男だったかを。


ぶり返した記憶は、哲人の心の穴を埋め、哲人の心の傷を開かせた。

本来の自分を取り戻すことは、かつての自分が犯した過ちを認めることでもあった。




「(苦しい。息を吸えない。声が出ない。

ナースコール。ナースコールだ。コレを押せば、誰か───)」




動悸に息切れ、目眩に吐き気。

俄に覚醒した脳に、驚いた体が悲鳴を上げる。


このままでは俺も、心臓が止まって死んでしまう。

慌てて取ったナースコールを、哲人は結局押さなかった。




「(いいか、もう。

俺は十分、生きた。みんなが十分、生かしてくれた。

これ以上は、無駄だ)」




自分に生きてほしいと望んでくれる人は、もういない。

いっそこのまま死んだ方が、周りに迷惑をかけずに済む。


霞む視界に浮かぶのは、傍らに佇む妻の姿。

また妻に会えるなら、死ぬのも悪くないと、哲人は泣いた。

また妻に会えたとしても、妻は俺に会いたくないだろうと、哲人は笑った。




「俺も、そっちに行くよ」




自分はなぜ頑張るのか。

自分はなんのために生きているのか。


ひとたび湧き出た不在感は、みるみる哲人の心身を蝕んでいった。

やがて哲人は展望さえもを見失い、こんなことを願うようになった。




「ただ、赦してほしい」




"また、妻に会いたい"。

"愛していたと、素直に言える自分になりたい"。




「───ああ、もう朝か。

今朝はやけに、静かなんだな」




かくして哲人は、願いを叶えたのだった。

哲人自身も想像だにしなかった、世にも奇妙な形で。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