9 【策略の夜会・2】
著作者:なっつ
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青藍の手を弄びながら、アイリスは全く違うことを呟いた。
「はい?」
今までの緊迫した空気がふっと消えたのを感じる。故意なのか……彼女もこんな腹の探り合いのような会話には耐えられなかったのだろうか。
「魔王なんて傷のつきやすいお仕事をなさっているのですもの、ちゃんと手入れをしなければ荒れる一方ですわよ? 私、良いクリームを持ってきましたの。お試しになってみます?」
体よくはぐらかされた感がしなくもない。しかし一触即発のような空気だったことに比べれば、むしろ話題を変えてくれたことは青藍にとっても有難かった。
アイリスが義妹をどう思い何故連れて来いなどと言ったのかは不明だが、旧知の仲である彼女と険悪な雰囲気になるのは避けたい。
「それにさっきから思っていましたけど、青藍様、家畜の臭いがしますわよ?」
アイリスはくんくん、と鼻を鳴らす。
そう? と思わず掴まれていないほうの手を鼻に持っていく青藍に、彼女は口元を歪めた。
「こんな世界に10年もいて、四六時中そばに1匹置いているんですもの、臭いが染み付いても仕方ありませんけれど」
そういうものだろうか。と首を傾げた青藍の手を、アイリスは無邪気な笑みを浮かべて引いた。
「そうだわ。湯殿の用意をさせますからお入りになって! 薔薇の香油を入れて、お出になってからも同じ香油で磨けば臭いなんてすぐにとれますわ!」
「い、いや、それはちょっと」
青藍は思わず後ずさった。
アイリスの言い分もわからなくはないが、何故よその屋敷にまで来て風呂に入らなければならないのだろう。そうでなくても自分の趣味ではない装飾過多な服を着せられている。ここははっきり断っておかないと、次はどんな要求を押しつけられるか知れない。
それに午後9時にはここを出るつもりだ。入浴などしている暇はないし、そんな事態をグラウスに知られたらなにを言われることやら。
しかし彼女は妙に目をギラつかせて袖を掴んだまま離さない。
「遠慮なさらないで」
「遠慮します!」
服のことといい、どうも青藍の身なりを整えるのは自分の役目だと思っている節があるようだ。人形遊びのように着飾らせたい、というだけなら付き合っても良かったのだが、限度と言うものがある。
早く迎えに来ないかな。青藍は来た廊下の先に目をやった。
今頃は自分を探しているであろう執事を、これほど待ち望んだことはない。
廊下の先にあるはずの喧噪は何も聞こえない。
酔いを醒ますためや、秘密裏に囁きあうために抜け出してくる客人も、追加の料理や飲み物を運ぶ使用人の姿もない。
時間だ、と迎えに来る長身の執事の姿も、もちろんない。
かすかに金具が触れ合う音がした。その音のほうを見るとアイリスが耳飾りに手をやっている。
外れたのだろうか。
葡萄の房のような形をした耳飾りを付け直している彼女の姿に、一瞬違う光景がよぎった。
転がり落ちていく金色の飾りを。
その飾りを拾い上げた手を。
しずくが滴り落ちた袖口を。
しゃりん、と鈴のような音がひとつ、耳の奥で鳴り響いた。
「”青藍が魔王役になってもう10年。なにが気に入ったのか、魔界に戻ってこようとはしないんだよ”」
アイリスのものではない、他の誰かの声色を真似たような台詞が聞こえた。
その声が青藍を現の世界に引き戻す。
この声のイントネーションには聞き覚えがある。
拭っても拭いきれない記憶。自分をよく知る者の声。
「”もしかして家畜どもに感化されてしまったのではないかな。聞いた話では家畜の娘を手元に置いて兄妹ごっこをしているらしい” ……どなたの言葉か、おわかりですわよね」
「それで、その誰かの代わりに様子を見に来た、と?」
