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キリクたち一行は、水晶の間を出て階段を上った。
未だ両目を押さえて苦しそうにもがいているソブラ教皇、そして力なく座り込んでいる宮士たちのことは、放置でいいだろう、という結論になった。教皇を人質に──というのも考えたのだが、それだとかえって面倒なことになりかねない、ということで意見の一致をみたのである。
「俺たちは別に、政権を奪うことなんて望んじゃいないからね」
とコウが言った。
君主を絶対悪とみなし、拘束したり首を落としたりすれば、あとでその分の反動が来る。コウたち革命軍が求めているのは、あくまで対等な立場での話し合いだ。要求を出す側と出される側との間に深刻な確執が生じれば、それだけ混乱と無秩序の状態が長引くことになる。
……それでは、「棄民たちを救うための」革命を起こした意味がない。
「誰かさんたちのおかげで、いろいろ計画が狂わされたことだし」
厭味ったらしい口調で言いながら、先頭で階段を進んでいくコウの表情は見えない。一体どんなことを「計画」していたのかは知らないが、何かが抜け落ちたようにさばさばした声からして、意外と楽しそうに笑っているのではないか、とキリクは思った。
「とりあえず真っ当に事を運んでみるよ。対話の場には、なんとしても教皇を引っ張り出さなきゃならない。これからあちらさんも忙しくなるだろうからね、それまでせいぜい、ゆっくり休んで──」
そこで唐突に、コウの言葉が途切れた。
新たに応援部隊が駆けつけてきたのか、と一瞬身の裡を緊張させる。
カイトが厳しい表情で剣を握り、足早に階段を上ってコウに追いついたが、彼もまた鉄格子の扉を抜けたところでぴたりと足を止めた。
キリクはクーと顔を見合わせ、急いで二人に続いた。
大分身体が軽くなったとはいえ、本調子からは程遠いので、足が少しもつれそうになる。そのキリクに手を貸してくれるクーも、あちこちが傷だらけで、衣服もそこら中が赤い血に染まっているという有様だ。
こちらは手負いの者ばかり四人。もしも大人数の敵に囲まれでもしたら、相当な苦戦が予想される。やっぱり教皇を盾にするべきだったか、という後悔を抱いて自分も階段を上りきった途端、「それ」が聞こえた。
「……なに、これ」
同じく、クーも茫然とした。
地響き──いや、地鳴り。
大きく唸るような音が、宮殿内の静かな空気を震わせ、振動させている。
最初、地震が起きたのかと思った。しかしすぐに、そうではないことに気づいた。下の床はまったく揺れてはいない。ぐわんぐわんと反響するようなその音は、明らかに地面からではなく、建物の外、周囲から押し寄せるようにして聞こえてくる。
……これは、人の声?
真っ先にコウが駆け出した。
それに続いて、カイトがキリクを担いで走り出す。
彼の右手には剣が握られたままだが、それを振り回すような事態にはならなかった。迷路のように入り組んだ通路に、まだ倒れているバーデン司教たち以外、ほとんど人の姿はなかったからだ。
進んでいく途中、たまに文官や女官らを見かけたが、彼らがこちらに向かってきたり、大声を上げたりすることもなかった。誰もがみな、水晶の間の宮士たちと同じように座り込み、びりびりと建物を揺るがすようなその声に、真っ青になっているだけだ。
廊下を駆け抜け、ようやく宮殿の大きな正面扉まで辿り着く。
開け放たれた扉の向こうからは、今までとは比較にならないほどの大きな声の洪水が飛び込んで来て耳を打った。
──周囲から湧き上がる、声、声、声。
叫喚のような、咆哮のような。
無数の人々が上げる喊声。
宮殿を──いや、クリスタルパレスを囲むようにして、巨大な人の群れが声を上げている。棄民の街から神都へと侵攻し、ここまでやって来た民衆の波だ。
一体どれほどの数にまで膨れ上がったのか、おそらく誰にも正確なところは判らないだろう。パレスの門から離れているこの場所でさえ、耳が痺れるほどだ。
直接肌に刺さるような、大規模な熱気と、異様な迫力に圧倒される。
「コウ、早く行け」
クーに言われて、扉前で立ち尽くしていたコウが振り返った。
