序章
薄暮の空を舞う揚羽蝶。
その翅を茜に染め、ゆらゆらと風に乗る。
冬に遅れひと時、舞い降りる粉雪が迷っていた。
花になろうか。風になろうか。
ぼんやりと空を眺めながら、男は肩に掛けた槍越しに、町の喧騒へ耳を傾ける。
遊郭の屋根から見下ろす街並みに、平素とは異なる賑わいが連ねていた。
じゃらじゃらと重々しい鉄の音を響かせ、先触れとして四人の金棒引きが、ゆっくりと道を清めていく。
一糸乱れぬ足並みと鉄の音。
人々は息を吞み、道をあけた。
道中の先頭を行くのは、揃いの極上ちりめんを纏った二人の禿。
その小さな手に恭しく捧げられているのは、贅を尽くした特注の煙管一式である。
その後ろを、盾となる屈強な男衆が続く。
内側に極彩色の絵が隠された、巨大で格式高い大傘を掲げる男が、一歩一歩踏みしめるように続く。
二人の振袖新造、続いて二人の引込新造、そして列の後方を固める番頭新造たちが、寸分の乱れもない美しい列をなして随伴する。
だが人々が見るのは真中央。
黒漆が妖しく光る、三枚歯の高下駄。
その高さ、優に五寸。
その巨木のごとき下駄が、ゆっくりと宙に浮く。
大きく、あまりにも大きく外側から内側へと振りだされる。
水守宿の土をすりながら、それは、重々しくも完璧な弧を描く。
右へ、左へ。
一歩、また一歩と。
身に纏うのは、名工がこの日限りに織り上げた絢爛な三枚重ねの打掛。
重厚な地色に映える金糸銀糸の刺繍が、立体的な陰影を伴い、揺らめく。
まるで、生きているかのように。
それを束ね、重ねる巨大な前結びの帯。
視線を上げれば、美の極限まで幾重にも刺された、極上の鼈甲簪。
支えるか細い首筋は毅然とし、その先に据えられた切れ長の瞳には、一片の揺らぎもない。
ただ傲然たる妖艶さを、周囲へと静かに注ぎ放つ。
人々は理解する。
これが……朧であるのだと。
その澄んだ口元が、わずかに上がる。
全てを慈しみ、憂い、愛する笑みが、視線を独占する。
目を向けた者達は感嘆し、瞳を重ねた者は身震いし、ため息を漏らした。
誰一人として声を上げる事すらできない。
ただ、釘付けだった。
長い長い時間を掛け、ひれ伏す人々の前をゆっくりと、通過していく。
遊郭の屋根の上、槍の男はただただ空を見上げ、耳だけを置いていた。




