第1章 第後話 前編 悔恨の鬼 ⑬
話はまた一か月ほど飛ぶ。
「右上。右下。右上。はい、左下!」
あたしは潮音から脚の使い方の訓練を受けていた。
初めて使った時と比べれば見違えるほど自由に使えるようになったが、それでもまだ潮音には遠く及ばない。
潮音は今、あたしの背後にいる。あたしは背後から伸びてくる潮音の脚を、同じく伸ばした自分の脚で触る練習をしている。潮音曰く「手探りの練習」らしい。
「左下。左下。右上。左上。…よし、一旦終わりにしようか」
「うん、どうだ?俺の感覚だとかなり上達したと思うんだけど」
「うーん。そうだね。手足のごとく仕えてる感じは出て来たよ」
「そうか。よかった」
あたしは潮音からの評価に胸を撫で下ろすとともに、軽く胸を躍らせる。
「いやいや、駄目だよ。あまり喜び過ぎても。不自然な出し方をしているとはいえ、紛れもなく潮音の脚なんだから、手足のように動かせるのは当たり前のことなんだよ」
「言われてみれば、そうだったな…」
あたしの中で広がりかけていた喜びの炎が静かに鎮火された。
「でもかなり動きに無駄がなくなってきてるし、その状態で普通に動けるって言うのは上達の証だよ」
「そう、なのか?」
「うん。でもそれで満足しちゃ駄目だよってこと」
「うん、分かった」
あたしは何度か、脚を出したりしまったりしてから踵を返して今まで顔だけだったのを、体ごと潮音と向き合う。
潮音は既に脚をしまった後で、いつもの人間の姿で立っていた。
「潮音の時は、どれくらいで今くらい使えるようになったんだ?」
「ん?今くらい使えるようにって…それは今だよ。今くらい使えるのは今だけだよ」
「いや、そういう言葉遊びをしたいんじゃなくて…」
「うん。分かるよ。自分のやってることが合ってるのか不安なんでしょ?でもその不安を解消してあげることはあたしにはできない。あたしだって今試行錯誤の途中なんだから」
「潮音が?」
意外だった。あたしはてっきり、潮音は脚の使い方を極めて、自信があるからあたしに教えてくれているものとばかり思っていた。
「うん。あたしは潮離と出会うずっと前から練習をしていたんだけど、ある日ふと上達が止まる感じがする時が来るのよ」
「そんな時はどうすればいいの?」
「焦る。ただただ焦って色々やる」
「……あ、え?それが答え?」
焦っちゃ駄目だ。落ち着きが肝心だ。みたいな話を同じ口からされた気がするんだけど。本当に同じ口なんだろうか?
「そう。例えば今潮離は脚を操ることを頑張ってるでしょ?今までは視界の中でだけど、今は死角で操る練習を」
「ああ」
「そしていつかは脚を自由自在に操れるようになるわけだよ、そうなったら脚を使って物を運んだり、戦ったりする方法を教えようとあたしは考えてる」
「うん。その時はよろしく頼む」
「いえいえ、こちらこそ。でもね、一人でやってるといつまでも脚の操り方の練習ばっかりして、ある日ふと思いつきで物を持ち上げようとした時苦戦して落ち込むわけだよ」
多分これは潮音の経験談なんだろう。潮音は遠い目をして、嫌なものでも思い出すように話している。
今のあたしなら分かる。今まで何も持たずに、負荷を掛けずに脚を動かしていたのが、ふと思いつきで重い物を持つと普段とのギャップが大きすぎて習得した動きをできなくなってしまうということだ。
「そんな時、どうすれば落ち込むことなく脚の使い方を習得できると思う?」
突然質問をふられたあたしは、これまで潮音に教わったことを思い出して、潮音が喜びそうな答えを導き出す。
「元気を出す」
「はい。違います」
しかし不正解。どうやらさっきの問いは真面目な問いだったようだ。
「大事なのは順番。どこまでできるようになったら次の手順に行けばいいとかいうことを考えてないと駄目なんだよ」
