第十三話:真島哲人
真島哲人は老人である。
二人の息子を育て上げ、妻と穏やかな隠居生活。
趣味に孫との交流にと、同世代の中でも恵まれた老後を送っていた方だった。
これからも、変わらぬ日常を。
慎ましくも幸福な時間を過ごし、願わくは老衰にて生涯を終えたいところ。
そんな哲人の願望は、妻との離別によって打ち砕かれた。
「───大丈夫か、父さん?」
「大丈夫だよ。俺はどこも、なんともない」
「そうじゃなくて。
一気に色々あったから、精神的に」
「だから、大丈夫だ。
急病なんて言っても、もう歳だからな。
いつこんな日が来てもおかしくないって、覚悟してたさ」
妻とは見合い結婚だった。
特別に好き合うほどもなく、特別に忌み合うほどでもなく。
良くも悪くも、凪のような関係だった。
しかし、妻が病に倒れた時。
全力は尽くしたと、医師から宣告を受けた時。
哲人は未だかつてない、目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。
「───父さん、なんだって?」
「"一人でもやってける"の一点張り」
「意地でも施設には入りたくない感じ?」
「もともと社交性とかない人だったからな。
近所付き合いだって、母さんのおかげで辛うじてなとこあったし」
「あーあ。
こんな時こそ、母さんがいてくれたらなぁ」
「まあ、なんだかんだ我が家に愛着もあるんだろうさ。
いよいよ耄碌するまでは、本人の意思を尊重してやってもいいかもしれん」
初めての恋に敗れた時も、長らくの夢を諦めた時も。
オイルショックやバブル崩壊など、世間を震撼させる大不興に見舞われた時でさえ、なんだかんだと立ち回ってきたのに。
過去に経験したどんな災難より、ただの妻の喪失こそが、哲人にとって一番の悲劇だった。
何故ならずっと、妻は哲人の傍にいた。
オイルショックもバブル崩壊も、妻が共に乗り越えてくれた。
恋に敗れた話も夢を諦めた話も、妻は必ず耳を傾けてくれた。
「───嫌だ」
「あのなぁ。
もう嫌とか嫌じゃないとか言ってらんないの。それ以外にないって言ってんの」
「なんでだよ。
メシだって掃除だって、ちゃんと一人でやってるだろ」
「今はだろ?
いつまでも続けられる保証はない」
「いつサポートが必要になってもいいように、元気なうちに安全策をってことだよ」
「その時はその時だ。
家で一人で、孤独死でもなんでもしてやるさ」
「またそういうこと~」
そうか、俺は。
俺が今までやって来れたのは、妻がいてくれたおかげだったのか。
親愛と感謝。慢心と後悔。
初めて自覚すると同時に、哲人は妻以外のモノをも失うことになった。
「───どこだ?ここ」
「来月から、父さんが世話になるとこ。
父さんの新しい家だよ」
「家?
家ならここじゃない、俺たちの、昔からの家があるだろ」
「あそこはもう買い手がついた。
オレたちじゃない、別の家族が住むんだよ」
「はあ?何をそんな勝手な───」
「勝手じゃない。ちゃんと話した。父さんもちゃんと、いいよって言った」
「兄さん」
「いいから。合わせろ」
「俺、そんなこと言ったか……?」
「言った言った。
それにここは、母さんも目星つけてたとこだから。
遅かれ早かれ、ここに引っ越すのは決まってたんだよ」
「そうそう。
空きがあって良かったな」
「母さんが、ここに……?」
アルツハイマー型認知症の発症。
老いては避けられぬ道と、生死に関わる大病よりはマシと、誰もが最初は口を揃えた。
最初は誰もが、先立った妻の代わりにと、哲人のこれからを支えていくつもりだった。
「───どいつもこいつも、なんッで俺の言う通りにしないんだ!」
「だから、ここにはここのルールがあんの!
皆そのルールに従って、ある程度は我慢して生活してんの!」
「ルールなぞ知るか!
そもそも俺は、こんなとこ最初から来たくなかった!」
「要求が通らないからって全否定すんのやめろよ!
ここ探すのだって、引っ越しだって、オレらがどんだけ大変な思いしたか……!」
「恩着せがましい言い方するな!
