第8話 届かない背中
第一節 追う者たち
第八戦の朝、海から吹く風は冷たかった。
五十キロメートルのSERAPHIM GRAND CIRCUIT。その八つのセクションを見渡す管制塔の大型スクリーンには、前戦のフィニッシュ映像が映し出されていた。
漆黒のLUCIFERが、深紅のミカエルを振り切ってチェッカーフラッグを受ける。鈴木翔の初優勝だった。
「何回見ても悔しいな」
TEAMヨフィエルのガレージで、山本駆は映像を止めた。
佐藤匠が整備端末から顔を上げる。
「それなら、今日勝てばいい」
「簡単に言うなよ」
「お前がいつも言ってることだろ」
駆は笑いかけて、すぐに表情を引き締めた。
翔が戻ってきた。そのことは、今でも嬉しい。だが、あの漆黒の機体が自分の前を走り抜ける瞬間、胸に生まれた感情は喜びだけではなかった。
――追いつきたい。
それは、事故の前から変わらない思いだった。
「匠。第七戦のログ、もう一度見せてくれ」
「どこだ?」
「俺が翔に抜かれたところ」
匠は少しだけ驚いた顔をした。
「珍しいな。嫌な場面を自分から見たいなんて」
「悔しいから、見るんだよ」
モニターに、黄金と漆黒の二台が並ぶ映像が現れた。
第二節 一パーセントの向こう側
同じ頃、TEAMミカエルの解析室では、ルーカス・ヴァイスが静かに数字を追っていた。
「X-06の総合性能は、X-05より一~三パーセント程度上回る可能性がある。そう言われているな」
技術者が頷く。
「はい。ただし、あくまで推定です。区間ごとに得手不得手もあります」
「分かっている。だからこそ、勝てる」
ルーカスは第七戦の最終区間を指した。
「ここで我々は、旋回の立ち上がりを少しだけ遅らせた。路面の状態を考えれば合理的な選択だった。だが、LUCIFERは別のラインで速度をつないだ」
「車体制御の差でしょうか」
「それだけではない。翔は、あの瞬間にそのラインを選んだ」
ルーカスは椅子から立ち上がる。
「新型が優れているから負けた、では何も学べない。操縦者の判断と車体の性能を分けて見よう」
画面には、十三台の走行軌跡が重なっていた。
「今日は彼に勝つ。だが、危険な接近で勝ちを拾うつもりはない」
深紅のミカエルは、すでに車検を終えている。
ルーカスはガレージへ向かった。
その背中を見送りながら、解析担当者は呟いた。
「一パーセントが、こんなに遠いとは……」
「遠いから面白いんだ」
振り返らずに、ルーカスが答えた。
第三節 漆黒の静けさ
LUCIFERのガレージには、祝勝会の飾りもなかった。
旧TEAM蒼穹の技術者たちと、各国から集まった開発陣が、静かに作業を続けている。
「生体パルス取得、良好。意図推定の信頼度、前戦より安定しています」
「安全側補正の条件は変更していないな?」
「はい。性能向上のために保護機能を緩めることはありません」
主任技術者の問いに、担当者が答えた。
鈴木翔は支援設備に身体を預け、モニターを見ていた。
「みんな、昨日はちゃんと寝た?」
技術者の一人が苦笑する。
「翔に言われるとはな」
「俺が眠らないと怒るくせに」
「操縦者の体調は性能の一部だからね」
翔は笑った。
身体を自由に動かせなくなってから、彼は多くのことを人に頼るようになった。だが、誰かに支えられることと、自分で決めることは違う。
今日、どのラインを選ぶか。いつ加速し、どこで減速するか。
その意思は、自分のものだ。
「六連勝の二つ目、狙うんだろ?」
主任技術者が尋ねる。
「もちろん」
翔は答えた。
「でも、まず帰ってくる。勝つのは、その次だ」
「いい答えだ」
「匠に言われすぎて、覚えちゃったよ」
翔の笑い声が、ガレージに広がった。
第四節 青い灯火
十三台のSERAPHIMがグリッドに並ぶ。