「つまり、経験者の指導が必要ってこと?」
「そういうこと」
なるほど、つまり潮音は遠回しに「あたしがいてよかったでしょ?」と言いたいわけだ。
「だからね、潮離」
しかし潮音の思い通りになんてさせない。
「分かったよ潮音。つまりこういうことだな」
潮音の言葉に被せてあたしは強引に自分の言葉を捻じ込む。
「このままだといずれ頭打ちになってしまうから、積極的に先人の知恵を学ぶべきだということだよね」
「あ、うん。そうだよ。分かってきたねえ潮離」
「というわけで今までお世話になりました。先人の知恵を求めて俺は旅に出ます。どうかお元気で」
あたしはその場で恭しく、且つ、わざとらしくお辞儀をする。
潮音はどんな顔をしてるだろう。と、内心ワクワクしながらあたしは顔を上げる。キョトンとしてるだろうか、慌てているだろうか、それとも怒っているだろうか。何にせよ潮音の鼻を明かすのに十分な表情ではあるだろう。
未だかつてないほどの期待を胸に押し込め、あたしは顔を上げて潮音の表情を伺う。
「な、なんで…何でそんなこと、言うの……」
潮音は泣いていた。いや、厳密には涙目になっているだけでまだ一滴も涙はこぼれていないから泣かせたことにはなっていないはず。
なんてことを考えてるうちに潮音の目から涙が一粒こぼれる。あたしが潮音を、師匠にして恩人の潮音を、泣かせた瞬間だった。
「何で?潮離はあたしのこと嫌いなの…?グスッ…今まで仲良くしてたのに、潮離はあたしのこと嫌いだったの…?」
嘘泣きではないかという淡い希望は、二粒目の涙と共に流れた。
ほんの冗談のつもりだった。この程度の軽口はいつも叩いてるつもりだった。しかしあたしはこの時初めて気付いた。今の今まで、潮音に反抗はしてきたものの、「潮音の元を離れる」と、自分から口に出したのは初めてだったということを。
「いや、落ち着いて潮音。ただの冗談だから」
あたしは、とっくに手遅れだと気付いてはいたけど、潮音の元に駆け寄って潮音の落ち着きを取り戻そうと試みる。
「ウッ、グスッ…冗談でも言っていいことと悪いことがあるよ…」
「常日頃から俺に冗談を飛ばし続けている潮音の言えたことでは絶対に無いと思うんだけど…」
いや、もしかすると常日頃から冗談を飛ばしている潮音だからこそ言えることなのかもしてないけど。
「いや、とにかく悪かった。これからはあんなこと絶対に冗談でも言わないから」
「……うん。いいよ。そういうことなら、グスッ…許してあげる」
幸いなことに潮音の目から涙がこぼれるのが止まった。それでもまだ目に溜まった涙は残っていて、きらきらと光りを反射していた。
「…あ、駄目だよ潮離」
ふと、潮音が思い出したように口を開き、浴衣の袖で涙を拭う。
「こうしちゃいられないんだったよ。今日は行くところがあったんだ」
「行くところ?今度は夏の山菜でも採りに行くの?」
「違うよ。今日は村の仕事。そろそろ夏が始まるでしょ?」
「ああ、そうだな」
あたしがこの世界に生まれて初めての夏だったりする。
「年によって違うんだけど、夏になると日照りが続いて水が無くなることがあるのだよ」
潮音はすっかりいつもの調子に戻っていた。
左手を腰に当てて右手の人差し指を立てる。その指は基本的に何を指すともなくふらふらしている。
「そんな時に村を救う物、それが溜池だよ」
「今日は村のみんなで溜池を作ろうって言うの?」
「うーん。まあそういうことかな」
「何?正解じゃないのか?」
潮音の、含みを持った物言いにあたしはつい反応してしまう。
「溜池は一回作ったら基本的にずっと使えるから新しく作るってことはしないの」
「?いや、でも」
「今回は作るんじゃなくて、厳密には修理。溜池のうちの一つに泥とか枯れ葉とかが入って沼みたいになっちゃってるのがあったんだって」
