9 【それはまるでゼンマイ仕掛けのように・1】
※挿絵があります。
著作者:なっつ
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「横暴! 横暴!」
「暴力はんたぁぁぁあい!」
「貧乳!」
「入れろぉぉぉぉお!」
と言う暴言の嵐は、扉を閉めると同時に消え失せた。
なんか失礼な単語が混じっていた気がするが、もう1度開けて問いただす気にはなれない。開けた途端になだれ込んでくるのは明らかだ。
ダンダン! と叩く音もしばらく待つうちに聞こえなくなり……ルチナリスはやっと息を吐くと、その場にずるずるとへたり込む。
何気なく抱えたままの氷水の器に視線を落とした。なみなみと入っていた水は器の底のほうにわずかに残るのみ。氷も数個しか入っていない。
タオルを浸す、と言うより、拭ってやっとタオルに湿り気ができる、というくらいだろうか。氷が残っていたのは奇跡に近い。
はぁ。
溜息をひとつ。
身体の芯から染み出してくる疲れを労うように、あたりを静寂が包み込む。
灯りと言えば窓から蒼く差し込む月明かり。
同じ色に染まった室内は海の底のように静かで、重い。
……日が暮れたんだ。
長い1日だった。
もうしばらくすれば執事も帰って来るだろうから、それまではここにいよう。
ルチナリスは床に手を付くと残っていた力を込めた。そのまま床に倒れ込んでしまいそうな身体を起こし、まだぶるぶる震えている足を踏み締める。
これだけの騒ぎでも起きない義兄の容態はどうなっているのだろう。本当にただの風邪なのだろうか。
部屋の奥に据えられたベッドは動く気配も見せない。
何も、聞こえない。
とりあえず、と枕元のサイドテーブルに抱えていた器を置こうとして、ルチナリスはその手を止めた。
折り畳んだハンカチ。その上に載っているのは金色の懐中時計。
こんなところに置かれていることから考えても義兄のものだろう。蓋に翼を広げた鳥のような模様が彫り込まれている。
この紋章は玄関ホールに掲げられているレリーフと同じもの。確か、義兄の一族の紋章だと聞いた。
そう教えてくれた執事の目を、ふ、と思い出す。いつも以上に厳しく、憎悪すら含んでいるように見えた。
何故。
彼が心酔するご主人様の家の紋章、という以上になにか意味があるのだろうか。
時計を手に取ってみる。
金属的な見た目に反して、冷たさを感じない。そればかりかこの感じは……。時計を持っていないもう片方の手で、自分の頭に付いている髪留めをそっと撫でる。
似ている。
義兄はこの髪留めを「お守り」だと言ったけれど、この時計は、義兄にとっての「お守り」なのかもしれない。
窓の外では未だ融けていない雪が蒼く光っている。濃紺の空とそれより暗い木々と、そこにあるのは蒼の世界。
木々の向こうに小さく町の灯りが見える。ドラゴンが消えた今、町の人々も久しぶりにゆっくり眠れるのではないだろうか。
彼らはその安寧をもたらしたのが魔王だとは知らない。
義兄も教えるつもりはないだろう。
言いふらしたところで和解が待っているとは思えない。たとえ今、彼らとの間に穏やかな関係が結ばれているとしても、それは全て偽りの上のものでしかない。
「……変なの」
声に出して言ってみても、燻ったわだかまりは消えない。
自分だって10年も世話になっていたくせに、義兄を悪魔だと罵ったのだ。ノイシュタイン城の皆には慣れたけれど、他の魔族を同じように仲間だと思えるかと言えば、きっと言えない。
義兄は眠っている。きっとまだ薬が効いているのだろう。
閉じられた瞼からは、ガーゴイルたちが熱望していた色は見ることができない。
「眠り姫、ねぇ」
そんなことを言われていると知れば、まじまじと見直してしまう。顔立ちはかなり整っているほうだけれども……姫……。義兄を見下ろしたままルチナリスは考え込む。
そりゃあ貴族様なんだから、性別が違えばそう呼ばれていたって全く問題はないのだが。
しかし、リアクションに困る仇名だ。
この義兄がそんな呼ばれ方を甘受するわけがないから、陰でこっそり呼ばれていただけなのだとして……いや、その割には奴ら、堂々と呼んでいなかったか? 聞こえるおそれもあるのに。
と言うことは公式? そんな馬鹿な。執事はどうなのだろう。こんな主の尊厳に関わりそうなことを、あの地獄耳が聞き逃すとは思えない。
いや。
手の中で、時計がピシ、と音を立てた。
勢い余って握り潰してしまったのだろうか。ルチナリスは慌てて時計を元の位置に戻す。戻しながら、思う。
もしかしてもしかしたら。
あの執事が原因ではないのだろうか。溺愛のあまり何かしでかしたとか。
……ありえる。
日頃の義兄に対する態度でさえ、見ていて背中を芋虫が這いまわるようなむず痒さを覚えることがあるのに、熱を出して倒れた日にはそれこそ何をするか。想像したくもない。
ガーゴイルたちの言い方からすれば、過去にも義兄は彼らの前で熱を出したことがあるわけで。そこに執事も居合わせてお姫様だっこ、もとい、横抱きにしたことは確実なわけで。
それがあまりに姫に見えたのかもしれない。
そうよね。普通、そうやって抱え上げられるのは十中八九女の子なんだもの。
しかし今の義兄は姫と言うよりも人形のようだ。
光の加減か、陶器のような白さが際立つ頬に、ルチナリスはそんなことを思う。
お伽話の眠り姫もこうだったのだろうか。眠り続ける人形が息を吹き返すさまを思いながら、ルチナリスはおそるおそる両手で義兄の頬を包んだ。
……その気配を感じ取ったのだろうか。義兄の瞼がわずかに動いた。
「あ、」
ルチナリスは息と一緒に声をも飲み込んだ。
身じろぎもせず。声も発さず。まるで人形のように。人形が魂を吹き込まれたかのように開いていく。
――目、だけが。
義兄はしばらく瞬きを繰り返し、それからすぅっ、と吸い寄せられるように傍らに突っ立ったままの彼女に視線を向けた。ぜんまいを巻いた人形が、かたり、と動き出すように緩慢に。
そして、その目の色は――。
紅みががった紫。
魔王のあの猛々しい紅ではない見慣れない紅い光が、蒼と混ざり合って怪しい色を放っている。
熱のせいではっきりしないのか、半分夢うつつなその表情は怪しい薬を一服盛られたんじゃないかと疑うほどで、どう見てもいつもの義兄ではない。





