3
そこからはもう脇道はなく、一直線に通路を進むと、奥に鉄格子の扉があった。
その扉は頑丈に閉じられて施錠されているので、もしも誤ってここまで迷い込んでしまった者がいたとしても、その誰かはこの先へ進むことを諦めて、もと来た道を引き返すしかない。
「叩き壊すか」
取り付けられた錠を見て、剣の柄に手をかけたカイトを制し、
「そんな乱暴なことしなくたって、この程度ならこれで十分だよ」
と言いながら、コウがどこからともなく取り出した一本の針金を使って、あっさりと解錠してしまった。
あまりにも見事なその腕前に、そりゃこれなら棄民の街でもパレスでもやっていけるだろう、とキリクは納得し、カイトは「おまえの本職はそっちか」と呆れ返った。
「便利だなあ。それって、やり方を覚えたら、オレにも出来るかな?」
クーはすっかり感心しきって、そんなことを訊ねている。
「簡単簡単、あとで教えてあげ」
「さあ、急ごうか」
「よし、行くぞ」
針金を振って余計なことを言おうとしたコウの口をキリクが手で塞ぎ、カイトが首に腕を廻して引きずっていく。
二人で目を見交わし、頷いた。
この男は、クーの教育によくない。
鉄格子の扉の先には下へと続く階段があり、それを降りていくと、ものものしい石の扉が立ち塞がっていた。
改めて見ると、その外観といい、重厚な雰囲気といい、神殿にあった扉とよく似ているな、とキリクは思った。あちらもこちらも、「隠された神」へと通じている禁断の扉、という意味では同じだからなのかもしれない。
「──開けるよ」
扉に手をかけ、クーが言った。
ギ、という重い音を軋ませて、扉がゆっくり開かれる。
窓のない暗い部屋の中央に、淡い光を発している大きな水晶があるのを見て、キリク以外の三人が一斉に息を呑んだ。
「……あれが」
いつも飄々とした態度を崩さないコウでさえ、短い言葉を出したきり、黙ってしまう。
一点に吸い寄せられるかのように瞬きもせず、視線がそこから動かない。
食い入るように水晶を見つめる黒い双眸、そしてわずかに上がったその唇に、キリクは不意に、底冷えのようなものを感じた。
今までずっと「革命軍のリーダー」と名乗ってきたこの男が、ほんの刹那、その下にある素顔を剥き出しにした瞬間を見たような気がする。
キリクの協力者でもあったコウ。革命を成功させようというその意志に、嘘はないのだろう。しかし、今現在起こっている革命のほうではなく、クリスタルパレスに侵入するクーとカイトに同行したのは、そこに彼にとって最も優先させるものがあったからではなかったか。
コウの目的は、アリアナの力を無効にすることだけではないのかもしれない。
キリクは無言でクーとカイトのほうに目をやった。
彼らもまた、コウが不用意にも一瞬見せてしまった、滲み出るような黒い笑みに気づいたらしかった。
固い表情でこちらをちらっと一瞥し、かすかに頷く。自分たちがそれに気づいたことを、コウ本人には悟らせてはならないと、三人とも暗黙のうちに了解し合った。
「……行こう。カイト、キリク、一緒に来て」
クーが言って、前へと足を踏み出す。コウは扉前に見張り役として立ち、キリクたちは彼女の両隣を守るように歩いた。
カイトがクーに向かって手を差し出し、キリクもまたそうした。クーが両手を横に出し、それぞれの手をぐっと握る。
自分たちは、過去も、立場も、背負ってきたものも、みんなバラバラだけれど。
それでもこうして繋がり、並び、同じ方向に目を向けて前へと進んでいる。
──わたくしの愛しい娘たち、世界が在るべき形を保つため、わたくしはあなた方一人ずつに、それぞれ異なる力を授けましょう。
ひとつひとつは小さきものなれど、その力が地上に生ずる時はみな同じ。すべてが揃い、重なれば、それらは必ず強き力となって、あなた方の盾となり剣となり、周囲をも明るく照らしだす、眩き光となりましょう。
娘たちよ、願わくば、互いに手を取り合い、つま先を前へと向け、同じ道を進まんことを。