母さんだったら絶対そんな言い方はしなかった!」
「母さんはもう居ないつってんだろ!」
「真島さん。
お気持ちは分かりますが、今日のところは……」
認知症の症状には、大別して二つのパターンがあるという。
日に日に覇気を失っていくタイプと、日に日に衝動を抑えられなくなっていくタイプ。
健康だった当時と比べて、静かになるタイプと、怒りっぽくなるタイプ。
哲人の場合は後者だった。
暴力に訴えることはないにせよ、頭に血が上りやすい体質になってしまった。
「───申し訳ないです。
昔はまだ、ここまでじゃなかったんですけど……」
「分かります。
認知症になると、人格までガラッと変わっちゃうことも少なくないですから」
「……一生、このままなんでしょうか。もっと酷くなったりとか」
「そこはなんとも。
ストレス要因を減らしていけば、暴れたりは防げると思いますが……」
「ストレス……。
じゃあオレ、しばらく顔見せない方が良さそうですね。
会うとだいたい喧嘩しちゃうし、オレ自身、今の親父に、あんまり会いたくないし」
「父さん。
話、まだ続きそう?」
「いや、もう終わるよ。
しばらく来れなくなるから、じいじに最後の挨拶してやって」
食事の味付けが好みじゃないとぼやいたり。
朝ドラに出ている俳優が目障りだと怒鳴ったり。
哲人はいつも、何かに怒っていた。
周囲はいつも、哲人の何かに振り回されていた。
やがて哲人は、誰からも好かれない老人になった。
息子も孫も、滅多なことでは会いに来てくれなくなった。
「───今日も、面会希望は無しですか」
「そう、ですね。今のところは」
「もう、半年になるのに。
誰も、会いに来ない。電話もくれない」
「あー……。ほら、季節の変わり目って、どこも忙しかったりしますから。
たまたま都合つかないってだけかも」
「なにヘラヘラしてんだよ。
お前さんもアレか。内心では俺のこと馬鹿にしとるんか」
「まさか。
僕はただ、哲人さんとコミュニケーションを───」
「コミュニケーションがなんだ!哲人さん哲人さんって、馴れ馴れしく名前で呼ぶな!」
「ちょ、落ち着い───!
すいません誰か!こっちヘルプお願いします!」
哲人は分からなかった。
息子や孫が会いに来なくなったのも、施設の職員が余所余所しくなったのも。
自分に原因があるとは、想像さえしなかった。
ただ、衝動だけが込み上げ続けた。
原因不明の焦りから生じた怒りが、いつも哲人の頭と心を掻き乱した。
「───真島さん、おはようございます。
今朝のご気分はいかがですか?」
「いいよ。今朝は、天気がいいから。
天気がいいと、気持ちも晴れ晴れするよね」
「え……。あ、はい。そうですよね。ええ」
「そっちは後で、自分でやるから。
君は他の、別の仕事、行ってきていいよ」
「え?でも、いつもは───」
「いつも、気遣ってくれて、ありがとうね。
おかげでいつも、助かっているよ」
「……真島さん。なんだか、今朝は随分───」
ところがだ。
ある日を境に、哲人はぱったりと怒らなくなった。
好みじゃない食事を出されても、嫌いな俳優がテレビに映っても、こんなものだろうと受け流せるようになった。
一体なにが、哲人を変えたのか。
哲人の急な改心に周囲は驚いたが、しばらくして理由が判明した。
「───父さん」
「じいじ、来たよ」
「あたしもいるよー!」
「おお、おお。俺の天使たちが来てくれた。
珍しいじゃないか、ここずっと、連絡もなかったのに」
「……うん。久しぶり。
電話の一本くらいは、しても良かったんだけど───」
「いいさ、忙しかったんだろ?
