8 当時は緩かったヴァイオリンの弦
ダンスパーティーの間は伯父上に呼ばれたという表向きの理由で隠れていたのだが、食後の団欒となるとすでに伯父上が就寝されたことも話題に上っており、逃げる口実には欠ける。とはいえ、ダンスパーティーで演奏していたらしい楽団がまた盛り上げてくれるらしく、ほとんど立食パーティーだった食前酒の時間よりは気が楽そうだ。皆お酒が入っているので、そんなに込み入った話もしないだろうし、ちょっとしたミスは忘れてくれるかもしれない。
ディナーの後は例のマーキューシオ様から逃げるので必死になるだろうと思っていたが、彼は令嬢達に取り囲まれて冗談を言っているので、おかげで一定の距離を保つことができている。遠目で見るとひょろっとした薄茶色の髪の青年で、ブラックユーモアが得意そうな雰囲気が出ている。
楽団が演奏を始める。ヴァイオリンは記憶にあるよりもどこかゆるゆるとした少し間の抜けた音をだす。弦楽器は伴奏のようで、主役はリコーダーみたいな笛なのかな。チェンバロも登場しているがピアノは見たことがない。ダンスパーティーではないが曲に合わせて踊り出す人もちらほら見かける。
「中世の音楽って楽しいけど単調なんだよね。繰り返しが多くてさ。」
「チューセ―、とは何かな?」
独り言を言ってしまっていたか、近くにいたバルトロメオ様に捕まってしまった。
「いえ、ほんの戯言です」
「そうか、感性はパオロのままなのかもしれないな。パオロも記憶を失う前はリュートを弾いたのだが、覚えていないのだろうな」
「ええ、残念ですが」
リュートって何かすらわからない。ちなみに、ほとんど喋っていないのに、バルトロメオ様は俺がただの記憶喪失ではないと気づいているようだ。それをいえばテオバルド司教様もなんだか記憶喪失で押し通した印象があるし、ひょっとしたら皆それぞれの解釈があるのかもしれない。
「ところで、間も無く令嬢たちが詩の朗読を始めるよ。気に入った女性がいたら、詩が素晴らしかったと言いながら声をかけたまえ。迷える子羊も大義名分があればやりやすいだろう」
バルトロメオ様はいたずらっぽそうに目配せすると去っていった。コンスタンツァ様とは仲が悪いようには見えないが、庶子を二人認知しているプレイボーイだという話もある。
今度は一連の流れを聞いていたらしい司祭様が耳打ちする。
「注目が集まるのはカプレーティ家のロザリナとジュリエッタです。特にジュリエッタは今日が実質デビューになるんでしょうな。ここは正式な社交の場ではありませんが。」
詩の朗読か、そういえばパウロは詩が得意だったんだっけ。
今まで考える暇はなかったが、せっかく健康に恵まれ、大学で勉強し、詩や歌を書いていたパウロ様が、こんなに教養のない日本人高校生に体を乗っ取られたのもかわいそうな話だ。有馬晴樹だった時と背格好が変わらないので、パウロの体や頭脳に感謝する機会があんまりなくて、もっぱら高校生・有馬晴樹の延長線上で生きているのはちょっと申し訳ない気もする。せっかくだからせめて大学は出るようにしよう。
詩の朗読コーナーにマーキューシオ様が近づいていったようだ。令嬢たちが部屋の隅にある鏡にちらっと目をやって、さりげなく服装を整えながら歩きよっていく。ああいうタイプがモテるのか13世紀は。
そういえば家に一枚張りの鏡なんてなかった気がする。小さな手鏡で身だしなみを整えるばかりだから、全身が見える鏡なんて貴重だな。
何食わぬ顔で鏡にそっと近づいてみる。
映った男は、足がすらっと長く、肩幅も不自然でない程度に広く、顔は小顔だ。目鼻立ちが整っていたのは知っていたが、ウェーブがかかったこげ茶の髪も、威圧感のない爽やかさを引き立てて見える。
「パウロ様めっちゃ格好いいじゃん!!」
思わず興奮して声を出した。
声を出した?
ん?
恐る恐る後ろを振り返ってみる。
唖然とした令嬢達がこちらを見ている。ふらついたコンスタンツァ様をバルトロメオ様が受け止めているのが見える。
いや、思わずだったし、日本語で叫んでみなぽかんとしているだけでは。
もう少し周りを見回してみる。
奥でマーキューシオが爆笑しているのが目に入った。司教様がちぎれそうなくらいに首を振っている。だめだ。イタリア語だったみたいだ。こうなったら、ない力を振り絞って言い訳を考えるしかない。
「すみません、ここにくる直前まで家で色々な女性の勉強をしていたので。ちょっと疲れてしまっていたようです。今言ったことはどうか気にしないでください。」
その晩のうちに、ベローナの町中にナルシストでプレーボーイな大公の甥の噂が広がった。いまだに話したことがないマーキューシオ様一派が話を膨らませていたのは言うまでもない。