第1話:フランクフルトの風、16歳の試金石
ドイツ・ヘッセン州の秋の風は、日本のそれよりも一段と冷たく、乾いていた。
榊 迅は、支給されたばかりの練習用ビブスを頭から被りながら、大きく息を吐き出した。吐き出した息は白く染まり、すぐに冷気に溶けて消えていく。周囲を見渡せば、自分と同じように世界中から集まった「テスト生」たちが、ギラついた肉食獣のような視線を交わし合っていた。
16歳。日本の中学校を卒業し、同級生たちが高校の入学式に胸を躍らせている春、迅は単身で飛行機に飛び乗った。目的地は、ドイツ・ブンデスリーガの古豪『アイントラハト・フランクシュタット』のU-19(19歳以下)アカデミーだ。
「おい、そこの東洋人。お前がCFか?」
声をかけてきたのは、ナイジェリア系の血を引く大柄なミッドフィルダーだった。名前はクリス。年齢は18歳だという。身長176センチの迅よりも頭一つ大きく、仕立ての良い筋肉がユニフォームを押し上げていた。
「そうだ。榊 迅。よろしく」
迅は拙い英語で答え、右手を差し出した。しかし、クリスはその手を無視し、鼻で笑った。
「CFなら、俺のパスに合わせて走れ。ただし、トロい奴には出さない。ドイツのDFはお前みたいなチビを簡単にへし折るからな」
その言葉通り、周囲のテスト生ディフェンダー陣は185センチを超える大男ばかりだった。フィジカルの差は歴然。普通なら気後れする場面だが、迅の心は不思議なほど静かだった。
目標や野望といった大層なものは、今の迅にはない。プロになりたい、有名になりたいという欲すら薄い。ただ、この圧倒的な強者たちがひしめくピッチで、目の前のボールを右足でネットに突き刺す――その瞬間の熱量に、ただ没頭したかった。
『全員集まれ!これより11対11のミニゲームを行う!』
太い声でコーチ陣が指示を出す。テスト生を二組に分けた、実戦形式のサバイバルが始まった。
迅のチームのシステムは4-3-3。迅は中央のCFに入った。対峙するセンターバックは、フランクシュタットのユースに所属する生え抜きのドイツ人選手たちだ。テスト生を「品定め」するような冷酷な視線が迅に突き刺さる。
ピッと鋭いホイッスルが鳴り、ボールが動き出した。
開始早々、欧州の洗礼が迅を襲う。中盤でルーズボールを拾おうとした瞬間、背後から猛烈な勢いでプレッシャーをかけられた。激しいボディコンタクト。ドスン、と骨がぶつかる音が響き、迅の身体は簡単にピッチへ転がされた。主審役のコーチは笛を吹かない。これがヨーロッパの基準だった。
「ほら見ろ、言った通りだ」
クリスが吐き捨てるように言い、自陣へと戻っていく。
対面のDFたちがニヤリと笑った。「このアジア人は怖がっている」――そう確信したのだろう。彼らは迅への警戒を緩め、ディフェンスラインを高く設定し始めた。
だが、迅の目は死んでいなかった。むしろ、脳は冷徹に状況を分析していた。
(フィジカルで真っ向からぶつかれば潰される。だけど、ラインが高くなった。裏には広大なスペースがある)
迅の最大の武器は、一瞬でトップスピードに乗る「カウンターの牙」だ。
試合開始から15分。ゲームは相手チームの優勢で進んでいた。迅のチームが自陣ペナルティエリア付近でボールを奪い返す。ボールを持ったのは、ボランチのクリスだ。
相手のプレスがクリスに襲いかかる。パスコースが限定されたその瞬間、迅は動いた。
相手DFの視界から一瞬だけ消えるように背後へステップを踏み、そこから爆発的な加速で前方のスペースへと飛び出した。
「クリス!」
短く叫ぶ。クリスは一瞬だけ躊躇したが、それ以外の選択肢がなかった。前線へ向けて、低く鋭いロングパスが放たれる。
「遅い!」
相手の大型DFが、迅のスピードについていこうと長い足を伸ばす。しかし、すでに迅の加速はトップギアに入っていた。176センチの身体が、まるで風を切り裂くようにDFの脇をすり抜ける。
(追いつく――!)
完璧なタイミングでボールの下に潜り込んだ。バウンドするボールを、迅はスピードを落とすことなく、右足のワンタッチで前方に押し出す。完璧なファーストタッチ。そのままペナルティエリアへと侵入した。
前に出てくるゴールキーパーの動きが、スローモーションのように見えた。
右足でシュートを打つと見せかけ、わずかに上体を傾ける。キーパーが左側に体重を乗せた瞬間、迅は右足の甲でボールを優しく擦るようにして、ゴール左隅へと転がした。
ネットが揺れる。
静寂がピッチを包んだ。クリスを含め、さっきまで迅を侮っていたテスト生たちが目を見張っている。
明確なゴールなどない。けれど、この瞬間のために、自分はここにいる。迅は小さく息を吐き出し、自陣へと歩き出した。その背中に、スカウト陣の熱い視線が集まっていた。
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