エーテル
Arca
chapter8「四月二十八日、登校」
人は、現実を観察しようと思えば事切れるまでどこまでも観察できる。祖父の一周忌で親戚一同が集合した時、配られた弁当に入っているエビの頭部を解体して舐めるように隈なく観察していた幼少の私の精神状態は、極めて冷静で凪いでいた。目の前で起こっていることについて、目を凝らして細かい観察と理解を得る行為は、自分なりの処世術に似た癖であり、安らぎを与えるお守りである。
「・・・・・・・・。」
例えば、俗に言う非常事態に陥った場合は、淡々と現実を見て自らの生体的観念的反応を伺い、書き留めるようにポイントを心に羅列するのが効果的なリラックス方法である。
分かることはつまり、
朝靄の遠くに浮かんでいる内側にめり込んだガードレールに一昨日の散歩の記憶が重なって揺れていること、
何とかという政治家の選挙ポスターは十年前から同一の写真が使い回されていること、
小四の頃社会科見学で訪れた鉄工場のダダダダダダダダダダが微かに聞こえていること、
パーカーを血に染めたユサがゴミのように車道で横たわって呻いていること、
豆腐屋の仕込みの匂いに今日も吐き気を催していること、
通行止めの標識のポールに反射材でギラギラ光るステッカーが三枚貼られていること、
心臓の鼓動が打撃のように全身を震わすこと、
ユサの金属バットがL字にひしゃげていること、
そして、
四月上旬の予感の通りに今までの生活に終わりが訪れた、
ということ、だ。
chapter1「四月四日、始業前」
フロア65行きのエレベーターはQ棟の最も東に設置されており、学徒は丘に寝そべって敷かれた道路を登って西に開いた学院の門扉をくぐって登校するため、彼等にとって、フロア65行きのエレベーターは学院のエッジに存在することになる。Q棟フロア3にあるフロア65行きエレベーター降着地点の近辺は、指導や学徒活動で利用されるための部屋などが配置されておらず、又、その通行路は、フロア65を目的地として除いた如何なる用事に対する通行路として遠回りになるため、自然、当該エレベーター付近は一日を通して人通りが一般になくなり、その存在を普段から意識する人間はフロア65の関係者を除いて、学院に存在しない。
スコッ
割と奥まで押せる緑色のボタンを押す。昨日の私が下校時に降りてから誰もエレベーターを使っていないのか、ボックスはフロア3に停留していた。遥か彼方からのボックスの到着を待つ必要はないようだが、残念ながら年季の入ったエレベーターシステムの起動を待たなければいけない。
微かな振動から、早朝のマシンへと徐々に血液が流れていくのが分かる。
ビィーーーーーーーーーーンン
普通科の学徒間で語られるフロア65のアバウトな要約は、酢々々々々、極彩色人面ロバを育てる五千人の老人の円陣、神話的な若気の至りの大陸、会員制フィットネスクラブ無限受付、下っ端クラゲが見た細い喫煙所の夢、七不可思議不思議の五不可思議不思議強、などであり、各印象が現実離れして、互いに関連性を持たないことからも分かるように、実態を経験として確かめた記憶を持って正しく形容できる人間が普通科におらず、そして、各印象が常識に照らし合わせて奇怪、不条理であることから分かるように、教養の不足した若者への教育に適切な環境からは多かれ少なかれ逸脱した場所として捉えて間違いはない。穏当に社会的に庶民の営みを行う人間であれば、存在を意識することが空を掴むようでままならない夢幻の類、近寄らないように心がけることすら必要としないほどの謎の秘境であり、仮に近寄る人間がいたならば、それは自主的に近寄ったのではなく、フロア65もとい学院長の出鱈目によって、運命の糸を強引に手繰り寄せられたのである。
即ち、二年連続で煌びやかな喧騒から離れたフロア65所属の私は、最早、誰一人マイノリティの烙印を押しすらしないマイノリティとなり、思い描く、真っ当で単純な学徒の雲のような日常からは、日の巡りとともにみるみる離れていくのである。