神話として伝えられる「女神リリアナの言葉」を思い出す。こんな時に、なんて皮肉だろう、とキリクはちょっと笑いたくなってしまった。
リリアナ、あなたの五人目の娘は、おそろしく乱暴で、言葉遣いが悪くて、素直じゃなくて、意地っ張りな上に無鉄砲で、何もかもが規格外だ。
それでも、彼女を選んでくれたことに感謝したい。クーはもうすでに、たくさんのものを変えた。これから、さらに大きなものを変えるだろう。カイトを、キリクを、この国の在り方を、多くの人々の人生を──そして、未来を。
クーでなければ、ここまで来られなかった。
彼女と巡り合わせてくれて、ありがとう。
「……この水晶が、リリアナとアリアナの本体ってことか?」
クーが巨大な水晶の王冠に視線を据えて、抑えた声音で言った。
「いや──僕が思うに、これは『力の媒体』のようなものなんじゃないかな」
キリクもまたそちらに目をやりながら答えると、クーとカイトが同じような顔でこちらを向いた。
「媒体?」
「そう。よく見てごらん、この水晶は、床に置いてあるんじゃないんだ。巧妙にそう見えるようにしてあるけど、これはそのまま直接地面と繋がっている。この部屋はね、地中にあった水晶を削ったり動かしたりすることなく、元の形で保護するために、周りを囲むようにして造られているんだよ」
部屋に水晶があるのではなく、水晶のために部屋がある、ということだ。
「地面から生えたままにしている、ってこと?」
「まあ、そうだね」
生えている、という表現は厳密にいえば正しくないのだろうが、面倒なので否定はしないでおいた。
「リリアナとアリアナというのは、要するにこの世界を動かす力の一部なのではないかと僕は考えているんだ。天と地、光と闇、男と女、この世界はすべて、互いに対立する二つの属性によって生成され、消滅する。その二つは互いに相反するけれども、一方がなければ一方もまた存在し得ない。その二つが循環し、調和して、世界を構成し秩序を保つ、ひとつの大きな力となる。その力の一部をこの地に繋ぎ止め、人間との間の媒介をする、楔のような役目を担っているのがこの水晶じゃないかと……わかるかい?」
キリクの問いに、クーとカイトは正直に「ちっともわかりません」という顔をした。
ちょっと考えてから、まあいいやと諦める。それは結局、キリクの推測でしかないわけだし、詳細に説明をしても理解してもらえるか自信がない。
「……えーとね」
咳払いをして、言い直した。
「この世界を巡る大きな力、というものがあるとして、この水晶は、その力を少しだけ、ひとつの場所に留めておくことが出来るんじゃないか、ということだよ。はるか昔にその特性に気づいた誰かが、それを利用することを思いつき、アリアランテは建国された。水晶が大きな力の一部を引き出し、属性の一方を使うことでクリスタルパレスという狭い地に閉じこめ、もう一方の属性と循環させることによって、その状態を維持している」
カイトは首を捻った。
「つまり、隣の家の酒樽にこっそり小さな穴を開けて、細い管で繋いで自分の家の酒樽に引き入れるようなものか?」
「微妙に違うね」
「うん、大体わかった。この水晶は鎖みたいなものなんだな。リリアナとアリアナは、その鎖でパレスに縛りつけられている、ってことだろ? 鎖を外してやれば、自由になれるんだ」
どういう過程を辿ってその結論に到達したのか非常に謎だが、クーは例によって、さらりと本質だけを掴んだらしかった。表現は拙いが、言っていることはきちんと的を射ている。
「──よし」
クーが決意を込めて、顔を上げる。
「はじめよう」
きっぱりした声で、そう告げた。
***
クーが水晶の冠の中央に立つ。
彼女の顔は、部屋の正面に向けられていた。天井から垂れ下がる紗幕は上がっており、一段高い場所にある貴人用の豪奢な椅子がよく見える。今は無人だが、クーはそこにいる透明な誰かと対峙しているかのように、厳しい目をしていた。
