プロローグ 青が灯るとき
夜明け前の海は、まだ鉛色をしていた。
山本駆は、ガラス越しに眼下の海を見下ろしていた。海岸線に沿って、山肌を縫い、谷をまたぎながら一本の道が延びている。全長五十キロメートル。八つのセクションで構成された、世界でただ一つの超高速競技場――SERAPHIM GRAND PRIX CIRCUIT。その広大な敷地の内側には、ホテルや商業施設を備えたIR(統合型リゾート)が広がっていた。
「眠れなかったのか」
振り返らなくても、声の主は分かった。佐藤匠。蒼穹チームの主任整備士であり、駆が誰よりも信頼を寄せる男だ。作業着の袖には、いつものように油の染みが残っていた。
「寝たよ。三時間くらい」
「それを寝たとは言わない」
匠は紙コップを二つ手にしていた。一つを駆に差し出し、もう一つを自分の口元へ運ぶ。しばらく置かれていたせいか、コーヒーはすっかり冷めていた。口に含むと、わずかな苦みが広がる。
「怖いか?」
「……怖くないと言ったら、嘘になる」
匠は笑わなかった。ただ、海の向こうに目をやった。
「それでいい。恐怖を忘れた奴に、時速七百五十キロのマシンは任せられない」
午前六時。ピットのシャッターが上がった。
白銀の照明に照らされ、漆黒の車体が浮かび上がる。鋭いノーズ、地面すれすれまで張り出した空力装甲、フロントに走る青白い光のライン。蒼穹チームのSERAPHIM X-05は、静止していても周囲の空気を切り裂いているかのようだった。
車体重量、一八〇〇キログラム。V型八気筒エンジンの一六〇〇馬力に、電動駆動系の二〇〇〇馬力を重ねた総出力三六〇〇馬力級。四輪を駆動し、設計最高速度は時速七五〇キロメートルに達する。
しかし、このマシンの革新は出力だけではない。車体を前後に貫くダクトには多段ファンが収められ、流量と圧力を調整して後流を整える。床下の吸着機構や可変空力装置、駆動系を含めた制御を統括するのがSACCS――統合空力・車体制御システムだった。速く走るためだけでなく、速さを制御するための技術である。
それでも、駆の目を引いたのは車体中央の透明な楕円形の空間だった。
「シェルの最終試験、終わってる?」
「三重系統で確認済みだ。ジェル循環、圧力分布、呼吸ガス、二酸化炭素の排出――すべて正常。SACCSとの情報連携も完了している」
従来のレーシングカーにあるような座席は、ここにはない。代わりに備わるのは、人体を丸ごと収める密閉式の特殊シェル。非ニュートン流体を基礎とする専用ジェルが内部を満たし、電子制御の支持機構と連動して、加速・旋回・減速のたびにドライバーの身体を支える。
「八Gを受けても、身体そのものが平気になるわけじゃない」と匠が言った。「これは、あくまで負担を減らす仕組みだ。無理をすれば、お前の身体が先に限界を迎える」
「分かってる」
「なら、俺たちの仕事を信じろ」
駆は小さくうなずいた。
更衣区画で、専用の生命維持スーツに袖を通す。男女共通の基本構造だが、内側の支持パネルも圧迫帯も駆の体格に合わせて調整されている。白地に蒼穹の青いライン。胸にはチームの紋章。生体センサーが心拍、呼吸、筋活動の計測を始めた。
密閉ヘルメットを装着すると、首元のロックが短く鳴った。呼吸回路の接続表示が緑色に変わる。
《山本駆の搭乗を認識しました》
機械的でありながら、どこか柔らかさを感じさせる女性の声が響いた。
《SERAPHIMシステムを起動します。本日もよろしくお願いします、マスター》
無機質なはずの声が、一瞬だけ微笑んだように感じられた。
《呼吸系統、正常。生体監視、正常。シェル接続待機》
「山本、聞こえるか」
「クリアだ、匠」
「今日の目標は記録じゃない。まず一周、無事に帰ってこい」
「整備士らしい言葉だな」
「お前が帰ってこなきゃ、俺の仕事が増える」
その軽口に、胸の奥の緊張がほんの少しほどけた。
駆はシェルの中へ身を横たえた。支持具が位置を合わせ、透明なキャノピーが閉じる。外界の音が遠のいた。
《シェル密閉。呼吸供給、独立系へ移行》
足元から青く透き通ったジェルが満ちてくる。冷たさはすぐに消え、柔らかな圧力が足首、膝、腰へと昇ってきた。胸を越え、肩を包み、やがてヘルメットの上まで満たしていく。
完全に沈んだ。
水底にいるようでいて、水の中とは違う。手足を動かせばジェルはしなやかに道を譲り、動きを止めれば身体の輪郭に沿って支える。ヘルメットの内側では、自分の呼吸だけが規則正しく響いていた。