「あんたがリーダーなんだろ。あれを放っておくと、大変なことになる。革命軍のみんなだって、コウが戻ってくるのを、きっと今か今かと待ってるぞ」
事を起こしたのも、ここまで誘導したのも革命軍とはいえ、メンバーの一人一人は、街で普通に働いていた棄民の人々だ。これほど大きくなってしまった集団をどうすればいいのかと、彼らも途方に暮れているかもしれない。
キリクもクーに同意した。
「あの興奮が狂乱に変わってしまったら、手に負えない。こういう時こそ、君のような人間が必要なんだよ、コウ」
統率力に優れ、口が廻り、必要なものとそうでないものの取捨選択の判断が素早く出来る。
非常に胡散臭いところのある人物ではあるが、これまでの付き合いで、コウほどリーダーとしての資質に恵まれた人間はいない、とキリクは知っている。
「真っ当に革命をやることにしたんだろ。あの群衆が一斉にパレスの中に雪崩れ込んできたら、もう誰にも止められない。暴走した連中が神民たちを傷つけるようなことがあれば、そこから戦端が開かれる。その先は負の連鎖が続くだけだ。俺が言ったこと、ちゃんと覚えてるよな?」
出来る限り、可能な限り、棄民も、半民も、神民も、犠牲を出さないように。
それがどれだけ難しい条件であったか、今になって思い知らされたというように、コウはカイトの言葉に顔をしかめた。
「黒馬がまだ宮殿の外に繋いであるはずだ。あいつに乗って行けよ。おまえなら大丈夫だろ」
カイトに言われて、コウはますます眉を寄せた。
「あの馬、クーにそっくりで乱暴なんだよね」
「なんでそこでオレの名前を出すんだよ」
文句を言うクーに、肩を竦めてみせる。
「俺はカイトと違って、じゃじゃ馬を乗りこなして喜ぶような特殊性は持ち合わせてない、ってこと。……まあ、そういうのに惚れるほうも大概だけどね。馬も人も」
どこか含みを持たせた言い方に、クーとカイトが揃って顔を赤くした。
おや、とキリクは思う。
「というと、君たち、ようやく進展があったのかな」
「キリクにも見せたかったよ。まったくあの大変な状況でよくもあんなに熱いくち……」
「ちょっ、いいから!」
「早く行け!」
真っ赤になった二人に背中を突き飛ばされるようにして、コウが大きく足を踏み出す。進みかけてから、もう一度こちらを振り向いた。
「──あんたたちは、どうするんだい?」
彼らしくないくらい、真面目な表情をして訊ねた。
「オレたちはまだ、ここでやることがあるんだ」
クーがそう言って、こちらを見返る。キリクとカイトが同時に頷いた。
コウは短い息を吐いた。
「……ま、いいけどね。あんたらは革命軍の一員にはならない、と最初からそう表明していたもんな。じゃ、行くよ」
今からまた大きな困難に向かっていくとは思えない気軽さで手を挙げる。
「パレスの扉を開いてくれたこと、感謝するよ。反転の神女」
最後に微笑んでそう言うと、彼は宮殿から出て行った。
弦から放たれた矢のように疾走して、あっという間に姿が見えなくなる。
クーがくるりと身体の向きを変え、口を開いた。
「よし、じゃあ行こう。キリク、場所はわかる?」
「うん。大体だけど」
「カイト、行けるね?」
「もちろんだ、急ごう。大きな騒ぎになる前に出してやらないとな。今なら、宮殿の機能は停止しているも同然だ」
目指す先は宮殿二階だ。クーとカイトの二人に挟まれ、半分くらい運ばれるようにして足を動かしながら、キリクは両隣をちらっと見た。
「……落ち着いたらさ」
「うん?」
「ぜひ、さっきのコウの話の続きを聞かせてもらいたいんだけど」
「…………」
クーとカイトが、同時に黙り込む。ますます聞きたい。というか、この目で見たかった。
カイトが──どうしようもないくらい鈍感で不器用なこの男が、どんなことを言って何をしたのか、自分で確認できなかったのが猛烈に残念だ。
「頑張ったね、カイト」
「……なんでそんなしみじみした顔をされるのか、よくわからないんだが」
「心配事がひとつ減って、本当によかったと思って。これからはクーも、度が過ぎたヤキモチは焼かないようにしようね」
「おまえはオレたちの保護者か! 怪我人はもう黙ってろ!」