深紅のミカエル、朱色のウリエル、橙のラグエル、黄金のヨフィエル。黄緑のラファエル、緑のザドキエル、青緑のハニエル、水色のガブリエル。青のカマエル、藍のラジエル、紫のメタトロン、赤紫のサンダルフォン。
そして、漆黒のLUCIFER。
『第八戦、スタートまで間もなくです! 鈴木翔の連勝を止めるのは誰なのか!』
駆はシェル式コックピットの中で目を閉じた。
非ニュートン流体を基礎とした特殊ジェルが全身を包み、専用スーツが圧力と循環を守る。ヘルメットの呼吸供給は正常。SACCSの表示も緑に揃っていた。
『駆、準備は?』
「できてる」
『今日も帰ってこい』
「分かってる。勝って帰る」
匠は小さく笑った。
『それなら、まずは無事に走り切れ』
赤い灯が順に点く。
そして、青。
轟音とともに十三台が動き出した。
超高速区間へ飛び込む機体の列が、朝の海岸線を駆け抜ける。
ウリエルが鋭い加速を見せ、ガブリエルが乱れた気流を避ける。ミカエルは正確な位置を保ち、ヨフィエルは前車の挙動を読み続けた。
駆は遠くに漆黒の影を見つける。
「翔、今日は簡単に行かせないぞ」
同じ瞬間、翔も黄金の機体を認めていた。
「駆。来いよ」
二人の声は、互いには届かなかった。
第五節 追いつけない理由
レース中盤。
駆はLUCIFERの後方につけていた。
『前車との距離、安定。後流変動を検出』
SACCSが告げる。
貫通ダクト内の多段ファンが流量を調整し、吸着系が車体姿勢を保った。
駆は漆黒の機体の走りを見つめる。
大きく左右へ振ることはない。急激な出力変化も少ない。旋回の前に姿勢を整え、コーナーの出口で必要な加速を得る。
「……綺麗に走るな」
『何が?』
匠が尋ねた。
「翔のラインだよ。前よりずっと無駄がない」
『神経系インターフェースの特性もあるだろうな。曖昧な要求は通さない。だから、意思を明確に伝える走り方になってるのかもしれない』
「機械に合わせて、人間も変わるのか」
『互いに合わせるんだ。どっちか一方だけじゃない』
駆は追い抜きを試みた。
コーナー手前で外へ出る。だが、LUCIFERは予想より早く車体を安定させ、立ち上がりで差を保った。
「くそっ!」
『無理に追うな。次がある』
「分かってる!」
駆は一度引いた。
以前なら、もう少し奥までブレーキを遅らせただろう。だが、あの事故と、第四戦での姿勢の乱れが頭をよぎる。
安全を捨てれば、近づけるかもしれない。
しかし、それは翔が戻ってきた意味を、自分から否定することになる。
駆は前を向いた。
「……正しい走りで追いついてやる」
その言葉を、匠は黙って聞いていた。
第六節 深紅の挑戦
終盤、先頭争いは三台に絞られていた。
漆黒のLUCIFER。深紅のミカエル。そして黄金のヨフィエル。
ルーカスはミカエルの解析結果を信じ、減速区間へ向かった。
『前方、LUCIFER。追い抜き可能な位置です』
「確認した」
深紅の機体が内側へ寄る。
翔はすぐに気づいた。
『右側からミカエル接近』
「見えてる」
二台は並んで減速する。
ルーカスのブレーキングは正確だった。姿勢を乱さず、路面の変化を読み切っている。
ミカエルが前へ出た。
『ミカエル、先頭へ!』
観客席が沸いた。
翔は焦らなかった。
「やっぱり上手いな、ルーカス」
『追走可能。操縦意図の入力を継続してください』
「もちろん」
その後方で、駆も二台を追っていた。
『駆、前が競っている。距離を保て』
「了解」
三台の間隔が詰まる。
一つのミスで順位は変わる。だが、一つのミスが大事故につながる速度でもあった。
駆は手前の路面を読み、ヨフィエルの精密制御を生かして速度をつないだ。
次の高速コーナーで、ミカエルはわずかに外側へ膨らんだ。LUCIFERは十分な間隔を確保し、内側のラインを選ぶ。