《生体信号を取得。アクティブ耐Gレイヤー、同期》
《特殊ジェル支持制御、起動》
《SACCS、パイロット認証完了》
視界に八つの区間が浮かび上がる。十八キロの超高速区間。三キロの減速・ヘアピン区間。五キロの高速コーナー区間。四キロの高速S字区間。六キロのテクニカル区間。四キロのスタジアム区間。五キロの起伏・高速区間。そして五キロの複合コーナー区間。
サーキットの設計対応速度は時速八〇〇キロメートル。それはX-05の最高速度を引き上げるためではなく、時速七五〇キロメートルという設計値に余裕を持たせるためのものだった。限界の手前に、無事に帰還するための余白を残す。その思想が、この道を形づくっていた。
「駆、聞こえるか」
「ああ。全部聞こえる」
「貫通ダクトの流路、正常。TDPSのファン、正常。床下吸着機構、待機。後流制御と可変空力も応答良好だ。車体も、お前も、準備は整った」
五万人の観客が詰めかけたスタンドのざわめきが、分厚いシェルを通してかすかな振動となって伝わってきた。駆が指先を動かすと、スーツのセンサーが意図を読み取り、操縦インターフェースが応える。
「匠」
「何だ」
「帰ってきたら、もう一杯コーヒーをくれ」
短い沈黙のあと、通信の向こうで笑い声がした。
「今度は、ちゃんと熱いやつを用意しておく」
スタートシグナルが一つずつ赤く灯る。
エンジンが目を覚ました。四輪の駆動系に力が満ちていく。SACCSは発進時の車体挙動を予測し、空力と駆動の制御を整えた。その予測情報を受け取ったコックピットの保護制御系が、ジェルの支持圧を静かに組み替える。まるで見えない手が、駆の全身を抱き留めるように。
最後の赤が消えた。
青が、点いた。
「蒼穹、山本駆――出る!」
世界が、後方へ吹き飛んだ。
【A — 超高速区間/18km】
加速は暴力的だった。
だが、駆の身体はほとんど動かない。ジェルが全身の支持圧を変え、スーツが循環への負担を抑える。それでも内臓の奥へ重いものが沈み込む感覚は消えなかった。
「四百……五百……」
数字が跳ね上がる。
『五百八十。パワーユニット正常。まだ余裕があるぞ』
「分かってる」
駆は笑った。
「こいつ、まだ走り足りないらしい!」
前方のアスファルトは、もはや道路には見えなかった。地平線へ吸い込まれる灰色の帯。六百五十。七百。そして――七百四十八。
「匠、最高速域に入った!」
『確認した。これ以上は追うな。減速区間への進入を優先しろ!』
遠方の標識が一瞬ごとに膨らんでくる。駆はアクセルを戻し、減速の準備に入った。
【B — 減速・ヘアピン区間/3km】
高速域からの減速が始まった。車体が前へ沈み、身体を前方へ引き出す力が増す。スーツの圧迫制御とジェルの支持が切り替わった。
「進入速度、二百二十……百八十!」
巨大なヘアピンが迫る。速さだけでは曲がれない。ブレーキを残しすぎれば姿勢が乱れ、早くアクセルを開ければ出口で膨らむ。
「曲がれっ!」
SACCSが前後の吸着力と空力バランスを調整する。TDPSの多段ファンがダクト内の流量を変え、車体の姿勢を支えた。
フロントが内側を向く。リアが追従する。出口が見えた。
アクセルを開ける。三千六百馬力級のパワーユニットが再び咆哮した。
『いいラインだ!』
「褒めるのはまだ早い!」
【C — 高速コーナー区間/5km】
レイクサイドコーナー。湖を大きく回り込む高速旋回区間が現れた。
「進入、六百二十」
『横加速度に注意しろ。保護制御、旋回モードへ移行』
駆が操舵入力を与える。身体の横から、見えない巨人に押されるような力が襲いかかった。
「ぐっ……!」
ジェルが左右の支持圧を変え、頭部と頸部を含む全身を支える。表示が一瞬、琥珀色になった。
『駆、応答しろ!』
「……大丈夫だ。まだいける」
湖面が信じられない速さで後方へ流れる。バンクの頂点を越えると、空が視界いっぱいに広がった。
「……すごい」
大地から解き放たれたような錯覚。しかし、感動に浸る時間はない。
【D — 高速S字区間/4km】
森を縫うように、左右への切り返しが続く。
五百二十。四百八十。
「切り返しモード!」
『了解。可変空力、姿勢変化に追従中』
右。左。再び右。
駆の操作意図を生体センサーが拾い、SACCSが車体の応答を先回りして整える。だが、曲がる意思を決めるのは、あくまで駆自身だ。
「いい子だ……!」
『駆、調子に乗るなよ』
「分かってるって!」
『お前の「分かってる」は信用できん』
駆が笑いかけた、そのときだった。