カーーン、
生の金属的な音がエレベーターシステムの遅い起動を知らせた。
不器用に開いた堅牢な扉から、灰汁の溜まったクリーム色のエレベーターボックスに乗り込む。閉のボタンを押してから扉が閉まるまでの間、目の前の廊下の壁に貼られた同好会の勧誘らしき貼り紙に描いてある、触覚の生えた宇宙的なキャラクターに気を取られていたが、視力が悪くて何の同好会か分からなかった。
ボックス内部に設けられた薄い鉄階段をゆっくりと降り、足元の網目に阻まれた暗い空中を見ながら、思う。
「おなかすいた。」
地底人は元気である。地中で長年に亘り、衣食住を満たしながら世代を交代してきた彼等は、大小含めて十度程度の乱世を経験し、コンビニエンスストアを作るところまで到達したという。彼等は、目の前の生活を大事にするタイプの種族だったため、自身の暮らす環境がそのまま世界の全てであると信じて不都合がなかったが、ロマンの突然変異によって天井に疑問を抱いた一部の識者は、自らのアイデンティティと対峙して、世界の拡張に信念を燃やした。星の深層から空を眺めるほど地中を上に掘る無理を通すことはできず、彼等の生成した穴は今から五年前に崩壊し、文明は土に還った。彼等の位置する空間は学院を含む区の直下であり、崩落の影響で区は約五メートル沈下し、学院も同様に仕方なく沈んでいったが、フロア65行きエレベーターだけは沈まなかった。
ゴーー、ーーーーーッ、ーー
かつての学院長はその昔の酒の席において、かつての姉妹校校長が唱える、協調の名を呈した不平等と怠惰で、学徒の健康を損ねて将来を狭める教育方針に反感を覚え、塔のように高く聳える孤高の教育機関を創立し、情熱と知性で若者の運命を開いていくと息巻いた。姉妹校校長は、学院長の体たらくを知っていたためあまり本気にしていなかったが、やる気になるのは良いことだと思い、珍しく興が乗って「未来に学院長が自身の企画により自身を学院長とする正式な教育機関を設立した暁には、我が其の教育機関の一部設備の工事負担をする」という旨の契約を、同席した蟹味噌ノ神の法で交わした。
ホーーー、ーーーーーオーー
数年後、見事に学院長は学院長となり、契約に基づいて、まだ学院のシンボルとして機能していたフロア65に通ずるエレベーターの設置工事を姉妹校校長に依頼したが、当時、姉妹校校長は金に困っており、抱えている借金をさらに増やす手立ては既になかったため、工事を業者に発注することができなかった。しかし、契約は蟹味噌ノ神の眼に睨まれている約束であり、履行不能となれば相応の蟹的罰が不可避で下されることになる事態に焦った姉妹校校長は、知己の鬱病の道士のドアを叩き、一分浸かると一日若返る銭湯の回数券と引き換えに、位相マジックによるエレベーター設置工事を依頼した。
ボーーンオーーーーーーー
その後、無事に設置は完了し、晴れて契約は果たされたが、通常の工事とは異なり、緯度経度高度を固定して
「ツカイ」
に永遠にエレベーターを吊るさせる仕様であるため、学院が絶対的に下にずれると、エレベーターは相対的に上にずれることになり、5年前の沈下によって、フロア65行きエレベーターはフロア3からフロア68を実質昇降するようになってしまった。妥協の結果として、エレベーター内に地下部分が増設され、最上階に着いた際に地下の扉が丁度フロア65の扉と合致するように調整されたことで、エレベーターは従来の役目を取り戻した。
フューーーー、ーーッボーーー、ー
が、エレベーター内の地下の扉と崩落の影響で故障したフロア1のほぼ再起不能なエレベーター扉を調整する工事は費用対効果が限りなく低いということで延期となり、仮に設けられたフロア3の簡単な昇降口からしかエレベーターに乗れなくなった。そのせいで私の登校には、フロア3まで階段で登る、及び登った分をエレベーター内の階段で降りる負担が課され、下校も然り、毎日鬱陶しい微細な疲労が溜まることとなった。例えば今日みたいに、面倒がって朝食を食べて来ないと、この辺りで腹が減ってくるからか、今年度の自分に再び課された理不尽な階段の往来にささやかな苛立ちが募ってくる。当たり前だが、人として、なるべく気分良く毎日を過ごしていたい。低血圧でどれだけ食べる元気がなくて食事が億劫だろうと、朝食は食べた方が幸せなのだろうか。