『追い抜き意図、確認。安全余裕、確保』
翔は静かに加速を要求した。
漆黒の機体が深紅の横へ並ぶ。
ルーカスも踏みとどまる。
『二台、並走! ヨフィエルも迫る!』
駆は叫んだ。
「俺もいるぞ!」
だが、先頭の二台は速かった。
わずかな差が、どうしても埋まらない。
第七節 届かない背中
最終区間。
先頭は再びLUCIFERだった。
ミカエルが追い、ヨフィエルがさらに後方から迫る。
駆の視界には、漆黒の背中があった。
ほんの少し前まで、翔が再びレースを走るなど、夢のような話だった。
今は、その背中に届かないことが悔しい。
「……翔」
駆は呟いた。
『どうした?』
匠が尋ねる。
「嬉しいんだ。あいつが、あんなに速く走ってるのが」
『ああ』
「でも、悔しい」
『それでいい』
匠は即答した。
『その両方を持って走れ。片方を捨てるな』
駆は息を吸った。
『車体状態、正常。次の減速ポイントまで距離あり』
SACCSの表示が変わる。
駆は一瞬、もっと深く踏み込もうとした。
しかし、必要な減速距離と路面状態を見て、要求を抑えた。
無理に距離を詰めれば、一度は並べるかもしれない。
だが、それでは次のコーナーを失う。
駆は最善のラインを選んだ。
それでも、漆黒の機体は前にいた。
遠くでチェッカーフラッグが揺れる。
『LUCIFER、フィニッシュ!』
歓声が爆発した。
『鈴木翔、二連勝! 第七戦に続き、第八戦も制しました!』
少し遅れて、深紅と黄金の機体がチェッカーを受けた。
駆はアクセルを緩めた。
「……届かなかった」
通信の向こうで、匠はすぐには答えなかった。
やがて静かに言った。
『でも、お前は最後まで走った』
「それだけじゃ足りないよ」
『分かってる。だから、次がある』
駆はヘルメットの中で目を閉じた。
次がある。
その言葉が、今日ほど重く感じられたことはなかった。
終節 同じ場所へ
レース後の整備区域で、翔は駆とルーカスを待っていた。
「二人とも、すごかった」
翔が言うと、ルーカスは首を振った。
「今日は君の勝ちだ。だが、次は違う」
「そう簡単に勝たせてくれないのは、分かってるよ」
駆は黙っていた。
翔が声をかける。
「駆?」
「……おめでとう」
「ありがとう」
「でも、悔しい」
翔は笑った。
「知ってる」
「なんで分かるんだよ」
「昔から、そういう顔するだろ」
駆は思わず吹き出した。
三人の間に、ようやく穏やかな空気が戻った。
その少し後ろで、匠は第八戦のログを見つめていた。
駆が最後に選んだラインは、危険を冒さずに速度を残すものだった。判断は間違っていない。
だが、まだ足りない。
次の第九戦に向けて、調整できる箇所はある。
匠は画面を切り替えた。
そこには、サーキットの一角が表示されていた。
かつて、純白の試作機が事故を起こした場所。
同じコースの、同じ区間。
何度も安全設備が見直され、今では新しい監視装置と緊急対応体制が整えられている。
それでも、匠の胸から記憶が消えることはなかった。
「……ここか」
小さな声が漏れた。
駆が近づく。
「何見てる?」
匠は一瞬迷い、それから画面を隠さなかった。
駆の表情が変わる。
「……あの場所だな」
「ああ」
二人はしばらく黙っていた。
遠くでは、翔の二連勝を祝う声が響いている。
「匠」
「なんだ」
「次も走ろう」
「……ああ」
「ちゃんと、帰ってこよう」
匠はゆっくり頷いた。
第九戦。
それは、三人が長く目を逸らしてきた場所と、もう一度向き合うレースになる。
漆黒の翼は二つ目の勝利をつかんだ。
黄金の翼は、その背中に届かなかった。
だが、物語はまだ終わらない。
――第8話「届かない背中」完――
次回、SERAPHIM GRAND PRIX― 蒼穹の駆 ―
第9話 「同じ場所、違う未来」