キリクとカイトは、二人で水晶を挟んで向かい合い、真ん中にいるクーの姿をじっと見つめた。
共に、腰の剣の柄に手をかけ、身構える。神女を守る者、自分たちにとってなにより大事な女の子を守る者として。口にはしなくても、その誓いと覚悟は、二人とももうとっくに心に決めている。
力を与えるべき「器」を認識して、水晶が明るい光を放った。
まるで、喜んでいるようだ。
だとして、その愉悦は、自分の力を受け継ぐ者を見つけたリリアナか、新たな獲物を前にして牙を剥くアリアナか、どちらのものなのだろう。
……どちらにしろ、禍々しい。
鼓動ががんがんと鳴って暴れ狂っていた。今は全身にへばりついた苦痛さえ遠く感じた。額から冷たい汗が滲み出てくる。
キリクは今まで、これとまったく同じ光景を四度見てきた。モリス嬢、サンティ嬢、ロンミ嬢、イレイナ嬢。彼女たちがこの水晶の中央に立って、力を受け取った瞬間と、その後のこともすべて。
四人の神女たちが流した涙を、苦悶の呻き声を、恐怖の絶叫を、絶望の慟哭を、すぐ前で目の当たりにした。その時覚えた痛みと悲哀、吐き気にも似た自身への嫌悪が蘇り、一気に襲いかかってくるようだった。
もしもクーが彼女たちと同じことになったら。
与えられたものを受け止めきれず、壊れてしまったら。
やめてくれ、と叫んで足を動かさずにいることに、死に物狂いの努力を要した。剣の柄を握る手が、大きく震えている。滝のように流れる汗が、視界をぼんやりと滲ませた。
もういいんだ、やっぱりやめよう、神女になんてならなくてもいい。世界より、この国より、君が失われることのほうが僕には耐えられない──
汗にまみれた顔を対面に向けると、カイトもまた緊張で固く強張った表情でクーを凝視していた。水晶の光に照らされた蒼白な顔が、闇の中に浮かび上がっている。
剣の柄を強く握り、カイトがキリクのほうを向いた。
揺らぐことのない視線がまっすぐ突き刺さる。
「クーを信じよう、キリク」
その言葉に、キリクも頷いた。ぐっと両足で床を踏みしめる。骨がミシミシと軋んでいるような気がしたが、自分がここで崩れるわけにはいかない。
クーが前を向いたまま、わずかに笑った。
「おまえたち二人が信じなかったら、一体誰がオレを信じてくれるんだ?」
水晶が光を増した。
クーを囲む結晶体が、明るく輝く光輪となる。強烈な白い光が弾け飛んだ。筋のような閃光が放射され、室内を照らす。
清らかな光波が水晶を中心に円を描いて広がり、キリクは目を瞠った。
──クーを覆って包むような、光の帯が出現している。
明らかに、今までの四人の時とは違う。
まるで、眩い光のヴェールを自分の周囲にまとい、従わせるような。
「カイト、オレは誰だ?」
「クーだ」
「キリク、オレは誰だ?」
「クーだよ」
光の中で、クーがまた笑う。
「二人がそう思ってくれるから、そう言ってくれるから、オレはオレでいられる。二人がそう望むから、リリアナの力を受け取ったって、反転の神女になったって、オレは『クー』以外の何者にもならない。オレはオレのまま、オレの思うように進む」
そうか、とキリクは悟った。
クーはそもそも、力の「容れ物」になんて、なるつもりはなかったのだ。クーはクーのまま、力を受け入れ、クーの思うように、彼女自身の意志で使おうとしている。
女神の力に自らを捧げた四人の神女たちとは、根本的に違う。
──なんという、強靭さ。
その時、水晶の間の外が騒がしくなった。
はっとしてそちらに顔を向けると、開け放たれた扉の向こうの階段から、数人の人間が駆けてくるところが見えた。
宮士たちを引き連れ、凄まじい怒りの形相で叫んでいる人物に、キリクは見覚えがなかった。
灰色の髪をした、四十代くらいの男。
彼が身につけているのは、細かい刺繍が施された非常に豪華な祭服だった。それで判った。このクリスタルパレスで、そんな恰好をしているのは、一人しかいない。
ソブラ教皇だ。