ヒュオーーーーーーーッ、ーーー
エレベーター内の地下室は、即席で作ったように簡素な格好で、オリジナルのエレベーターボックスに比べて、厚みと愛情がない。中小企業の安くて古い社宅にありそうな螺旋階段は、汚いが平和的なクリーム色のボックスを無邪気に殴るように、ボックスの隅にその入り口が設置されている。螺旋階段を三周しながら徐々に視界全体に広がる地下室は、人が余裕を持って寝れるほど大きい一斗缶を想像すると大方相違がなく、四隅に闇を残しながら、螺旋階段の手すりに括り付けられたやる気のない裸電球がぶっきらぼうに全体を照らしている。足場の鉄板には何故か無数の小さな孔が空いており、吸い込まれていくように高速で上階を目指すエレベーターが生む空気の対流が、アタックをできる限り減らした遠いサイレンのようなぼうっとした音に変わり、孔をすり抜けて地下室に響いている。
ヲーーーヲーーーーー、ーーー
喪服をテーマにデザインされた冬服のポケットに手を入れて、ほつれてねじれた糸を指先で触りながら、謎の場所に一人、ただ立っている。左肩から斜めがけにしたカバンは、教材が未配布でほとんど荷物が入っていないため、嘘みたいに重みがない。
「耳、痛。」
エレベーターは止めどなくノイズを排出しながら、時々大きな衝撃音を鳴らす。上がっているのか、下がっているのか、そもそもどこかに向かって動いているのか。これ以上ないほど無機質な壁に囲まれながら異様な音響に包まれる百秒間の憂鬱について、私は世界のどこにも存在していないように、ただ考えないことに徹することにした。
オーーーーーボーーーーーーーー、、、
ー、ーーーーーーー
ーーー
ー
、
、
ー
「ねむ。」
ーーー、ーーーーー
ーー、ーーゥヴーーーォンンッ
身体が縦に伸びる。
「着いた。」
カーーン、と到着を知らせる金属音が鳴り、バタバタとぎこちなく扉が開いた。同時に、段々と前方に景色と呼べそうな空間が広がっていく。
フロアの一角に置かれた木製丸テーブルの輪郭の丸みが、地下室に優しく命を吹き込むような確かな安心感とともに、今日もエレベーターの到着を待っていた。
「静かだ。」
ボックスから解放されて身体を久々に動かした私は、エレベーター扉が閉まる音を背で聞きながら、冷たく清々しい空気で肺を満たし、束の間のリフレッシュをした。
磨かれたばかりの床を、買ったばかりの革靴で踏んで教室に向かう。話し声はおろか物音ひとつ聞こえないフロアを、見かけ上無駄な動きがないように意味もなく自然に歩きながら、目線だけは大胆に動かして見渡した。
カッー、カッー、カッー、カッー、
大聖堂ほどの高さの尖った天井、呆れるほどある空き教室、美術館やボランティアのポスターがひしめく巨大な掲示板、狂いなくずらっと並んだ白いロッカー。フロアに横たわる大きな廊下は広場としての役割も兼ねており、大型モールの吹き抜けエリア一階のように、意匠を凝らしたベンチや観葉植物がお互いに調和できる間隔を保って几帳面に配置されている。日中、煌々とフロアを照らしている無数の照明群は、早朝ということもあって未だ点灯されておらず、天を捕らえた窓から注ぐ柔らかい陽光が、やけに広い廊下に適度な翳りを作っていた。
視界の左側では、造形美と実用性を備えたシンメトリーの屋上庭園が広がっており、ガラスの向こうで新鮮な朝の空気を取り込みながら、行儀良く青空を湛えている。外に出て縁まで行くと、眼下の街々を超えた先に、貨物船が通る近海の水平線を臨むことができるらしい。
カッー、カッー、カッー、カッー、