お前らが元気でいてくれれば、俺は十分だ」
「……変わったな、親父。
前会った時と、別人みたいだ」
「なんだそりゃ?俺は俺だよ。
この通り、いつもの通りの、真島哲人77歳だ」
まだ、哲人の衝動が全盛だった頃。
怒っていない時の哲人は決まって、自分語りに終始していた。
勉学にスポーツにと、多才で多忙な青年期を過ごしたこと。
女性にはモテる方だったが、付き合うと長続きしなかったこと。
妻の料理で好きだったのは、玉子と手羽元の甘辛煮だったこと。
妻の服装で好みだったのは、洋服よりも和服だったこと。
妻との初めてのデートでは、せっかく整えてきた髪に烏のフンを落とされて、妻に手を叩いて笑われたこと。
過去の自慢話と、妻との思い出話。
二つのパターンしかなかった自分語りの、後者だけがなくなった。
妻との思い出を、できなくなってしまった。
『───母さんの話をしなくなった?』
『そうなんだよ。
話す内容は基本、昔のことなんだけど。
母さんとのエピソードだけ、ごっそり抜け落ちてるというか……』
『本人には?母さんのこと覚えてるって聞いたの?』
『一応覚えてる、っぽくはある。
ただ、こっちから話す分には、そうだそうだって肯定すんのに、本人の口から言わせようとすると、なにも答えられないんだよ』
『シンプル自慢話オンリーな、ベーシック痴呆ジジイになったと』
『身も蓋もなさすぎ』
『それはそれで厄介そうだけどな。
いや、癇癪起こしたりが無くなっただけマシか?』
『……母さんを犠牲にしたみたいで、手放しには喜べないわ、なんか』
哲人の衝動の正体。
それは、妻のいない現実と、妻のいない現実を未だ受け入れられない事実。
自らに対する齟齬と乖離と、腹の底から湧くような恐怖だった。
故に哲人は、妻との思い出と引き換えに、本来の人格を取り戻した。
否、本来よりも真っ当な人間性を獲得した。
妻ありきでの哲人であったからこそ、妻の存在も思い出も失くした哲人は、以前までの彼とは別人になったのである。
『───聞いたよ、デイケアのプログラム受けてるんだって?
あんなもん気休めだって、前は馬鹿にしてたのに』
『ほんとになぁ。
やったこともないのに決め付けて、良くなかったと今は思うよ』
『そうやって反省できるってことは、そのぶん成長したってことかもね』
『ありがとう。
お前の方はどうなんだ?カミさんの体調、良くなったのか?』
『だいぶ。
まだ安静にしてなきゃだけど、来年には外出も好きにできそうかな?』
『そりゃ良かった。兄さんも心配しとったぞ』
『聞いた聞いた。
色々大変な時期に重なっちゃって、申し訳ない限りだよ。
兄さんにも、父さんにも』
『なにを謝ることがある。家内は一番に大事にするもんだ。
お前はお前で、よくやってる』
『……ほんとに、変わったんだね』
『なにがだ?』
『ううん。
そのうち僕も、施設に顔出すよ』
たとえ仮初めでも、表向きには穏やかな日常。
扱いやすくなった哲人を、周囲の誰もが歓迎した。
一件落着かに思われた。
だが哲人の中では、何も終わっていなかった。
「───てっちゃん!会いに来たぞ!」
「おお……!
誰かと思えば、女たらしの委員長じゃないか!」
「おいおい、いつの名前で呼んでるんだ。
女遊びも委員長も、とっくの昔に卒業したよ」
「そうだったな。
して、なんでまた、こんなとこに?本州の方でやってるんじゃなかったか?」
「旅行だよ。見納めを兼ねてな。
せっかく地元に寄るんなら、こっち残ってる奴らに挨拶回りと思ってよ」
「律儀なとこは変わらずだねぇ。
───と、その袋は?」
「お目が高い。
ほれ!懐かしの写真を纏めてきたんだ。
なんと、お前の嫁さんが映ってるのもある!」
「嫁さん……?」
「おいおい、まさか忘れちまったなんて言わないよな?