頬を赤く染めたクーに怒鳴られたが、それくらいではキリクの良い気分はまるで損なわれなかった。
口許に笑いが浮かぶのを抑えられない。奇妙な安堵と満足感に満たされて、ふわふわと浮き上がるような感じがする。いや、カイトが自分の体重をほぼ担ってくれているので、そのせいかもしれないのだが。
そうか、やっと、あるべき場所に収まったか。
クーとカイトの二人なら、仲良く喧嘩しながら、笑い合いながら、幸福な未来を共に作っていけるだろう。
……僕はずっと、それを見たくてたまらなかったんだ。
***
ぶち壊すような勢いで扉を開けられて、室内にいた彼女たちは怯えるように身を竦めた。
内装も家具も立派な部屋だった。広くて、外が見渡せる大きな窓もついている。虜囚のためとは思えないほど明るく、豪華だ。部屋の入り口はひとつで、扉の前には見張りがいたが、その気になれば窓を開けて、飛び降りることは出来なくとも、助けを呼ぶことくらいは出来たかもしれない。
それでもここが与えられているのは、彼女たちがとにかく「神女」という立場を得ていることと、決して窓を開け放って大声を上げることはない、と思われていたからなのだろう。
逃げることもせず、そのために頭を働かせることもせず、そもそもそんな考えが頭を過ぎることもなく、ただ嘆いているだけの弱く哀れな存在だと──そう侮られていたことの証だ。
そして見る限り、確かにそれはあながち間違いではなかったようだ、と認めざるを得なかった。
この広い部屋に四人も雁首を揃えていながら、状況を打破するための手も打たず、今もびくびくとこちらを窺っているだけの彼女らを見て、クーは大いに失望し、腹を立てたらしかった。
「おい、『自信家』、『高慢ちき』、『気取り屋』、『おどおど』!」
叱りつけるように鋭い声を出されて、四人の神女はびくっと身じろぎしてから、目を瞬いた。
部屋の扉を大きく開け放ち、そこに立っている娘が、髪の色と格好は違えど、彼女たちがよく知る人物であることに、ようやく気づいたらしい。
「……クー?」
はじめてその名を口にしたのは、眼の神女、イレイナ嬢だった。
彼女の両目は白濁しており、声の主を探すかのようにふらふらと顔を巡らせている。アリアナに視力ごと喰われてしまった彼女からは、以前のような自信に満ちた態度はすっかり消え失せていた。
「ど……どうして、ここに。おまえも、神女に?」
そう呟いたのは、嗅覚を失ったロンミ嬢だ。
知性と理性をなによりも重んじていた彼女は、呆けたようにクーを見つめている。疑問形の台詞を発しておきながら、それについて考えることが出来ないようだった。
「なあに? あの娘は今、何を言ったの? ねえ、わからないわ。何が起きているの?」
聴力を奪われたサンティ嬢が混乱したように頭を振った。
手で掻きむしったのか、彼女の髪はぼうぼうに乱れており、自分の美を至上のものとしていた以前とはかけ離れた姿で叫んでいる。
「……っ……」
モリス嬢は目に涙をいっぱいに溜めて、必死に唇を動かしていた。
蒼白な顔でキリクを指差して何かを言おうとしているが、声を失くした彼女の口から、糾弾の言葉が出てくることはない。
──あまりにも、痛ましい。
果たして、彼女たちは、これほどの罰を負うほどの罪を犯しただろうか。無知であること、資質が足りないことは、そこまで責められることだっただろうか。ただぬくぬくと甘やかされて、何に対しても疑問を持たず、神女という甘言に惑わされて自分を見失ったのは、なにも彼女たちだけのせいではないのに。
真に罰を負うべき、責めを受けるべきは、キリクのほうだ。自身の望みのために、彼女たちを贄に差し出した。それについて、言い訳しようとは思わない。
だから、せめて。
……償いの方法を、生涯かけて探していこう。
「何してるんだよ、おまえたち」
クーは彼女たちの様子を見ても、眉を寄せただけだった。同情も憐れみも、その目にはない。
「な……なに、って」
「こんなところに入れられて、後悔してグズグズ文句言って不平を垂れ流して泣いているだけなのか? まったくこれだから、神民っていうのはどうしようもないな」
舌打ちしかねない口調でそう言って、鼻で笑う。
ぽかんとしていたイレイナ嬢の頬が、徐々に紅潮しはじめた。