遅めのペースで歩を進める。空間が足音を大袈裟に響かせる。濁りのないガラスと、打ちっぱなしのコンクリートと、病的に白い漆喰と、惜しみのない大理石でブレンドされた壁面に、一歩ずつ跳ね返っては、一歩ずつ染み込んで行く。
カッー、カッー、カッー、カッー、
緩やかな残響、無風。
庭園の草花は揺れている、ーーーーー。
他人の存在が感じられない落ち着いた院内は、終末的な安らぎを生んでいる。最奥にある教室への直線上を行く私は、歩くリズムに合わせて記憶を呼び起こすように、昨日の夕暮れに交わしたアルカとの会話を思い出していた。
・・・・・・・
「あはは。不服そうだね。」
丘の上にある学院から駅までの道路の勾配に足取りをそれとなく乱されながら、並んで下校する。久々に会ったアルカは、相変わらずつま先で跳ねるような歩き方で歩き、面白みのない内容でも屈託なく笑いながら話す様子は、最後に見た時と何一つ変わっていなかった。
「不服・・・不服・・。そう強い感じではないけど、でも、まあ、」
遠く工業地帯の向こうに沈み行く太陽が、眩しく視界に居座り続ける。夕暮れは絶頂を迎えていた。
アルカは、うん、と小さく相槌をし、でも、まあ、に続いて出る私の言葉を分かっているかのように、ふわりと反応を促した。
でも、まあ、何。
自らが出した煮え切らない、でも、まあ、の続きを探りながら、黄色の洋風一軒家の前庭で披露されている、やけに熱心な家庭菜園に何気なく視線を乗せる。ムラのない芝生、滑らかに刈られた大小の草木達、予想通りといった感じで咲き誇る花壇と鉢の花々。大事そうに配置されたそれら全ては、不揃いな容姿をバランス良く補い合って奥行きのある揺らぎを成立させている。一体、どんな人間がどれだけの労力をかけているのだろう。肥満のリッチマンが腰痛を代償にしたのだろうか。考えてみれば、付近一帯にある瀟洒で謙虚な外観の家々は、地形にうまく対応して絨毯のように住宅街を成しているが、不思議と住人らしき人間を見たことがない。もう少し行くと見えてくる戸のない駄菓子屋にも、客が入っているところを見たことがないし、そもそも店員がいたかどうかすら・・・・・。
「・・分かんない。」
堪えきれず、ため息のように言葉を吐いた。あはは、と笑ったアルカの横で、苦味を消すように自嘲的な笑いを自制する。
分からない。本当の思いはもう少し柔らかくて、薄く広がっている。形容し難い胸のわだかまりは、何に対して湧いているのだろう。天空の孤島に再び配属されたこと、登下校が無駄に長いままなこと、普通の院生生活を送れないこと、それらに抗えないことに対してだろうか。だとしたら、純粋に不服と言ってしまって満足できそうである。問題は、もっと根幹の辺りで、オーラのように掴みどころがなく見えづらい。正体が漠然としているのは、自分が対峙しようとしている何かが、自分が考えているより、もっと大きくて、もっと深くて、もっと遠いからなのだろうか。或いは、もっと単純で、すでに自分が知っているような、当たり前のことなのだろうか。
遠くで騒ぐ少年の声が、朧げなエコーになって、閑散とした午後の街に消える。私という人間を深く知っているような落ち着きで、アルカは簡単に未来を印象付けた。
「きっと、良くなると思うよ。そのうち。蓮沼は、蓮沼が思っているほど暗い人間じゃない。」
かつて母親も同じことを言っていた。対外的に明るい振る舞いをしていた昔の私を知る母親は、日々を口数少なに生きている今の私を見ても、根っからの暗い人間だと思えないらしい。今の価値観で表現された今の私だけではなく、産まれたときからの私の変化を見続けているからこそ出てくる貴重な感想である。それを一年ほどの付き合いのアルカが見通している。大丈夫、あなたが思うほどあなたは暗い人間ではない、と。母親は、過去を通して力強く経験的にそう語った。アルカは、訪れる未来を通して導くようにそう告げた。両者はそれぞれの地点から、今の私に必要な紛れのないエールを送っている。
「そうだと良い。」