警戒を強める青藍とは裏腹に、アイリスは屈託なく笑う。
「ここに来たのは私の意思。青藍様が飼っていらっしゃるその家畜の娘とやらを一度見てみたくて」
乾いた笑い声が他に誰も居ない廊下に響く。
あたりを浸食している闇のせいだろうか。笑っているはずの声が、やけに暗く淀んで耳に届くのは。
窓の外には星ひとつない夜空。
その空を背景に、白く見える雲が混じり合うように渦を巻く。
「本当はノイシュタインまで出向いてもよかったのですけれど、叔父様がこちらへ呼んだほうがいろいろと早いと仰るから……それなのに連れて来ないんですもの、計算外だわ」
義妹共に呼び付けてどうするつもりだったのだろう。
青藍は黙ったままアイリスを見た。そして、彼女の背後に広がる窓の外の渦も。
「小さい頃は本当のお兄様のように可愛がって下さった青藍様が、こんな薄汚れた世界の片隅で家畜を妹がわりにしているなんて、興味を引くなと言うほうが無理な話でしょう?」
アイリスは純粋にルチナリスに興味を持っただけだとしても、侯爵の思惑は違うだろう。
最近は人間たちも武装している。狩りに出れば魔族側にも少なからず被害は出る。それに比べれば、抵抗する手立てをなにひとつ持たずにやって来る娘を捕らえるほうがずっと容易い。
……そして。
「家畜の娘を妹代わりにするほど寂しいんだったら、魔王なんてやめてしまえばいいのに」
アイリスはぽつりと呟いた。
今しがたまで使っていた気取った物言いではない、少女の口調で。
「叔父様は人間たちを抑え込むには強い魔王がいてくれないと、なんて言うけど、もう10年よ? 魔界に戻ったって誰も咎めたりしないわよ」
今までの魔王役はもって5年。それを考えれば青藍の就任年数は長い。
武装した人間と命がけで戦う仕事を希望する者など少ない、と言っても、そろそろ次の代に交代してもいい頃だ。ルチナリスを育てていることもあって、気付けば10年の歳月が経ってしまっていたが。
アイリスの後ろから糸引いている「誰か」が、青藍が魔王でいることを好ましく思っていないことは、先ほどの彼女の言葉からも明らかだ。
ルチナリスを捕えて引き離し、人間界への未練を断ち切らせることで、自分を魔界に戻す。その「誰か」の頭の中にはそんな筋書きが出来上がっているのだろう。
「戻りましょう青藍様」
アイリスの声に呼応するように、窓の外に広がる空がグニャリと曲がり始める。
空も、雲も、同じように薄っぺらな色で混ざり合っていく。
「さあ」
アイリスは手を差し伸べる。
「……ごめん」
――ガシャン!!
青藍がアイリスの手を押し戻したのと同じくして、彼らの真横の硝子窓が派手な音と共に砕けた。
無数の硝子の破片がきらきらと舞い零れながら視界を覆う。しかし、降ってきたのは破片だけではなかった。
その破片を身にまとって飛び込んできたのは1匹の白銀の狼。
その狼はトン、と軽やかに着地するとアイリスの前に立ち塞がった。
アイリスと、青藍の間に。
「人間は、家畜なんかじゃない」
突然現れた獣に声を失っているアイリスに青藍は言う。
「今度、ノイシュタインにおいで。義妹を紹介しよう」
少しはにかんだような笑みで話す青藍に、獣は頭を上げ深緑の瞳を向ける。
「いい子だよ、とて……うわっ!」
そのまま彼の上着を噛んだ獣は、話を遮断するように身を翻した。
急に引っ張られてバランスを崩した青藍を背に乗せる、と言うよりも半ば引き摺るような形で、それでもなんの躊躇もなく、狼は入ってきた時と同じように窓から飛び降りていった。
「……青藍様!?」
突然の出来事に茫然としていたアイリスは、ふと我に返ると窓に駆け寄った。
ここは3階。いくら身体能力が優れた獣だとしても、易々と飛び降りられる高さではない。
彼女は割れた窓枠を開け、下を覗き込む。
しかし、窓の下には誰もいなかった。
白銀の狼も、青藍も。