亡くなってまだ10年も経ってないんだろ?」
「ああ、うん。忘れちゃいないよ。
ただ、こんな顔だったかと、思って」
「とぼけないでくれよ。
しっかりここに、同じ頃の写真を自分で飾っとろうが」
「あ、これ。
……そうか、この人。俺の、嫁さんだったのか」
大切なことを忘れている気がする。
本来の自分は、こんな人間ではなかった気がする。
忘れたくない焦りから、忘れてしまった怒りへ。
思い出せない怒りから、覚えていない焦りへ。
実は哲人は、焦りと怒りが直結しなくなっただけ。
衝動の意味が変わっただけで、衝動自体は消えていなかったのだ。
「───真島さん?どうしました?」
「なんでもないよ。
ちょっと、気分が悪いだけ」
「大丈夫ですか?園長に連絡しますか?」
「大袈裟だよ。
ちょっと横になれば、すぐに良くなるから」
「うーん……。
後で様子見に行きますけど、何かあったら、コレ。
ナースコール、遠慮せず押してくださいね?」
発露されなくなった衝動が、自分の中に蓄積されていく。
自分の中に蓄積された衝動が、自分の人格ごと塗り替えていく。
漠然とした恐怖は確かにあるのに、それを食い止める術を哲人は持たなかった。
こんな時に妻がいてくれたらと、本能が求める存在の、名前を呼ぶことさえも。
「───真島さん、どう?」
「普通に寝てる。今のところは大丈夫そう」
「ならいいけど……。
前にも同じようなこと言ってたし、食欲もないみたいだから、要注意ね」
「分かりました。周知しておきます」
哲人は思った。
口を開けば昔話ばかりだなんて、とんでもない。
周囲にとっては昔のことでも、自分にとっては最近のことなら、それは最近の話だ。
ただ起きて、飯を食って、眠って。
ここでの暮らしは代わり映えしないから、取り沙汰するほどじゃないだけだ。
「(どこだ、ここ。
俺は、眠っていたんじゃなかったか)」
哲人は怖かった。
本当はもっと、実際の最近の話をしたい。
代わり映えしなくても、ちょっとした出来事の、ちょっとした世間話をしたい。
なのに、どういうわけか、言葉にならない。
意図して覚えないのではなく、覚えておけない。
ある日を境に、自分の記憶は更新されなくなってしまった。
ある日から、自分の時間は止まったままなんだ。
「(そうか、夢だ。
だから俺は若い頃の姿をして、家族と暮らした家にいるのか)」
そうだ。
あれは確か、あの人が死んだ日だ。
あの人が死んでから、俺の中で少しずつ、減ったり削られたりしているんだ。
そうとも。
あの人が死ぬまでの記憶は、確かにある。
色んなところへ行って、色んなことをした。
その時の景色も匂いも、昨日のことのように思い出せる。
「(この人は、誰だ。
俺たちの家にいて、俺に話し掛けている。
服の色は鮮やかなのに、声も顔も、霞みがかって、よく分からない)」
なんでだ。
あの人との思い出は覚えているのに、あの人を思い出せない。
可愛らしい人だったと、印象を映像に起こせない。
あれ。
あの人って、誰だっけ。
「(何度も何度も、夢に見た。
目覚めるたびに忘れてしまう、いつも俺の傍にいる人。
ずっと、俺の傍にいてくれた人)」
大事な人なんだよ。
優しくも正しくもなかった俺を、そんな貴方でいいと言ってくれた。
俺の人生で一番の、欠かせない登場人物だったんだよ。
大事にはできなかったけど、大事な人だったんだよ。
なんで、大事なことばかりを、昔から、俺は。
"───あなたは長生きしてくださいね。"
4月30日。23時50分。
ふと眠りから覚めた哲人は、発作的に思い出した。
あの人とは、誰なのかを。
今にして有り難みの分かる、たった一人の妻の名前を。
「いかないでくれ。
俺を置いて、お前だけ、先に」
やっと思い出した。
妻を愛していたことを。
妻と生きた人生は幸せだったことを。
妻にとっての自分が、どんなに酷い男だったかを。
ぶり返した記憶は、哲人の心の穴を埋め、哲人の心の傷を開かせた。
本来の自分を取り戻すことは、かつての自分が犯した過ちを認めることでもあった。
「(苦しい。息を吸えない。声が出ない。
ナースコール。ナースコールだ。コレを押せば、誰か───)」
動悸に息切れ、目眩に吐き気。
俄に覚醒した脳に、驚いた体が悲鳴を上げる。
このままでは俺も、心臓が止まって死んでしまう。
慌てて取ったナースコールを、哲人は結局押さなかった。
「(いいか、もう。
俺は十分、生きた。みんなが十分、生かしてくれた。
これ以上は、無駄だ)」
自分に生きてほしいと望んでくれる人は、もういない。
いっそこのまま死んだ方が、周りに迷惑をかけずに済む。
霞む視界に浮かぶのは、傍らに佇む妻の姿。
また妻に会えるなら、死ぬのも悪くないと、哲人は泣いた。
また妻に会えたとしても、妻は俺に会いたくないだろうと、哲人は笑った。
「俺も、そっちに行くよ」
自分はなぜ頑張るのか。
自分はなんのために生きているのか。
ひとたび湧き出た不在感は、みるみる哲人の心身を蝕んでいった。
やがて哲人は展望さえもを見失い、こんなことを願うようになった。
「ただ、赦してほしい」
"また、妻に会いたい"。
"愛していたと、素直に言える自分になりたい"。
「───ああ、もう朝か。
今朝はやけに、静かなんだな」
かくして哲人は、願いを叶えたのだった。
哲人自身も想像だにしなかった、世にも奇妙な形で。