「うん、自然に、きっと、良くなる。」
鮮やかなオレンジに身を染めたスクーターが、颯爽と二人を追い抜いて行った。
この先に何が待っているのだろう。今までのこととこれからのことが自分にとってどれだけの意味を持つのか、誰かが教えてくれるわけではない。「エア」を感じられる人間に背負わされる運命について、自分の身で経験しない限り分かるはずがない。私は、いずれ起こるだろう出来事について、真っ向から受け止める覚悟ができているのだろうか。
きっと、良くなる、ーーーー。
世界は無数の循環で成り立っている。目の前の生活をどれだけ愛していようと愛していなかろうと、にべもなく変化は到来して、全てを過去に捨てて行く。自分より自分のことを知っていそうなアルカの言葉に縋るように、凝った心を解きほぐそうとしてみたが、それさえ正しいかどうか不安でもあった。
小さくなるオレンジのスクーターを目で追う。そういえば、過去にも下校中にこの辺りで追い抜かれたことがあるのを思い出した。なるほど、住人はいたのか。
「そうか。」
電柱の長い影が、夕陽に隠れて来るべき夜を待っている。見覚えのあるスクーターは、カーブを曲がって煉瓦塀に溶けた。
「少し急ごう。闇が降りてくる。」
・・・・・・・
何かが鳴っているのか。
前方へと進むほどに、違和感は確かさを帯びていく。規則的な足音の反響に、抑揚のある別の要素が混じっている。
聴覚。
単調で茫洋とした環境音とは異なり、ノイズとともに何らかのメロディーを持った音色は、教室に近づくにつれてその輪郭を明らかにさせていく。中高音域の張りすぎない厚みに拘った音価で奏でられる、包み込むようにスローな和音は、開放弦のクリアな鳴りに貫かれながら、胸が空くような単音と冷たく鋭いスライドを掛け合わせることで、美しさの裏の哀感にサウンドのスポットを当てている。技巧的なプレイを避け、音同士の間に空間の沈黙を織り交ぜる丁寧な調べによって、流れ行く時を効果的に演出する明るくも儚げな曲調は、穢れを透過してひたっと素手で琴線に触れては、人をその気にさせる澄んだ詩情を生んでいた。
エレキギター。早い、もう来ているのか。
フレーズが、再び優雅にリフレインする。さりげないアレンジの発見を忘れない。静謐な朝に音楽の歓びを得たフロアは、壮大な虚空をそのままに、魂を浄化するための幽玄なステージへと化しているようだった。
「うま。」
発信源の教室は、前後ともにドアが開け放たれている。段々と足音は響かなくなり、歪みの音は増していく。今まで通りの歩くスピードを保ちながら、教室とフロアの鉄の境界線を跨いで、長い登校を終わらせた。
演奏が止む。垂れ流しの無機質な音。
「おはよう。来たね。」
ベージュのカーテンが風で淑やかに膨らむ。アルカはベランダと快晴の空を背景に、一人、窓際の椅子に腰掛けていた。腿に乗せた淡いブルーのギターから伸びるシールドは、足元の二つのエフェクターを経由して、掃除用具入れ前にある重厚なアンプに繋がっている。辺境に匿われて去年から私物化されすぎた備品のアンプは、普通科の院内では消失したことになっているらしい。
広大なフロアの割に並のサイズの教室を土足で踏んで行く。布のショルダーバッグを脱ぎ、教室中央にある自分の机のフックに小さい持ち手をかけた。
「ざす。早くね。」
着席。二列挟んだ横。
「うん。まあね。」
バッグの中を右手で探ってペットボトルを取り出し、ひねる。未開封の固いキャップが、カチッと小さく鳴った。
アルカは、ギター側でボリュームの出力をゼロにしてから、小規模な素の音で適当にフレーズを弾いている。私は、ペットボトルを傾けて、まだ冷えた天然水を口に通した。4月4日火曜。日付以外に何も書かれていない黒板は、チョークの痕跡を少しも残しておらず、差し込む日の斜線で緑と深緑に区切られている。明かりがついていない室内は、授業をするには少し薄暗い。