見覚えがないのも道理である。キリクは未だ一度も、教皇の顔をこの目で見たことはなかった。
こうしてみると、案外普通だなと思う。容姿も体格も並程度、どちらかといえば貧相でさえある。立派な玉座にふんぞり返っていなければ、威圧感も保てない。
彼は、アリアナの力に護られたパレスという小さな世界の中でしか通用しない君主であるということだ。
普通の男。普通の人間。
あれが、「神の代理」か。
宮士がコウに向かって剣を振り上げた。
それを自分の武器で受け止めて、コウがこちらを向き、「急げ!」と声を張り上げる。
「やめろ! やめぬか! 今すぐそこから出ろ! お前たちはこのクリスタルパレスの永遠の繁栄と平穏をぶち壊そうというのか!」
喚き立てる教皇に、「悪いけど、そんなもん興味ないよ」と言い放って、クーは改めて前を向いた。
「──リリアナ、オレが『五人目』だ」
その瞬間、鮮烈な光輝が部屋全体に満ちた。
あまりの眩しさに、とても目を開けていられない。足に力を入れ、左腕を額に翳した。暴力的なまでの白光が、すべての景色を消してしまう。
「ぎゃあっ!」
部屋に踏み込もうとしていた教皇と宮士たちが、一斉に悲鳴を上げた。腰を抜かしたようにその場にへたり込む。
「ああ……なん、なんだ、この光は! 痛い! 目が潰れる!」
教皇の叫び声が響き渡った。
目を瞑ってもちかちかする光が収まって、なんとか瞼を押し上げると、同じように何度も瞬きを繰り返すカイトの姿が視界に入った。
ソブラ教皇は、両目を覆って転げ廻っていた。どういうわけか、宮士たちも全員、身を伏せて蹲っている。本当に太陽の光にでも灼かれたように。
彼らがなぜそんなにも苦しそうにしているのか判らない。自分にはこの光はただ眩いだけだ。カイトもコウも、目を眇めている以外は異常はない。
光の奔流が去ったというのに、クーの全身は、まだ輝きを放っていた。
彼女自身が燐光を発して、暗闇の中で白く浮き上がっている。ランプの明かりもないのに、この部屋がぼんやりと明るいのはそのためだ。
逆に、水晶のほうは輝きを失い、ひっそりと周囲の暗がりと同化していた。まるで、クーが水晶から光を奪ってしまったようだった。
クーは前を向いたまま、動かない。水晶の中央にすらりと立ち、視線を宙に据えている彼女の横顔は、普段とは違って、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
いつもとは違うその格好が、白銀のドレスを身にまとっているかのようにも見える。
静かで落ち着いた瞳、白々とした顔はどこか面変わりしていて、首筋がそそけ立つような感じがした。
そこにいるのは確かにクーなのに、何か途方もない大きな存在でもあった。
美しく、威厳に満ちた今のクーこそが、おそらく女神リリアナの力の本来あるべき姿なのだろう。
受け取る者次第で、形を歪ませず、まっさらに光り輝く。
──これが、反転の神女。
「……クー、来るよ」
キリクの警告に、クーの肩がぴくりと揺れた。
沈黙してしまった水晶が、今度は徐々に黒ずんできていた。
周囲の闇の気配が一気に濃くなる。
黒い触手が靄のように立ち込めた。ざわりと湧き上がって床を蠢くように移動し、中央にいるクーへと向かって伸びてくる。
アリアナが、リリアナの「第五の力」を喰おうとやって来たのだ。
ふわりとクーが動いた。
しなやかに両手を上げ、ぴんと前に伸ばした。開いた掌を上に向け、何かを捧げるような格好をする。
彼女の行動のどこにも迷いはなかった。誰にも何も言われていないのに、前々からそれが判っていたかのようだ。
衣服の裾を乱しもせずに両膝をつく。普段のクーからは想像できないほどの優雅な仕種で、彼女は水晶の中央で跪いた。両手を捧げるように持ち上げたまま、床に視線を落とす。
ぞわぞわと這うようにして闇が周囲からにじり寄ってくる。カイトが今にも腰の剣を抜きそうなのを必死にこらえているのが見て取れた。キリクも同様だ。