ロンミ嬢の口がぐっと引き結ばれる。
サンティ嬢は、何を言われているのかは判らなくても、クーのその顔つきで「馬鹿にされている」というのは感じ取ったらしく、細い眉を吊り上げた。
モリス嬢が口をぱくぱく動かしているのは、おそらく何かを言い返しているのだろう。
「さんざん、棄民が棄民がと人を軽蔑しておいて、自分たちはこのザマなのか。笑えるな。おまえたちのぺっしゃんこに潰れた顔を見に来たんだけど、予想以上に面白かった。この分だと、棄民たちのいい見世物になるだろうさ」
大げさなほどの身振りで肩を竦めて、クーは口の端を上げた。
イレイナ嬢がすっくと立ち上がった。
歯を喰いしばり、自分が受けた屈辱にぶるぶると身を震わせる。光を失った瞳に、確かに怒りの炎が燃えていた。
「そ……そんなことを、おまえに、おまえなんかに、言われる筋合いは……!」
「そうよ! 棄民の分際で! わ、わたくしたちは学も教養もないおまえとは違うのよ!」
「相変わらず、生意気で下賤でイヤな顔! わたくしの品の良さを少しは見習いなさい!」
みるみる自尊心を取り戻した彼女たちは、一斉に甲高い声で喚き立てた。モリス嬢から声は出ないが、その表情からして大体同じようなことを言っているのは伝わってくる。
──自分たちはまだ、自らに対する誇りを捨ててはいない、と。
「じゃあ、選べ」
クーの真剣な声に、ぴたりと文句が止んだ。
「棄民が革命を起こした。これから、パレスは混沌とした状態になる。その中で、『四人の神女』の存在は、教皇たちにいいように利用されるかもしれない。宮殿に縛られ、神女として人形のように操られて、本当に棄民たちの見世物になるか。それとも逃げだして、普通の神民に戻るか。どちらかを、自分で考えて選ぶんだ。ここを出るのなら、今しか機会はないぞ」
四人の神女たちは、顔を見合わせた。
「で……でも」
しばらくの沈黙の後、表情を歪ませたイレイナ嬢が、ぽつりと言葉を落とした。
彼女の肩が震えている。今までずっと、怖くて心細かったのだろう。気位は高くても、彼女らはまだ十代の娘なのだ。
「わ、わたくし、目が見えなくて……こんな、身体で……歩くのも難しいのに、どこかに行くことなんて、で、出来るわけがない……」
そこで耐えられなくなったのか、両目から溢れるように涙が零れ出た。それにつられるように、他の三人も手で顔を覆い、しくしくと泣きはじめる。
「だったら、他のやつに、代わりに目になってもらいなよ」
クーが言うと、イレイナ嬢が涙に濡れた顔を、ゆるりと上げた。
「ロンミに周りを見てもらえ。サンティは匂いで探れ。モリスは音を聞き取れ。イレイナは指示をしろ。そうやって四人で協力して、自分の出来ることをすればいい。まだ手も足もあるじゃないか。いくらでも動ける。どこにでも行ける。働くこともしない神民でも、それくらいはやれるだろ」
ぐすっとしゃくり上げて、イレイナ嬢が大きく見開いた目をクーに向けた。
その瞳が像を結ぶことはなかっただろうが、それでもそこに、何かが見えたような顔をした。
「──どうする、イレイナ?」
静かに問いかけられて、彼女は他の三人を振り返った。それぞれが、唇を曲げて、互いの目と目を合わせ、頷く。
誰からともなく差し出した手をそれぞれが取り、四人でぴったりと寄り添うように繋がりながら、そうっと一歩を踏み出した。
***
四人の神女たちが出て行くのを見届けてから、キリクたちはその部屋の大きな窓を開け、ベランダに出た。
外は、うわあん、という耳が痛くなるような叫喚に満ちている。
その場所からは、パレスの景観が一望できた。
周囲を囲む頑丈な壁の向こうでは、人の波がひしめき合うようにして、こちらに迫りつつあった。棄民の頭で、あらゆる道が埋め尽くされている。人々の間に、黒くて巨大な筒のようなものが運ばれてくるのが見えた。
「境界警備隊の武器庫にあった砲だな。無事、制圧できたか」
カイトがぼそりと呟いた。風が褐色の髪をなびかせていたが、その表情は決して明るくはない。
「アリアナの力に頼り切っていたクリスタルパレスには、あれに対抗できるような装備はないからね。砲が撃ち込まれたら、呆気なく陥落するだろう」