ぼんやりと教室の雰囲気を感じながら、水の塊を飲んだ。あまり喉は渇いていないが、目的地に到着すると何となく習慣で飲んでいる。いつも飲む直前に、本当は喉が渇いていないと気づくものの、蓋が開いて飲む流れができているので、やはり飲んでいる。それが繰り返されたことで、最近は、実際に喉が渇いているような気もしてきて、本当の自分が分からなくなっている。しかし、無害だし、飲むと不思議と満足感が得られるので、もうそれで良いと思う。喉の渇きが嘘か本当か、いちいち考えるまでもなく、どうでも良いと思う。
少し軽くなったらしいペットボトルのキャップを閉める。右上を見上げて丸い時計を確認すると、分針は12を越す直前だった。思っていたより早い。
「うお、早。」
「あはは。」
心地よい涼しさの朝にアルカの笑い声が馴染んでいく。透明のペットボトルを机に置き、ふうっと椅子にもたれた。肩甲骨を椅子の上辺に掛けながら浅く座り、通学の疲れをゆっくりとした呼吸で癒やす。一つ空いた窓からそよ風が入り込んで、髪がかすかに揺れるのを感じた。
休憩。メロディーが眠気をもたらす。
暫くしてから、ギターの手は止めずに、アルカは真っ直ぐな視線とともに話題を振った。
「エーテル、知ってるよね。アニメの。」
「ああ。」
「展覧会があるんだ。設立50周年記念で、古い映像とか原画とかが見れるらしい。」
「へえ。」
「去年授業で行った美術館、覚えてる?」
「ああ、ポストカード買った。」
「うん。」
アルカは演奏を中断して、ギターを床のソフトケースの上に慎重に置いた。何かの紙を持ってスタスタと私の席に近づいてくる。
「あそこで、春、一ヶ月後くらいまでやってるみたい。ほら、これ。どう、良いと思わない?」
エーテルは、外国のアニメーションスタジオだ。誰もが知っているようなアニメ作品を複数制作しており、私も幾つかの映画をテレビ放送で観たことがある。机の上に差し出されたポスターには、人気シリーズの主人公の探偵と相棒の犬が、アニメとは異なる油絵タッチで、線をぼかしながら情感豊かに描かれている。作中で躍動する好奇心旺盛な少年は、少年以上に冷静かつアクロバティックに捜査を補助する中型犬と並んでおり、普段の活発なイメージとは打って変わって、しっとりと友情を確かめ合うように白い太陽に照らされた構図には、透明感のある光と寄り添うような陰影のバランスによって、ファンの心に染み入るノスタルジックなアプローチが図られている。スタジオのロゴや展覧会の概要などのあらゆる文字、記号は、ストレスにならないフォント、サイズ、カラー、トーンで間隔を細かく調整して周辺に整理されており、全体をクールに引き締めるデザインの一部として立派な役目を担っている。私はこのシリーズについてあまり記憶はないし、ファンではないのだが、ポスターの仕上がりは一目見て視覚的にとても良く、担当したイラストレーター、デザイナーチームのファンになりそうだった。
「良いな。かなり。」
「でしょ、分かってくれると思ったよ、あはは。ワクワクしてくるよね。廊下の掲示板で見つけたんだ。」
アルカは嬉しみに満ちた明るい声で私の感想に応えた。伝染して何故かこちらまで嬉しくなってきそうである。
エーテル、他にどんな作品があっただろうか。やんわりと過去を辿りながら、手に取ったポスターの好印象に後押しされて、予定を打診される前に答えを言ってみる。
「うん、行こう。」
「本当?やった、あはは。」
「今日でも良い。」
「今日?すごいね。」
意表を突かれたのか、声量が少し増す。唐突に今日行くと言った方が盛り上がる気がした。今日でなくても一向に構わない。
「午前中にはもう解散するでしょ。」
教室前の時計を見上げて言う。時計に何かの答えが書かれているわけではないが、時間の話をしているので何となく見上げている。
「確かにそうだね。じゃあ、帰りに昼食を食べてから行こう。」
「おん。」
「よし。」