まだ、その時じゃない。
濃密な暗闇に押し潰されそうだった。圧迫感で息をするのも苦しくなってくる。手と足がこまかく震えていた。
四人の神女は、声と聴覚と嗅覚と視覚を取り上げられた。
……もしも、反転の力をアリアナに喰われたら。
クーが失うものは、何だ。
心か。強い意志か。
それをなくしたら、クーという存在が消えるのと同じだ。
「やめろ、やめろ、やめろおおっ!!」
両目を手で押さえて、ソブラ教皇が叫ぶ。見えもしないのに部屋の中に飛び込んで来ようとして、コウに足を引っかけられて転んで倒れた。
闇が水晶を黒く染め上げる。
触手が円の中に侵入したその時、クーが掲げた両手を勢いよく下ろし、床に叩きつけた。
途端、稲妻のような光芒が迸り、室内に充満した闇に眩い亀裂を入れた。
「ぎゃあああっっ!!」
叫んだのはソブラ教皇だった。床に這いつくばったままの格好で、雷に打たれたかのように激しく身悶えし、苦しげにのたうち回る。
クーはそちらを見向きもせずに、アリアナの力と対抗していた。
床についた彼女の両掌から、白い光が放出されて、闇の触手を押し戻そうとしている。バチバチと何かが弾くような音がして、クーの顔が歪んだ。
相反する力がせめぎ合っているのだ。塔の上の扉をキリクが開けた時と同じ、いや、きっとそれ以上の負荷がかかっている。
風が起こり、クーの前髪と衣服をはためかせた。窓もないのに、だんだん強くなってくる。反転させまいとするアリアナの抵抗に、彼女は歯を喰いしばって耐えていた。
水晶を中心にして、大きな渦が巻き上がる。
たおやかな腕が痺れたように振動している。
鋭い空気が無数の針のように飛散し、柔い肌を次々と切り裂く。
線のような傷から血が滴って、細い身体がわずかに傾いだ。
「クー!」
カイトが怒鳴った。
「クー、大丈夫だ! おまえはアリアナにだって負けない! おまえはもう、全部を持ってるんだから!」
キリクも大声で叫んだ。
「その通りだ、クー! アリアナと同じものを、君はすべて持ってる!」
四人の神女がリリアナから与えられ、アリアナが吸収して自らの力に変えたもの。
正しいものを見通せる曇りなき眼。
真の言葉を拾える賢明なる耳。
善なる気配を嗅ぎ分けられる鋭敏な鼻。
慰撫を他者に与えられる美しき声。
クーはそれらすべてを、もうすでに持ち合わせている。四人の神女たちのようにただ与えられたものではなく、アリアナのように奪い取ったものでもなく、これまで進んできた道で、クー自身がひとつずつ見つけて、築き上げ、育んできたものだ。
だとしたら、クーがアリアナに負けるはずがない。
強くなる風圧を押し返しながら、カイトとキリクが何度も名を呼ぶ。
光彩に包まれたクーがぐっと唇を引き結んだ。何かにとり憑かれたように無表情に近かった顔が、「いつものクー」のものに戻っていく。
「……てる」
歯の間から、小さな声を絞り出す。額に汗の粒がいくつも浮いていた。
「クー!」
二人の声が重なった時、クーの眉が大きな角度をつけて吊り上がった。
「聞こえてるって言ってるだろ! 悲愴な声を出すな、バーカ!」
ドン! と破裂するような音がして、烈しい白光が弾けた。
「くっ……」
強い衝撃波が来て、吹き飛ばされそうになる。目の眩むような輝きが室内を満たした。
それが止むと、しんとした静寂が戻ってきた。
部屋は最初ここに足を踏み入れた時となんら変わりなかった。水晶はもとの淡い輝きを取り戻し、クーの身体からは光が抜けている。
キリクはすぐに違和感に気づいた。
あれだけ自分の肉体を苛んでいた苦痛がずいぶん和らいでいる。重かった手足が、急に軽く感じるようになった。傷も痣も消えたわけではないのに、自分の周りを覆っていた暗い靄が一気に霧散して、呼吸が楽になった気がする。
足元から、何かが伝わってくるような──力強く明るく温かい何かが、自分に活力をもたらしている。
……これが、リリアナの力?