どんな攻撃も弾き、撥ね返す護りは失われた。パレス内の人々は、はじめて目にする砲の威力、破壊力に度肝を抜かれ、恐慌状態に陥るに違いない。コウがきちんと指揮を取れていれば、その砲は、人のいないところを狙って撃たれるはずだ。
建国以来ずっとこの場所を護っていたアリアナの力が失われれば、クリスタルパレスほど脆い城塞はない。じきに、誰もがそのことを痛感せざるを得なくなる。
人ならざる力を私欲で利用してきた人間たちに対する、これが報いか。
神民は、これまでずっと家畜も同然と見下してきた棄民に、これから長い時間をかけて莫大な負債を返していかねばならない。
搾取するばかりだった側の傲慢さが、結果として自分たちの首を絞めることになった。
「……これからアリアランテは、どうなっていくんだろうなあ」
カイトが独り言のように言った。
「そうだね、まずは神民と棄民、双方の話し合いから始めることになるだろうね。議会を招集して、その場で棄民側の要求を突きつける。それを神民が呑むか呑まないか……まあ、まず突っ撥ねられるに決まっているから、そこで揉めることになるんだろうけど」
リリアナとアリアナを失って弱体化した教皇側に、さほど抵抗できる力があるとは思えない。
ただ、それを認めさせるまでに、どれだけの時間がかかるかは、まったくの未知数だ。
「大変だろうなあ」
カイトの視線は、パレスの外、神都のその先の遠いほうに向かっている。
これから先の棄民たちの苦難の道のりを、他人事のように眺めていられる性分ではないから、カイトもきっとなんらかの形で関わっていくことになるのだろう。
その瞳には、もうすでに、そのことに対する決意がほの見えた。
「──それでも、ここからが、はじまりだ」
クーもまた、カイトと同じほうに目を向けて、そう言った。
「神の力を手離して、この国はようやく、『人の国』として舵を切る。いいことばかりじゃないんだろうね。大変なこともたくさんあって、どこかで誰かが苦しんだり泣いたりすることもあるんだろう。……だけど、やっぱり、そうやって進んでいくしかないんだよ。善と悪なんかでは割り切れなくて、怒りも優しさも悔しさも悲しみもごちゃごちゃと入り混じって、迷って、悩んで、そうしてしか得られないものだってある。みんなちっぽけな人間なんだからさ、そうしてひとつずつ、失敗して、覚えて、次からは間違えないように、頑張ってやってみるしかない。それで最後に何かひとつでも、手の中に残るものがあれば、きっとそれで十分なんだ」
オレたちはみんな、「人の子」なんだから。
そう呟くクーの声が、だんだん遠くなっていった。
返事をしようと思うのに、上手く口が動かない。
心地いい睡眠に引き込まれるように、思考が朧になりつつある。耳鳴りのような人々の喊声は続いているはずだが、それさえも聞こえなくなってきた。
おかしいな、と思う間もなく、ベランダの手すりにもたれていた身体がぐらりと傾く。急速に狭まる視界の中で、クーとカイトが驚いた顔で何かを言っていた。
「おい、キリク! キリク、どうした?」
そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫だよ、とキリクは微笑んだ。どこも痛くないし、苦しくもない。むしろ、気持ちいいくらいだ。
たぶん、眠いのだろう。そういえば、ここのところほとんど安眠していない。ちょっとだけ目を閉じてもいいだろうか。少しだけ。
「うわ、キリク?!」
「こいつ、笑いながら気を失ったぞ!」
二人の慌てふためく声を耳に入れながら、キリクの意識は暗闇に沈んでいった。
***
──気がついた時には、キリクはどこかの家のどこかの部屋の中で、ベッドに横になっていた。
傍らでは、褐色の髪と緑の瞳を持つ娘が、泣きそうな顔でせっせと自分の看病をしてくれていた。
誰だっけ、とぼんやりしながら考えていたら、思い出す前に本格的に泣きだされた。
泣き声と謝罪の合間に、なんとか、彼女がセルマという名前であること、ここが棄民の街であることを聞き出せた。クーとカイトによってここに運び込まれてから、自分が二日ほど昏々と眠り続けていたことも知った。