話が早いなー、と、左斜め前に立っているアルカは揺れながら笑った。ふふっと小さく吐息を声にして相槌のようなものを表現する。左手に持ったポスターを机の上に置き、頬杖をつきながら改めて眺める。視線は変えないまま、手を後ろに組んでフラフラしているアルカに聞いた。
「これ、犬の名前、何だった。」
「それ、考えてたんだよ。クルスかクリスだったと思うんだけど。」
「ふーん。あんまり、どっちもピンとこないな。ストーリーがほとんど思い出せない。」
「1の話?」
「1・・、ああ、もう結構続いてんのか。」
「去年の冬に4がやってたね。」
「へー、すげーな。1しか観てねーわ。」
「1はね、ノエル、この人間の方ね、の住んでる街が昔から子どもの失踪事件が多かったんだ。でも、消えたのが悪童ばっかりだったから、住民の間では土着の神か何かの祟りとかそんなので片付けられてて、何故か警察も真面目に捜査しないの。ノエルには真面目で優しい友達がいて、ある日、その友達が失踪したのをきっかけに、ノエルが、ノエルは探偵に憧れてるんだけど、独自に調査を始め出して、途中で一度組織に捕まったり色々あって、最終的に街の外れにある製薬会社の工場に辿りくんだよ。」
「あー、宮殿みたいな、でかい。」
「そう。そこの地下に攫った子どもを幽閉して、不老の研究に子どもを使ってるんだ。それをノエルとこの犬が解放するっていう話。工場は爆発する。ボカーーンって。」
「へー、よく覚えてんな。」
「何回か観たからね。因みに、犬は調査の途中で出会うよ。多分、クルスだ。しっくりくる。」
「何か、犬がトラックに閉じ込められてる少年を救出してるシーンは覚えてる。」
「あはは、あったね。ノエルのベレー帽被りながらね。というかさ、見て欲しい動画があるんだけど。」
「うん。」
「エーテルの各作品の共通点を洗い出して考察してる動画で、例えば、爆発した製薬工場の不老の実験が実は成功していて、解放された子どもの内の一人が別の作品でそのまま登場してる、みたいな都市伝説的な設定を細かく検証してまとめてるんだ。」
「へー、おもろ。見るわ。」
「ちょっと待ってね、リンク送るよ。」
「あらざす。今、見ようかな。」
「うん。でも、二十分くらいあるよ。」
「長。家で見よ。」
「あはは。」
アルカはポケットから取り出した端末を操作して、動画を探している。大方イラストは見終わったので、上体を後ろに傾け、再び椅子にもたれてだらけた姿勢に移った。両腕を宙に垂らす。風が吹いて少し鳴ったが、ポスターは動かない。机上から視線を小さく上げて、前の席の椅子の後ろをぼーっと見つめる。椅子の後ろがある。椅子、椅子の後ろ。椅子の後ろ、白めの白茶の、椅子の後ろがある。川の流れのような薄い木目が、シンプルにある椅子の後ろが、目の前にある。目の前にあるが、見ていない、無意味な、椅子の後ろだ。後ろ、後ろ。木目、薄い椅子の、後ろ白めの、椅子の後ろ・・・。薄い、木目薄、うし、ボカーーン、川流れてる、椅子の・・・・・・・。
「はい、送ったよ。」
活動が再開される。やや深く座り直しながら、どうもー、と間延びした返事をした。自分だけ変な時間の使い方をした気がする。端末がポケットにしまわれるのを端で感じつつ、右手の人差し指と中指で右目を擦る。
「あはは、眠い?」
「いや、普通。」
「そう。」
アルカはまたいつも通り後ろに手を組んで、小さく揺れながらポスターを見始めた。
少し伸びをしたい気分である。固まった視界を広くするために、頭をベランダの方に向けた。薄暗がりの教室を空が横断している。曇りない朝の眩しさに、少し目を細めた。突き抜けるように青い窓の下で、アルカのギターがひっそりと寝ている。
「弾いていい?」
「うん、いいよー。」