「引っくり返った! パレスを巡るアリアナの力はリリアナの力に反転した! カイト、キリク、今だ!」
クーの合図で、キリクとカイトは同時に剣を鞘から引き抜いた。
コウが驚愕して大きく目を見開く。飄々としたこの男が、はじめて動揺を見せた。
「待て! 何を──」
急いでこちらに駆けてこようとしたが、その時にはもう二人の剣は高々と振り上げられていた。
「やれ!」
二本の剣が勢いよく、水晶に向かって振り下ろされる。
かなり硬いはずのその結晶は、不思議なことに、キリクとカイトの剣の一撃を加えられただけで、粉々に砕けて割れた。
これもリリアナの力が働いているのだろうか、とキリクは思った。いいやあるいは、アリアナか。それとも、両方か。
……女神たちも、鎖から解き放たれることを、ずっと望んでいたのかもしれない。
***
破壊された水晶を前に、コウは腕を組み、苦虫を噛み潰すような顔をした。
「……やってくれたね」
と、低い声で呟いて、クーを睨みつける。
もちろんクーはしれっとしていた。
「だって、閉じられた状態で鎖だけを壊したって、リリアナもアリアナもここから逃げられないだろ? だから反転させて、この場所を開放した。だったらもう水晶も要らないじゃないか」
「そういうこと。パレスの固く閉ざされた扉は開き、リリアナとアリアナは水晶によってこの地に引っ張られることも、縛られることもなく、世界を動かす大きな力へと戻っていく。今までが歪すぎたんだ。ようやく正常になったということだよ」
「神は必要ないって言ってたもんなあ。おまえの願い通りになったじゃないか。クーに感謝しろよ?」
朗らかに背中を叩くカイトを忌々しそうに見てから、コウは大きなため息をついた。
「──コウ」
クーが真面目な声を出す。
「あんたが何を考えていたにしろ、それはきっと、上手くいかないと思うよ。人ならざる力は、人間の私欲で利用しようとしちゃ、いけないんだ。今度はリリアナを使って何かを為そうなんて、考えちゃダメだ。それがたとえ棄民のためでもさ。もしもそれをしたとして、百年後にはまた力の循環をするつもりなのか? 水晶が望むまま、五人の『器』を用意するのか? そして五人目の反転の神女を、禁忌だからと殺すのか? そんなことを繰り返していたら、どちらにしろこのアリアランテに未来はない。そういうのはもう、終わりにしよう。コウも言っていたけど、人は自分の手と足と頭を使って、いろんなものを変えなきゃいけないんだと思う。苦しくても、大変でも、棄民は今までそうしてやってきた。それがオレたちの誇り、なんだろ? 人を救うのは、やっぱり人だ」
「…………」
コウは口を曲げて黙り込んでいる。
「クーの言う通りだね。君もあんな風にはなりたくないだろう?」
キリクが指し示す方向には、ソブラ教皇が倒れて呻いていた。顔を歪め、苦しそうに胸を掻きむしっているが、死ぬほどではないようだ。
「長い間、アリアナの力に依存しすぎたんだろうね。影響を大きく受けて陰の気に馴染んでいた者ほど、反動も強い。それは他者に支配されているも同然だ。君くらい自我の確立した人間は、そういうのは我慢ならないんじゃないかと思うけど?」
教皇ほどではないが、宮士たちも虚脱したように座り込んでいる。力が入らないらしい。
この調子では、最もアリアナの力で護られていた宮殿内は、今頃誰もが似たような状態に陥っているのかもしれない。
「ラダたちは、本当におまえのことが好きで、信頼してるんだぜ、コウ」
単純だがどこにも嘘のない、真情のこもった瞳をカイトから向けられて、コウが鼻白むような表情になった。
キリクには判る。コウもまた、カイトのような人間に弱い。
腹立たしそうにもう一度息をついたが、今度のはかなり、諦めの感情が混じっていた。
バカには勝てない、とでも思っているのだろう。
「……あのねえ、自分よりも年下の子供たちに説教されるってのが、どんなに最悪な気分か、わかる?」
「子供たちってなんだよ。おまえ、本当はいくつなんだ?」
「言いたくない。俺が怒ってるのは、こんな騙し討ちみたいな真似をされたことに対してであって」
「騙し討ちじゃないぞ?」
クーはわざとらしくきょとんとして、首を傾げた。
「だってオレ、はじめからちゃんとそう言ってたじゃないか」
にやりと笑う。
「──オレが最後の神女になる、ってさ」
コウが目を丸くしたのを見て、クーが人の悪い顔で口角を上げる。
この表情……とキリクはなにがし懐かしい気分になった。
「はじめて会った時も、こういうのを見たね」
カイトもしみじみと同意する。
「俺らを騙して銀貨を巻き上げた時な、うん」
キリクは思いきり噴き出した。
やっぱり、クーはクーだ。