ちゃんと医者に診せてくれたらしく、身体の至るところにぐるぐると包帯が巻きつけてあった。肋骨と肩にひびが入り、手の指と足の指が合計五本骨折、肺挫傷、顔面および全身に無数の擦過傷と打撲痕がある、とのことである。
セルマという娘は、事細かにそれらを説明しては泣いて、泣いては切々と訴えた。
「お二人とも、それはもう心配なさっておいででした。クーさまは泣くほど怒っていました」
「ちょっと、何を言っているのか判らないな」
判らないといえば、そもそもどうしてこの娘がここにいて、二人のことを「クーさまカイトさま」などと呼び、そのくせ親しげなのかも、まったく判らない。
「……それで、その二人は?」
寝ていた状態が長かったためか、自分の口から出る声はひどく掠れている。それがまた何かを刺激したのか、セルマはさらにべそべそと泣いた。
「クーさまはお母さまのところにいらっしゃいます。カイトさまは外に出られていますが、じきに戻られます。きっと、キリクさまが目を覚まされたと知ったら、すぐに飛んでこられます。本当に、ずっと心配しておられたんです」
もう一度同じことを言われた。気のせいか、責められているように聞こえる。それほどまでに、キリクが目を開けないのを二人が不安がっていたということか。
「クーさまをお呼びしてきます」
そう言って、立ち上がりかけたセルマを、キリクは止めた。上げた自分の腕が、びっくりするくらい痩せ細っていて、彼女はまた眉を下げた。
ニーアの身代わりとして、扉越しに会話をしていた娘。
複雑な気持ちはまだ残っているが、そこに怒りはない。
今は、妹によく似たその声を、もう少しだけ聞いていたかった。
「あの二人に会う前に、ちょっと説明をしてくれるかい。君はどうしてここにいるの?」
「はい。もちろんお話しいたします。キリクさま……わたしは」
セルマはぼろぼろと涙を零しながら、絞り出すように言った。
「わたしには、たくさん、お話ししたいことがあるのです。ニーアさまのこと……ニーアさまのお言葉を、ずっとお伝えしたいと思っておりました」
「ニーアの言葉……」
小さな声で言って、キリクはゆっくりとひとつ、瞬きをした。
そういえば、ここにいる娘は、あの部屋の中にいたニーアのことを知る、数少ない人物でもあった。
「じゃあ、それも聞かせてくれるかい」
キリクはそう言って、穏やかに微笑んだ。
「ニーアが何を見て、何を思い、何を話していたか。どんな姿に成長していたか。どんなことで悲しみ、怒り、笑っていたか」
「はい……。すべて、お話しいたします。わたしの見たこと、聞いたこと、知っていること、すべて」
「うん。それでね」
セルマのほうに顔を向けて、目を細める。
「話す時は、泣かないで、笑っていて。……僕は、君の声を聞くのが、嫌いじゃないんだ」
「はい──はい」
セルマは何度も頷いて、ぽとりと涙を落とし、なんとか唇を笑いの形にした。
***
キリクが体力を回復し、あらかたの傷が治るまでに、ふた月ほどの時間を要した。
曲がってしまった指とか、治らないものもあるが、それはしょうがない。ベッドから出て、しばらくは不自由な生活が続いていたが、もうほとんど気にならなくなった。食事も普通に摂れるようになったし、さほど激しくなければ運動も問題なく出来るようになった。
キリクが寝込んでいる間に、外の世界はどんどん目まぐるしく変化を遂げていた。
クリスタルパレスは白旗を揚げ、神民の議員と、棄民の中から選出した議員たちとで、議会を開くことになった。もちろんその場は相当紛糾したらしいが、教皇をはじめとした上層部はかなり及び腰であったという。
アリアナの力を失った自分たちがほぼ丸裸の状態でいることは、彼らがいちばんよく知っているからだろう。
カイトはあちこちを駆けずり回って、あの革命によって生じた被害を調べているらしい。
あの規模の反乱にしては格段に少ないほうだと思うが、やはり犠牲はいくらかあって、彼はそれらに対する救済の方法を懸命に考えている。
カイトが真っ先に向かった棄民の街と神都の境界で、以前に出会ったリツとナギという子供に再会した、と嬉しそうにキリクに教えてくれた。