《路面変位を検知》
前方に赤い警告が浮かぶ。
「匠、路面の段差を検知!」
『確認した。急な操舵は避けろ。姿勢制御を優先!』
電子制御サスペンションが減衰特性を切り替えた。鈍い衝撃が車体を伝わる。ジェルの支持圧が瞬時に変わり、駆の身体を受け止める。
警告が消えた。
「……通過した」
『車体異常なし。よし、次だ』
【E — テクニカル区間/6km】
テクニカルヒルズ。
連続する減速、鋭角な旋回、そして再加速。この区間では、最高速度の数字など意味を持たない。車両の制御とドライバーの判断が試される。
「二百……百六十!」
駆はブレーキを抜きながらコーナーの内側へ車体を向けた。床下吸着機構の負圧は路面との間隔に左右される。SACCSは車高と姿勢を監視し、過信できない条件では出力と空力の要求を抑える。
タイヤが路面を捉えた。
「今だ!」
出口に向けて加速する。
『いいぞ。今のはきれいだった』
「そっちこそ、よく仕上げたな!」
額に汗が浮かんだ。特殊ジェルは身体を支えてくれる。だが、集中力の消耗まで消してくれるわけではなかった。
【F — スタジアム区間/4km】
視界の先に巨大な観客席が現れた。五万人の熱気を集める、サーキットの中心部。
観客席の大型スクリーンには、漆黒と蒼穹の青をまとったX-05が映し出されていた。歓声はシェルの外に置き去りにされる。それでも、観客が一斉に立ち上がる姿は見えた。
『駆、観客席に気を取られるな』
「見えてるよ。ちゃんとコースもな」
スタジアムの複合コーナーを抜け、車体は再び山側へ向かう。
【G — 起伏・高速区間/5km】
谷をまたぎ、尾根に沿って延びる道。右手には海、左手には山並み。薄い雲の向こうから、朝日が差し込み始めていた。
速度は再び時速六百キロメートルを超える。
「……匠」
『どうした』
「俺たち、本当にこんなものを造り上げちまったんだな」
無線の向こうで短い沈黙があった。
『ああ。何千人もの馬鹿が、本気で夢を追いかけた。その結果だ』
「馬鹿、か」
『まともな奴なら、時速七百五十キロで地面を走ろうなんて考えもしない』
駆は微笑んだ。
「なら、最高の馬鹿たちだな」
『違いない』
山並みの先に、最後の区間が見えてきた。
【H — 複合コーナー区間/5km】
『駆、最終セクションだ。車両状態は良好。最後まで丁寧に走れ』
「了解」
緩やかな高速コーナーから、減速を伴う複合コーナーへ。駆は速度を落とし、クリッピングポイントを正確に捉えた。
ステアリングを戻す。アクセルを開ける。
その先には、スタート地点へと戻る直線と、白いフィニッシュラインがあった。
「……匠」
『何だ』
「ありがとう」
無線の向こうが静かになった。
『礼なら、帰ってきてから言え』
駆は前を見た。
実況アナウンサーの声が、大型スクリーンの映像とともにスタンドへ響く。
『SERAPHIM X-05、最終コーナーを立ち上がった! いよいよフィニッシュです!』
五万人の観客が一斉に立ち上がる。
「行くぞ、セラフィム!」
車体が加速する。
歓声は聞こえない。聞こえるのは呼吸音と、ヘルメットを通じて届く電子音。そして――匠の声だけだった。
『駆――』
フィニッシュラインが迫る。
『おかえり』
白いラインが、機体の下を流れ去った。
巨大スクリーンには、フィニッシュラインを正面から捉えた映像が映し出されていた。漆黒と蒼穹の青の閃光が、白線を駆け抜ける。
『ゴォォォォールッ!!』
歓声が爆発した。
だが、次の瞬間、巨大スクリーンが暗転する。戸惑いのざわめきの中、白い文字が浮かび上がった。
【走行記録】
全長 50.000km/1周
最高速度 748km/h
車両状態:正常
公式ラップタイム 06:26.360
一瞬の静寂。
そして、五万人の歓声が巨大なスタンドを震わせた。
『皆さん、ご覧ください! これが、私たちの新しいモータースポーツです!』
実況アナウンサーの声が歓声を突き抜ける。
『SERAPHIM X-05! そして、世界初のSERAPHIM専用グランプリサーキット! 本日、ここに誕生しました!!』
駆は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ただいま」
海の向こうに、朝日が昇っていた。
世界は、まだ広い。
「そして俺も、SERAPHIMも、まだ速くなれる」
序章 完
次回、SERAPHIM GRAND PRIX― 蒼穹の駆 ―
第1話「十二の翼、始動」