ゆっくりと席から立ち上がる。椅子のずれる音が響いた。上半身を軽くストレッチさせて歩き、窓際まで行ってギターを起こす。持ちながら、アルカが座っていた席に座る。ほんの少し寒い。開放弦を撫でて鳴らす。ボリュームのツマミを徐々に回していく。会話にうるさくならない程度で止める。左手でミュートする。ピックを探す。机にティアドロップのピックがある。右手に取る。手癖のコードを抑える。呼吸する。弾きたくなる。弾く。鳴る。聴く。満たされる。冴える。流れるままに指を動かす。ほぐれていく。右手が呼応する。弾く。鳴る。聴く。メロディーが心を満たす。落ち着く。祈りに似た感情が生まれる。思う。弾く。続ける。弾く。鳴る。聴く。流れる。弾く。祈り。満たされる。弾く。鳴る。聴く。続ける。弾く・・・。
ポスターを机の上に置いたまま、アルカが近寄ってきた。右斜め前の机に軽く腰掛けて、フラクタルの精緻な紋様が描かれた白銀のエフェクターを指で指す。
「こっちのディストーション、昨日買ったんだけど、どうかな。」
「かっけーな、見た目。」
「かっこいいよね、あはは。中古の相場より三千円くらい安くて、買っちゃったんだ。LEDは故障してたけど、家にあったから付けといた。これ見てよ、ツマミの名前が面白いんだ。アニマ、パトス、エデン、ゲヘナだって。分かりにくいよね。」
「何だそれ。」
「アニマが音量、パトスが歪み、エデンが高音域、ゲヘナが低音域みたいな、多分。あはは。」
「へー、パトス。」
「それで、若干傾斜も付いていて、スイッチの押し心地も良いんだよ。どこで売ってるスイッチなのかなこれ。硬すぎず、カチって押した感じが分かりやすいんだ。」
「ほんとだ。スカスカしてない。」
「でしょ、昨日何度も押しちゃったよ、あはは。」
「壊れそうだな。」
「うん、程々でやめたよ。」
「というか、この前もエフェクター買ったって言ってなかったか。真空管の。」
「あはは、そうだね、もうお金なくなっちゃった。」
「そうか。それも前言ってたけどな。」
「よく覚えてるね、あはは、悪いことできないや。」
「悪いこと。」
「そうだ、真空管も持ってくれば良かった。こんなに大音量で試せるの、ここの他ないからさ。」
「それはまあ。」
「本当に大変だったけど、エレベーターでアンプ運んだ甲斐あったよ。」
「あ、そういや、エレベーター、朝乗る時に下に降りてたけど、飛んできたの?」
「あはは、あれはここに着いてエレベーターから降りる時に、降りるボタン押してきたんだよ。あれ押しとくだけで、二分くらい待ち時間減るからね。」
「マジか、やるな、すげー助かったわ。ありがとう。」
「いえいえ、逆に今まで思い付かなかったのが不思議だよ、あはは。」
「今度からやろ。」
「でもまあ、ここから降りたい時に不便だったりするけどね。」
「そうか、むずいな。」
「あはは、むずいね。」
「むずい。前、言ってたインストバンド。こういうくだりあったよな。」
「おっ、すごい、僕もコピーしたよ。」
「この辺りから移動がぐちゃぐちゃになる。」
「あはは、大変だよね。神速で動かさないと。」
「無理だろ。弾ける?」
「うん、練習したからね。」
「すご、一回頼むわ。はい。」
「おっと。よし、ちょっとエデン上げよ。」
「こなしてるな。」
「あはは。えーと、・・・・・。」
「うおお、すげー。完璧だな。」
「あはは、ありがとう。ついでにさ、春休みに作った曲があるんだ。ちょっと聴いてよ。」
「へー、聴きたい。」
「本当は、ドラムとベースが欲しいんだけどね。仕方ないからギターだけでやる。」
「音源は作ってないの。」
「作った。欲しかったら送るよ。」
「欲しい。」
「あはは、分かった。」
「さっき弾いてたやつ?」
「ううん、違う。あれはカバーだよ。五十年くらい前の電子音楽をアレンジしたんだ。」
「そう。」
じゃあ、と小さくこぼしてから、アルカは爽やかにコードをひとつ鳴らした。淡いブルーのボディがきらりと光る。すうっと垂れていく日光が、アウトプットジャックに溜まるのを見た。朝が静かに滞留している。引き伸ばされる時。残るノイズの傍で、何もかもが止まっていく。瞬間で世界が過ぎ行く気配がした。教室には他に誰もいない。始業の鐘はまだ先らしい。少しの間をおいて、旋律のために、無音のリズムが右手で四度刻まれた。