リツという姉のほうは、カイトの姿を見るなり、むしゃぶりつくように抱きついて、大泣きしたという。ごめんなさいごめんなさいと謝られて参った、と言っていたが、その後は仲直りをして、今も交流を続けているのだそうだ。
カイトはいかにも子供に懐かれそうな感じだからそれは別に不思議ではないのだが、「大きくなったらお嫁さんになってもいいよ」と言われたとのことで、クーがぷんぷん怒っていた。
なんだかんだでカイトは無自覚に人たらしなところがあるから、クーは今後、いろいろと苦労するかもしれない。ただでさえあちこち骨折しているのに、キリクは彼女を宥めるのに、たいそう骨を折った。
時々、コウも顔を出す。後片付けで大変だ、という文句が多い。棄民の代表議員としてクリスタルパレスに堂々と出入りするようになったため、その口から出るのは、服装が窮屈だ、変装も出来ない、本当はこんな風に表に出る予定はなかった、という愚痴ばかりだ。
コウとよく行動を共にしているラダという男は、ここに来るとやけにそわそわして、働くセルマの姿を目で追っている。そういえば、自分や彼女を見る棄民たちの目が、すっかり穏やかなものになった。
……そんな感じで、ふた月が経過して。
外に出て身体をほぐし、「これなら剣を振ることも出来そうだ」と考えていたキリクのところに、クーとカイト、そしてセルマの三人がやって来た。
「やあ、どうしたんだい。みんな揃って」
首を傾げて訊ねると、クーはにっこり笑い、カイトは困ったような顔をし、セルマはもじもじした。
三人三様の反応に、いささか戸惑う。何かあったのだろうか。
……というか、これから何かが起こるのだろうか。
「キリク、調子はどうだ?」
「あ、うん、悪くないよ」
クーに笑顔で問われて、嫌な予感がどんどん膨れていく。逃げようかな、と後ずさりしかけたところで、素早く背後に廻ったカイトに、いきなり羽交い絞めにされた。
え、なにこれ。
「ちょっと、カイト」
「許せ、キリク。クーがどうしてもけじめをつけなきゃ気が済まない、って言うからさ。あいつが一度こうと決めたら、俺にはどうにも出来ないんだ、わかるだろ?」
「そこはもうちょっと努力しようよ」
焦ってじたばた暴れてみても、カイトの腕はびくともしない。申し訳なさそうな顔をしているわりに、クーの命令に背くつもりは毛頭なさそうだ。こういう状況、非常に覚えがある。今とは逆の立ち位置で。
クーがとんとんと足踏みをしながら、セルマのほうを振り返った。
「セルマはどうする? 一緒にやるか?」
「お気持ちだけで……わたしは見学させていただきます」
セルマは慎み深く遠慮した。どうせなら止めて欲しい。
「待って、クー。僕は一応、病み上がりなんだよ」
「もう治ったんだろ? ちゃんと医者にもやっていいかどうか確認して、了承をもらったんだ。安心しろ」
「変なところで用意周到だね! だけど──」
反論をする暇は与えてもらえなかった。一瞬後には、腹の真ん中にクーの見事な蹴りが決まって、呼吸が止まった。
はじめてカイトに同情した。これは確かに、キツい。
「いって……」
顔をしかめた途端、突然、クーが飛び込んできた。この上にもう一発? と身構える間もなく、後ろからカイトの腕が首に廻された。次は絞め技か、と顔を引き攣らせたら、勢いよく前からぶつかってきたクーの両腕が背中に廻った。
「おかえり、キリク!」
前からも後ろからも、ぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめられた。
腕の中にクーが、背中にはカイトが。次の瞬間には、弾けるような二人分の笑い声が響いた。
「──……」
ぎちぎちに抱きついてこられて、身動きも出来ない。胸のところにはクーの頭がぐいぐい押しつけられ、肩の上には重いカイトの頭が乗っている。
キリクは顔だけを動かして、上に向けた。
頭上には、どこまでも広がる透き通るような青空がある。
明るくて、眩しくて、温かい。
……そして、信じられないくらい、綺麗だ。
不意に、瞼の奥が熱くなり、空と雲が滲んだ。
ニーアの朗らかな笑い声が、どこかから聞こえたような気がした。
よかったね、にいさま。
本当に、よかった──
(Ⅻ・終)
次回、最終話。




