第29話 そして甘き箱庭へ?
彼は私の手を取り、その場に静かに片膝をついた。
そして、彼の懐から取り出されたのは――小さな、けれど尋常ではない魔力を放つ、ビロードの箱だった。
「チェリさん。僕と――」
私の平穏な隠居生活の終幕が、ついに物理的な質量を伴って、目の前に突きつけられようとしていた。
静まり返った薬屋の店内で、アレクシオン様が片膝をついたまま、ゆっくりとビロードの小箱を開ける。
中に鎮座していたのは、透き通るような青い宝石があしらわれた、美しい銀の指輪だった。
「チェリさん。どうか、僕と結婚してください」
真っ直ぐな言葉。
彼の太陽のような瞳が、私だけを射抜いている。
本来なら、頬を赤らめて「はい」と頷くか、感極まって涙ぐむようなロマンチックな場面なのだろう。
……一般的な令嬢であれば。
だが、あいにく私の魔眼は、三百年前から本質を見抜くようにできている。
(……ちょっと待って。何あれ)
私は、感動よりも先に、指輪に込められた尋常ではない魔力波形に戦慄していた。
美しい装飾に見せかけて、銀の台座には肉眼では見えないレベルの高密度な古代魔法陣がびっしりと刻み込まれているではないか。
(『絶対物理防壁』に『状態異常完全無効』……ここまではまあ、百歩譲って過保護な護身用だとしましょう。でも、その裏に刻まれてる術式は何!? 『空間転移阻害』!? 『特定座標自動追尾』!? これ、指輪の形をした呪縛魔導具じゃない!!)
逃がさない。
絶対に、地の果てまで追いかける。
そんな製作者の重すぎる執念が、指輪からドス黒いオーラとなって立ち昇っているようにすら見える。
給料の三ヶ月分どころの話ではない。
国家予算レベルの魔石を砕いて錬成した特級呪物だ。
「……あの、アレクシオン様。この指輪、なんだかすごい魔力を感じるんですけど」
「ええ。チェリさんの細い指に合うように、僕が王都の工房の設備を借りて、三日三晩徹夜で術式を刻み込みました。これで、どんな災厄からも貴女を守れますし、万が一迷子になっても、僕が必ず見つけ出せます」
迷子対策まで完璧だった。
この男、笑顔で外堀を埋めきった上に、首輪まで嵌める気満々である。
「チェリさん」
アレクシオン様が、私の左手をそっと取った。
抵抗しようと思えば、腕力で振り払うことはできる。でも、彼の手は剣ダコで少し硬くて、熱いくらいに温かくて……なんだか、振り払う気になれなかった。
「貴女が過去に何者であったとしても。どんな名前で呼ばれていて、どんな痛いポエム……もとい、素晴らしい散文詩を書いていたとしても」
「ちょっと、そこで黒歴史を挟まないで!」
私が慌てて抗議すると、彼はこの上なく甘やかに目を細める。
「僕にとっては、貴女はただ一人の、愛しい人です。……どうか、一生僕の傍で、美味しいご飯を食べてください」
それは、私の正体を完全に理解した上での、退路を断つ告白だ。
過去の罪も、馬鹿みたいな黒歴史も、全部丸ごと引き受けて、自分の隣という箱庭に閉じ込めようとしている。
なんて重くて、厄介で……底抜けに優しい男なのだろう。
無自覚な餌付けに絆されたのは、どうやら私の方だったらしい。
「……返品不可ですよ」
私は照れ隠しにそっぽを向きながら、小さく呟いた。
アレクシオン様の目が、ぱぁっと花が咲いたように輝く。
「はい! 絶対に返品なんてしません!」
彼が私の左手の薬指に、銀の指輪を滑り込ませた。
カチャッ、と。
指輪が収まった瞬間、空間転移阻害の術式が完全にロックされた音が脳内に響いた気がした。
あ、これ外せないやつだわ。
物理でも無理なやつだ。
聖剣カリバーンならワンチャンいけるかも?
「おーっほっほっほ! ついに年貢を納めましたのね、チェリさん!」
突然、店の奥の扉が勢いよく開き、クラーリスが扇子を片手に飛び出してきた。
「我が君ーーー!! 万歳! 万歳!!」
「宴だ! 港で一番高い酒を樽ごと持ってきたぞ!」
「チェリ様、ご婚約おめでとうございます!!」
クラーリスの後ろから、セバスティアン、グラシエル、フレイムベルグ、ネクローゼの四天王たちが、花吹雪を撒き散らしながら雪崩れ込んでくる。
あんたたち、裏で全部見てたわね!?
というか、アレクシオン様に買収されて完全に味方についてるじゃない!
「ああ、皆さん。ありがとうございます」
アレクシオン様が、私の腰を抱き寄せながら、いっそ清々しいくらい爽やかな笑顔を浮かべながら圧をかけている。
「彼女は僕が、一生かけて管理……いえ、幸せにしますので。義理の家族として、今後ともよろしくお願いしますね」
その光の圧力に、四天王たちが「ははぁーっ!」と平伏した。
三百年前、世界を恐怖に陥れた魔王軍の幹部たちが、一人の勇者の末裔に完全に屈服した瞬間である。
差し出されたクラーリスのグラスを受け取り、騒ぎ立てる元部下たちを見つめ、そして隣で私を離すまいと微笑むアレクシオン様を見上げていると――この騒がしくて厄介な日常も、悪くないと思えてしまうのだ。
かつて世界を震え上がらせた魔王は、討伐されるのではなく、勇者の重すぎる愛に包み込まれ。
追放された無能な令嬢は、今日も平和なヴェルナの街で、彼の焼く美味しいパンを食べるのである。
――なお。
翌朝、この特級呪物が放つ尋常ではない魔力波形を察知して、王都から『聖女異端査問官』なる面倒くさい連中が街に向かって出発したらしいのだが。
私が物理で弾き飛ばし、アレクシオン様の手によって消し炭にされるのは、もう少し後の話だ。
つまりは、私の安寧な隠居生活は、まだまだ遠そうである。