「なるほど。つまり、それを本来あるべき姿に戻すのが今回の仕事ってこと?」
「そういうこと」
潮音は今度は大きく頷いた。
「ちなみに集合時間は朝の10時」
「え?朝の?」
あたしは空を見上げる。
太陽の高さから、おおよその時間を目算したところ、
「もうすぐなんじゃないの?」
「うん。下手すればもう始まってるね」
あたしは潮音と顔を見合わせる。
「急ごうか」
「そうだね」
潮音が駆け出す。そこへ一呼吸開けてあたしも続く。人間の姿だとどうしても牛鬼の姿の時と比べて移動速度が落ちるため、こういう時はすごくもどかしい。
念のために言っておくが、決して人間のあたしの脚が短いとかいうことじゃないからね。あくまで相対的な話だから。
暫く走って
「ごめんみんな!遅れちゃった!」
目的地である溜池のある場所に到着した潮音は、既に集まっていた他のみんなにまずそう叫ぶ。それに反応してその場にいた十人弱の男達が振り返る。みな熊手を持って池の周りに散乱している落ち葉やら小枝やらをかき集めていた。
「ありゃ、潮音さん。それに潮離さんまで来てくれたのか」
その中の一人、片手に杖を、もう片方の手には熊手を握った男が声を上げる。吉浦さんだ。
「今日は男だけでやるつもりだったから、二人は家でゆっくりしてくれてて良かったんだけど」
「うん、でも人手は足りてるの?」
「…それを聞かれると『うん』とは言えないが…」
「そしたらあたし達の出番でしょ!」
ばつ悪そうにしている吉浦さんとは裏腹に、潮音はこっちが不思議になるくらいの元気よさで作業の参加を表明する。
「大丈夫。あたしが来たからには百人力だよ!」
「潮音。それ自分で言うの?…まあ吉浦さん。そういうことだから俺達も手伝うよ」
潮音とあたしは袖と裾をまくって男達の中に加わる。
「う~ん、そしたらお願いしようかな。二人ともやる気みたいだし。…じゃあ二人は池の周りのごみを集めてくれ。男達は半分は残って二人の手伝い。半分は池の泥を掻きだしてもらおうか」
吉浦さんの指示が出るなり男達はその半分が熊手を変わった形の鍬、スコップに似た形の鍬に持ち替えて池に向かう。
池の底からせっせと泥を掻きだす若者達の横であたし達もせっせと池の周りの枯れ葉枯れ枝を掻き集め、作業が終盤に差し掛かった頃。
「おーい吉浦さん!ちょっと来てくれ!」
池の中から吉浦さんにお呼びがかかる。
「ん?どうした?」
「池の底にでかいのが沈んでる。多分倒木だ」
「倒木?そんなもんまで沈んでたのか。まあ、引き上げるしかないな。泥はどれくらい掻きだせた?」
「あらかた終わったよ。こいつが最後の大仕事になりそうだ」
言いながら若者は自分の足元に目を落とす。濁りでそこは見えないが、吉浦さんに報告するレベルということはかなりの大物なのだろう。
「よし、それじゃあこっちも片付き始めてたところだ。みんなで最後引き上げるとしよう。確か縄は持ってきてたのがあるはずだ」
吉浦さんが縄を取りに行ってる間あたし達はそれぞれ道具を置き、池の前に整列していた。
吉浦さんの持ってきた縄を、池の中の男が木に結んでる最中、潮音があたしに耳打ちする。
「最初から全力だしちゃ駄目だよ。みんなびっくりするから。ゆっくり力を強くしていくんだよ」
「分かってる。潮音よりはうまくやるつもりだ」
口ではこう言っているあたしだが、実はこの時心中穏やかではなかった。ここでやり過ぎたらどうしよう。ここで失敗したら潮音にも迷惑が掛かる。とか思っていたのだが、
「よーし行くぞみんな!引けー!」
働き盛りの若者が十数人で全力で引いたのだから当たり前と言えばそうなのかもしれないが、池にはまっただけの流木はあたしが力を入れるまでもなく一瞬で引き抜かれた。
人間は思ったよりも、強い生き物だった。




